2006/02/16
わたしもその中にいる
緊急の課題が持ち上がり、そのための連鎖祈祷をしているのだ。
今日の祈祷会では、その一つの答えが主から与えられた事を聞き、
みんなで感謝した。
しかし、私はその時に、牧師の祈りの中で
ほんの少しだけ触れられた御言葉によって、心がとらえられた。
もし、あなたがたのうちふたりが、
どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、
天におられるわたしの父は、
それをかなえてくださいます。
ふたりでも3人でも、
わたしの名において集まるところには、
わたしもその中にいるからです。
(マタイ18:19-20)
私がとらえられたのは、「心を一つにして」という部分だ。
私たちが「一つ」になることは、主のみこころだ。
そして、私たちはそのために召された。
しかしその単純な事が、なんと実際には難しいことか。
私たちは、一人一人、あまりに違う。
表面上同じ言葉で、同意したように見えても、
それぞれが考えているイメージまで、全く一致している事は少ないように思う。
使徒2章で、救われた3000人はさっそく、毎日心を一つにして祈っていた。
ありえない!
なんでそんな事が可能なんだろう?
主よ、3000人は、難しいかもしれません。300人ではどうでしょうか?
いいえ、300人も多いです。30人では?
いや、やっぱり12人。
5人ではどうでしょう?
5人家族くらいならば、一致できるのでは・・・。
しかし、主は言われる。
「あなたがたのうちのふたりが、・・・地上で心を一つにして祈るなら」
主よ、ありがとうございます!
たったふたりが、心を一つにして祈ればいいのですね!
でも・・・、たった2人の交わりですら、
心を一つにするって、何と難しいことでしょう!
でも、主は、そこから始めようとされているのです。
目の前に今置かれた人に対して、誠実でなくて、
どうして、群衆の前で誠実である事が出来るでしょう。
目の前に置かれた人に対して、正直である事ができなくて、
どうして、群衆の前で正直である事が出来るでしょう。
2人、3人でもというのは、そこなら簡単だからというだけではない。
その2人、3人との関係こそが、3000人の一致の大きな鍵となるのだ。
先日、「ミュンヘン」という映画を見た。
実話を元に、テロの際限ない報復合戦を通して、真の平和を問いかける作品だった。
あまりにもヘビーな内容だったが、いろいろと考えさせられた。
その中の一つが、果たして「自分達の信条が、相手を裁く理由になるのか」という事と、
平和や家庭を求めて戦っていたはずの人たちが、結局真の平和にも、
家庭の豊かさにも行き着かない事を感じ始め、疑問を持ち始める。
そのラストで、自分に指令を下した国家の者に対して、
「今晩、あなたをうちに食事にお招きします。あなたは遠方からの客人です。
私にはあなたをもてなす義務がある」
と声をかけていたのがとても印象的だった。
「ともに食事をする」。
生活の中で、顔と顔をつきあわせてじかに触れ合う。
こんな当たり前の事が、当たり前に出来ることこそ、価値のあるものなのだ。
自分の義を主張するばかりの所には、平和は生まれない。
むしろ、互いの違いは認めつつ、それをそのまま受け入れるか、
脇に置くかしながら、「あなたと私が一緒に食事をする」こと。
これこそが、平和への第一歩なのではないかと思った。
2人、3人が心を開いて、互いに耳を傾けあい、交わること。
それは、全世界にが一つとなるための出発点なのだ。
そういう祈り。
イエスがたしかにそこにいると感じられる祈り。
そういう祈りの中で、ボクたちは際限なくつながっていけるのだ。
2006/02/14
砂
夜には私の歌を思い起こし、
自分の心と語り合い、私の霊は探り求める。
・・・私は、主のみわざを思い起こそう。
まことに、昔からの あなたの奇しいわざを思い起こそう。
私は、あなたのなさったすべてのことに 思いを巡らし、
あなたのみわざを、静かに考えよう。
(詩篇77:5,6,11,12)
2006年2月14日。
この日は、私にとって特別な日だ。
私の生涯において、おそらく最も大切な出会い・・・。
この方とともに歩む決意をしてからの日数が、それまでの日数を越える日。
それが、私にとってこの日が持つ意味だ。
1988年11月19日。
アメリカ、アラバマ州の南端。Gulf Shore。
前日の夜、私たちがその場に到着した時には、もう辺りはすっかり暗くなっていた。
車から降りた私の目に、まず飛び込んできたのは、ぼうっと白く光る地面。
「雪?」
いや、そんなはずはない。
涼しくはなっていたが、まだどちらかというと暖かい季節だ。
「塩?」
私は岩塩の広がる大地というものを見た事がないが、こんな感じなのだろうか。
でも、それもやっぱり違うようだ。
その白さは、生まれてこの方、見たことのないものだった。
降り立ったみんなは、その光る大地めがけて走り出した。
ここに一緒に来たのは、私の行っていた教会のユースグループのメンバーたちだ。
アメリカに来るまで、教会に行ったことすらない私。
キリストが、実際に生きていた歴史上の人物だという認識すら怪しかった私。
「これからの国際人は、キリスト教ぐらい知っておかないとだめだとは思う。
でも、ボクは絶対にクリスチャンにはならないよ。」と、安易に言っていた私。
でも、そんな私はどういう訳か、普通の交換留学プログラムに参加したはずなのに、
現地の公立高校ではなく、私立のクリスチャンスクールに通うことになった。
(考えてみれば、それは私たちが今「チャーチスクール」と呼んでいるものだった。)
ちょっとした失恋からひどく思い悩み、
たったそれだけの事で「死んだっていい」という妙な勇気が与えられた時、
同時に「でも、死んではいけない」との思いも心に湧きあがっていた。
「なぜ、死んではいけないのか?」
「生きているからには、何か目的があるはずだ。」
そんな事から、彼らクリスチャンが信じているものに
何かのヒントがあるのかもしれないと思うようになった。
私はアメリカ人に憧れていた。
彼らは自分と違って自由だと思った。
アメリカに来てから、やっぱりその通りだと思った。
でも、しばらくしてから、彼らが魅力的なのは、
彼らがアメリカ人だからではなく、彼らの信じているものが
そうさせているのだという事を感じるようになっていた。
なぜなら、信じている者とそうでない者との違いが見えてきていたからだ。
キリスト教については、相変わらず理解できなかったけれど、
そこでの友達たちは、とても素晴らしかった。
彼らから流れてくる無邪気さ、温かさのゆえに、
悩みの中にあっても、私はそこに留まり続けることを選んだのだ。
自分には信じられないかもしれないけど、彼らみたいになりたい。
彼らには、そう感じさせるものがあった。
そんな仲間に囲まれて、2泊のリトリート・キャンプに出かけてきた所だった。
金曜日だったけれど、私たちだけ、学校を早く切り上げて出発した。
そんな柔軟さもこの学校にはあった。
・・・私も白い大地めがけて走り出してみた。
キュッ、キュッ
「え?」
歩くと音がする。
これは砂だ! そう、ここは砂浜なのだ。
白い砂浜が、月明かりに照らされて光っている。
こんなに美しい砂は、今までに見た事がない。
私たちはそこで輪になって座った。
一人一人が、思い思いに感謝を語り合った。
その中の一人が言った。
「ここに、Kenjiが一緒にいることを感謝します」
なぜ?なぜ、ボクがいる事が感謝なのか。
でも、心からそう言ってくれる人がいることが、素直に嬉しかった。
そして、私たちは海に向かって横一列に並んだ。
手をつないだ。
「祈りましょう。今日は、目をつぶらないで、祈りましょう。
この、神様が造られたすばらしい自然を、しっかりと見ながら、
神様のみわざをほめたたえましょう。」
涙が出た。
こんなに美しい自然を造られた神がいる。
神がいないはずがない。
心があたたかくなった。
翌日。
居心地のいい宿舎のリビングで、ゲストからのメッセージを聞いた。
英語もキリスト教も今ひとつな私には、あまりよく分からなかった。
彼は最後に、昨日の砂浜の砂が入った小さな袋を、
私たち一人一人に渡した。
それを受け取ると、みんな黙って外へ出て行った。
私も同じようにしてみた。
Host Fatherであり、Youth PastorであるPaulが、近寄ってきた。
「Kenji。今、何をしているか、分かったか?」
「いや、分からない。みんなみたいに、この砂を砂浜に撒き散らせばいいの?」
「そうだ。でもこれは象徴なんだ。私たちの罪を神の前に告白する。
そうすれば、この砂がどこに行ったのか分からなくなるように、
神は私たちの罪を赦してくださる。」
「何だかよく分からない・・・。」
すると、彼は砂浜に指で大きなハートを描いた。
「Kenjiの心には、いろんないいものがある。
英語を話す能力。サッカーをする能力。勉強。音楽。柔らかい心・・・。
でも、こういうものではどうしても満たす事ができない、空洞が、あるんだ。
そう、ここは神様によってしか満たす事ができない空洞だ。
どんなに良いことをしても、それだけではその空洞は満たされない。
神様を信じるとは、その空洞に神様を心に迎え入れることだ。」
「・・・。」
「私たちには罪があって、神様と壁をつくっている。
イエスはその罪を赦すために十字架にかかってくださった。
だから、救われるために私たちのするべきことは、
イエスが自分の罪のために死んでくださった事を信じて、罪を告白することだ。
でも、もしそうするなら、この撒かれた砂のように、
それらは何一つ見えなくなる。」
正直、あまりよく分からなかった。
罪のこと、十字架のことは、あまりに自分と関係のないことに思われた。
それを「救い」と呼ぶことも、意味が分からなかった。
でも、心に、自分ではどうすることもできない空白があることは確かだった。
これを拒む理由はない。
分かりはしないけど、イチかバチか、ここに賭けてみるか・・・。
そして、私はPaulに導かれるまま、罪の告白をし、
イエスを私の個人的な救い主として心に迎え入れた。
よく分からなかったのに、心が熱くなって、とめどもなく涙があふれてきた。
自分の中で、何かがふっきれたような感覚だった。
それが、私とイエスとの出会い。
1988年11月19日のことだ。
それ以来、私はその日の事を後悔したことはない。
分からない事は、分からないままで良かったのだ。
イエスとともに歩むことを選ぶ限り、本当に知る必要があることは、
もっとも相応しいときに、知る事ができるようにと導かれている。
・・・その時から6,296日。
ついに、イエスとともに歩む日々が、イエスを知らずに歩んできた日数を越える。
私は、なんて恵まれているんだろう。
まだ何も分からない若き日に、この方と出会う事ができたのだ。
主よ、あらためて、あなたの奇しいわざを感謝します。
あなたが、私の人生の途上において、確かに出会ってくださったこと、
私の歩みを少しずつ、整えてくださっていることを感謝します。
あなたは、私を心から大切にし、自由にしてくださいました。
私は、一人の人格として、本当に愛されています。
私は、あなたの御業を誉め歌い、あなたの救いを告げ知らせましょう。
主よ、これからも、あなたとともに歩ませてください。
あなたは、私のすべてです。
2006/02/11
ボイス
そこから少しずつ読み取れるようになってきた事が、2つある。
1.自分自身を生きよ
「自分自身を生きる」って、今さら当たり前のことのように思う。
でも、どれだけ長い間、私はそれをしてこなかったか。
そして、周りの人の評価を意識して生きる事が普通になり、
やがて、逆にその評価そのものに縛られて生きていく。
気がついてみたら、「自分自身」と呼べるものがどれほどあるか。
すべては借り物の思想。なのに、必死に自分自身を守ろうとしている。
そんな所からの脱却がテーマだ。いや、脱却する事が目的ではない。
神が私に与えてくださった、ユニークな召しに応えていくためには、
まず、これは主から委ねられている「自分自身の」人生なんだということ
肝に銘じておかなくてはならない。誰も自分の人生を決めてはくれない。
誰も自分の人生の責任をとってくれない。私は、ただ神がつくってくださった
私の姿をまっすぐに差し出し、与えられた賜物が生かされるならそれでよし、
さらに十字架の道を歩むようならそれでよし。
私に与えられた主の計画を生きるのだ。
2.信者の模範となりなさい
「模範的な信者」という意味ではない。信者の模範になるのだ。
信者とはどういうふうに生きるのか、信者はこういうふうに考えるのか、
信者の生活は確かに本物だ・・・、そんな風に人々が感じられるものがほしい。
完璧である必要はない。生きている以上、そんなことはありえない。
不完全なありのままの自分を認めながら、誠実に喜んで生きる。
それには、ある程度の自制をともなう。なぜなら、私たちが単に良い意図で
行なっている奉仕そのものは、必ずしもバランスのとれた生活をもたらさないからだ。
鍵となることばがある。
・私は一体何者なのか?(identity)
・私の全体的な一貫性はどうなのか?(integrity)
・私の神と人との関係はどうなのか?(intimacy)
そして、人間性と霊性を豊かに回復し、生き生きと生きている人。
信者も、未信者も、ああなりたいと思う者。
でも、決して能力や境遇のレベルではなく、世界観、人生観の部分において。
主のいのちを運ぶ器として用いられたい。
ちょっと、変わった召しかもしれない。
でも、もし一人の人が世界を変える事が出来るのだとしたら、
まず私が自分自身を生きるところから始めなくてはならない。
そして、それを契機に、教会の群れが変わらなくてはいけない。
その変えられた群れの姿があってこそ、この世の光になるのだ。
主よ、これは私にしか生きることのできない、私のいのちです。
何と多くの時間を使って、自分自身を人の手に委ね、
自ら判断することをせず、状況に振り回されてしまってきたことでしょう。
どうか、こんな私をおゆるし下さい。
それでも、自分自身を生きたいです。
そして、周りもクリスチャンも、まったく知らない人も同様に、
私を見て、キリストが確かにそこにいて、私もその様になりたい。
と思われるような人間になりたい。
2006/02/09
2006/02/08
私の隣人とは?
そうだ。
彼は、自分の正しさを示そうとしてこう言っている。
一体、イエスからどんな答えを引き出そうとしているのだろう?
だいたい、自信たっぷりに、こんな質問している態度がムカつく。
まあ、律法の行ないに関しては、後ろめたさがなかったんだろうね。
ここでも、いかに自分が隣人を愛しているか、
周りの人たちの前で、証明したかったんじゃないかな。
いや、そんな彼でも、心の中にはある種の欠けに気付いていたのかもしれない。
「何をしたら永遠のいのちを、『自分のものとして』受けることができるでしょう」
って、イエスに質問してるんだから、
「こんなに律法を守っているのに、オレの生活、何かおかしい」
ってなんとなく、モヤモヤしたものがあったのかもしれない。
それに対して、イエスは、簡単には答えてくれない。
別に、いじわるじゃないとは思うんだけどね。
強盗に襲われて半殺しにされた人が、道端に倒れていました。
たまたま、通りかかった祭司も教師も、見て見ぬふりをして、行っちゃいました。
でも、普段は決して交流することのないサマリヤ人は、
彼を見てかわいそうに思って、介抱してあげました。
さあ、この3人のうち誰が隣人になったでしょう?
・・・そりゃあ、このサマリヤ人だろ?
「あなたも行って同じようにしなさい」
ここで、はたと考え込んでしまった。
イエスは、一体何を伝えたかったのだろう。
あえてたとえ話を使っているのは、
律法を守ることにいのちをかけている人に、
律法的な答えを与えても救いにならない事をよく分かっていたからだと思う。
きっと、「こうしていれば正しい。こうしていれば安心」って人には、
「気付き」が与えられるように促してやる必要があるんだろう。
それで、イエスは何に気付けと言っているんだろう?
・・・私が気付いたのは、こういうことです。
祭司もレビ人も、「たまたま」そこに通りかかった。
サマリヤ人も、「そこに来合わせた」。
つまり、「偶然」そういう場面に遭遇しちゃったのだということ。
でも、神にあっては「偶然」は単なる「偶然」ではない。
イエスのチャレンジは、要するに、今、目の前で助けを必要としている人に
きちんと目を向けなさい、ということではないだろうか?
そう。一度に一人ずつ。
今、この場所にこそ、イエスを愛する機会が開かれているのだ。
私たちの頭の中は、私たちの生活は、
「イエスに仕えるために、あれもしなくては、これもしなくては」と、
必要以上に忙しくなりすぎていないだろうか?
そして、目の前に突然現れた予定外の必要を、
イエスに仕える上で邪魔なこと、考えたくないこととして、
あまりにも簡単に脇に追いやってしまっているのではないか。
精一杯愛をもって対応したとしても、心の根底では、
「想定外」のことは、悪しき事と思ってはいないか?
もし、これこそが、イエスのみこころなのだとすると、
私たちが、「みこころの実現のために」忙しく駆けずり回っていることは、
著しくみこころから逸れた事になりかねない。
そういう意味で、いつでも主に仕える事ができるように整えられる、というのは、
忙しさで心を失ってしまう事がないように、あえて自制することを
含んでいるんじゃないか。
「私の隣人とは、だれですか」
・・・そう、まさに私の隣に主が置かれた人こそが、私の隣人なのだ。
主よ、およびもつかないような大きな事をしようとする誘惑から守ってください。
今、ここに生きることが出来ずに、良いサマリヤ人になることなど出来ません。
あなたが、目の前に置かれた一人一人と、しっかりと向き合い、
一人一人を愛されたのと同じように、私も、一度に一人ずつ、
しっかりと向き合っていく事ができますように。
うわついた私の心を、あなたの愛で守ってください。
2006/02/06
「才能」と「賜物」
恐らくその目に映っているのは、私の「才能」ではなく私の「存在」そのものだ。
私の存在を喜んでくれる方がいる!
存在そのものが贈り物。
私の存在は、神の賜物で満ちているのだ。
ナウエンは言う。
才能と賜物の区別には意味があります。
私たちに与えられている賜物は、才能より重要です。
私たちは少ない才能しか持っていませんが、賜物はたくさん持っています。
私たちの賜物は、私たちの人間性をさまざまな手段で表わすものであり、
私たちが何者であるかを表わすものです。
すなわち、友情、親切、忍耐、喜び、平和、赦し、柔和、愛、希望、信頼、
そのほかの多くのもの。
これらは、私たちが互いに与え合うべき真の賜物です。
(「愛されている者の生活~世俗社会に生きる友のために」より)
でもこの世は、私に「才能」を求めるし、その重圧はただものではない。
「存在」そのもので安住していられるほど、世の中は甘くない。
「自らの価値を証明せよ」という誘惑に、私たちは容易に屈してしまうのだ。
むしろ、「私たちには何もできないんだ」という事をもっと素直に認めるべきだ。
そうすればきっと、存在価値の証明という誘惑から脱して、
純粋に、与えられている賜物を分かち合えるようになる。
無力さという賜物。
主よ、私を、そういう全く新しい次元に、留まらせてください。
私はあまりにせっかちなのでしょうか。
私のうちに、キリストの姿がかたちづくられるまで、
忍耐することを教えてください。
それは、私の希望です。感謝します。
2006/02/05
家族と仕事、どっちが大事なの?
という、いささか素朴な葛藤は誰にでも起こりうる。
今、私は、あえて言うならば、家族(ファミリー)の大切さを訴えることを通して、
健全な共同体としてのあり方に、バランスをもたらそうとしていることだ。
昨日今日とあまり調子はよくなかったが、主は御業をなしてくださった。
一番祈りに覚えていたのは、「これからの牧会ファミリーについて考える会」。
ミッション3000全体の中で、働きがどんどん広がっていく中で、
また今置かれている率直な様々な現状の中で、
私たちが、自ら考えなくてはならない、選び取らなくてはならない所はどこなのか、
それを、牧会ファミリーの雰囲気で牧会ファミリーそのものについて話し合うことにした。
一つの前提条件を設けた。
「みんな背景が違うので、今回はとにかく相手の言っている事を、
相手以上に理解する事が出来るように努めながら聞いてください。」
いろんな意見が出る。
それぞれ真剣にディスカッションが出来ていたようだ。
私は私の立場で示されていることを、語った。
メッセージと違い、特に「盛り上がりどころ」というのもなく、
淡々と会を進めていったため、期待していたような成果が生まれたかどうかは
その時の雰囲気では分からなかった。(私が具合が悪かったせいもあるが)
しかし、後になって「ぜひ今後この事について、もう少し話がしたい」という
声が届くようになった。よかった。
今回は、心を耕すための下準備第1弾という所だったので、
ある程度目的は達せられたのかな。
さらなる知恵が与えられて、ミッション3000実現に向けての
鍵として牧会ファミリーが純然と機能していくことを願っている。
「仕事」をしようとすればするほど「家族」が大事になってくるのだ。
そこを抜きに考えてしまうなら、今の日本の現状の必要に
ちっとも届いていくことはできないだろう。
いつも、違う次元からモノを見る訓練が必要だ。
2006/02/03
似ても似つかぬもの
人を変えたり、その行いに影響を与えたり、新しいことをさせたり、新しい考えをもたせるような方法や技術を山ほどもっているとき、お互いがそこにいっしょにいるという、簡単そうに見えて実はたいへんな賜物を失う場合が多いのです。自分がそこにいる以上、何か役に立たなければと信じこんだばかりに、この賜物を失う羽目になるのです。
・・・「コンパッション~ゆり動かす愛」(ナウエン他)より。
悩んでいる人を見ると、解決を与えなくてはいけないような気がする。
導きを求めている人を見ると、導かなくてはいけないような気がする。
貧しい人を見ると、与えなくてはいけないような気がする。
困っている人を見ると、何かをしなくてはいけないような気がする。
でも、本当に必要としている人を見ると、見て見ぬふりをしている。
これは、イエスの「憐れみ」とは似ても似つかぬものだ。
私は結局、本当は役に立たない自分への罪責感をごまかすために、
「良い」行いをしようとしているだけだ。
その「良い」行いが重荷だと思ったときには、気がつかなかったふりをして
通り過ぎるのが一番だ。
でも、「友」となるということは、「役に立つ」こととは違う。
かけがえのないお互いが、へりくだって、尊敬しあって、
そこにいっしょにいるということなのだ。
頼んでいたナウエンの古本が、次々と送られてくる。
まだ、さわり読みではあるが、果てしなく謙遜な人格から、ひしひしとイエスの姿が伝わってくる。
明日は、託された重大な任務がある。
あせっているのかな。
肩の荷が重くのしかかっているような感覚。
主よ、私の心を取り扱ってください。
何者かであろうとする誘惑から守り、ありのままのいのちを生きる事ができるように。
人々との接点の中心に、ただあなたがいてくださり、ともに喜ぶ事ができるように。
弱い私を、御前にそのまま差し出す事が出来ますように。
委ねます。主よ。
2006/02/01
根本治療
「一時的な処置で副鼻腔炎が良くなったとしても、骨のズレが治らないと、結局はその様な炎症を繰り返す事になるから、もう一度きちんと骨盤矯正に行ったほうがいいらしいわよ。」
そう指摘されて、もっともだと思った。
病巣を取り除くことは根本治療とは違う。
もちろん、悪循環を避けるため、対処療法や病巣の摘出は必要だと思う。しかし、体全体の構造や体質、生活パターン等を改善しないと、またいつかは同じことの繰り返しになる。そのために役立つと考えられるのは、骨盤療法や漢方薬ということになる。
骨盤療法というのは、まあ一種の整体みたいなものだが、骨盤のズレが万病のもとだという考えで、治療を行なうものだ。私が行った所では、「バラコンバンド」という生ゴム製の2mぐらいのゴムチューブを、自分で腰や他の間接に巻きつけては取り外す、という事の繰り返しにより、自分でも体の調整ができるというものだ。そして、時々その場所に行って、体全体の調整をしてもらう。
でも、もう一年も行ってない。
本来なら、行かなかったとしても、バラコンバンドで自分なりに体を調整しておくべきだ。
今だからこそ、行ったほうがいいような気もするが、なんだか気後れしてしまう。
一年も行っていないと、顔を合わし難くなってしまった。
うーん。これって教会にしばらく来れなくなってしまった人たちの思考パターンなのかも知れないなぁ。彼らは決して教会に来たくないと思っているわけではない。しかし、ずっと来れなかった事への多少の後ろめたさがあって、かえって来難くなってしまっているのではないか?久しぶりに顔を出すと、別に叱られないまでも、いちいち一人一人に弁解をしなくてはならない事を考えると、なかなか自由に教会に来られなくなってしまっているのではないだろうか。そんな事でずるずると日が延びてしまうと、いよいよ行ったみたいという気持ちも失せてしまう。だいたいそんな所なのではないだろうか。
それからもう一つ考えさせられること。「キリストのからだ」にも対処療法ではなく、根本治療が必要だということだ。 どこか肝心な所の小さなズレが、からだ全体の原因不明の不調につながることもある。
見える問題だけが、本当の問題ではないんだ。
まずは、自分自身と自分の周りの「ズレ」を、なるべく健全な状態へと戻すこと。
案外、そこからすべてが回り出すかもかもしれないな。
2006/01/31
音がするよ
そう言うと先生は、直径2~3mmぐらいの注射針をボクの目の前に差し出した。おもむろに右の鼻の穴に差し入れると先生は立ち上がり、左腕ですばやくボクの頭を抱きかかえるようにして固定した。
「音がするよ」
不覚にも先生の言葉に、心が動揺していた。音がするなんて、聞いていない。さっきまで、あんなに平静だったのに、一気に胸の鼓動が高まった。とたんに、逃げ出したいような衝動にかられた。
だいたい、とても麻酔が効いているようには思えない。
こんなに意識がはっきりしているじゃないか。それまでの時間にやった事と言えば、鼻の穴に細長い包帯を詰め込んで20分ほどじっとしていただけだ。その包帯を、するすると抜き取った時だって、はっきりとした感覚があった。普通、麻酔をすれば、もう少し朦朧とするものではないのか。
先生はボクを見て、ニヤッと笑った。うん、確かに笑ったと思う。
ボクは身をすくめた。
先生の指先に力がこもる。
いや、指先というよりも、腕全体だ。
先生の腕と一体になった針が、ボクの脳天にむかって押し付けられた・・・。
「ンゴグァギッ!」
ヴッ。
気持ち悪い。
数滴、緑色の液体が零れ落ちたかと思うと、ボクの鼻先からは赤みを帯びたドロッとしたものが垂れ下がった。ちょうど・・・、色や質感はイカの塩辛といった感じだ。
確かに、思ったほど痛くはない。しかし・・・、痛くない分、その頭蓋骨に響いた鈍い音は、背筋を凍らせるようなものだった。
数人の看護婦がボクの周りに集まっている。
格好悪い。
この人たちには、ボクはどのように映っているのだろう。
鼻からイカの塩辛をぶら下げた男。
絶対に、街中で不意に出会ったりはしたくない。
先生は注射針の反対側に、生理食塩水の入った容器を取り付け、針先からボクの頭蓋骨の中にそれを流し込んだ。目の奥や奥歯が、内側から圧迫されて痛い。先生はさらにボクの頭蓋骨の中の圧力をあげた。破裂する・・・。鼓膜も押し破られそうだ。そういえば、パスカルの法則ってのがあったっけ。確か、どの部分の圧力も一定になるってやつ・・・。
そんな、どうでもいい事を考えていると、先生が言う。
「かなり堅くなってるな。シゼンコウが塞がってる。切開しなきゃダメか・・・。」
おい、おい。そんなぁ。今さら、切開はないでしょ。
と、思った瞬間。
「あ、抜けた」
鼻からは、さっきのイカの塩辛が押し出され、透き通った水が一気に流れ出た。
ああ・・・、カ・イ・カ・ン・・・。
後は予定通り、薬の入った液体をそこに流し込み、処置は終了のはず。
・・・と、思ったら、先生はボクの頭を両手で押さえ、右へ・・・、左へ・・・。
そう、ボクの頭は先生の手の中でなされるがままにシェイクされていたのだ。
ああ、無情。
ボクは、この処置を馬鹿にして、「オレ、脳みそシェイクするんだ」と茶化していたのが、本当にシェイクされる事になるとは・・・。ボクは看護婦さんたちの目には、「イカの塩辛を鼻から出して、脳みそシェイクされた奴」として一生記憶されることだろう。
こうして、無事に上顎洞洗浄の処置は終わった。
空っぽになるって、気持ちいい。
ボクはただ、黙って身を差し出しただけだ。
今日はゆっくり眠れるかな。
でも、あの音だけは忘れられなさそうだ・・・。
2006/01/29
ホセアの気持ち
この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」
(ホセア1:2)
これは強烈なことばだ。
今日のメッセージを聞きながら、考えさせられた。
この命令を受け取ったホセアは一体、どんな気持ちだったんだろう。
神様は、預言者ホセアに神の心を共有するようにと、この命令を語られた。
神の心・・・。
神は、イスラエルを特別に選ばれた。
神は、イスラエルの民を愛していた。
しかし彼らは神を愛さなかった。
神の目から見たら、彼らは姦淫の民。
目も当てられない。とても受け入れられない。
・・・あれ?これは、イエス様の事?
「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕えるものの姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われました。」
(ピリピ2:6-8)
イエスの十字架は、義を打ち破る愛の力。
いのちを差し出して、汚れた罪の杯を飲み干したその愛。
神様、私には絶対にそんな命令を与えないで下さい。
神様、私には無理です!そんなのいやです!
イエス様は言ってくださる。
「いいんだよ。」
神の心は繊細で、やわらかい。同時にとてつもなく厳しい。
ああ、この主に守られて来たんだなぁ。
原点の確認が与えられました。
2006/01/27
ナウエンとの出会い
古本2冊、Amazon.co.jpで頼んでいたもの。
薄かったので、ざっと目を通した。
ナウエンは、ノートルダム、イエール、ハーバードなど、
プロテスタント&カトリックの最高峰の大学において神学を教えていた。
しかし、50歳を越えて自らの歩みを省み、
前に書いたジャン・バニエの創始したラルシュ共同体で、
知的障害者たちとの共同生活をする道を選んだ。
彼はこのように言う。
これからの時代のクリスチャン指導者は、まったく力なき者として、
つまり、この世にあって、弱く傷つきやすい自分以外に、
何も差し出すものがない者になるように召されている、
ということを言いたいのです。
(「イエスの御名で」からの引用)
指導者は、人々を指導する者ではないのか?
弱く傷付きやすい自分を差し出していては、指導にならないのではないか。
でも、私は直感的にナウエンのことばに同意せざるを得ない。
私には何もないけれど、そんな自分を差し出す。・・・こんなに力強いことはない。
人々が必要としているのは、(求めているかどうかは分からないが)
こういうリーダーだ。
しかし、そういうリーダーになるのはそう簡単ではない。
そして、ナウエンは自分の神学的知識や功績が全く役に立たない
環境の中で、むしろ彼らから愛を受け、教えてもらい、友情を育んだ。
こういう誠実さが必要なんだよな。
もう1つ、心に残った点の引用・・・。
問題の最も深い根が自分自身にあるという現実に直面することを避けて、
世界の問題を解決しようとして走り回っている。
わたしたちはちょうど、きれいな花に向かい、
「あなたはここで何をしているの?神のために何かもっと忙しくできないの?」
と尋ねて、
「ごめんなさい。わたしは美しくあるためにただここにいるの」という、
花の答えを理解できない忙しい人に似ている。
(「友のためにいのちを捨てる」から引用)
忙しさが増す現代においては、容易に自分自身の存在そのもの、
そして心のありようを見過ごしてしまう。
そして、次々と解決のための策を見つけようとするが、
それも自分自身から目をそらすための手段でしかない。
私たちの心の姿勢が根本的に変わる必要があるのだ。
勇気を持って自分自身に目を向けよう。
勇気を持って心を開こう。
教えることを通して、教えられよう。
無力な私を差し出す事ができる喜びを味わおう。
熱いか冷たいか
すみません。まず、それは認めます。
私にとって、白か黒かというはっきりとした世界はほとんどないのです。
すべてがグレー。灰色。
これは性格かな?
人は言う。
いや、「熱いか、冷たいかであって欲しい」って書いてあるでしょう?
白黒はっきりさせるべきじゃないの?
だから、あんたは生ぬるいんだ。
うん・・・。それはそうなんだけど・・・。
どうも、釈然としないんだよね。
何事も、スパッと切れない。
むしろ真理はその「熱いか冷たいか」の間のどこかにあると思っている。
この絶妙なバランスの中にこそ真理があると思っている。
「熱い人」たちには、私はじれったいのだろう。
うーん。ごめんなさい。
でも、私の心は熱く燃えているのです。
「熱く」なろうとするあまり、熱いCompassionを生ぬるくしてはいけない。
生ぬるい私だけど、ずっと熱く燃やされていたい。
2006/01/25
ぼーっと考えている事
どうしたら教会は変わるのだろう。
私は、私の教会を愛している。
私は、私の教会を信じている。
しかし、その思いが、変革の妨げになることすらあるのだ。
決して今が悪いわけではない。
しかし、本当にこの世の塩となり、光となろうとするならば、
変わっていかなければならない事もあると思うのだ。
今、自分自身の中で、根本的なことをもう一度とらえなおそうとしている。
本も乱読&積読。頭の中はぐちゃぐちゃです。
今日は、あえて、ぐちゃぐちゃなまま吐露します。
万が一、この記述を読んでおられる方がいたら、
ここに書いていることは、あくまでも自己対峙のためである事を了解いただきたい。
きちんとした文章になっていませんし、誤解を恐れずに書いています。
論点を網羅しているわけでもありません。
これは、頭の中にあることを、思うがままに、並べてみたものですので、
まだまだ、考えるための種にすぎません。
でも、なるべく平易なことばで書くようにしました。
<教会とは? >
「教会は本当に神の家族である」
教会にこそ、真の共同体が回復された姿があらわされるべき。
教会の運営は、会社のようにはなされるべきではなく、
家族のようになされるべきだ。
しかし、家族のあり方は、千差万別。
家族は解決でもあるが、家族が一番傷つく場所でもある。
だから、教会が健全になるためには、まず家族のあり方が問われるべき。
「教会は、キリストのからだである」
福音の宣教、真のコミュニティの確立、リーダーシップの育成など、
キリストのからだである教会が中心になされるべきである。
教会外の働きは、教会をサポートするために存在するべきである。
神の計画は、「個人の救い」にとどまらず、「教会の確立、増殖」にある。
<セル・グループ(牧会ファミリー)とは?>
真にキリストにある生き方を学ぶところ。
セル集会そのものは、家族にとっての家族会議のようなもので、
本質はその集会そのものにはないが、
一家団欒をもたない家族に、家族としての機能が果たしにくいのと同様、
実際に親しい交わりを定期的にもたないと、セルそのものが機能しにくい。
<礼拝とは? 祈りとは?>
真の礼拝者になること。
日曜日ごとに集まる礼拝は、そのライフスタイルの一部にすぎない。
礼拝の集会はたいせつだが、礼拝に出席したからといって、
自動的に真の礼拝者になるわけではない。
同様に真の祈り手となること。
祈祷会は、たいせつだが、祈祷会に定期的に出たからといって
自動的に真の祈り手になるわけではない。
ではなぜ週に一度集まるのか?
使徒の働きを読むと、たしかに週のはじめに集まっていた形跡がある。
しかし、だからといって、今やっている礼拝・祈祷会の形式は
自動的には正当化されない。
もちろん、歴史的に続けてきた事には意味がある。
今おこなっている形態には、正当な理由がある。
しかし、「なぜ」それをやっているのか、それは絶対的な基準なのか、
どうしても変えてはいけない部分はなんなのか、
そして、思い切って変えるべき部分はなんなのか、
いつも問い続ける必要があると思う。
<奉仕とは?>
私たちが、みこころに生きる上で、なくてはならないもの。
私たちは、奉仕の働きをするために召された。
奉仕とは、キリストのからだを建て上げること。
キリストのみこころを、実践すること。
キリストの愛を、体現すること。
<みこころとは?>
一人一人が神の個人的な計画を見出し、自由意志を用いてそれに従うこと。
<福音とは?>
規則によってではなく、自由の御霊によって歩むことができるという希望。
人間が一番人間らしく生きられる道がある、ということを指し示すこと。
主よ、私は自分でおよびもつかないような事、
限度を超えるような事、みこころに反するような事はしたくありません。
でも、人々が真の福音を知るのを、教会が、クリスチャンが、いや私が、
妨げになっている可能性が大きいのです。
ですから、真にみこころに生きるために、私の目のおおいを取り除けてください。
私にふさわしい態度を与えてください。
真のあわれみと、真の勇気をあたえてください。
お委ねします。主よ。
2006/01/23
貧しい?
かつ必要としていることを認めていて、
助けを求めている人たちのことです。
・・・これは、ジャン・バニエの「ラルシュのこころ」からの引用。
こう考えると、イエス様が「心の貧しい者は幸いです。」
と言われた意味が分かりやすい。
「私は、心に<何か>を必要としているのです。助けてください!」
天の御国は、この様に告白できる人たちのものなのだ。
しかしどういう訳か、しばしば私たちは、こういう誠実な人たちを食い物にする。
「救いは、思いや感情を越えたものなのです。あなたは救われました。」
といって、安易な解決をあたえて、めでたしめでたしとする。
そして、その<何か>は「信仰」によって満たされた事にして、それを助けることをしないばかりか、その人がその必要を訴えたり、助けを求めたりすら出来ないようにしてしまう。それはあなたの信仰が足りないからですよ、とでも言うかのような暗黙の強制力によって。
でも、その人が天の御国をこの地にもたらすためには、
心が貧しくあり続ける必要があるのだ。
神の国が、この地に実現するとしたら、心の貧しい人たちの集いの中でだろう。
ここで述べているのは、「心」の必要だ。
「心」はいつも耕される必要がある。
一番、この「心」を耕してくれるのは、「私とは違う人たち」だ。
貧しさは、悪ではない。
天の御国は、その人のものなのだから。
2006/01/22
山を動かす方法
どうやって動かしたかって?
そりゃあ、決まってるじゃないですか?
クリスチャンなら誰でも知っているでしょう?
え?はいはい・・・って。
そりゃあ、信仰の先輩なら、当たり前のことかも知れないけど、
いやあ、こればっかりは、自分で体験しないと。
なんだか、じーんと感動しちゃいますね。
もちろん、体験したことありますよね?
それじゃあ、僕の話、しちゃってもいいですか?
そう。山が動いたんです!
「雪の山」が!
昨日の、ダイヤモンドチャペルの駐車場の雪かき隊。
実は、駐車場に大きな山を作ってしまっていたんですよ。
もちろん、昨日の降り続く雪の中では最善の計画でした。
しかも良く考えられていて、きちんと車が駐車できるようになっていました。
でも天気が良くなってきたら、欲が出てきたのか、
この山がとても邪魔に見えてきたんですねー。
で、第一礼拝の後、一緒に見ていた兄弟が、「これを動かそう」って言うんです。
正直、この広い駐車場で、それをやるのはちょっと無理かなーって思いました。
だから、僕はより「現実的な方法」を考えていました。
なんか、一気に出来る方法ないのかなぁ。
たった2人でスコップで、えっちらおっちらやってても、ラチがあかないじゃない。
・・・でも、とにかくやり始めてみました。
そ、そしたら、一人、ふたりと人が増やされ、
山がなくなっていくではありませんかーっ!
そうなんです。
山を動かす方法。
とにかく目の前の山を、少しずつ動かしてみる事!
それしかないですね。
よし、他の山も動かしてみよう!
2006/01/21
なのにステキ
自分的には、あーぁ、何やってんだお前?って感じ。
なのに心の中では、ステキな気持ちで満ちている。
思っていたよりも雪が降り積もっていたことから、
「想定外」の出来事だらけになった。
(想定しようとしてなかっただけなんだけど)
僕が、やっていたことは、ちぐはぐの後手後手。
でも、みんなが、本当に心を込めて、自発的に補ってくれた。
「仲間」だなぁって感じた。素直にうれしい。
みんな、ステキだなぁ。
家で、一人一人に感謝を捧げながら、とても温かい気持ちになった。
主よ、どうか一人一人の労にあなたが豊かに報いて下さい!
喜んで与える事を知っている者たちを、さらにあなたの喜びで満たしてください!
まだ降り続ける雪を見ながら、祝福を祈った。
2006/01/20
平安の祈り
自分に変えられないものを 受け入れる落ち着きを、
変えられるものは 変えてゆく勇気を、
そして二つのものを 見分ける賢さを。
・・・「平安の祈り」と呼ばれる有名な祈りのことばだ。
AAなど、依存症から立ち直るための、12ステップのプログラムの中でも
使われるものだという。
久々に、「やらなくてはならない事」に追われている。
もちろん、昔と違って、かなり休み休みやっているつもりだ。
でもやっぱり、仕事を抱えだすと、古い自分が待ってましたとばかりに
心の内側からニョコニョコと顔を出そうとしているのが分かる。
「正しい動機」で始めたはずの事が、自分の内側で変質してしまい、
「自分で納得がいくまで」(すなわち自己満足するために)やらずには
いられなくなったりしている自分に気付く。
でも一方で、体の弱さに敏感であれることは、本当に恵みだ。
強制的に、「限度を越えない」ことを学ばせられる。
そして、自分自身の不完全さを受け入れるという訓練がなされる。
やはり、「自制」という御霊の実がみのるための、プロセスにいるのだ。
でも、私は忘れない。
私は、神の前に自分自身をささげたのだ。
「自分自身の力でやる」という誘惑に負けはしない。
自分自身の「責任を放棄」したりはしない。
たとえ弱さを告白しても、「甘えの構造」に引き戻されはしない。
自分を大切にせずに、「間違った自己犠牲」はしない。
私は、神のみこころのままに変革され続けるのだ。
私は、このプロセスの中でこそ主を見出したのだ。
そしてこの主こそ、私の人生をともなってくださる方なのだ。
主よ、私を導いてください。
私の目を開いてください。
私がなすべき事を見極められるように。
そして、何があってもそのなすべき事を行なう事ができるように。
私が踏み入る必要のない領域を見極められますように。
そこにも、神のみこころを見出し、平安が与えられますように。
明日は雪にならないようにと祈る。
週末の様々な行事のため、そして受験生たちのため。
2006/01/18
産みの苦しみ
あらためて、まずペテロへの非難の言葉を読み直してみた。
しかし、彼らが福音の真理について
まっすぐに歩んでいないのを見て、
私はみなの面前でケパ(ペテロ)にこう言いました。
「あなたは、自分がユダヤ人でありながら
ユダヤ人のようには生活せず、
異邦人のように生活していたのに、
どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。・・・
(ガラテヤ2:14)
ペテロは、ヤコブやヨハネとともに「柱として重んじられていた」(ガラテヤ2:9)。
しかし、その筆頭であるペテロに対して、
「あなたは、自分自身が福音の真理に歩んでいないではないですか!!」と
みんなの面前で非難したのだ。
使徒の筆頭ペテロに対して。
キリストとともに生活したペテロに対して。
明らかにキリストからの召しを受けたペテロに対して。
聖霊注がれ、一度に3000人を救いに導く説教をしたペテロに対して。
パウロは、キリストと生活すらしていないではないか。
パウロは、その道の者を殺害までしていたではないか。
パウロは、ある人たちからは、使徒として立場も疑問を持たれていたではないか。
これは強烈だ。
そして、見逃せないのは、あの有名な聖句も、
この流れでペテロに向けられたことばだった。
私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
(ガラテヤ2:20)
パウロのこの大胆さは、本当に彼が彼のことばのとおり、自分自身が十字架についており、キリストが自分のうちに生きておられるのでなければ、考えられない。
いや、まさにこの「ペテロに対してすら福音を説教する」という事自体が、パウロが十字架に付くことなのかも知れない。
パウロが、ここまで必死になって語った「福音の真理」に対して、私はどこまでまっすぐ歩いているだろうか。
キリストは、自由を得させるために、
私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、しっかり立って、
またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
(ガラテヤ5:1)
十字架につくことこそ自由のはじまりだ。
自由!その最大の障害は、自分自身の内側にある。
私の子どもたちよ。
あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、
私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
(ガラテヤ4:19)
主よ。私のうちにキリストを形造ってください。
そして、私もこの産みの苦しみをさせてください。
たった一人でも、キリストによって自由にされるように。
2006/01/17
FRIENDS
20周年記念で、Amy Grantもゲストで出ているやつだった。
El Shadaiとか、Thy Wordとか、懐かしい~曲が、何かとっても良かった。
Secret Ambitionは、アレンジがDelirious?風に現代っぽくなってて面白かった。
でも、やっぱり個人的には FRIENDS が好きだった。
FRIENDSは、ちょうど僕がアメリカにいた頃、流行っていて、みんなよく聴いていた。
そして、別れ際に泣きながらこの歌を歌うシチュエーションに、強烈に感化され、
「ずるいぞアメリカのクリスチャン仲間!」と、僕もこんな曲書いてみたいと思うようになった。
そんな背景もあって、「君だから素晴らしい」という名曲(!)が生まれたのでした。
・・・それはさておき、やっぱりMichaelかっこいい。
たぶん、生き方なんだと思う。うん。
「忘れないで。Woshipはライフスタイルなんだ!」
って、ライブ中に話していた。
そうそう、僕もそういえるようなワーシップリーダーになりたいと思って、
このBlogも「ワーシップな生活」なんです。
それが分からずにワーシップリーダーなんて出来ないよ。
(今、やってないけど・・・)
2006/01/16
心を開かせるには?
そんな哀愁に満ちたセリフ。
私はあなたがたのたましいのためには、
大いに喜んで財を費やし、
また私自身をさえ使い尽くしましょう。
私があなたがたを愛すれば愛するほど、
私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。
(2コリント12:15)
パウロは、自分を理解せず、疑い、拒絶するコリントの人々に対し、権力や自己正当化や、強硬手段を用いることを望まなかった。そのかわり、何とかして彼らの心が開かれるように、まず自らの心を彼らに対してオープンにした。
コリントの人たち。
私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。
私たちの心は広く開かれています。
あなたがたは、
私たちの中で制約を受けているのではなく、
自分の心で自分を窮屈にしているのです。
私は自分の子どもに対するように言います。
それに報いて、
あなたがたのほうでも心を広くしてください。
・・・私たちに対して心を開いてください。
(2コリント6:11-13, 7:2)
相手の心を開かせるにはどうしたらよいのか?
私はいつも、「北風と太陽」の話を思い出す。
強硬手段は、人の心を開かせるどころか、閉ざしてしまうのだ。
パウロは、彼らに対して、「信頼」を告白した。
「愛」と「希望」を明らかにした。
私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、
私はあなたがたを大いに誇りとしています。
私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても
喜びに満ちあふれています。
私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることが
できるのを喜んでいます。
(2コリント7:4,16)
パウロが、実際には彼らとの関係で非常に葛藤を覚えていたのは明らかだ。しかし、パウロは、彼らを本当の意味で生かし、主体的な愛を引き出すためには、彼らを信頼すること、そして彼らにその信頼を伝えることが一番必要なことであることを理解していたに違いない。
てっとりばやい解決を求めるあまり、私たちはこの「信頼」を重視しない。
でも実は、真の信頼関係こそ最短の問題解決なのだ。
2006/01/15
そんな時もあるさ
頭が重く、熱っぽく、体の節々が痛い。
ああ、11月の肺炎の時と似ている。
体調が悪いと、思考も狂ってくる。
辛いな・・・。
あえてポジティブな告白を主にするのも讃美だけど、
ありのままの辛さを主の前に注ぎだすのも、実は讃美の一部だと思う。
詩篇を読むと、そう思う。
あえて、自分で自分の信仰を正当化する必要はない。
たとえ私がどうであろうと、主は生きておられるのだ。
主よ、私の霊も、魂も、体も、すべてあなたのものです。
あなたの目には、私は高価で尊いのだから、
信頼して、すべてをありのままで受け入れます。
2006/01/14
もう一度、ラブ・レター
どんな気持ちで手紙を書いたのか、
どんな思いをその手紙に込めたのか、
そして、そこから何を生み出そうとしていたのか。
何で今まで気が付かなかったのだろう!
あなたがたが私たちの奉仕による
キリストの手紙であり、
墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、
石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが
明らかだからです。
(2コリント3:3)
あなたがた自身が、私たちの奉仕を通して生み出された
「キリストの手紙」なのです・・・。
つまりパウロにとって、彼らに手紙を書くのも、訪問するのも、交わりをするのも、
すべて、彼ら自身が「キリストからのラブ・レター」として整えられるためなのだ。
その手紙は、彼らの心の板に記される。
・・・人々が彼らの心をに触れるとき、生きたキリストの愛が伝わるようにと。
そういう意味で、パウロの使命は、「手紙を書くこと」だったのかもしれないです。
なんか、感動です。
ところで、そんなパウロさんの手紙を読んだ、我らの愛するペテロさん。
彼が、負けじと書いた(?)手紙の中で、パウロさんの手紙について、
こんなコメントを残しています。
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。
それは、私たちの愛する兄弟パウロも、
その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
・・・その手紙の中には理解しにくいところもあります。
無知な、心の定まらない人たちは、
聖書の他の箇所の場合もそうするのですが、
それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
(2ペテロ3:15-16)
ぷっ!
「パウロさんの手紙ってのはさあ、難しくて分かりにくいんだよね~。」
なんて、ペテロさんに言ってもらえると何だかほっとします。(笑)
パウロに面と向かって責められた経験のあるペテロさん。(ガラテヤ2:11)
ちょっとした、皮肉ですかねえ。
でも、パウロさんの手紙をその時代の聖書(旧約聖書)とすでに同列に
扱っていたことは伺えますね
「私たちも手紙なんだ。」
人は、私からどんなメッセージを読み取ってしまうんだろう。
どきどきです。
2006/01/13
ラブ・レター
自分の思いがどうやったら相手に伝わるのか。
果たして相手は自分のことをどう思っているのか。
そもそも自分のこの思いにどれだけ根拠があるのか。
そんな事を悶々と考えながら、
勝手に切なくなってみたり、いらだってみたり・・・。
書いては丸め、書いては丸め・・・。
最近は、そんな経験する人も少ないかもしれないですね。
でも、「手紙」に思いを託すのって、自分の成長のためにも益になる体験だと思います。
べ、べつに今ラブレターを書いてる訳じゃないですよ!!
パウロの手紙を読みながら、なんだか、今までになく
心に訴えかけてくるものがあったんです。
私は大きな苦しみと心の嘆きから、
涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。
それは、あなたがたを悲しませるためではなく、
私があなたがたに対して抱いている、
あふれるばかりの愛を
知っていただきたいからでした。
(2コリント2:4)
泣けます。ほんと。なんて誠実なんだろう。
コリントの人たちは、恐らくパウロの事を完全には理解しきれず、
非難したり、疑ったり、ののしったりしていた。
でも、パウロはコリントの人たちを信じ、励まし、慰め、キリストにある愛と喜びの世界へと、何とかして導こうと、苦悶していたのだ。
私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。
(2コリント1:7)
私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、
あなたがたの喜びのために働く協力者です。
あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。
(2コリント1:24)
パウロが、自分自身の召しに、これほどまでの確信がなかったら、
彼らへの愛と情熱が、これほどまでにあふれていなかったら、
キリストの愛に、これほどまでに自分自身で感動していなかったら、
これほどまでに、影響力のある働きは出来なかっただろう。
聖書は、神からのラブ・レターだという。
そして、その聖書の重要な部分は、人から人へのラブ・レターになっている。
「神は、あなたを愛している」というメッセージは、
人格から人格へと伝えられるものなのだ。
なぜなら、私が愛することなしに、神の愛は現れないのだから。
Intel入ってるの?
Steve Jobsはいつも大胆だなあ。
私はそもそも、仕事をしていた時、”NEXTSTEP”なるOSを使っていた。
これこそ、現在MacOS Xの原型になるものだ。
そして、Jobsが戻ってからは、Appleは再び大成功だね。
こういう組織を作れるJobsってやっぱりすごいんだなーと思う。
MPUに関しても長年のポリシーを、あっさりやめてしまった。
この潔さの背景にある、本当に必要なものが何であるかを
嗅ぎ分け、見つけ出し、納得させ、さらに良いものとして大胆に吸収する。
なかなか、ない能力ですよ。
一組織のリーダーとして、彼の活動を密着取材してみたいなあ。
2006/01/11
自由って
これこそ、人間性を発揮する鍵だと思う。
本当の「自由」とは、この「自由意志」を用いて、正しい事をする能力だと思う。
「何が正しい事なのか」を理解する能力も人間には与えられている。
私はそう信じている。
自由には責任がともなう。
しかし、人は「無責任」になったり、「責任転嫁」をして自らの責任と向き合おうとしない。
決まり事をつくり、非人格化させ、思考停止となる。
人の自由を信頼しなくなり、コントロールしようとする。
目先の、固定化されたものの見方しか出来なくなるのだ。
しかし、私たちは、必ずしも人や環境にコントロールされる必要はない。
私たちは、もう一度「責任をもつ」ことを決意すればよいのだ。
責任を持って、自由意志をはっきりする決意をする。
自由は、そこから取り戻される。
その結果は必ずしも望んでいたものにならないかもしれない。
でも、誠実にそれを続けるなら、必ず望んでいた以上の実を得るだろう。
今日は、熱が出て、仕事を休んだのだ。
悶々と、そんな事を考えていた。
2006/01/10
原則ゆえの変化
今回、特別に来て下さったベン・ウォン師は、私たちにチャレンジした。
「確信したことをやり続けなさい。」
本質を求め、原則中心に考えよということ。
だからこそ、方法に関しては自由になれるのだ。
彼が今日、部分的に話してくれた原則はこれ。
(1) 神のみこころが中心だということ。
(2) コミュニティを形成する必要があるということ。
(3) あわれみの心をもつこと。
私たちは、あせって実を得ることに目がくらまされて、根っこを見過ごしていないか?
私たちは、「セル教会」の方法論を、原則と履き違えていたのではないか?
何が、聖書的な原則なのか、もう一度原点に立ち返る必要がある。
日本の国を愛し、憂い、悔い改め、とりなす、真のしもべ達がともに祈っている。
主よ、あなたにあっては、不可能なことは何一つありません。
あなたの目をお与えください!
2006/01/09
だって男同士ですから
一泊でメンズ・フェローシップを行ないました。
統計によると、日本の教会の平均礼拝出席者数は36名だとのこと。
そう考えると、壮年ばかり36名集まったこの集会、結構すごいです。
ミッション3000の実現に向けて、みんなで意見を出し合いました。
私から見ると、やっぱり男性は男性だなあ、というのが率直な感想。
喧喧諤諤、少々強引なところも。(笑)
でも、社会で実績を積み上げてきた経験と責任感。
そして、感情よりも筋道だったものの考え方。
これは、本当になくてはならないものです!
ある意味、これが男性たちの誠実な交わりだと思いました。
「こうあるべき」という、より広い視点からものを見て考えることができるのが、男性のいいところだと思います。そして、感情的に傷つきすぎない。そこが女性と違う雰囲気をかもしだします。(でも、男性も本当は傷つきすぎているがゆえに、傷つかないように防御壁が強すぎるだけなような気もしますが・・・)
とにかく、今後にむけた、素晴らしい前進を期待させる、
新年にふさわしい集いでした。
どうか、この耕されつつある壮年たちが、さらに豊かな実を実らせていきますように!
2006/01/07
テモテの気持ち
パウロは、その死の間際に、彼の「純粋な信仰(2テモテ1:5)」を呼び起こしている。
「純粋な信仰」を持つのは、たやすい事ではない。その「純粋な信仰」ゆえに、どれだけテモテは傷付いてきたことだろう。
パウロは、テモテの最大の理解者であり、指導者であった。
そして、パウロのテモテにあてられた手紙にあふれる愛は、読めば読むほど感動する。パウロがテモテにあてた最大のメッセージは、パウロ自身の生き方である。この手紙は、その生き方の手本があってこそ書けるものだ。知識をまとめた「教理マニュアル」でも、「伝道戦略」でもない。もちろん、パウロには非常に明確な教理と戦略があった。しかし、この手紙は、テモテという人格にあてて書かれた、パウロという人格そのものなのだ。彼の教理と戦略は、彼自身を思い起こしさえすれば、よく分かるのだ。
・・・しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、
またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった
迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。
何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。
しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。
(2テモテ3:10-11)
しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、
困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
(2テモテ4:5)
テモテの気持ちになってみた。
どれほど彼は、パウロという人格から、受けとめられる必要としていたことか。
これらの励ましのことばを受け取る必要があったことか。
テモテは、パウロの背中を見て育った。
そして、今パウロは、彼の近くにはいない。
それどころか、今、まさにパウロはこの世を去ろうとしているのだ。
純粋な信仰を持ち、困難な状況に一人置かれているテモテに、
この手紙を通して、知識ではなく、パウロという人格が生き続けることになる。
キリストに従う生き方は、その生き方を通して伝えられるべきなのだ。
「牧会書簡」と呼ばれるこの手紙。
「牧会」とは何かを考えさせられる。
2006/01/06
人間になる
これは、ラルシュ創始者のジャン・バニエの本のタイトルだ。
題名に惹かれて衝動買いしてしまったが、すばらしく良い本だった。
ラルシュとは、「知的障害者と、彼らと一緒に生きようという気持ちを持った人たちが共に暮らす共同体」だ。世界中で働きがなされているが、日本でも静岡に一つ、ラルシュの家があるらしい。
この本の、「第一章 孤独」の書き出しを引用してみたいと思う。
本書の主題は、心の自由ということです。それは、心を<不安>や<孤独>の桎梏(しっこく;束縛)から、また私たちに他人を排除・排斥させることになる<恐れ>から解き放つこと、自分の心を開くことです。そうすれば、私たちに共通の人間性も見えてくるようになります。私は、この共通の人間性に気付くことによって孤独が愛に変わり、私たち自身も生まれ変わることができるということを言いたいのです―――そして愛はつながり(belonging)の中で、つながりを通して育ちます(ただし、ある人とのつながりは同時に他の人を隔てることにもなりえますが)。共通の人間性に気付くことによって、私たちは自分の自己中心的な衝動や心の傷から自由になれます。そして最終的には赦すこと、自分の敵であるような人を愛することもできるようになります。こうして初めて、真に人間になることができるのです。
・・・実は、ジョン・バニエの本を実際に読むのはこれが初めてだ。しかし、彼の文からは、単なる学者や思想家にはない、自らが実際にその様に生きている者からしか決して伝わって来ない、深い慈愛と、明快さがある。(そして、訳文も非常に分かりやすい)
今私が、いや私たちが、追求しようとしているものを、指差してくれているような気がする。この本の内容については、また触れることになるだろう。
読んでみたい方は、ぜひどうぞ!一応、Amazon.co.jpへのリンクを載せておきます。(なぜか訳者名しか表示されていないようですが、大丈夫です。)
2006/01/05
岩の上に立つ
人間味があって、親近感がわく。
私は、イエス様がペテロに語られた2つのみことばを通して、献身に導かれた。
一つ目は、イエス様のことばに従ったペテロが、あまりの大漁に驚いた時のいきさつ。
・・・これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、
「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言った。
・・・イエスはシモンにこう言われた。
「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
(ルカ5:8-11)
1997年、このところから「人間をとる漁師となる」事を、個人的に深く語られた。そして、イエスに従うために、まず「舟を陸につける」作業をするようにと導かれた。すなわち、今の仕事を整理して、次のステップに進めるように準備を整えることだった。
二つ目は、弟子たちが向かい風と波に悩まされる中、湖の上を歩いて近づいてきたイエス様とやりとりをする場面から。
・・・すると、ペテロが答えて言った。
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、
水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい」と言われた。
そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
(マタイ14:28, 29)
1999年、この箇所から、会社をやめてフルタイムで仕える献身者となることを決心した。当時、「もし可能でしたら、あなたに100%仕えさせて下さい」と祈る中で、「来なさい」と主が答えてくださったのだ。そこで私は、舟を出て(会社をやめて)、水の上を歩いて(不安定な中を信仰をもって歩んで)、イエスのほうに行くことを選んだのだ。
だから、わたしのこれらのことばを聞いて
それを行なう者はみな、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、
風が吹いてその家に打ちつけたが、
それでも倒れませんでした。
岩の上に建てられていたからです。
(マタイ7:24, 25)
もちろん、聖書のことばのすべてに言えることだ。
でも私の生涯に、主が直接介入して語ってくださった、特別なことばがある。
これからも、これらの岩の上に、しっかりとした土台を築き上げて行きたい。
日本語吹替版
地元、港南台でやっているのを知って、いきおいで行ってしまいました。
これだけ多くの要素を、よくギュッと一つの作品にしたな、って感じ。
なかなか、味わい深い映画だと思いました。
ところで、入口では、チケット売りのお姉さんに怪訝そうな顔をされた。
「お客様、何名さまですか?」
「あ、一人です。(わるいか?)」
「割引券か何かお持ちですか?」
「いや、ないです。(しまった。何かあったのかな)」
「・・・では、1800円になります。」
「あ、はい。(高いな、ふつうに)」
「あ、お客様、こちら日本語吹替版ですがよろしかったでしょうか?」
「へ?あ、はい(っていうか、買ったあとに聞いてどうすんだ?)」
冬休みなので、家族連ればかり。
大人がいたとしても、レディース・デーなので、女性ばかり。
しかも、そこに行くまで、「日本語吹替版」であることに気付かなかった・・・。
(ついでにスクリーン、ちっちゃ!)
実は、先日見に行った「チキンリトル」も日本語吹替版だった。
こちらは、字幕版が満員だったため。
英語が分からない訳でもないのに、何も好き好んで日本語吹替版に行くことはない。
昔だったら、絶対行かなかっただろう・・・。
でも、日本語吹替版って、思っていたより悪くないんですよ!
この2回連続の日本語吹替版体験は、結構面白かったです。やっぱり、耳から入ってくる日本語って、何にも考えなくても理解できるんですよねぇ。字幕を見ないので、映像に集中できるし・・・。
そして、この翻訳作業って、字幕のための翻訳作業とまた少し違うんだろうな、なんて事を考えてしまいました。もとの言葉と同じ長さで、意味がそのまま通じるように、時にはジョークも笑えるように、自然に理解できる日本語に訳すのって、とっても難しいはずです。
教会では、よく英語の歌を日本語にして歌います。そして、英語の歌詞が良ければ良いほど、日本語の歌詞が残念に思うのです。私も、訳すことがありますが、その時は、新しい歌を作り直すような覚悟で、大胆な意訳をしてしまうこともあります。でも、心から納得いくようなものは、なかなか作れません。
そもそも、「ことば」は、コミュニケーションの手段です。
コミュニケーションとは、
(1)伝える側
(2)伝えられる側
(3)伝える内容
(4)伝える手段
(5)伝える環境
(6)伝える時
(7)伝える理由
・・・などの要素が複雑に絡み合って成り立っているものです。
そして、それぞれの要素に、さらに奥深い歴史や文化があります。
それは裏を返せば、思い込みや先入観があるということです。
そういう意味で、伝えたいことを、100%その通り相手に伝えるというのは至難のわざです。むしろ、そのコミュニケーションを通して、何を達成したいのかという事をもう一度考え直してみる必要があります。「正確に伝える」という事ばかりに捉われていると、そもそも何を誰に何のために伝えるのかという目的を達成できない事が多いからです。そして、多くの場合、「正確に伝える」ことよりも、大事な事が見えてくるのです。「真実を語るのが、本当の愛だ!」というような事を、よく考えもしないで言うことの危険性も感じます。「愛をもって真実を語る」のとは次元が違うように思うのです。
特に、映画や歌のような、右脳にも左脳にも訴えかけるようなアートに関しては、最新の注意をはらう必要があると思います。(私は、宣教や教育、いや人生そのものも、アートだと思っています。)
映画は一つの体験です。
イエス様自身が、「神のことば」だというのは、見逃せない点です。
映画「パッション」は、アラム語で上映されていたけど、強烈な体験をしました。
もちろん、バランスが必要です。
だから、知識的にも、技術的にも、人格的にも成長する必要があるのです。
うーん。・・・伝えるのって難しいなぁ!
・・・えーと、とにかく、日本語吹替版も、なかなか捨てたもんじゃないですよ。
翻訳してくれた方に拍手!
2006/01/03
スポーツマンシップ
昨年は、苦労しながらも5年連続200本安打を達成した彼だが、その背後には様々な戦いがあった事を知った。そして、あらためて、彼のベースボールに向かう姿勢に心を打たれた。
私は、スポーツをすることは、極端に言えば、生きることの縮図だと思う。
勝利を目指して一心に走る。そして、そのプロセスを通して、自分自身が養われ、チームワークが培われる。その姿を通して、多くの人に勇気と感動が与えられるのだ。
競技場で走る人たちは、みな走っても、
賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。
ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。
彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、
私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
ですから、私は決勝点がどこか
わからないような走り方はしていません。
空を打つような拳闘もしてはいません。
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。
それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、
自分自身が失格者になるようなことのないためです。
(1コリント9:24-27)
「勝てばいい」というものではない。
宣誓!我々は、スポーツマンシップにのっとり、正々堂々と戦います!
しかし、決勝点がどこかわからないような走り方はしたくない。
私はどこを目指して走っているのか?
走っている間に、それを忘れてしまうような事がありませんように!
・・・私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、
私たちの前に置かれている競走を
忍耐をもって走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
(ヘブル12:1-2)
2006/01/02
君は愛されるため生まれた?
韓国で作られた曲だそうです。日本でも流行りましたね。
私たちの教会でも、時々歌います。
この曲を聴いて、多くの人が涙を流すのを見て来ました。今の日本を生きる私たちの、心の琴線にふれるものがあるのだと思います。でも、逆に言うと、本当に多くの方々が、心の奥底で、この「愛のメッセージ」を浴びせられることなしに生きてきたんだという事なのです。それを思うと、心が痛くなります。
今、自分自身の存在不安に悩む子供達がたくさんいます。いや、子供ばかりではありません。大人たちだってそうなのです。「あなたは愛される価値のある存在だよ」って、魂の深いところに語りかけられる必要があるのです。
この時代は、正しい求心力を失っているように思います。
突然「重力スイッチ」のヒューズが飛んだような状態です。
一生懸命もがいても、前に進めないのです。
バランスもとれないし、下手するととんでもない所に飛んでいきます。
何よりも、なんだか落ち着かないのです。
「愛されている」という実感は、なくてはならないものです。
・・・でも、「愛されるために生まれた」という言い方の中に留まってしまう事も、まだ消極的だと思います。確かに「愛されるために生まれた」のだけれど、私たちは、それよりももっと素晴らしい事を体験するために生まれたのです。
そう、それは「愛するため生まれた」という事です。
多くの人は、この高尚な使命を理解し、自分自身を犠牲にして神と人を愛そうとします。でも、「自分自身」が愛されているという実感をもてないまま行なっている場合が多いのです。(特に、クリスチャンになる人ってまじめな人が多いですし・・・。) 本当の意味で自己犠牲をするためには、「自分自身」が何者かがはっきりと分かっている必要があります。自分自身すら存在価値を把握できないものを、どうして正しく献げる/与える事ができるのでしょうか?私たちが、献げる/与えるものは、価値があるものでなければなりません。私は「愛される価値のあるものだ」って事を実感して初めて、「この大切ないのちを、同じような大切ないのちのために献げよう」という決断ができるようになるのです。
「君は愛されるため生まれた」
この曲が、ますます歌われることを通して、真に愛されることを受け取れる人たちがたくさん起こされ、真に愛することに燃やされる人たちも立ち上がっていく事を心から願います。
愛は、地球を救うのです。
2006/01/01
種を蒔け
誠実の実を刈り入れよ。
あなたがたは耕地を開拓せよ。
今が、主を求める時だ。
ついに、主は来て、
正義をあなたがたに注がれる。
(ホセア10:12)
これは、教会の今年の標語のみことば。
今年は、「回復の年Ⅱ」。
昨年に引き続いて、回復の年の2年目なのです!
でも、このみことばから言うなら、「農業の年」って感じです。
・・・種を蒔け
・・・実を刈り入れよ
・・・耕地を開拓せよ
・・・注がれる
きっと、私たちは、お百姓さんから知恵を学ぶべきですね!
種を蒔いても、放っておいては、豊かな収穫を期待することはできません。
お百姓さんは、水を注ぎ、肥料をやり、雑草をとり、いろんな手をつくします。
でも、「健全に育てさえすれば、時が来れば、必ず収穫をもたらす」という事を、
本気で信じているからこそ、手をかけ、愛情たっぷりに育てるのです。
時間はかかります。手間もかかります。
でも、確実に実を実らせるのです。
「時間がかかる。」
・・・その事が、理解できれば、今なすべき事が見えてきます。
ちょっとやそっとの問題で、揺り動かされる必要はないのです。
そして、今日の先生のメッセージは、私の信条とも言える箇所からでした。
私は、すでに得たのでもなく、
すでに完全にされているのでもありません。
ただ捕らえようとして、追求しているのです。
そして、それを得るようにと
キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
兄弟たちよ。
私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ、この一時に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、
ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて
上に召してくださる神の栄冠を得るために、
目標を目ざして一心に走っているのです。
ですから、成人であるものはみな、
このような考え方をしましょう。
もし、あなたがたがどこかで
これと違った考え方をしているなら、
神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
それはそれとして、
私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
(ピリピ3:12-16)
私たちは、キリスト・イエスを信じてからも、みな求道者として歩むのです。しかし、その求道中の私を、主はまず捕らえてくださいました。主が、私を捕らえてくださったのは、私がそれを捕らえる事ができるようになるためです。
「忍耐」とは、単に辛い事を我慢することではありません。
まだ見ぬ物を、必ず得ると確信して、先に喜ぶ事です。
すなわち、「忍耐」とは「信仰」なのです。
収穫には忍耐が必要です。
でも、信仰のある者にとっては、
種まきや耕すことも収穫の一部として喜べるのです。
さあ、作業に取りかかりましょうか!
2005/12/31
Let it be...!
・・・これは一体、何の挨拶なのだろう?
私はひどくとまどい、考え込んでしまった。
「こわがることはない。あなたは神から恵みを受けたのです。」
「あなたから、すぐれた者が生まれ、人々を救うのです。」
・・・どうしてそんな事がありえよう?
私はその条件を満たしていないのだ。
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」
「神にとって不可能なことは、一つもありません。」
・・・主よ、あなたを信頼します。本当に、私は取るに足らない者です。
どうぞ、あなたのお言葉どおり、この身になりますように。
主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、
何と幸いなことでしょう!
わがたましいは主をあがめ、
わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
主はこの卑しいはしために
目を留めてくださったからです。
ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、
私をしあわせ者と思うでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。
その御名は聖く、そのあわれみは、
主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
(ルカ1章より)
マリヤは、御使いの知らせを聞いて、ひどく考え込んでしまった。
「そんな事は私におこるはずがない。だって、あり得ないでしょう?! 」
でも彼女は、主を信じた。主を信頼した。
そして告白した。そして、喜びと平安に満たされた。
私が納得したかどうかは、問題ではない。
この世の常識も、問題ではない。
人々の中傷も、問題ではない。
神にとって、不可能なことは何一つない。
私をあなたの管としてください!
私はあなたを信頼しているのです!
「あなたのおことばどおりこの身になりますように!」
Let it be to me according to your word!
本当に、これから後、どの時代の人々も、
私をしあわせ者と思うでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださったのです!
主よ、感謝します。
すべてを、感謝します。
What is Love?
私たちが愛すべき人とは誰だろう。
主よ、あなたは何故こんな私を愛するのですか?
主よ、こんな私のどこが高価で尊いんですか?
主よ、あなたの愛で満たしてください。
主よ、私も人を愛したいのです。
愛って、何でしょう?
愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。
愛のある者はみな神から生まれ、
神を知っています。
愛のない者に、神はわかりません。
なぜなら神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって私たちに、
いのちを得させてくださいました。
ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
(1ヨハネ4:7-9)
「神は愛」であって、愛がないと神は分からない。
とすると、どうやってその愛を知ることができるのか?
遣わされたひとり子を、「愛」として受け取る事ができれば、
「神」をも知る事ができるということか。
「神学」とは、つまり、愛を学ぶことなのか。
2005/12/29
従順の原動力
それに従って行動することが、神のみこころだ。
その従順を通して、神は働いてくださる。
しかし、人にその従順をもたらすものは、何だろう?
もし、みこころに関しての十分な知識があったとしても、それは必ずしも従順をもたらすとは限らない。また、表面上で従っているように見えたとしても、必ずしもそれは従順とは言えない。
では、キリストが十字架の死にまでも従われたのは、なぜだろう?
・・・そう、「愛」こそが、従順の原動力なのだ。
知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
人がもし、何かを知っていると思ったら、
その人はまだ知らなければならないほどのことも
知ってはいないのです。
しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
(1コリント8:1-3)
愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、
すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して耐えることがありません。
預言の賜物ならばすたれます。
異言ならばやみます。
知識ならばすたれます。
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、
預言することも一部分だからです。
こういうわけで、いつまでも残るものは
信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。
(1コリント13:4-9, 13)
十字架の愛の大きさを思う。
私たちの愛の源はここにあるのだ。
主よ、あなたの十字架を、今日も仰ぎます。
2005/12/28
いのちを保つ
魂に戦いが挑まれるのだ。
愛そうとすること、憐れみを働かせようとすること、誠実に生きようとすること。・・・それらは、自分で自分が傷つくことを恐れていては成し得ない事だ。「恐れる者の愛は、全きものとなっていない」のだから。
あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行って、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
・・・私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、
信じていのちを保つ者です。
(ヘブル10:35, 36, 39)
信じることには、忍耐が欠かせない。
いのちの希望を仰ぎ見つつ。
信じます。主よ。
2005/12/26
Without You
車の中で彼のCDを聴きながら、その歌詞がとても心に響いてきた。
Without You
Like a love without devotion
Like a cloud without the rain
Like a heart without emotion
Like a wound without the pain
Without You I am nothing
I am nothing without You
Only You can make something
Out of nothing
I am nothing
Without You
Like a prayer without an answer
Like a bird without a song
Like a hope without a future
Like a night without the dawn
Without You I am nothing
I am nothing without You
Only You can make something
Out of nothing
I am nothing
Without You
あなたなしでは
献身のない愛のように
雨の降らない雲のように
感情のない心のように
痛みのない傷のように
あなたなしでは、私は何者でもない
私は何者でもありません、あなたなしでは
あなただけが、何もないものから何かをつくり出す事が出来る方
私は何もないものです
あなたなしでは
応えのない祈りのように
歌うことのない鳥のように
将来のない希望のように
夜明けのない夜のように
あなたなしでは、私は何者でもない
私は何者でもありません、あなたなしでは
あなただけが、何もないものから何かをつくり出す事が出来る方
私は何もないものです
あなたなしでは
シンプルな歌詞だけれど、何だか心に響くものがあった。
主よ、私自身は本当にからっぽな者です。
でも、あなたは無から有を生み出すお方。
この私からでも、何かを生み出すことがお出来になります。
どうか、私をいつでもあなたと共にあらせてください。
クリスマスの回復
心がジワッと温まる、そんな喜びに満たされたクリスマスだった。
今年は、私自身体調を崩した事もあり、あまり具体的な奉仕に駆けずり回ることが出来なかった。それは、時には歯がゆい事でもあった。でも今回、私にとっては「自分が果たすべき役割が何であるか」、しっかりと自覚しながら、考えながら、祈りながら、喜びに満たされながら、仕えることが出来たように思う。
私は、自分に与えられた恵みによって、
あなたがたひとりひとりに言います。
だれでも、思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。
いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった
信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
一つのからだには多くの器官があって、
すべての器官が同じ働きをしないのと同じように、
大ぜいいる私たちも、キリストにあって
一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
(ローマ12:3-5)
ユースクリスマスの演劇。
私に与えられたのは、「ブザーを押す」こと。でも、嬉しかった。誇りをもって、このことをさせて頂いた。
クリスマス礼拝。
私の役割は、午後の礼拝、夜の礼拝の司会をすること。とても楽しかった。
何だろう。今年のクリスマスは、教会の中に「自由」と「一致」からくる温かいものが流れていたような気がする。私の視点が変わったのだろうか?それもあるのかも知れないが、本当に主はこの教会に、「回復」を与えてくださっているように思う。
回復の年。
まず教会にこそ、いや、私自身にこそ回復が必要だったのだと思う。そして来年は、ここに確かに生きておられる主の霊がこの地を満たすに違いない。
そんな期待感に満ちている。
2005/12/23
The Volunteer Revolution
ミッション3000がどこに行こうとしているのか、明確な示唆が与えられるからだ。
そのウィロークリーク教会のビル・ハイベルズ師の"The Volunteer Revolution"という本を読んでいて、とても刺激を受けた。その中で、ボランティアというよりも、そもそもイエスキリストは私たちに何を教えておられるのかということについての、基本的な視点がよくまとまっている箇所があったので引用し、日本語に訳してみたいと思う。
A TRANSFORMED WORLD(変革された世界)
イエスは、神の考える「変革された世界」を次のように教えた。
それはまず、「教会の中」で現されるべきものであり、
次にそれが、「この世の中」に示されるべき。
- 神を愛し、人を愛すること。 ・・・形式ではなく、本当の関係を築き上げなさい。
- 弱い人たちを顧みること。 ・・・新しい価値観に生きなさい。
- 自分の十字架を負うこと。 ・・・自己中心をやめ、犠牲と困難を覚悟しなさい。
- 全世界に福音を宣べ伝えること。 ・・・出て行って、すべての人を弟子としなさい。
・・・私たちが持つべき根源的な視点を大変よく網羅していると思う。(後で読んでみたら、訳が分かりにくかったので、大胆に要約して書き直しました。悪しからず。)
もう一箇所、REWARDS OF VOLUNTEERINGという所も、大変示唆にとんだ記述がされていて、とても考えさせられたので、これも引用したい。
・・・でも今日は、ここまでにしておこう。
明日のユースクリスマスが祝福されますように・・・!
2005/12/22
信頼の力
しかし本質的に、「信頼」にはリスクが伴う。先の事は分からない。絶えず想定外の出来事がつきまとう。「信頼」とは、自分が傷つくかもしれない可能性をあらかじめ認めることだ。「信頼」の度合いが大きければ大きいほど、裏切られた時のダメージは大きくなる。だから、裏切られたり、傷つけられたりする経験が重なると、もう傷つきたくないという自己防衛のために「信頼」の度合いを引き下げてしまう。自ら「信頼」の度合いを引き下げることは可能だが、「裏切る」ことは基本的に相手の側にあり、自分ではコントロール不可能だからだ。
しかし、人を信頼するというのは大きな力だ。それは、自分自身にとってだけでなく、相手にとっても大きな力になるものだ。信頼は、信頼を生み出すのだ。
神は、人を信頼された。神は、「自由意志」を持った存在として人を創造された。それは、裏切られる可能性を百も承知の上で人を造ったということだ。
しかし、人は神を裏切った。
そして、神の心は傷ついた。
しかし、神は人を信じ続けた。神の私たちへの信頼はいたるところに見られる。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、
あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
(ルカ22:32)
これは、神の私たちへの信頼である。彼らの信仰はなくならない。彼らは必ず立ち直る。祈るということは、そのように信頼するということだ。
神は、私たちが真の信頼関係を回復するようにと、ご自身をささげられた。それは、不信仰からくる、律法によるリスク管理ではなく、信頼と愛によって、その人の内にある本来の姿が回復するためだ。信頼されると、不思議とその力が発揮されるのだ。
「・・・私はあなたに約束したのです」
一人の人が、勇気をもって信頼し始める時、この世界が変わる。
私はそう信じる。
2005/12/20
ムイ・ビエン
調子が悪くても笑顔で「ムイ・ビエン(調子いいよ)」と答えるらしい。
(本当かな?)
ということで(?)今日は、鼻炎の話です。
慢性の鼻炎が気になって耳鼻科に行った。
そしたら、あらら。慢性副鼻腔炎だとのこと。
度重なる風邪や肺炎も、これが原因かも知れないとのこと。
私は鼻づまりで、よく口で息をする。これは喉に良くない。おまけに、副鼻腔に出来た膿から、細菌が喉や呼吸器に落ちて風邪や肺炎を引き起こす可能性があるらしい。万年風邪っぽい症状は、ここから来るのだと考えると納得がいく。さらに、そういう時に頭を下に向けると頭痛がひどくなる。それらの原因が、副鼻腔炎から来るものだとすれば、それを治せば全体的な症状が軽くなるということだ。なんだか希望が出てきた。
しかし、ネットでいろいろ調べる限り、副鼻腔炎も耳鼻科系の病としては治療が困難なものらしい。それでも、悪循環を引き起こしているのだから、対処療法的な治療でも、結構良い結果が出るのではないかと個人的には楽観視している。今日はとりあえず10日分の抗生物質等をもらい、来年早々もう一度きちんと写真を撮って治療方針を決めましょうとのことだった。
「からだ」というのは不思議だ。目に見える症状が本当の病とは限らない。症状を押さえるばかりが良いこととは言えない。根本的な原因を見つける必要がある。しかし、根本的な原因が分からない場合もあるし、分かっても治せない場合もある。そういう時は、もう一度からだ全体を見て、何をもって「健全」とするのかを再定義しなければならない。いや、身体的なからだだけではない。そもそも人間とは何なのか、何をもって人間らしい生活と呼ぶのかを考え直さなければならないのだろう。
幸いにして、私にはそういう事を考える機会がたくさん与えられた。その気になれば、どんな事からでも学ぶ事ができるのだ。
これは、私の得たかけがえのない「自由」の一側面。
ムイ・ビエン。グラシアス!
2005/12/18
従順の学び
何ということだろう!考えれば考えるほど、すごい事だ。
キリストは御子であられるのに、
お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、
とこしえの救いを与えるものとなり・・・
(ヘブル5:8,9)
キリストは神の御子であって、神そのものである方だ。キリストはただ一人罪のない方で、完全な者であったはずだ。その方がなぜわざわざ「従順を学び」、「完全な者とされる」必要があったのか?別の箇所には、このように書いてある。
善を行っていて苦しみを受け、
それを耐え忍ぶとしたら、
それは、神に喜ばれることです。
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。
キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、
その足跡に従うようにと、
あなたがたに模範を残されました。
キリストは罪を犯したことがなく、
その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、
苦しめられても、おどすことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになりました。
(1ペテロ2:20-23)
つまり、キリストは私たちの模範として、苦しみを受けられ、従順を学ばれたのだ。従順を学ぶということは、「完全な人」としての正しい姿だった。「完全な人」というのは、そういうものなのだ。
キリストのこの姿勢は、私たちに大きな示唆を与える。
私たちは、このお方を通して、完全な救いにあずかった。しかし、どうして完全な救いを得た者が、なお苦しみに甘んじて「自分の救いを達成する(ピリピ2:12)」ために、努力する必要があるのか。 それは、その姿勢こそが「完全な人」としての姿だからだ。完全な救いにあずかったからこそ、自ら従順を学ぶ必要があるのだ。
いつも主にあって喜びなさい。
もう一度言います。喜びなさい。
(ピリピ4:4)
パウロは獄中の中にあっても、いや、獄中の中にあったからこそ、キリストにあるこの真理を悟り、自分の喜びとして、あふれるばかりに喜んでいた。私たちはどうだろう?万が一にも従順を学んでいたとしても、人のご機嫌取りのようなうわべだけの従順になっていなかっただろうか?
主よ、あなたが私のうちに生きてくださっている事を信じます。そして、私にもキリストの従順にあずかる希望を与えてくださっていることを感謝します。キリストに似たものとして、日々栄光から栄光へと私をつくり変えてください。あなたが見ていたものを、私もしっかりと見つめ、あなたが大切にしていた事を、私も大切にすることが出来るように、導いてください。この特権をありがとうございます。私はあなたのものです。もう一度あなたにお委ねいたします。
2005/12/16
信者の模範
感動で胸が熱くなった。
素晴らしい劇だった。12月24日、2回公演で1000人集められるように取り組んでいる。集められた人たちは、間違いなく感動して心が温かくされるだろう。生き方が変えられるだろう。
でも、本当に生き方が変えられるのは、実際に取り組んでいる彼ら自身だろう。それぞれの立場で一生懸命取り組んでいる一人一人は、自分たちが伝えているメッセージを、きっと見ている者に与えられる感動よりも、何十倍も深く自分のものとするに違いない。一つの事にむかって、みんなで力を合わせて取り組むというプロセスは、完成した表面上の成果以上の意味がある。今年のクリスマスを終えたとき、彼らはグッと成長している事だろう。そんな事を思いながら、とても嬉しくなった。
なんだか、視点がおじいちゃんみたいだ。
でも、一人一人の成長がとっても嬉しい。
年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。
かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも
信者の模範になりなさい。
(1テモテ4:12)
彼らにあふれる喜びと、真剣な取り組みは、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも現れていた。もちろん、未熟さはあちらこちらにある。でも、その未熟さを知るがゆえの謙遜と従順は、立派な「信者の模範」だと思った。生き生きとした、いのちに満ちていた。
主よ。私にも絶えず柔らかい心を与えてください。
内なる人を日々新しくしてください。
信仰の若々しさを失うことなく、成熟へと導いてください。
2005/12/13
ぽった?
やっぱり最新版を見る前に、一通り見ておかなくてはと思いまして。
しかし、「クリスチャンはハリーポッターなんて身にいくべきでない!」という意見もありうるだろう。そういう意見は尊重するし、それはそれでいいと思います。
でも、なぜそういう意見を主張するのかは、ぜひ教えて頂きたいです。魔法を取り扱っているから?戦いがあるから?そんな映画いくらでもあるんだけど・・・。?映画からの悪い影響を恐れているのでしょうか?では、どんな悪い影響でしょう?ナルニア国物語だったらいいの?なぜでしょう?クリスチャンの原作ならすべて安心なのでしょうか?実際、見てからそう判断しているのでしょうか?
もちろん、「信頼すべき人の意見を信頼するから」という事も理にかなっていると思います。でも、自分で自分の考えの責任を放棄してはならないと思います。
主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、
それ自体で汚れているものは何一つないということです。
ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。
(ローマ14:14)
多くの小説、ファンタジーがそうであるように、これらの物語は、そのプロットを通して、それぞれに大切なメッセージをもっている。それをじっくりと観て聴いたらいいんじゃないだろうか。本一冊読むぐらいのインパクトはあります。クリスチャンではないからそこでの思想そのものも悪いのだとしたら、もう私たちはこの世の中にいれなくなる。むしろ、彼らからこそ多くを学ぶ事が出来るんじゃないか?
リバイバル新聞の記事では、これが学校の秩序に反抗してポッターがヒーローになるというのがメインテーマだからよくない、というような事が載っていた。馬鹿げてる!正しくないと思う事を制限することも、時にはもちろん必要だろう。でもそれ以前に、もっと積極的に「私たちが守るべき大切な価値観」とは何かの見本をしっかりと見せてあげて欲しい。
私たちは、本当の意味で自立し、主体的に育っているだろうか。
また、私たちが人を育てる時、そのような人格を育てているだろうか。
もし私の自由によって弱い魂が滅びてしまうのなら、私は喜んで、自分の意思でそれを手放そう。しかし私はむしろ、「情報の制限」の背後にある律法主義的な思考停止から来る悪影響のほうが心配だ。現代の子供達、大人達に本当に必要なのは、正しい価値観に基づいて物事を自分で判断する事が出来る力を身に付けさせる事なのではないだろうか。
自らの体験を通して出なければ、学ぶ事が出来ない限度というものがある。それを積極的に身に付ける訓練が必要だ。あれやこれやと制限する前に、どうしたらその様な人格を身に付ける事が出来るか、誠実に、大胆に取り組むべきなのではないだろうか?
<追記> 読み返してみて、どうもこの記述は、なかなかうまく表現できている気がしません。もし、これを読んでくださっている方がおられたら、これは、私の自己対峙のため記述である事をご容赦ください。そして、ご意見・ご指導くだされば感謝です。
2005/12/11
神の国
自分が嫌になって、死を選びたいと思った時。そんなどん底の中で、人が人として生きることの本当の意味を捜し求め始めた時。すべてを理解した訳ではないけれど、キリストこそ道であり、真理であり、いのちであると信じ、人生を賭けてみようと思った時。キリストのからだとして、その一つの器官として、私も必要とされているという事を知った時。私も用いられて、他の人の益となれた事を実感出来た時。キリストの十字架の愛が、私の理解をはるかに超えて、真に私を生かすものである事に感動した時。私もキリストに似たものとして、真の謙遜を身に付けたいと餓え渇きが与えられた時。すべての事が互いに働いて益とされていることが分かった時。
「義と、平和と、聖霊による喜び」は、いつも私を取り囲み、私を導いてくださった。人間が人間らしく生きることへの餓え渇き。心の落ち着きと、正しい人間関係。聖霊による新鮮な喜び。神の国とは、そういうものだ。
今日、クリスマスに洗礼を受ける事になった青年との交わりを通して、神の国が今そこにある事を実感した。主は生きておられる!今、自分が生かされている!こんな素晴らしい神の家族に自分が加えられている!そんな、喜びが、彼の内側からあふれ流れ、私の心にも注がれてきた。そんな嬉しい時を過ごすことが出来た。
はじめは、彼に対して、洗礼の学び、すなわち「信仰告白の学び」をするように依頼された。しかし、私はそれをする事に躊躇するものがあった。C-BTEの学びを通して、組織神学的な学び、無機質な知識の羅列の様な形での教理の学びは、かえってこの新鮮な喜びをもった器を萎縮させ、今与えられている純粋な義への餓え渇きを変質させてしまうのではないか、そんな恐れがあったからだ。信仰告白の学びは、むしろクリスチャンとしての基本原則を実践し、本当の意味で聖書的に考える力が養われ始めるまで控えたほうがいいとまで感じていた。
しかし、主は、この時を備え、知恵を与えてくださり、なんと今までで一番いのちにあふれた「信仰告白の学び」をすることができた!しかも、45分くらいで、全項目を終えてしまった。今回、私が特に注意したのは、「相手が、信仰生活の本質や全体像を見失わないように伝えること」である。私が満足するために、この学びをしているのではない。彼が本当にキリストにあって、輝いて生きることができるように、その人格が正しく方向付けされるように導いているのだ。そんな事を意識しながら学びを進めて行った結果、私自身も「信仰告白」に記されている素晴らしい信仰の本質に感動することができた。
ああ、救われたばかりの魂の、聖霊の喜び。こんなにもパワフルなものがあるだろうか。
彼は、学びを終えて、「やっぱり、神につくらた人間として、人間らしく生きるように導かれているんだ、ってことがこの学びを通して聞こえてきました」と言った。なんて素晴らしいんだろう!私の今回のやり方は、その心を育むという目的において、とても効果的だったようで、本当に感謝だ。
今、まさに教会が目指している方向が、確かに主のみこころである事を実感できた。さあ、すでに主を知っている皆さん、もう一度この新鮮ないのちの御霊に触れましょうよ!いつの間にか、いっぱしの宗教家のように、表向きは立派に見せかけて、まったく喜びのない生活に陥っていませんか!?
神の国は、義と、平和と、聖霊による喜びです。(ローマ14:17)
私を通して、神の国が実現しますように。
聖霊を豊かに注ぎ、私を生かしてください。
2005/12/09
限度と自由
自分としては、かなり仕事量等セーブしているつもりだった。でも、この密度と量は、恐らく今の私の限度ギリギリの所だろう。
重要だけれど、緊急でない仕事というのは、後回しにしがちだ。でも、自分自身を客観的にみつめて、しっかりとそこに時間も労力も費やさなければならない。
戦略的な計画の作成や、リーダーシップの育成、はたまた自分自身の健康づくり、人間関係の育成などは、充実した奉仕、生活のために本来最も重要視すべき事柄だ。しかし、うっかりしていると後回しにしてしまいやすい。これらをしっかりと見据えて、自分自身をコントロールする力を養うこと。それが、今の私に課せられている訓練だと思う。
もちろん、福音のために何でもする覚悟だ。しかし、それは自己満足的に、あれもこれも行なう事とは違う。自己犠牲の意味をはき違えてしまってはいけない。
キリストは、自由を得させるために、
私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、しっかり立って、
またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
(ガラテヤ5:1)
主よ。本当の自由を与えられたしもべとして、キリストに似たものとして、私を整え、つくりかえてください。主よ。
2005/12/08
的外れ
良かれと思ってやっている事が、何と的外れになりやすいんだろう。
今日、まわりで一生懸命議論している人の話を聞きながら、心が痛んだ。誰もが熱心なのだ。必死に神を愛そうとしていて、人を愛そうとしている。そのために、自らが犠牲まで払おうとしている。
それなのに、どこかがおかしい。なぜだろう?
私も例外ではないはずだ。
それに比べ、イエス様は何と自由だったことか。
目的をまっすぐに見据えて、何と大胆に行動できたことか。
そのイエス様の行動は、当時の律法学者には理解できなかった。
でも、これこそ神のみこころそのものだったのに。
「罪人たちと食事をしている」
「食いしん坊の大酒飲み」
「なぜ安息日に人を癒すのか?」
「なぜ昔の人たちの言い伝えを破るのか?」
・・・イエスは言われた。
『この民は、口先ではわたしを敬うが、
その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。
人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
・・・あなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、
神のことばを空文にしています。
そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。
(マルコ7:6-7,13)
「人の言い伝え」だって、最初は熱心さのゆえに「良いもの」として作られた。でも、一度文字に書き表されると、今度はその文字面に捕らわれてしまうのが人の常だ。
イエス様が来られたのは、律法を破棄するためではない。あえて人の言い伝えを破ったのは、むしろ神のみこころを成就させるためだ。神のみこころを実践するためには、時には「人の言い伝え」という壁を乗り越えなければならない。私たちの内側にある、「自分のやり方」を捨てるように、チャレンジが与えられるのだ。
ああ愚かなガラテヤ人。
十字架につけられたイエス・キリストが、
あなたがたの目の前に、
あんなにはっきり示されたのに、
だれがあなたがたを迷わせたのですか。
(ガラテヤ3:1)
律法の下に閉じ込められた私たち。律法はキリストへ導くための養育係となったのだ。今私たちはすでにキリストのもとにあるのに、まだ養育係から離れられないでいる。怖いのだ。養育係の下にいたほうが、安心だと思っているのだ。でも、そこに本当の自由はない。本当の自立はない。本当に委ねることはできない。それは、キリストに従う者とは言えない。
でも、主よ。
あなたは解決をお持ちです。
主の十字架の謙遜を、私たちに注いでください。
古い自分に死に、新しい自由を体験する事ができるように解放してください。
自由に愛する事が出来るようにさせてください。
私を作り変えてください。
2005/12/07
自信と確信
・・・登喜子先生のコメントである。
うがって受け止めることも出来る言葉だが、良い意味で言ってくださった事を信じ、素直に感謝して受け止めたい。
確かに、confidenceは強くなったような気がする。しかし、「自信」とは違うのだ。私は今でも自信はない。自分のやっている事ややり方、考え方が最善とは思えない。
でも、「確信」はある。確かに主はこのように導いておられる、確かに今主はこのことを、こういう風に男らしく語るようにと私を導いている。そんな確信はある。
考えてみると、先生方を前にして、よくまあしゃべったなぁ。でも、語らずにはおれない事があるのだ。そして、今がその時なのだ。 不思議なことに、まったく恐れがない。人に受け入れられるかどうかという恐れからは、ずいぶんと解放された気がするのだ。
私の按手をもってあなたがたのうちに与えられた神の賜物を、
再び燃え立たせてください。
神が私たちに与えてくださったものは、
おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
(2テモテ1:6-7)
昨日、話合いの中でピンとくるものがあって、帰りがけに本屋で「7つの習慣」というベストセラーを買ってきた。パラパラと読んで・・・あらあら。これはまさに今、話し合っていたことそのもだし、私の考えも全く同意するものだった。(まだ1部しか読んでないけど)どうも著者コヴィー氏はモルモン教徒らしいのだが、内容は素晴らしく、ウィロークリークのブックセンターでも置いてあった。
これからは、ますます一般書を読む必要を感じている。特に、誠実に真理を求めて生きようとしている人たちが、手にとってみるような本を知っておきたいと思っている。そこにこそ、未信者との接点が生まれると思うからだ。「未信者対象の礼拝」を行なっていこうとするとき、私たちは、未信者の向いている方向を向いている必要がある。というか、私たちの向いている方向に、ともに未信者も向けさせる。みんなで一つの方向に向かって取り組むという中で、未信者も信者もはじめから一つになって歩んでいく事が出来るんではないか。
2005/12/05
新しい風
その姿勢につくづく感動した。
牧会者の先生方のリトリートにて、私がこの数週間ずっとまとめてきたC-BTEの報告書とミッション3000とリーダーシップ育成に関わる様々な提案書を発表させて頂いた。先生方は、へりくだって私の話に真剣に耳を傾け、そこにある神のメッセージをしっかりと受け止めようと多くの時間を割いてくださった。そして、絶えず自己変革していこうとする、先生方のあの姿勢。ああ、これが本郷台の教会を祝福へと導いてきた、真のしもべ達の姿なのだ。この器たちに養われ導かれている事に、あらためて感謝し、あらためて感動した。そして私なりに誠実に、私の果たすべき務めを果たすべく、その話合いの場に身を置かせていただいた。
確かに感じる。主のみわざの胎動を感じる。
新しい風だ。ウィロークリークの教会で話されていた、あの風だ。
新鮮な聖霊のいぶき。
人にいのちを与えられた、神の息。
主の御手が私の上にあり、
主の霊によって、私は連れ出され、
谷間の真ん中に置かれた。
そこには骨が満ちていた。
主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。
なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、
ひどく干からびていた。
主は私に仰せられた。
「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」
私は答えた。
「神、主よ。あなたがご存知です。」
主は私に仰せられた。
「これらの骨に預言して言え。
干からびた骨よ。主のことばを聞け。
神である主はこれらの骨にこう仰せられる。
見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、
おまえたちは生き返る。
わたしがおまえたちに筋をつけ、
肉を生じさせ、皮膚でおおい、
おまえたちの中に息を与え、
おまえたちが生き返るとき、
おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」
私は命じられたように預言した。
私が預言していると、音がした。
なんと、大きなとどろき。
すると、骨と骨とが互いにつながった。
私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、
肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。
しかし、その中に息はなかった。
そのとき、主は仰せられた。
「息に預言せよ。
人の子よ。預言してその息に言え。
息よ。四方から吹いて来い。
この殺された者たちに吹きつけて、
彼らを生き返らせよ。」
私が命じられたとおりに預言すると、
息が彼らの中に入った。
そして彼らは生き返り、
自分の足で立ち上がった。
非常に多くの集団であった。
(エゼキエル37:1-10)
主よ。来てください。
今こそ、主の御霊を注いでください。
今が、その時です。
2005/12/04
信頼
私の望みは神から来るからだ。
神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。
私はゆるがされることはない。
私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。
私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
あなたがたの心を神の御前に注ぎだせ。
神は、われらの避け所である。
(詩篇62:5-8)
私は神を信じるようになってから、神への信頼が消えた事はない。
考えてみると不思議なことだ。
自分が嫌になったことや、自分が信じられなくなった事なら嫌というほどある。というよりも、ほとんどの時とエネルギーとを、自分の内側の自信のなさを隠したり、防御したりするのに使ってきたような気がする。それは、神を信じてからも同じだ。人を疑ったり、裁いてみたり、反発してみたりした事も数え切れないほどある。
でも、神への信頼自体が消えた事はないのだ。たとえ理解できないことがあっても、思い通りに行かない事があっても、大いなる理解を越えた存在がどんな時でも私を支えてくれているという信頼によって、今の私は成り立っている。
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。
彼にはご自身を否むことができないからである。
(2テモテ2:13)
わたしを呼べ。
そうすれば、わたしは、あなたに答え、
あなたの知らない、
理解を越えた大いなる事を、
あなたに告げよう。
(エレミヤ33:3)
私は、すでに得たのでもなく、
すでに完全にされているのでもありません。
ただ捕らえようとして、追求しているのです。
そして、それを得るようにと
キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
(ピリピ3:12)
私が真理を求め、神を捕らえようとしている時、キリストは私がそれを得られるようにと、すでに私を捕らえてくださった。何という愛、何という恵みだろう。
私が神を信じる事が出来るようになったのは、私が神のすべてを理解する事が出来たからではない。しかし、信じる事が出来たのだ!何という恵みだろう。
そして神を知れば知るほど、私の得たものの大きさ、素晴らしさに今でも感動する。感動が増し加わっている。何という恵みだろう!
こんな素晴らしい奇跡が、私の人生になされたのだ。
もう私は、私自身の存在意義を自分自身で主張する必要はないのです。
主よ、感謝します。
あなたを信頼します。
何という愛、何という恵みだろう!
2005/12/03
啓示
今まで祈りもだえ考え困っていた何かに対し、突然いのちが注がれるような、そういう経験を時々する。
ミッション3000について、その全体像をもっとしっかりつかめる様に図を描くことは出来ないかと祈って作業していた。そうしたら、次々にヒントが与えられて、シンプルかつパワフルなツールを作成することが出来たと思う。本当に感謝だ。
いろいろな事に手を出す私は、私自身が神様によってどのようにデザインされたのかをなかなか正確に読み取れない。でも、だんだんと見えてきた事がある。わたしは、何かのスペシャリストになるというよりは、いろいろな物事を統合してそのフレームワークを提供する役割を担うように導かれているように思う。
私は、物事の全体像を理解するのが得意なようである。また、全体像の枠組みをしっかり構築した所においては、ほぼどの様な物事もその関連によって位置づけをしていくことが出来る。逆に、全体像が見えない中で、極端にバランスを欠いたアイデアや人為的過ぎる物事に関しては直感的に不快感を感じる。
また、それよりも、その概念を、表現する事が好きであり、得意である。時にはその理念に基づいてデザインを行ない、時にはそれを音楽にしてしまう。いずれにせよ、私の心にジーンと来た何かを、ビジュアル的にまとめてみて、それを効果的にコミュニケーションする。いろいろな賜物がからむが、「理解し、まとめて、表現する」という部分がコアになる賜物かもしれない。
・・・「私は何々が出来る」とか、「私は何々が得意」とかいう表現は、傲慢に聞こえるかもしれない。普段の生活の中では、聞き手にもう少し配慮して言葉を使うべきだ。しかし、ここで私は自分を誇るつもりは全くない。むしろ、弱さも含め、神様が私をどのようにデザインされたのか、それをなるべくありのまま見極める事が出来るようにとの取り組みの一環だ。
ということで、万が一これをご覧になっている方がいらっしゃったら、気に障るような表現をお許しくださいね・・・!このブログは第一義的にはモノローグなのです。
m(_ _)m
2005/12/02
BGM
すでにキーボードに打ち込んである音源をCDに落とすだけの作業。
でも、31曲もあった。
すごいなあ。それを知らずに、私は15曲目ぐらいで思わず、もう終わり?って聞いてしまったら、「あと15曲くらい」と言われてしまった。冗談だと思ったら、本当だった。
出来上がったものを、聞くのにはそれほど時間はかからないけれど、それを作るまでにどれほどの労力、時間、忍耐が捧げられていることか。それを恐らくほとんどの人は知らない。いや、「知る」というほどのイメージすらないだろう。ある人にとっては、そういう能力があって素晴らしいわね、で終わってしまう事かも知れない。でも、そこに捧げられている時間は、能力ではない。情熱であり、献身だ。
でも、労苦して出来上がったものが、ダメ出しされて、やり直しを命じられる事もあるという。
「あなたが、ダメだと言うのは簡単だけど、私がどれだけ時間をかけてこれをしてきたか分かってるの?」 ・・・ついついそんな事を言いたくなってしまうに違いない。実際、その通り、その人は、そんな労苦を全く省みないで、あっさりと言いのけてしまっただけかもしれない。
さてさて私だったら、そういう時、どうするだろう。
何十時間もかけて、手間隙をかけて、やっと出来上がった何かを、「あ、それはもういらなくなったんだ」とか、「もっと、こうできないの?」とか、簡単にあしらわれたら・・・?
「分かりました」と言って、すなおにその言葉を受け止め、不必要に傷付く事もなく、前に向かって喜んで引き下がる事が出来るだろうか。それとも、表面上だけ受け止めて、内側は不平不満でいっぱいになるだろうか?いやいや、表面ですら受け止められず、あくまでも自分自身の労苦からなされた成果を主張し続けるだろうか?
逆の立場ならどうだろう。相手がどれだけ苦労したかが分かっている時。でも、どうしてもそれが、その場に合わない、もしくは不必要だと思われる時。相手を思いやって、何とかそれを生かす形で用いる道を模索するか。それとも、感謝を表しつつも、遠まわしに不要を伝えるか。いや、はっきりと面と向かって断るか?
・・・これは、相手や、いろいろな境遇によって変わってくる事だと思う。でも、往々にして私は甘い。そして、どちらの立場に立っても、「相手に受け入れられやすい方」を選んでしまう。もしくは、それを恐れて、冴えない対応になってしまう。
あなたがたのことばが、いつも親切で、
塩味のきいたものであるようにしなさい。
そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。
(コロサイ4:6)
主よ、どうか心の動機を取り扱ってください。言葉を守ってください。
キリストが私の心を支配し、正しい判断力と、真に愛にあふれた行動をもって、一人一人に接していく事が出来ますように。そして、必要であれば喜んで自分自身の思いを捧げ、キリストに従うようにして従っていくことが出来ますように。私の労苦は、あなたが知っていてくださるのですから。
2005/12/01
2005/11/30
窓としての教会
今日は、音響機材の運搬のためだけに手伝いに来てくれた若者達が何人かいた。音楽室が4階にあるので、体力減退気味の私にとってはとても心配だった。でも、いろいろな配慮していただき、学校の先生方も多数協力してくださったので、とてもスムーズにセッティングをする事ができた。いつもいつも感謝ばかり!
中でも、雅樹がこの「重荷を負う」奉仕を手伝ってくれたのは、特別に嬉しい。彼は、私が教会でMIC(若者男子)のために特別に奉仕を始めた時の、一番初期の頃の教え子でもある。あの頃中学生になったばかりだった彼も、今ではもう立派な大学生。しばらく一緒に何かをするような機会はなくなっていたが、こうしてわざわざ朝早く出て来てくれて、本当に嬉しかった。今日は他にも手伝ってくれる人がたくさんいたので、彼にとっては「ほとんどなにもしてない」と思えるくらい、あっけなく終わってしまった奉仕かも知れない。でも、嬉しかった。きっと彼も嬉しかったに違いない。
そこで思う。
たった一時間、単純に荷物を運ぶだけであっても、みんなで力を合わせれば、あっという間に終わってしまうような事がある。何も、一日中する必要はない。すべての知識が必要なのでもない。素晴らしいコミュニケーション能力が必要なのでもない。喜んで仕える心さえあれば、ほんの少しの力を出し合えば多くの事、大きな事が出来るのだ。
なのに、その人の状況を十分に考えられなかったり、逆に考えすぎたり、一人一人に多くを求めすぎたり、逆に勝手にこちらで線を引いてしまったりと、神様が私たちが共同体として生きていくために用意されたお互いを生かしきれていない事が何と多いことか。
ボブ・モフィット師は言った。教会は、傷付いたこの世にあって、神の国がどんなに素晴らしいところであるかをこの世に示す「窓」となるべきだと。この「窓としての教会」が、互いに仕えあう姿は、自発的に喜んで仕えあうコミュニティを体現したものでなければならない。果たして、私たちのコミュニティは本物だろうか?本当に「窓」として、この世に光を照らすものとなっているだろうか?
私たちが目指している方向性は間違っていない。
しかし、そこに向かう私たちは常に変革される必要がある。
今、その息吹を様々なところから感じている。
2005/11/29
2005/11/28
Healing Rain
"Healing Rain"(癒しの雨)というタイトルの曲のミュージックビデオ。
http://www.hotget.com/videocode/Michael_W_Smith-Healing_Rain--8395.htmlで見れます。
驚いたことに、私はこのビデオを見ながら泣いていた。
この曲はCDを持っているので知っていた。この曲をはじめて聴いたときは、それほど魅力を感じはしなかった。良い曲だが、それほど特別なものは感じていなかった。しかし、このビデオを見ながら、突然この曲の世界に目が開かれた気がした。そこに祈り込んであるものが、心に響いたのだと思う。
最近、この手の映像に弱いようである。
道行く人々の痛んだ状況を淡々と映し出す。そして、神を知っているものがその一人一人をじっと見つめている、そんな映像である。
まったく同じ類の構図で泣きじゃくったのは、映画「マザーテレサ」を1人で見に行ったときのことだ。マザーテレサが修道女の学校から一歩外に踏み出し、道端で死に掛けている人々を見たときの、あの視線だ。
突然、ものの本質が分かるようになるという事がある。一度見えるようになると、今まで違う見方をしていた事が不思議なくらい、確かな現実がある。
イエスキリストに贖われ、新しい生活に歩むようにと召された私達に必要なのは、この何とも言えぬ心をえぐられるような思いを主と共有する事だと思う。私たちが、まだ自分で必死に助けを求めている時には見えなかった事。でも、私はすでにキリストと共に十字架に付けられたのだという事が分かれば分かるほど、イエスはその思いを私たちに与えてくださる。そんな気がする。
イエスは、すべての町や村を巡って、
会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、
あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
また、群衆を見て、
羊飼いのない羊のように
弱り果てて倒れている彼らを
かわいそうに思われた。
(マタイ9:35, 36)
2005/11/26
校風
4、5年くらい前からだろうか、音響担当として、教会にあるPAを持ち出して同行させてもらっている。この事を通して、多くの事を学ばせてもらっている。
今日は私は体調が悪かったので、重い音響機材の出し入れ等は、すべて神山兄と高岡大ちゃんがやってくれた。感謝だ。朝早くからの見えないところでの地味で忠実な奉仕は、神様がちゃんと見ていてくれます。豊かな報いがありますように。
また、今日の学校は、とても落ち着いているように思った。子供たちも、しっかりと、のびのびとしていた。自分の言葉で、ちゃんと考えることが出来るし、積極性もあった。もちろん、一人一人、いろいろとその背後に抱えているものが違うのはどこでも同じだ。でも、全体の雰囲気というか、校風というものはある。これは一体どこから来るものなのだろう?全体を支配している空気というか、考えるまでもなく支配している共通の土台のようなものがある。特に子供たちにとっては、家族とともに、自分のまわりにあるこの小さな集まりが、すなわち現実の世界すべてなのだ。
子供たち一人一人の顔を見つめながら、胸が熱くなった。
2005/11/25
御霊の実
賜物はギフト、すなわち贈り物。神様が、一人一人に与えてくださった贈り物。神様は、一人一人に計画をもって、必要なものを与えてくださった。それは、単に能力だけではなく、環境、家族、性質、経験、情熱など、その人の個性を形成する様々な要素からなりたっている。それを、自分自身で正しく把握する事は、神様がその人にどんな計画を持っておられるのかを読み解く、重要な手がかりになる。しかし、それを正確に見極めるのは非常に難しい。なぜなら、私たちの視点はすでにこの世の価値観にどっぷりと浸かっているので、「神様の計画」にすらこの世的なランクがあるように感じているからだ。何か特定の賜物があるように見える人の方が、ランクが高いように見えてしまう。だから、自分自身をも偽って、「こうありたい」という姿と、ありのままの自分とを正確に区別する事が出来ず、必要以上に自己卑下してみたり、自己誇示してみたり。しかし、そういう事から解放されたとき、神様が計画してくださっている本当の使命に歩む事が出来るようになる。一人一人に与えられている賜物は違う。しかし、それは、その人の価値を決めるものではない。
その賜物が正しく用いられた時、御霊は私たちを通して「実」を結ばせてくださる。
良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、
また、悪い木が良い実をならせることもできません。
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって
彼らを見分けることができるのです。(マタイ7:17-20)
あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、
そのあなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)
それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。
成長させてくださる神なのです。(1コリント3:7)
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。(ガラテヤ5:22-23)
実を結ぶ事が目的であるならば、その目的で用いられるのが一番幸せである。しかし、だからと言って簡単に実は実らない。蒔かれた種を、丁寧に、手間をかけて、忍耐をもって、時間をかけて育て、さらに不毛な時期を過ぎて、ようやく実が結ぶようになる。必ず実がみのるということを、まだ見ぬうちから確信するからこそ、時間も、労力も、何もかも投資してそれに打ち込めるのだ。
・・・と、ここまでは普段考えてたことをまとめてみた事。
なぜ、今日こんなことを書こうと思ったかというと、私自身がこの「御霊の実」の一つを身に付ける事が出来るようにと、主は私を訓練してくださってるのだと気付いたからだ。
その御霊の実とは「自制」である。私は自制心に欠けていると思う。自分自身を制御できていないことがある。それが、「適応障害」という結果になった。理由が何であれ、働きすぎを制御できないのは、私に「自制」という実がない証拠である。そして、主はその「自制」を私に身に付けさせ、自分自身で「限度を超えない」ということが出来る力が備わるように、御霊を通して働きかけて下さっている。そのためにも、私に多くの賜物を与えてくださっているのだ。
主の計画は人知をはるかに超えてすばらしい。その主への信頼が増せば増すほど、御霊の実を豊かに実らせることができるのだと思う。
2005/11/23
帰ってきました!
でも、気が抜けたのだろうか?・・・また熱が出てきてしまった。主治医の信愛クリニック井出先生にお世話になろうと思ったら、今日から金曜日まで休診とのことだった。
不謹慎だが、むかし、むかし、体の弱い人を羨ましく思った事がある。やらなければならない事を、やらなくてもいい口実になると思ったし、他の人から、より優しくされているような気がしたからだ。病気をすると、確かにやるべき事の量は減らされる。多くの人の優しさに触れられる。しかし、目標を目指して前に向かって一心に走りたいと願う者にとっては、体が思うように動かない事ほど悔しいことはない。自己中心な私が、それまで全く意識すらしてこなかった、これらの様々な弱さを抱えた多くの人達は、そんな苦しみをずっと抱えてきたのだろう。今更ながら、自分自身の視野の狭い、傲慢な思いを悔い改めずにはいられない。
もう、いい加減、体が元気になってほしい。正直、疲れてしまった。
あの、パウロも肉体の弱さを主の前に取り去って欲しいと3度も願い出たこと、若い次期リーダーであるテモテもパウロに体の弱さを心配されていたことに慰められる。何よりもキリスト自身が私たちの弱さをその身にまとってくださった事を心に留めつつ、主の栄光がこの身にも現される事を心から信じたい。
2005/11/21
自己変革
もちろんいろんな側面があると思うのだが、私が今日見て感じたことはとても大きなチャレンジとなった。求道者向け礼拝とは、当たり障りのない、受け入れられやすい事をやって求道者にも違和感なく来てもらおう、という物ではない。むしろ、クリスチャンであってもクリスチャンでなくても、人が人として生きていく上で最も大切なことが何であるのかを、深く考え、はっきりと提示することだと思った。ともすると、クリスチャンには「未信者を信者にすること」に全力を注ぎ、あとクリスチャンになったら、一安心してそれでよしとしてしまう傾向が正直言ってあるように思う。そして、さらに忠実なクリスチャンは、教えられたことを言葉としてくらいしか把握していないのに、正しく生きようとして、結果として律法的になってしまう事が往々にしてある。いい人であればあるほど、そうだ。
しかし、今回の礼拝では、「これこそが人間の生きる道だよね」という社会の中で困っている人たちに、きちんと目をむけ、小さなことから大きなことまで仕えていく。互いに仕えあっていく。内側に集まる集まりではなく、目を外に向けていこう、という呼びかけが、信者にも未信者にも語りかけられる。その価値観を共有した未信者、そして自分もそう生きたいと同意した未信者の方々は、じゃあどうすればそういう風に生きる事が出来るんだ、という疑問を当然感じる。そして、イエスキリストが自分の人生にとって不可欠な存在であることを知り、その後もよろこんでそこで仕えていくことが出来るようになる。そんな素晴らしい機会になった。これこそが、求道者に対して繊細な礼拝だと思った。
夜には先生方と一緒にツアーの分かち合いをした。感動だったのは池田先生の言葉だ。今回のツアーに同行したセブンスデーアドベンチストの方々に対して、池田先生は「かつて「異端だ」とはっきり教えられていて、その偏見はずっととれなかった。でも、宮本先生の姿勢に感動してこうして繋がりが出来るようになり、普通のクリスチャンだということが分かった。いまだに福音派の私たちが持っている壁がある。先生、赦してください。」
すごいことだと思った。セブンスデーが自己変革をしようとしている事にまず感動。そして、そのセブンスデーに対する壁を自分の中に見出し、はっきりと悔い改めて和解・解放のみわざへと導く池田先生に感動。
自分とは違う人(結果としてすべてだが)とどのように関わるのかについては、相当の成熟が必要。
「初歩の教え」を教えてもらわなければならない。
2005/11/20
うぃろぅくりぃく
さ、前を向いて。
アイオワからシカゴまで、あっという間のフライト。
シカゴの空港からタクシーで30分くらい乗って、池田先生、月井先生がちょうど訪問中のウィロークリーク教会に着いた。合流完了!
先生方も元気そうだった。
第一印象。。。でかい!教会というより、大学という感じ。しかも、なにもかもエクセレント!
でも、本当に一人一人がいきいきとよく仕えていて、未信者にしっかりとフォーカスをあて、救われた者たちの訓練にもしっかりと力を入れているのがよく分かった。
詳しくはまだよく分からないけど、とりあえず、今日はここまで。
おやすみなさい。
2005/11/19
I am ready.

私の変わらない確信は、「神様は、私を丁寧に導いてくださる」という事である。神様は、私のすべてを知っていてくださり、取り扱われなければならない事の一つ一つを、正確に、正しい順番で、十分な時間をかけて、時に優しく、時に厳しく、ふさわしい方法で訓練し、私を造り替えてくださる。私には理解できない事も多い。でも、主はそのすべてを良く知っていてくださるのだ!
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
・・・主の御告げ・・・
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
(エレミヤ29:11)
主よ、心は定まりました。
Now, I am ready enough to be wounded in the battle field.
ここに、私がおります。私を遣わしてください。
主よ、ここに導いてくださった事を感謝します。ここで出会った一人一人に感謝します。アメリカの片田舎の比較的小さな教会で、誠実に、忠実に、大胆に、主のみこころに従っている姿を見る事が出来てありがとうございます。世界の各地でなされている、人知をはるかに超えた主の御業に触れる事が出来てありがとうございます。日本の国のために、あなたの熱い思いを与えてくださってありがとうございます。
2005/11/18
Ted Ward

特に印象に残った事が二つある。
一つは、教育(特に神学教育)のために、「新しいことをやることの恐れ」が人々の中にある、という示唆だ。より良いと思われることを提案しても、「それはやった事がない」というだけで、よく吟味もせずに今まで続けてきたことを手放せないでいる事が多いという事だ。ビル・ウィルソン師の「今まで手に入れたことのないものを手に入れようと思うなら、今までにやったことのないことをしなければならない」という言葉を思い出す。私たちの内側に壁がある。私の内に壁がある。主よ、どうか私たちの目を開いて、あなたの御心を行なうことを教えてください!
もう一つは、「サラリーをもらう牧師」について。それはとても素晴らしいけれど。。。教会が牧師にサラリーを与えて(しかも全く不十分なサラリーで!)、牧師をその場所に縛り付けておく。なんでもしてくれる牧師と、なんにもしらない信徒の構造が出来上がってしまう。教会は使命を見失う。パウロは複数の場所の牧師だったのではないか?新約時代の牧師はそうだったではないか?今、新約の時代に、キリストと使徒たちの方法に従っていこうとするなら、今まで当然と考えてきたことを見直さなければならない。
パウロはチャーチスターターではあったが、チャーチフィニッシャーではなかった。そのためにテトスを連れて行き、最後の務めを果たさせた。教会の確立の最後の仕事をよく出来る人は、チャーチプラントもよく出来る人だ。
・・・いろいろ考えさせられる。
私は、私のおかれている立場から、なさねばならないと感じていることを、ふさわしい態度で、ふさわしい方法で、ふさわしい対象に伝えなければならない。主よ、どうかどうか、私の唇を開き、語るべきことを語り、語るべきでないことを語らずにいることができるように。唇を開くとき、いつでも神の恵みが豊かにあふれ流れ、聞いている方々の心に圧倒的な主からの感動と確信が与えられますように!
日本だ。この壁を打ち破ってください。
日本のあらゆる場所に、教会が出来ますように。
日本のすべての教会が息を吹き返しますように。
2005/11/17
Almost there...

もう少し!もう少しでプランニングが終わる。
結局この1週間は、個別のプランニングだけだった。しかし、このプランニングのために集中する時間というのがどれだけ貴重なものか、やってみないとわからないだろう。
大概のセミナーで、よく学び、何をすれば良いのかもわかったとしても、結局帰ってからそのためだけに時間をとって十分にプランを練り上げるようなことはなかなか出来ない。しかし、今回のプランニングは、学んだ知識を総動員して、これから実際行なうことへつなぎ合わせていくので、より具体的なプロセスが見えてくる。
First Principles Seriesの第6週目が、いつもReshaping our Lives となっているように、手を動かし、頭を働かせ、知識を組み合わせ、前に向けたプランを作成することで、知識が実際に知恵として体の中にしみついていく。
あと少し!
私の立場から、ふさわしい動機と態度をもって、男らしく、先生方に説明をし、主の霊によって心の一致が与えられて、具体的に取り組んでいく事ができるように導いてください。
2005/11/16
雪だよ~
インド人もびっくり。写真撮りまくってた。

今日はまた一日プランニングに集中していた。
伊藤先生は、昼食も抜いてがんばっていた。
プランは少しずつ出来ていく。それぞれの数字を、文字を入力していく中で、具体的にその時のことを想像してみる。足りないところが見えてくる。それをまた文章にする・・・。
とりあえず、本郷台のリーダーシップデベロプメントプランの草案は出来上がった。問題は、これに十分なコンセンサスが与えられること。そして、誰がこれを実際に動かしていくのかということになる。
さてさて、ただのプランがプランで終わらないように。
コミットしてやってくれる人は誰かな~~・・・・。
2005/11/15
胸が張り裂けそう・・・
胸が張り裂けそうである。
・・・と言っても、病気のせいではない。
日本の魂に主が抱いておられる熱い思いに、胸が張り裂けそうなのだ。いや、この主の熱い思いに、応え得るものを持ち合わせていない自分自身への苛立ちなのかも知れない。思いや願い、手に入れたいものがすぐそこに見えているのにそれを表現できない、幼子のうめきような、何とも言いがたいプレッシャーに押しつぶされそうだ。何も、私が私の立場でそんな重荷を負うことはない。一体自分を何者だと思っているのか?それは分かっている。でも苦しいのだ。
いや、そんなに美しいものではないかも知れない。単に、私のうちにある、まだ癒されきれていない、苦々しい傷がうずいているだけなのかも知れない。その傷に触れるのを恐れているだけなのかも知れない。見せ掛けだけを取り繕って、今ある立場が脅かされるのを恐れているだけなのかも知れない。
いや、単に骨を折りたくないだけなのかも知れない。最も難しいと思われること・・・、でもやらなければならないこと・・・、そういう事はできるだけ他の人にやってもらいたいと思っているだけなのかも知れない。自分は、美味しい所だけを取って、さも労しているかのように見てもらいたいと思っているだけなのかも知れない。
こんな、思いに押しつぶされそうになっているのは、今日一日、日本でのC-BTE導入のプランについて具体的に検討する機会が与えられたからだ。はじめは、やや抽象的な所で済ませるつもりだった。数値目標も、日本の現状から考えて現実離れしない程度に・・・というふうにしか考えていなかった。
ところが、ところが、カンボジアの働き人と話をしている内に、涙が出そうになってきた。カンボジアもそう、インドもそう。何十年間も、福音の扉が閉ざされていると思われていたところに、大きなリバイバルが訪れているのだ。彼らは、教会の増殖にリーダーの育成が間に合わない、という現状の問題からBILDの教材を導入しようとしている。強烈な勢いで、強いリーダーの再生産が急務とされているからだ。日本では、確かに状況は違う。しかし、どうして違うと言い切れるのか?本郷台の教会で多くの恵みを受けている自分は、もう少し大きくビジョンを描けると思っていた。いや、私のビジョンではない。主が描いていることを、どれだけ真摯に受け止める事ができるか、ということだ。しかし、それが出来ない。とたんに現実が自分を縛る。そして、このままでは、多くの人が結論付けたのと同じように、「日本は特殊だ。日本は伝道が難しい。日本には霊的壁が強すぎる。」と言ってあきらめ、クリスチャンとしてなんとなく周りに合わせて当たり障りなく生きていく、そんな所に落ち着いてしまいそうだ。
祈りが足らないからか?もちろん、祈りは足らない!もっともっと、祈るべきだ。熱心になって悔い改め、この国の救いのために涙して祈るべきだ・・・。
でも・・・。でも、祈れば祈るほど、この苦しさは大きくなっていくような気がする。そうだ。主任牧師が言っていた。祈ったら、祈った通りに行動せよと。
目を覚ましていなさい。
堅く信仰に立ちなさい。
男らしく、強くありなさい。
(1コリント16:13-14)
主よ、あなたに信頼します。私の心からの献げものです。どうかお受け取りください。私はあなたのものです。弟子として整えてください。しもべとして整えてください。宮として整えてください。あなたの花嫁として整えてください。主よ・・・。
私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が肉にあって生きているのは、
私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)
あなたがたのからだは、
あなたがたのうちに住まわれる、
神から受けた聖霊の宮であり、
あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって、
神の栄光を現しなさい。
(1コリント6:20)
主よ。この身をお献げします。
あなたの栄光の御業のために、お用い下さい。
2005/11/14
あと一週間
しかし、本郷台にどのように持ち帰るかについては、ものすごい責任感を感じている。なぜかというと、表面的に導入する事も可能だとは思うのだが、本質的にここで学んだことは、教会の体制になんらかの構造改革をもたらすものだと思うからだ。日本社会において、構造改革に本気で着手しようと思ったら、小泉首相ぐらいの胆の据わり方が必要だろう。「日本権力構造の謎」という本を大学時代に読んだ事があるが、基本的に日本の組織はアメーバのようにつかみ難い。もちろん、本郷台の場合、そんなことはないのだが、理路整然と話したからといってよいものではない。
私の置かれている立場で、相応しい秩序の中で、成し遂げるには相当の祈りとフォーカスが必要だと思う。
Wisdom! Oh, I need wisdom! Please!
2005/11/13
英語か病気か
英語か、病気か。
年初にインフルエンザにかかりダウン。一週間休み。
その後ビジョンカンファレンスの準備で英語資料と格闘、英語での連絡。
カンファレンス終了後ダウン。肺炎、適応障害、潰瘍性大腸炎。3ヶ月休み。
その間、大和田さんのレコーディングのため2週間ナッシュビルへ。通訳。
アイオワに4週間。カンファレンスで学び。そして、肺炎!
神様は特別な計画を持っておられるに違いない。
不思議な神様、信じますから、早く完全に治してくださ~い!
今日は、一日ゆっくりしていた。
夕方から、Toddのお母さんの家に行き、お母さん、お兄さん家族と会った。
子供のSamがライトセーバーごっこをしかけてきたが、
ちょっと体調が心配なのであまり動かずにじっとしていた。
まだ、だる~いです~。(ToT)
2005/11/11
Pneumonia? Again?
いやな予感はしてたんだけど、果たしてそうなってしまった。でも、いろいろな意味ですべてが整えられていて、感謝だった。
さて昨日はとても大事な日だった。
パウロ書簡の学びの3日目、クライマックス、しめくくり。神がデザインされた教会の秩序を、明快に語られた。家族の秩序。そして家族の家族としての教会の秩序。納得。
そこで疑問が起こってくる。・・・なぜ私達の教会には「長老」がいないのだろう。パウロが地域教会を確立するために「長老」を大切なポイントとしているのはあきらかだ。やりのこした仕事としてテトスにそれを頼んだのだから。長老は健全な教えを守り、群れを養う事が求められている。
最近の教会では、「ミニスター」と「長老」の役を同時に担った形の聖職者が「牧師(パスター)」である。呼び方は何でもいいのだが、初代教会の確立にあたってパウロが意図したことをはっきりと汲み取って組織も形成されなければいけない。・・・考えさせられる。

そして、夜はバンケット。どんなものになるかと思ったら、す、すごい、感動!教会の中でコース料理が堪能できるなんて!分厚いポークチョップ、美しいデザート。
でも、何よりも目が留まったのは、若い人たち、若い婦人達がサーバーとしてよく仕
えてくださった光景。本郷台でも、おばちゃんたちのあたたかいおもてなしはあるけど、この世代がここまで快く仕えることが出来ているのを凄いことだと思った。バンケットの食事が終わったごろから急に寒くなりだした。震えるので、熱さましの薬をもらって飲む。しかし全然だめ。バンケットはそこで抜け出し、Moniqueに家につれて帰ってもらう。Moniqueが電話でどうしたらよいかを確認してくれて、「SARSの可能性はないですか!」など、色々聴かれた。熱を測ったら101.6度!ついに沸点を越えたかと思いつつ、「今晩、救急診療室に行きなさい!」との事だったので、そうすることにした。
Moniqueが連れて行ってくれた場所は、とてもきれいな、親切な、(だけどゆっくりした)病院だった。まず保険が使えるということを聞いて一安心。看護婦は何回か来たが、実際にドクターがやってくるまでに2時間もまたされた。ドクターは症状を聞き、胸の音を聴き、「恐らくウィルスに感染したかなにかでしょう」とのことだった。が、私は前回の経験から、音を聴いただけでは僕の肺炎は発見できない、、、という感覚をもっていたので、思い切って先生にレントゲン写真もとってもらうようお願いした。
・・・・そんな、こんなでゲロゲロしながら待っていたが、先生がやってきて「うん、確かに肺炎だね」とのこと。
それにしても医療用語は、英語で説明できない。難しい、貴重な体験をしてしまった。
パウロの学びを終えた後だったこと
バンケットの食事をおいしく食べた後だったこと
適切なコンタクトが取れて病院にいけたこと
海外旅行損害保険で治療費がカバーできること
的確に診断しもらえたこと
モニークがずっと仕えていてくれたこと
2005/11/09
ウォルター・カイザー

今日の夜は、特別ゲストとしてGodon-Conwell Theological Seminaryの学長、Walter Kaiser師のメッセージがあった。私にとっては名前すら聞いた事のない先生だったが(失礼!)、現代の神学にとって、旧約聖書、聖書神学について大きな貢献をされている方だそうだ。 BILDの教材にも大きな貢献をしているとのことで、ほとんどの人が先生のことを知っていた。
インフォーマルな形でメッセージは語られた。しかし、彼自身の経験を一つのストーリーとして語られる中で、さらっと引用した御言葉の数々が心に留まった。それをさらっとここに引用・・・。
- 箴言19:18 「幻がなければ民はほしいままふるまう」・・・「幻」は神のことば。預言。
- 出エジプト32:25 「幻がなくてほしいままにふるまっている民」・・・モーセの不在の中で。
- ルカ24 「エマオ途上の弟子達」・・・聖書全体を理解する目が開かれていなかった。
- 使徒2 「ペテロの説教」・・・聖霊により、旧約の意味が分かるようになる。
- 詩篇16 「よみを見ない」・・・キリストの復活を表わしていた!
- Ⅱ歴代7:14 「わたしの顔を慕い求めるなら」・・・天を焦がれるのは罪が赦されたからでなく、彼がそこいるから。
- 箴言85:6 「聖徒達をふたたび生かされないのですか?」
サイン済みの著書を頂き、写真を撮らせてもらった。
忙しくて、疲れたけど、ありえない時の一つだった。感謝!
2005/11/08
ぐったり。。。
さて、今日はパウロ書簡からの学びだった。(あんまりしっかり参加できなかったけど。)
この学びは、Pauline Epistles: Strategies for Establishing Churches というタイトルが付けられている。「地域教会の確立のための戦略」という意味だが、なぜパウロ書簡をその様な位置づけで読むのかという聖書的な理解が不可欠だ。
- パウロが自分自身の役割をどのように見ていたか。他の使徒とどう違うのか。
- パウロが何度も"establish"という言葉を使っているがそれがどういう意味なのか。
- パウロの手紙が教会の確立(establish)のためにどのような役割を果たしているのか。
今日は、あまり脳みそが働かなかった。(>_<) はたらけ、はたらけ。。。
与えられている健康の尊さよ。。。
2005/11/07
ジャパニーズ・ディナー
Steve先生のお宅に招かれて夕食をご馳走になった。奥さんのJudyは、学生の頃、金沢で1、2年過ごした事があるとのことで、日本に対して特別な心を持っている。守谷先生ご夫妻がホームステイしているのだが、その部屋にはいろいろな日本の飾りがあり、コタツまであった!そして今日は、内陸のアイオワではなかなか食べられない寿司を作ってくれたのだ。
海老と卵の握り寿司。もっとも日本で新鮮な素材の寿司を食べ慣れている味覚から言うと、すごくおいしかったとは言えないけど(ごめんなさい!)、そんな感覚とは全く別次元の、心のこもった本当に嬉しい食卓だった。本当に感謝です!

急に寒くなった。ちょっと、頭が重い。風邪をひかないといいんだけど・・・。明日から、「パウロ書簡」の学びが3日間。とっても楽しみにしているので、できれば資料を読んでから参加したかったんだけど、早めに寝たほうが良さそうだ。
おやすみなさい・・・。(_ _;)...zzZ
2005/11/06
Moniqueの家族
Toddは玄関のドアに、もう一枚のガラスの扉を取り付けるためにずっと動いていた。
そして午後からは、Moniqueの家族がやってきて、交わりの時をもった。今日はJadeの6ヶ月の誕生日なのだそうだ。お父さんとお母さん、そして妹。とても温かい雰囲気の、そして楽しくよく話をする家族だ。食後にUNOをしたり、いろいろな事を話したりして、とても楽しかった。
「基本原則」の学びの中で、家族がどれほど重要かを教えている。そして、教会は「家族の家族」として認識されている。このホームステイの間に、キリストを中心とした家族の美しい姿のモデルを、何度も何度も見させてもらった。
家族の回復は、日本の社会にとっても深刻な問題だ。しかし、教会こそが家族の本来あるべき姿をこの世に指し示し、神の国の栄光を表わす大切な機関となりうる。教会で仕えるのに忙しいあまり、家族を大切にしないならば、偽善者になってしまう。どうか、主のいのちによって、日本の教会・家族のすべてがいのちを吹き返しますように!
地域教会の戦略をつくる
「使徒の働き」の学びの中で、地域教会の戦略を作る時のプロセスへの提案があった。
1. まず「宣教の哲学」を明文化すること。つまり、私達がどこに立っているのかという聖書理解を明確にすること。
2. 戦略を作成するための基本的がガイドラインを作成すること。
3. 自分の教会の置かれている場所での様々なコンテクストにあわせて、具体的な方策を考える。
このプロセスは非常に助けになると思う。なぜなら、どこが柔軟に変えてもよい部分で、どこは変えてはならないかという事をはっきりさせるからだ。もし、哲学の部分(=聖書理解)に関連するところに対してチャレンジを受けたとしても、そこを変える為にはもう一度、神学的な作業をきちんとおこない、徹底的な議論を尽くして(考えつくして)からでないと、手を付けることはできない。根本的な部分がフラフラしていては、何も築き上げられないからだ。
自分達で作らなければならないとは言え、Oakwood Road Churchの宣教戦略は非常に参考になる。
◆ガイドライン(一部要約)
- 「使徒の働き」と「使徒の書簡」に記された教会形成の基本原則に基づき、地域教会の確立のために働く。
- 「忠実であり、託された物(健全な生活、健全な教え)を受け継いで行く事ができる」と認められた人が、適切な訓練を受け、実際に他の人にも教える事が出来るようにするための計画を作成する。
- 神が「大きく開かれた扉」を通してのみ与えてくださるミニストリーの機会に、長老達に信任された成熟したチームをによって応答する。
- 「使徒の働き」で言われている「宣教の働き」に、「戦略的な地域への宣教」「新しい信者を適切に導く」「地域教会の確立」「地域教会への励まし」「サイクルが伝播され増殖する」という事を通して、力を注ぐ。
- 遣わされたチームと共に立ち、必要に応え、福音のさらなる拡大に継続的に参加し続ける。
- 宣教の機会が、一つの地域教会では手に負えないほど大きい場合は、地域教会でネットワークを組む。そこには他の組織、戦略も含まれるが、このような組織は地域教会にまさる権威を持つべきではなく、地域教会が用いる事ができる道具として機能するべきである。
- 地域教会は、その地域において引き続き整えられ、拡大し、地域社会にイエスキリストの福音をもってインパクトを与えていく。
◆Implications
これって、すごくないですか?
いろいろ考えさせられます・・・。
パウロの宣教サイクル
・異邦人への宣教、初代教会の確立は、キリストがパウロに託した特別な任務である。
・パウロのメッセージは、normative(クリスチャンが必ず従うべきもの)である。
・パウロ自身が、normative(クリスチャンがどのように生きるべきかの見本)である。
・では、パウロの宣教の戦略は、normativeと言えるか?
・・・言えます! Yes, but less normative.
Less normativeと言っているのは、文化の違い等があり、文字通りすべてとは言えないかも知れないが、それでも「必ず従うべき型」のようなものがあるという事が言える。("Church-Planting Strategy-Pauline Cycle," David Hesselgrave; "A Look Through Three Lenses," Gene Getz)
つまり、パウロの宣教の戦略に「必ず従うべき型」を見出すとすると、その型を無視して「大宣教命令を効果的に行なうための戦略」というのを勝手に作る事は出来ない、ということになる。
この事の意味は大きくて、いわゆる「パラチャーチ」(キャンパスクルセードなどの「宣教団体」とか、「神学校」とかいう、宣教を効果的に進めるために「戦略的に」つくられた団体)に、そのあり方の再考を促されることになる。それどころか、地域教会の戦略に対しても、十分にその役割を果たしているかどうかの再考が迫られる。
・・・私たちは、御言葉に従いたいのだけれど、あまりにも簡単に聖書の大事なメッセージを読み飛ばしている。しかし、一旦normativeと言えるものを、はっきりと見出したなら、それと向き合う必要がある。
そういう意味で、本郷台キリスト教会、そしてミッション3000の戦略に関しても、もう一度みんなでじっくり考える時間が必要だと思った。それは、「どうしたら効果的にできるか」という問い以前の問題で、「聖書的かどうか」についての理解の明確な共有が必要だと思うからだ。
幸いに、私達の教会で目指している事、行なっている事は、正しく方向付けがなされているように思う。しかし、関わっているリーダー達全員に、より明確に神学的理解が共有されるならば、聖霊はこの働きをより力強く後押しし、御心がこの地でもなされるだろう。
<パウロの宣教サイクル(単純化したもの)>
・鍵となる都市への宣教(Ezangelize Strategic Cities)
・地域教会の確立(Establish Local Churches)
・忠実なものに託す(Entrust to Faithful Man)
宣教の基本原則の上に立ち、「大宣教命令」を完全に含んだ形で本郷台の教会の内側を再構築し、その延長線上で既存の教会の壁をこえ、無限に広がりうる戦略が与えられる事が与えられますように・・・!
2005/11/05
Process Driven
ここ数日間の感動は、どこから来たものだろう?
ここ数日間に湧き上がってきたおそれは、どこから来たものだろう?
ここ数日間に味わった喜びの源は何だろう?
・・・聖霊による喜び!御霊の実だ。
少なくとも、生涯のうちのある時点において、「私はどこまでも主に従っていきます」と告白し、弟子としての献身の一歩を歩みだした事のあるものとしては、「聖書から明確に語られる」こと以上にエキサイティングなことはない。そして今、そういう経験をしているのだ!御言葉とのフレッシュな出会い。ああ、この喜びを伝えたい。
デボーションのために聖書を読むとき、必ずしも御言葉をフレッシュに味わっているとは言えない。ある節に目が留まって、じっくり考え、主の語りかけを聴くという事ももちろん素晴らしい。しかし、聖書全体のメッセージが、明確な解釈で浮き彫りにされてくるのは、本当にすばらしい。
しかし、「明確な解釈」というだけなら、文献を読んで同意すればすむのだが、「Procss Driven」である今回のコースは、そのプロセスを自分の目でやってみて、実際に「自分で聖書から見つけ出す」という喜びがある。みこころの発見!ステキです。
ローマ12:1-2の「心の一新」によって、自分を変えなさい。という部分は、英語では"Renewal of our minds"だ、英語ではMINDとHEARTに明確な使い分けがある(と私は感じる)。ギリシャ語で正確にどうかは分からないが、MINDと訳されている部分は、より理性的、頭を使って「考える」という部分に関係しているように思う。だから「自分の頭でしっかりと考えて、理性的に明確な理解し、その新しい理解をもとに古い考え方を再構築する」というプロセスそのものが、Renewal of our Mindsにとっては決定的に重要だと思われる。そして、ローマ12で言っているのは、この「理性的な明確な理解・再構築 」によって、自分自身を変える事ができる、ということを示しているように思う。この「明確な理解」のためのプロセスを通して、聖霊が私のうちに働いて、私を造り替えてくださるのだと思う。
つまり「心の一新によって自分を変えなさい」というのは、明確な聖書理解が、生きた供え物として自分自身を神に献げる「礼拝」のために、必要不可欠だということだ。
このブログの名前は、「ワーシップな生活」(living worship)である。そして追求しているのは、実際にそのように生きることである。今回の学びの経験が、そのために大きなインパクトを与えたのは言うまでもないです。感謝!
さて、今日は引き続き「使徒の働き」を学んだ。
◆パウロの宣教サイクル
パウロは「大宣教命令」の達成のためにある戦略を持っていたようだ。それがここで紹介されている「パウロのサイクル」である。
パウロは、(1)伝道し、(2)教会を建て上げ、(3)忠実な人に権威を与えた。
この戦略は、ただの一つの戦略に過ぎないと思いますか?
それとも、クリスチャン全員が従わなければならないもの(normative)ですか?
地域教会の役割は?
権威はどこからくるのか?
パラチャーチの役割(があるとすれば)?
パラチャーチに権威がありうるとすると、どんなときか?
どのような関係を結んでいけばいいのか?
◆ネットワーク
◆フィロソフィー/戦略
さてさて、今日はピザの日。Thank God It's Friday!
ピザをもってMarkとマキーラのうちへ。
最新のテレビとオーディオで、「バットマンビギンズ」を見た。
やっぱり、まだ映画の英語が十分に分かるほどにはなっていないなぁ。
いろいろ書こうかと思ったけど、ねむっ。
寝てしまおう。
あしたの朝、少しゆっくり寝ていよう。
今週うけたインパクトを、なるべくこの週末のうちに消化しておきたいな~。
2005/11/04
大宣教命令に従うとは?・・・hmmm, wait a minute!
昨日は疲れて寝てしまったので、読んでおくべきだった文献を読まずにディスカッションに入ってしまった。だからディスカッションの間、話を聞きながら、ひたすら文献を読んでいた。その文献は、「クリスチャン・ミッションの心」というもの。("The Heart of the Christian Mission," David Hesselgrave) この文献があまりにも重要な事を取り扱っていると思ったので、読んでいてだんだん恐ろしくなってきた。今後のためにも、少し慎重に要約してみます。
"The Heart of the Christian Mission," David Hesselgrave
今日、それぞれの立場によって「教会とは何か、その使命は何か」という観点が違うために、多くの混乱がもたらされている。ここでは、「教会の第一の使命は、キリストの福音を宣べ伝え、信者を地域教会(そこで彼らは、信仰によって建て上げられ、効果的に仕える者とされる)へと集め、それによって世界中に新しい会衆を建て上げることである。」ということを提起したい。
◆「教会」に対する神の計画
キリストはこの地上におられる時、教会の設立を預言され(マタイ16:16-18)、十字架で死なれた時、ご自身を教会に献げ(エペソ5:25)、今は天において教会をきよめ(エペソ5:26,27)、再び来られるとき、父の御前で教会を称賛(glorify)される(1テサロニケ4:13-18; 黙示録4-6)。
教会とキリストとの関係には、次のような意味深い比喩が使われている。「キリストの建物」として(エペソ2:19-21)、「キリストの霊的なからだ」として(エペソ1:23; 1コリント12:12,13)、「キリストの花嫁」として(エペソ5:25-33)。
神は「教会」をあらかじめ計画し、御子をその死と復活によって「教会」に与えた。御子は「教会」を建て上げ、その使命を全うできるように、弟子達を教え整えた。そして聖霊によってその使命をなし得る力を与えられた。(エペソ1:19-23, 使徒1:4-8)
◆大宣教命令(Great Commission)
「大宣教命令」がクリスチャンに与えられた使命であることに疑いはないが、4つの福音書および使徒の働きから、より注意深く解釈される必要がある。それぞれの聖句は相互補完的な関係にあると言える。
クリスチャンの使命について社会的な理解を得るための努力の中で、ある人は「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします(ヨハネ20:21)」という命令をより優先すべきだと解釈している。そしてイエスが病いを癒し、貧しい者たちに福音を宣べ伝えた(ルカ7:19-23)のだから、私達の遣わされる第一の使命は「社会改善」にあると結論付けている。もちろん、この世で「良い行ない」をする事が弟子達に与えられた命令である事に異論はないが、「良い行ない」が「大宣教命令=私達の使命の中心」にあるとするのは、聖書の正しい解釈とは言いがたい。むしろヨハネの記述は、「大宣教命令」の「『宣教し、バプテスマを授け、命令を守るように教える』ことによって、あらゆる国の人々を弟子としなさい」という命令の権威を強調していると言える。
◆ペンテコステ
キリスト教の拡大にとって決定的な出来事といえば、「ペンテコステ」である。キリストが約束された通り、聖霊が臨まれた時、弟子達は(1)力を受け、(2)キリストの証人となり、(3)エルサレム―ユダヤ―サマリヤの全土―地の果てまで出て行った。聖霊は、Holy Spiritであると同時にMissionary Spritでもあるのだ。その結果多くの人が弟子に加えられ、弟子達はどこに行っても御言葉を宣べ伝え、何人かがクリスチャンになった所必ず「教会」が形成された。
◆パウロと教会のミッション
使徒パウロには、「異邦人に福音を届ける」という特別な責任が与えられた。したがって、パウロのミニストリーは私たちの使命を理解するために、特別に重要なものである。教会の確立(establish)はパウロの働きであり、「使徒の働き」もパウロの働きが完全(complete)なものだった事を示している。(参照:"Missionary Methods: St. Paul's or Ours?," Roland Allen)
なぜパウロはそこまで成功したのか?その重要な理由の一つに、パウロが自分自身の第一の使命(Primary Mission)を、福音を宣べ伝え、教会を確立する事であると捉えていたという事がある。副産物として、社会的な状況の改善等があったとしても、パウロの第一の使命は「福音が宣べ伝えられ、人々が回心し、教会が確立したとき」に果たされたと言える。隣人を愛せよという「最も大切な命令(Great Commandment)」への服従は、「キリストが命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」という命令の一部であるが、「良い行ない」はパウロの使命の「実」であって、「根」ではない。
◆現代における「教会」とそのミッション
もし今日、私達のミッションに混乱があるとすれば、それは御言葉に問題があるのではなくて、「歴史的な遺産」によって目がくらまされているか、「私たち自身がつくりあげたもの」が目をくらませているのである。
(1) 「ミッション(Mission)」について~広過る!
19世紀以前の宣教師達は、彼らが達成すべき事が何であるかを、いつでも明確に認識していた訳ではないようである。「ミッション」は、学校を作ったり、病院を作ったり、文化的な悪習を正したり、衛生環境を改善したりするという形を取った。これらはすべての人に賞賛されるべき事ではあるが、これらの価値ある働きは「弟子を作る」こともなく「教会を確立する」こともなかった。したがって、歴史的に後の世代に引き継がれたとき、これらの「ミッション」は私たちが本当に引き受けるべきものなのかという疑問、または「ミッション」のための組織が、私達の優先すべき働きから離れて存在するという結果になった。
また現代においては、私たちはこのパラチャーチとしての「ミッション」組織を増殖させ、あらゆるタイプの「社会改善運動」を引き受けることになった。これらの努力は、ガラテヤ6:10によればクリスチャンが引き受けるに相応しいものではある。しかし、このような社会改善という働きのための組織は、「教会の第一のミッション(使命)を第一」としない限り、「ミッション」組織と呼ぶには相応しくない。福音宣教と教会増殖を明確にサポートする組織のみが「ミッション」と呼ばれるに値する。
(2) 「福音宣教(Evangelism)」について~狭過ぎる!
一方で「福音宣教」は、「クルセード」のように、人々が個人的にイエスキリストを救い主として受け入れるように計画された大規模なキャンペーンの事として認識されるようになった。また、同じ目的のために、「個人伝道」のためのツールもたくさん開発された。「クルセード」や「個人伝道」はもちろん推奨されるべきだが、ほとんどの場合、新しい信仰決心者が地域教会にしっかりと根付くことはなかった。「信仰決心者の増殖」が強調されすぎる一方で、「信者の会衆の増殖」が強調されることが不十分だったと言える。
(3) 「ミッションと福音宣教をもう一度一つにする」
この200ほどの歴史が私達に教えてくれるのは、大宣教命令への従順を通してたとえ他にどんな素晴らしい取り組みが生まれたとしても、それは世界中の人々の間に教会を生み出して行くものでなければならないという事だ。本来は「ミッション」と「福音宣教」は同じ目的に使われる。
◆今日の優先順位~クロス・カルチャーなチャーチ・プランティング
もし「大宣教命令」に本当に従おうとするなら、私たちはもう一度「開拓者としての精神」を取り戻し、すべての場所にいるまだ救われていない人々の所に届いていく必要がある。自分達と地理的・文化的に近いところから、遠いところにある人々にまで、私たちがどの様にして届こうとしているのか、すべてのクリスチャンが自分自身に問い直してみる必要がある。
言葉の使い方はいろいろとあるにせよ、ミッションの欠けた教会も、教会の欠けたミッションも神の計画と調和していない。同様に、福音宣教の欠けた教会も、教会の欠けた福音宣教も神の計画と調和していない。
それが教会の使命であり、それをできるだけ効果的に行なっていく必要がある。
・・・私たちが本当に大宣教命令に従っているか、一部分だけの理解では本来の使命を見失ってしまう危険性があることを肝に銘じた。そして、そのためにはいつもその使命の中心には「地域教会の増殖」があるということを思い起こす必要がある。
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今日、家から送ってもらおうとお願いしていた薬が届いて感謝みました。
とりあえず安心です。そのため、さっき飲んだ薬が効いて、頭は既に寝ています。
重要な話ですが、今日は話しはこれまで!!
佐藤賢二
明日のための準備の時間が取れるようにお祈りください!
2005/11/03
ファミリーのファミリー!
水曜日の夜は、通常「Midweek Fellowship Group」と呼ばれる、小グループの集いがある。本郷台で言うところの牧会ファミリー、いわゆるセルグループのようなものだ。内容はそれぞれ状況の分かち合い、祈り合い、ちょっとしたフェローシップ、礼拝メッセージについてのディスカッションといったところ。

ステキだなと思ったのは、文字通り「家族」がいくつか集まってこのグループを構成しているということ。そして、(今日はあまり時間が取れなかったが)、礼拝メッセージについてもその基本原則を抽出しようとの意図からだろうが、ソクラテス式ディスカッションが行なわれる。
日本と違うのはどこだろう?
場所の問題?
時間の問題?
家族の問題?
文化の問題?
教会のコミュニティに献身して歩むために、このような小グループは不可欠だ。
牧会ファミリーのあり方にも、もっともっと深く考え抜くという作業が必要だと思う。
Jadeがずっと泣き騒いでいた。
Moniqueがどれほど気が狂いそうになっていることか。
でも、そのような状況での彼らの態度・姿勢が本当に素晴らしい。
自分が気が狂いそうになるからといって、赤子に叫んだりしない。
でも、そのような状況で幼児虐待が起こりうるというのは、想像に難くない。
母親になるというのは凄いことだ。
ここの所良い天気が続いている。
たくさんの星が見えた。
「使徒の働き」の読み方
Acts: Keys to the Establishment and Expansion of the First-Century Church
との題名が付けられている通り、初代教会の確立と拡大の鍵を知るためのものだ。
実際の中身に入る前に、まず一つの文献を読んだ。
「使徒の働き」で教えられている事を解釈する能力が十分でないため、
結果として、教会に様々な教派が生み出されてしまったという。
("Acts-The Problem of Historical Precedent," Gordon Fee and Douglas Stuart)
「使徒の働き」にある初代教会のあり方に、現代の教会そのものの規範を求めようとして
読み始めると、どこで線引きをしたらよいのかの判断が難しい。
また「使徒の働き」が物語形式で書かれているため、
単なる「物語」として読み過ごしてしまう可能性がある。
さてさて、本郷台キリスト教会の「ミッション3000」というビジョンは、
「初代教会の姿に教会のあるべき姿のモデルを見出す」との考え方に基づいている。
そういう意味で、「使徒の働き」に書かれている初代教会のあり方を
どのように見るか、解釈するかに確信を持つことは、決定的に重要なことだ。
そこで、読み手が勝手に判断するのではなく、著者であるルカがどの様な意図をもって
(もちろん聖霊によって)この書物を書いたのか、何を言おうとしたのかを知る必要がある。
それを知るための鍵は2つ。
1.「使徒の働き」の中で、ルカが所々締めくくりの言葉を入れている。
その締めくくり方で、ルカがどのような意図をもってこの書物全体を構成したのかを知る。
2.ルカの福音書のはじめに、ルカは書物を書いた意図を述べている。
「使徒の働き」は別の書物だが、ルカのその意図は福音書に留まるものではなく、
「使徒の働き」にも適用して考える事ができる。(という聖書的な裏づけがある)
と、まあ、こんな議論を、ソクラテス式問答で行なうというプロセスで学びは進められる。 この学びが効果的なのは、「徹底的に考え抜く」という事をディスカッションの中で強いられるという部分だろう。単なる知識を問うのではない。
真の意味で「聖書的に考える」、そして「聖書的に生きる」ためには、
こういうプロセスの訓練が必要なのだ。
しかし、「これが答えです」という教え方をしてくれないのは、疲れるし、時にフラストレーションがたまる。(ToT)
でも、今まで自分にはとても理解不能と思っていた、聖書の中の真の教えに 確信をもって目が開かれることの喜びにまさるものはない。
聖書に対してのワクワク感が拡げられた感じ。
うれしい!
目標は知識ではない。
しかし、正しい知識に基づいた「知恵」は必要だ。
C-BTEで理解している「神学」とは、まさにこの「知恵」を得ること。
ミッション3000の土台が、自分の中に、よりしっかりと据えられる事を期待している。
2005/11/01
Trick or treat! 初期のリーダー育成について考える
質的にも量的にも信じられないほどの内容と格闘しているが、
なかなか、こんな立場に立たせられる特権はないだろう。
真摯に向き合って取り組んでいきたい。
さてさて、今日はType1とType2のリーダーの育成のための
フォリオ/ポートフォリオを、日本というコンテクストの中でどの様に
導入していくかのディスカッションとなった。
この週末から加わった仙台バプテスト神学校の守谷先生ご夫妻と、
伊藤先生とともに、4人でいろいろと話し合った。
神学校を「リソースセンター」として役割を変えていこうとしている、先生方の視点と、
教会ベースで教育を行なっているが、体系だてられた神学教育の導入を
課題としている本郷台キリスト教会の立場。
いろんな立場から物を見て、考えるのは大事なことだし、視点がググッと拡げられる。
両者とも、きっと今後のネットワークの働きの中で重要な鍵を握っていくのだろう。
ところで今日はいわゆる「ハロウィーン」。
「成熟したクリスチャン」として、一人一人が確信に満ちて
このコミュニティイベントを機会として用いているように思った。

"Trick or treat! ... thank you!!"
ホームステイ先であるRoush家にも次々とかわいらしいコスチュームをつけた
子供達がやってくる。とっても微笑ましい光景だった。
