2006/06/26

予感

予感的中。
再度ヘルペス発症です・・・。

だるーい感じと、肌の荒れ方を見て、皮膚科に行くことにしたら、
案の定ヘルペスだと。

でも明らかにそうだって分かる前に行けたから、
きっとすぐに良くなるでしょう。

にん、にん。
(ToT)

2006/06/24

愛の連鎖

今日は久々の外部でのPA奉仕だった。
みんなボクの体調を気遣ってくれて、
一番大変な力仕事やいろんな調整はみんなやってくれた。
ボクはひょこっと言って、ちょこっと指示出して、
ちょろっとオペレートして、ささっと帰って来ただけ。
でも、本当に心地よい、素晴らしい時を過ごせた。

今回は初めて中上祐子さんのためにこのPAを持ち出して使った。
おまけにホールは音の響きが扱いやすく、ほとんど凝った調整してないのに、
まるで、PAをしている自分がうまいかのような錯覚に落ち入るほど!
o(^-^;)o

心地よいコンサート。
そして「ゴスペル」という音楽が、一般的にとても好意的に
受け入れられているのを実感した。

ゴスペル  Gospel...  Good News...
福音、 良い知らせ・・・


誰もが「良い知らせ」に餓え渇いているんだと思う。
でも「良い知らせ」を聞き慣れてないので、
「良い知らせ」をどう受け止めたらいいのか分からない。
「良い知らせ」なんて、どうせ一瞬の気晴らしなんじゃないか。
「良い知らせ」なんて、どうせ何か裏があるんじゃないか。
「良い知らせ」なんて、本当はないんだ・・・。

聞こえてくるのは「悪い知らせ」ばかり。
そして「悪い知らせ」にすっかり自信をなくしながら、
物事を真正面から受け止めなくても済むような生き方を、
誰もが学んで行くようになっている。
それが、この世にあって、大人となるということ。
ちょっとサビシイ・・・。


ゴスペルブームは、その餓え渇きと醒めた心との
ちょうどバランスの取れた所で受け入れられているようにも思う。
ここだったら、その「気分を味わえる」から。

そう、でもその「良い知らせ」と親しむ事には意味がある。
その「良い知らせ」とともに歩む道があるんだということに
目が開かれて行くとき、ほんのちょっとした事から、
それが本当に自分のものとなる。
もし、自分がそれをちょっとでも体験すれば、その輪は広がって行くかも・・・。


中上さんの歌に「Chain Reaction」という曲がある。
曲のメッセージは、「負の連鎖」ではなく「愛の連鎖」へ、という呼びかけ。

確かに、マイナス思考のエネルギーは恐ろしいほど強烈だ。
しかし、主の愛のエネルギーはそれを超えるのだ。

もっと本物の「愛」を学ぼう。
もっと神様がつくって下さった「ありのままの自分」に誇りを持とう。
ボクにも、主の愛をあらわす場が、目の前にあることを信じよう。
それが大きな事であったとしても、小さな事であったとしても、
その価値は変わらない。

ボクにしか、届けられない人々が待っている・・・。
ボクから始まる、愛の連鎖。
あなたから始まる、愛の連鎖。

2006/06/21

愛の家

恐れから来る否定的なエネルギーほど、私たちを蝕むものはない。
・・・久々にナウエンを読みながら、そんな事を感じた。

前に購入していたのに、まだ読んでない本が何冊かあった。
他の本も心が惹かれたらどんどん買ってしまうので、
ナウエン以外にも読みきれていない本はたくさんある。

しかし、ナウエンを読むと、その誠実さと、洞察の深さと、
その主張の明確さに、他の人とは違う圧倒的な練られた品性を感じる。


今読み終えたのは「キリスト者の視点から見た、親しさ、豊かさ、喜悦」という
副題のついた、『いのちのしるし』という本だ。
ナウエンによると、


この本は、ときに逆が正しいように見えたとしても、愛は恐れよりも強い、
という確信に立って書かれている。・・・「完全な愛はすべての恐れを追い払う」
・・・この本のなかでわたしはこの完全な愛のしるしを探し、
このしるしにそって進んで行く方法を見つけたいと思う。
恐れの家から愛の家へと移っていく霊的な動きの可能性を示したいと願っている。


と述べられている。
そして、その「しるし」が、「親しさ、豊かさ、喜悦」なのだ。



愛は、恐れから来る両極端な行動を超越したものだ。

愛は、隔離への恐れや、近づきすぎる事への恐れを超越し、
あらゆる状況で真の「親しさ」をもたらす。

愛は、不毛への恐れや、恐れから駆り立てられる生産性を超越し、
あらゆる状況で真の「豊かさ」をもたらす。

愛は、恐れからくる律法主義や、恐れから来る根のない状態を超越し、
親しみに満ちて、実り豊かな生活の報酬として、
「満ちあふれる喜び」をもたらす。



私たちが生きる、ということはとても神秘に満ちている。
私たちは、どうしても自分自身の存在価値を、
自分たちの外側に見いだそうとする。
しかし、私たちの内側に与えられるこれらの「愛のしるし」を
見失う事なく、いつまでも「愛の家」で過ごしていきたい。

2006/06/12

主体性

愛は行動・・・ということを考えていたら、コヴィー氏による『7つの習慣』に行き着いた。
以前に読んで感銘を受けた部分でもあるので、引用を交えながらそこでの考え方を紹介したいと思う。



あるセミナーで主体性について講義していた時、ある男性が前に出て来てこう言い出した。
「先生のおっしゃっていることはよく分かるんですが、人によって状況はすべて違うんですよ。例えば、私の結婚を考えていただけますか。不安でたまりませんよ。妻と私は昔のような気持ちがもうないんです。私は妻を愛していないし、妻も私のことなんか愛していません。こんな状態で何ができるって言うんですか。」
「愛する気持ちをもう失ってしまったんですね」と訊くと、
「そうです」と彼は答え、「子供が三人もいるので、とても不安なんです。どうしたらいいのでしょうか」と続けた。
「奥さんを愛しなさい」と私は返事した。
「ですから、今言ったでしょう。その気持ちはもうないって」
「だから、彼女を愛しなさい」
「先生は分かっていない。愛という気持ちはもうないんです」
「だったら、奥さんを愛すればいいんです。そうした気持ちがないのだったら、それは奥さんを愛するとても良い理由になりますよ」
「でも、愛情を感じないとき、どうやって愛すればいいんですか」
「愛は動詞である。愛という気持ちは、愛という行動の結果にすぎない。だから奥さんを愛しなさい。奥さんに奉仕をしなさい。犠牲を払いなさい。彼女の話を聴いてあげなさい。感情を理解してあげなさい。感謝を表わしなさい。奥さんを肯定しなさい。そうしてみては、いかがですか」


これは「主体性を発揮する」という項目の中で書かれている話である。
この中で鍵となる考え方は、人間は「刺激と反応の間に選択の自由」をもっているということである。この選択の自由の中には、人間の人間たる4つの独特な性質<自覚・想像力・良心・自由意志>がある、というものだ。

確かに、ボクたちは、主体性を失いがちだ。
何か特定の不快な状況に遭遇すると、いつも決まって「こう反応してしまう」とか、ある感情にが沸き起こると、こういう行動を押さえられない、とか。


しかし、自分の人生の責任を自分で引き受ける事が出来るようになると、それらに必要以上に振り回される必要がなくなるのだと言う。
「責任」は、英語でレスポンシビリティー(Responsibility)だが、この言葉の語源は、レスポンス(Responce:反応)と、アビリティー(Ability:能力)という言葉からなっている。主体性のある人は、そのレスポンシビリティー「自分の反応を選択する能力」を発揮しているということになる。彼らは自分の行動に対する責任をとり、状況や環境、または条件付けのせいにしようとはしない。彼らの行動は自らの価値観に基づく意識的な選択の結果であり、状況によって起きる一時的な感情の結果ではない。



「刺激と反応の間に選択の自由」がある、というのは大きな希望ではないか?
もちろん、すべてがそううまく行く訳ではない。しかし、自分の人生を健全な意味で自分自身の手のうちに取り返す必要は誰にでもあるように思う。実際、多くの人が抱えている問題は、ここから出発しているのではないだろうか。

皆さん、どう思われますか?

2006/06/09

愛は行動

今日医者に行ってレントゲンをとり、
肺炎の陰がなくなっていることを確認しました。
お祈りして下さっている皆さん、本当にありがとうございます!

ただ、今週はじめの血液検査の結果ではCRPという炎症反応がまだ0.9ありました。
でもその前はCRP18.31というとんでもなく高い数値だったので、
これでも、ものすごく良くなっているんだと思います。
(ちなみに、正常値は0.0〜0.45。まあ、0.9なら、ほとんどオッケーですね)

以前から、はっきりと原因が特定出来ないときもCRPが高い事があり、
ちょっと嫌な感じではあるのですが、経過を観察しながら
健康に気をつけていきたいと思います。



ところで、今日診察に行ったら、先生からこんな質問をされました。
「心療内科の診察をしている時、よく『愛は行動です。感情ではないんです。』という
 アドバイスをしているのですが、聖書にこれに相当する教えはありますか?」

いくつか思い浮かんだのですが、その時は少しだけ話をして、
持ち帰らせていただきました。

例えば、患者さんが「でも愛という気持ちがわき上がってこないんです。」
とおっしゃるような場合、先生の信念としてそのように話をしているそうなのです。


でも、単に自分の信念としてではなく、これは恐らくキリスト教的な思想だから、
もし聖書の中でこれに相当するような教えがあったら、それをぜひ教えて欲しい、
とのことなのです。



いくつか思い当たる節はあるのですが、
皆さんだったら、どのように応えられますか?
ぜひぜひ、皆さんお知恵をお貸しください!

2006/06/01

世の中には

入院するほどの肺炎ではないのだけど、治療には抗生物質が必要。
昨日は点滴をしてもらって、
今日は休診日なんだけど、点滴をするから朝いらっしゃいとの事でした。

約束の時間に10分遅れていったら病院に入れない。
がーん。残念。

しょうがないので(Googleの翻訳ではno gingerと訳されるらしい・・・)
家に帰って、おとなしくしていた。

すると午後3時頃、病院の先生から電話があって、
「今から行ってもよろしいでしょうか?ご自宅で点滴します」
「も、もちろん!お願いします」

ほどなく、先生がバイクでやってきて、点滴を施してくれた。



この先生には、昨年から随分とお世話になっている。

きちんと話を聞いてくれる、
経過をきちんと把握して心と体全体を考えてくれる、
内視鏡の手技が超うまい(痛くない)、
不必要にやたらと薬を出さない、
必要に柔軟に応えてくれる、
ソフト整体やアロマテラピーを併設している、
土曜も日曜も診療している、
木曜の休みは訪問看護している

などなど、本当に頭が下がる先生なのです。

特に昨年、アメリカ滞在中に、継続して飲むべき薬がなくなった時や、
具合が急に悪くなった時、メールを送ってみたら迅速に返事を返してくださり、
適切な対応をしてくださった。


それだけでなく、クリスチャンではないけれどキリスト教にも敬意と関心を持っていて
教会の祈祷会にも出席してくださった。
ボクが診察に行くときには、しょっちゅう信仰についての話にもなるのです。


世の中には、こんな良い意図をもったステキなお医者さんもいるんです。
先生の体が支えられるように祈ります。

2006/05/31

Not Again!!

肺炎です・・・。(ToT)

これで一年以内に3回肺炎をしたことになります。
調子がいいかな?と思ってたら一気にがくっと悪くなる。
はーっ、つかれた・・・。

2006/05/22

SMAP???

曲作りましたよ!
ここから、Podcastをクリックしてたどって下さい。

「SMAPが歌いそうな曲」というイメージで曲作りをチャレンジしたのですが、はたしてどうだか・・・???歌詞は、前にこのブログで書いた「告白」をテーマにつくってみました。Mくん、ありがとう!

よろしければお聴きください。(*^_^*;)
ご意見、ご感想お待ちしてま〜す^ー^

2006/05/20

虹のかかるとき

虹だよ~。
こんなにくっきりはっきりした虹を見るのは初めてかも。



天気がころころ変わって、蒸し暑い日だったけど、
十分な湿気と十分な日差しで、ステキな虹ができました。

すごいね。

2006/05/16

悩む教会

「クリスチャンになったら悩みなんてなくなるよ。」
そんな気楽な人は、さすがにいないかも知れない。

しかし、悩んでいる人を見て、
「キリストを信じなさい。そうすれ救われるよ。」
と声をかける人は多いのではないか。

このこと自体は何の問題はない。
しかし、それを言っている私たちが、
目を開けて目の前の現実をしっかりと見ようともせず、
心を開いて彼らの心の声をしっかりと聴こうともせず、
万能薬のように「信ぜよ、信ぜよ」というのは、
キリストの姿からも、使徒たちの姿からもほど遠い。


そういう思考パターンが出来上がってしまうと、
道ばたに、半殺しの状態で倒れている人がいるときにも、
通り過ぎないまでも、「あなたに必要なのは信仰です」と言って、
それ以外の事が見えなくなってしまう可能性がある。
クリスチャンでなければ、そんな事は言わないだろう。
彼らは「最終的な答え」を知らないがゆえに、なんとかして
彼らを助けたいと思って、とにかく緊急に必要と思われるものを
用意してあげようとするのではないか。
たとえそれが的外れなものであったとしても、その心は伝わるのではないか。

ある人の「悩み」を見いだした時、私たちに出来る最善のことは何だろう。



今日、クリスチャンの雑誌を読みながら、
そこに出ている記事の前に、しばし考えさせられた。

それは、「悩む教会」という一つのあり方だ。
北海道日高地方にある「べてるの家」。
精神的な病気を持つ人や、様々な障がいを抱えた人たちのコミュニティだ。
この働きの元となったのは、過疎の町の小さな教会だった。

彼らが、精神的な病気の人を受け入れていってから、
教会に障がいをかかえる人たちが出入りするようになり、
教会のツケで飲み歩く人もいた。そして教会の評判は下がりに下がったという。
礼拝中も人が出入りして落ち着かず、
「ここでは礼拝ができない」と遠ざかる教会員もでてきた・・・。

しかし、そんな時だ。
「今まで出会うことのなかった彼らの悩みを共に悩み、共に挫折し、共にとまどい、
無力のなかでただ祈るしかない悩み多い教会のまえにひれ伏したとき、
そこには『悩む教会』という新しい可能性と希望が与えられたのである」

「悩む教会」という希望!
なんという、主からの啓示だろう!


人の痛みを、私の痛みとすること。
人の喜びを、私の喜びとすること。
人の悩みを、私の悩みとすること。

これは、イエス様の姿だ。


私たちもそのような存在になれないだろうか。
私たちは、答えなんか知らない。
知っているのはイエス様だけだ。
でも、ともに痛んだり、喜んだり、悩んだりはできるかもしれない。
そういう人が失われているということが、
この時代の問題なのではないか。

答えを知ったかぶる必要はない。
私たちがともに痛んだり、喜んだり、悩んだりする時に、
イエス様がともにいてくださる。
ただ中にいて下さる。


その変な壁を打ち壊して、自由にイエス様に働いていただこうじゃないか。
そして、いっしょに悩もうじゃないか。

2006/05/08

Another Journey of My Spiritual Life

ヘルペスのぶつぶつは、おかげさまで良くなってきました。
そのかわり、皮膚の湿疹がアトピーみたいな感じで広がっていて、
痛し痒しという感じです。
こちらをたてれば、あちらがたたず。

とりあえず皮膚科の先生の言う事に従って、
しばらく様子を見てみます。
体調的にはずいぶん良くなったと思います。


休みを利用して、デジタルでクリエイティブな生活が出来るよう、
家の環境を整えて、少し実験してみました。

せっかくiMacがあるのだからと、もう一つのページをつくってみました。
http://web.mac.com/satoken.church

これには、Another Journey of My Spiritual Lifeという名前をつけました。
「どこが?」と言われそうだけど、
今、本当に自分自身のあり方について試行錯誤なのです。
そして、ボク自身を含め、これからの時代を生きる人々のライフスタイルが、
霊的な輝きをもったものとなるよう、「信者の模範となる」のが目標です。

目指すのは、創造的破壊。
イエス様やダビデがそうだったように、「囲いの中の人」よりも、
囲いの外にいる人とより接点を持てるように、実際に行動してみたいのです。


こんな事が出来るのは、今自分が置かれている極めて特殊な環境のゆえだと思っています。
多くの人の祈りと、守りがあってこそ。
そして、自分の弱い部分がなければ、今の取り組みは時間的にも不可能でしょう。


人間的な弱さに流れてしまう事もあると思うけど、
今はとにかく思ったまま行動してみたいと思います。


1%にも満たない日本のクリスチャンの常識を、
もう一度イエス様の視点で考え直してみたいのです。

長い人生だから、表面的な結果を性急に求め過ぎないで、
じっくりと土台作りをしていきたいと思います。

2006/05/02

ブツブツ

疲れると肌に出ることが多い。

特に目の上。
典型的には右目まぶたがガサガサになる。

ここんところ落ち着いてたんだけど、
2、3日前から、左まぶたがヤバくなって来た。
昨日の夕方にはブツブツができてて、
今日の朝には全体的にぶくっと腫れてしまった。
しかも、今回はちょっとばかし、痛い。

連休前だし、かかりつけの医者と、皮膚科とに行っておいた。
すると・・・

「これは、ヘルペスですね」


ああ、なんとなくそんな気がしてたんだ。
でも本当に今日医者に行けてよかった。
飲み薬と眼軟膏をもらったが、下手すると視力が下がってしまうとの事。
こわーい。

今日はさすがに映画に行くのも断念して休んでおく事にしたよ。


忍耐忍耐・・・。

2006/04/30

告白

「Mさんを、必ず幸せにします。」
会衆の前で、彼はきっぱりとそう宣言した。

迷いはない。
形式張ったものとも違う。
間違いなく、彼自身の心から湧き出て来た言葉だった。

祝福された結婚式。
主の愛に満たされた、門出の時。


しかし、あろうことか私の心にまず浮かんで来たのは、非常に醒めた感情だった。
「<必ず幸せに>なんて、果たして出来るものか・・・。」
「まだまだ、若いな・・・」

でも、それを打ち消すように、次の瞬間には全く違った思いが心に満ちていた。
「いや。本物の告白とは、きっと、そういうものなのだ・・・」


確かに、世の中に「必ず」なんて言えるものは、そう多くはないかも知れない。
でも、誰もが必ずそうだと言い切れるものに、告白など必要はない。
その不確定なものを、実際に確実なものへと繋ぎ合わせる入り口となるのは、
他でもない、その告白している本人なのだ。

自分自身には、自信がないかもしれない。
でも、その告白は、もう後戻りの出来ない所に自分は来たのだという事実を、
自分自身に対して宣言するものとなる。



私にとっての信仰上の問題は、この潔さに関するものである気がしてきた。
多くの場合、私は「石橋を叩いたのに渡らない」ことが多い。
結果として、何かに踏み出す事や、新しい事をするのには、ものすごくエネルギーがいる。
それを打ち破らなければならない・・・という、このブログでよく取り上げる問題意識は、
私自身の問題の裏返しに過ぎない。


今日の礼拝でも、さらなる信仰の歩みへのチャレンジが与えられた。
同時に、その陰で見えない部分の働きへの大きなチャレンジもあった。


そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。
「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。
「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
(民数記13:30-31)


さて、私はどちらを選ぶのか。
昨日の結婚式で、この若いカップルに大切なことを教わった気がする。

2006/04/27

休むとき

頭いたいかなー。
喉いたいかなー。
体だるいかなー。

って思ってたら、パワーがしゅぅぅぅんと萎んでしまい、
結局、昨日と今日、お休みしてしまった。

他にいっぱい休みを必要としている人がいるのに、
不平も言わずに熱心に仕えておられる方々がいるのに、
ボクは一体何をしているんだろう・・・。
そんな思いが頭をよぎるのは事実。

さあ、ここですよ。個人的にしっかりと向き合わなくてはいけないのは。
まず「自分は自分であって他の人ではない」ということ。他の人を憐れんだり、犠牲を払って仕えることは必要。しかし、もしその動機が「みんな大変なのに私は休んでいて申し訳ない・・・」というものだとしたら、少し危険信号。その時点ですでにそれは、他者への憐れみではなく、自らの罪責感に変わっている。そして、自分も忙しくすることで、(たとえ具体的に他者の力になれなかったとしても)自分自身を納得させてしまう。

次に、私が休むということがもたらす結果について。ある人たちにとっては、負担が増えることになるだろう。なそうとしていた仕事も遅れるかもしれない。しかし、私は長い目で見れば、休むべきときに休む事が出来ない人々が、信仰を持ってそれをなす事ができるための道備えになるのではないかと思う。私たちは、どんなライフスタイルを思い描いているのか。クリスチャンとしてのライフスタイルは、そうでない方々のライフスタイルとどこが違うのか。そして、どこが一緒なのか。いや、一緒であるべきなのか。

いろんな意味で、教会は、かなり社会に影響されている。
本来は、教会やクリスチャンが社会に影響を与えるべきなのだ。
人々が教会を見た時、クリスチャンである私たちを見た時、そこに何を見いだすだろうか。
それは殻に閉じこもって、自分たちの考えにだけ固執した、ちょっと変わった人々?
それとも、既存のあり方を大胆に打ち破り、本当の自由と解放を与え、生活の意味を取り戻し、愛にあふれた調和のとれた日常生活の回復をもたらした、イエスキリストを見いだすだろうか。

私たちは、クリスチャンになればなるほど、クリスチャンでない方々との接点が減っていく。
イエス様はむしろ逆だった。どんどん罪人の友となるべく人々の間に出て行った。
なぜ私たちはそうでないのか?
教会のあり方に何か問題があるのか?
私の考え方に何か問題があるのか?
それとも別の何かがあるのか?

ここはじっくりと腰を据えて考えてみた方がいい。
私たちが進もうとしている先には、神のみこころの世界がはっきり見えるのか?
これは世界観の問題だ。
私たちは、正しい世界観を持っているだろうか?


さて、今イエス様がここに現れたら、何をするだろうか。
もう一度心を開いて、考えてみたい。
イエス様だったら、私たちのどこから手を付けられるだろうか。

あり得ないめぐみの中、いただいた二日間の休暇。
この事実に心から感謝しつつ、明日にむけて歩みだろう・・・。
主よ、私をもう一度お委ねします。
主が、私の内側で生きて下さい。感謝します。

2006/04/23

新しい皮袋

イエスはいつも大胆だ。

イエスは、人々に忌み嫌われていた、罪人や取税人と一緒に食事をした。
そして宗教家たちが断食をしているとき、イエスの弟子たちは断食しなかった。
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

イエスは当時の宗教家たちの慣例に従わなかった。
慣例ではなく、父なる神のみこころに従う事に興味があったのだ。

罪人である私たちに向けられた、父なる神の憐れみ・・・。
それこそ、イエスキリストをこの世に送られた神のみこころだ。
イエスキリストは、父なる神に従って、自らが引き裂かれる事を覚悟して、
自分自身をささげられたのだ。
  ・・・罪人を招くための皮袋として。


「新しいぶどう酒」とは何か?
それは、今まで恵みを受ける対象とは見なされなかった人たち。
今まで、教会が受け入れようとしていなかった人々。
単純に、教会のあり方、自分自身のあり方そのものが、
人々をキリストのもとへ近づけるのを妨げていることはないか。
新しいぶどう酒を入れる事ができるためには、
教会が、そして私自身が、新しい皮袋となる以外にない。


自分自身を変えるというのは、実は至難の業だ。
私たち一人一人が問われる。
しかし、確実に新しいぶどう酒がやってくる。
彼らには新しい皮袋が必要だ。

キリストご自身こそ、私たちの皮袋。
受け入れられないものを受け入れてくださった。
私たちも、キリストにならい、新しい皮袋へと変えていただこう。
私たち(すなわち教会)は、キリストのからだなのだから。


わくわくする話。
今、本当に教会に一つのうねりがある。
変革への切望・・・。
働きの広がりを通して、神が私たち自身のあり方を取り扱って下さっているのだ。


必ずそれはなります。
主よ、委ねます。用いて下さい。

2006/04/17

「枠」について

「枠」ということについて考える事がよくある。
「境界線(Boundary)」という言葉が頻繁に使われるようになり、
そしてクリスチャンたちの間では、同名の本もよく読まれているようだ。

私たちは、個人としても、社会組織としても、
自らの「枠組み」について、自分がどのようなスタンスを持っているのかを、
あえて意識してみることは、とても有意義な事だと思う。

人はそれぞれ神によって定められた時に、それぞれに定められた訓練がある。
その人の成長の段階に応じて、神はもっとも適切な訓練をなしてくださる。
それぞれが持っている「枠組み」へのスタンスに関しても、
主は同様に、定められた時、定められた方法で、私たちを訓練なさろうとしている。

大切なのは、今、主が「自分自身に」与えようとしておられる訓練が、
どの部分なのかをしっかりとわきまえる事だと思う。


以下は、この事についての覚え書きです。


1.「枠」の中に留まるべき時。

 エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。(使徒1:4)


2.「枠」そのものを広げるべき時。

 あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、
 綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。(イザヤ54:2)


3.「枠」から飛び出すべき時。

 イエスは「来なさい」と言われた。
 そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
 (マタイ14:29)


4.「枠」を築くべき時。

 「さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」
  そこで彼らは、「さあ再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。
 (ネヘミヤ2:17,18)


5.「枠」を壊すべき時。

 ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、
 訪問したりするのは、律法にかなわないことです。
 ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、
 汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。
 (使徒10:28)


主よ。私が「今」受けるべき訓練を見失う事がないように。
「私が」受けるべき訓練は、誰かが受けるものとは違うかもしれません。
あなたは、私を丁寧に導いて下さるお方。
だから、たえずあなたに耳を澄ませて、その導きを確信できますように。
委ねます、主よ。

大逆転

十字架に向かうイエスの、あの傷付いた姿。
鞭打たれ、つばをかけられ、あざけられたその姿。
これが、私たちの王、私たちの先生、私たちの救い主の姿だって?
うそだろ・・・。

そして、あまりにも弱々しい・・・。

敗北。
失望。
困惑。
疲労・・・。

あなたを信じて従ってきたのに、
これがその結末だというのですか・・・?
もう、人々に会わす顔がない。
家を捨て、両親の説得を振り払い、いのちをかけて
あなたに従ってきたではありませんか。
信じていたのに・・・。


しかしそれから後になって、
イエスは、その11人が食卓に着いているところに現れて、
彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。
(マルコ16:14)


・・・主よ、あなたなのですか?

悲しみに打ちひしがれていた弟子達の心を責められたのは、
よみがえられたイエスご自身だった。
不信仰と頑なな心を責められる主。
ああ、主よ、お赦しください。
でも、あなたがいてくださるのが、何よりも嬉しいのです。

主は生きておられる!

心を閉ざしていたのは私でした。
主はよみがえられたのに、またしても
この心はあなたを締め出してしまっていたのです。
・・・あなたがお生まれになった時と同様に。


敗北は、勝利への入り口だった。
失望は、絶望に終わる事がなかった。
困惑は、確信への道だった。
疲労は、神の力と神の知恵だった。


「全世界に出て行き、すべての造られた者に、
 福音を宣べ伝えなさい。」
(マルコ16:15)

栄光の大逆転劇。
今こそ、出て行って、福音を宣べ伝えるときです。
それは、100%神の御業。


十字架と復活。
勝利の主、イエスキリスト。
すべては、ここから始まるのですね・・・!

ハレルヤ!

2006/04/14

最期の誘惑

「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
「他人は救ったが、自分は救えない。」
「キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。
 われわれは、それを見たら信じるから。」
(マルコ15:30-32)


イエス・キリストへの最後の誘惑。
十字架から降りて来い。
そうすれば信じるから・・・。


ああ、主よ。
この恥辱を受け、最期まで十字架の死に従って下さった事を感謝します。

父なる神への、絶対的な信頼。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
と叫ばずにはいられないほどにまで、従い通して下さった・・・。


彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
(イザヤ53:2,3)


私たちに与えられた十字架の勝利。
それは、どこまでも弱くなって下さった主の姿。

ああ、私に一番欠けているもの、
そして一番必要なものは、まさにその姿です。
私にも負わせて下さい。
十字架の主とお出会いするために。

2006/04/13

私ではない。

そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、
 わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
弟子たちは悲しくなって、
「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるイエスに言い出した。
(マルコ14:18-19)


最後の晩餐の席上。
イエスのことばに弟子たちはひどく悲しんだ。
「まさか、私ではないでしょう?」
弟子たちは、なぜ、こんな事をイエスに言うのだろう。
自分自身のことなのに、なぜイエスに問う必要があるのか。

しかし、同時に私たちは、「自分のことが一番分からない」という感覚に
多かれ少なかれ同意するのではないか。
イエスのことばを聞いた弟子たちは、
「それが、自分ではないとは言い切れない」という思いが心をよぎり、
イエスに「それはあなたではないよ」と言ってもらって安心したかったのではないか。


そうかと思うと、その直後にペテロをはじめ弟子たちは、口を揃えてイエスに主張する。
「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、
 私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14:31)

これも、彼らの中の正直な意思の告白として、精一杯真実のものであるだろう。
しかし、その後弟子たちは、最も大切なときに居眠りし、
その筆頭のペテロに至っては、夜が明けぬうちにイエスを3度知らないと言う事になる。


私たちは、私たちの願いとは裏腹に、矛盾をいっぱい抱えた存在だ。
言行一致などほど遠い。
そして、イエスはそんな私たちの矛盾を背負って十字架にかかってくださった。


私たちは、このイエスを心で信じて、口で告白する。
告白する事は、決意の意志表明だ。
「できないかも知れないけど・・・」なんて、あらかじめ言い訳をする必要はない。
これは、私たちの信仰告白なのだから。
私たちの信仰は、すべて神の御子イエスの十字架と復活にかかっている。
私たちを召して下さった方は真実なのだから、
ただひたすらに、この方に目を留めて生きよう。


私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。
私は神のめぐみを無にはしません。
もし義が律法によって得られるとしたら、
それこそキリストの死は無意味です。
(ガラテヤ2:20-21)

2006/04/12

無駄なこと

世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、
この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。
(マルコ14:9)


イエスに、純粋で、高価な香油を注がずにはおれなかった女。

なんのために、こんな無駄な事を・・・。
人々は彼女に憤慨した。


たしかに、このお金を貧しい人たちへの施しとして用いる事もできただろう。
でも、これは彼女が選んだことであって、他の人がとやかく言う必要のないことだ。
なのに、なぜ人々は憤慨する必要があったのか?


彼女の行為、彼女の犠牲、彼女の愛は、明白だった。
恐らく、人々の心の奥底の純粋な良心は、彼女の行動に
心が揺り動かされる何かがあることを、うすうす認めていたのではないかと思う。
そのとき、人は自分自身の内面を省みて、心が刺されたような気持ちになる。
そこでくずおれて、涙して自らのあり方を悔い改める事もできたのだ。

しかし、人々は自分のあり方を変えたいとは思わなかった。
とたんに「自己正当化」をする方向へと、心は傾く。
そう。悪いのは、この女だ。
「香油を無駄にしない私」の方が正しいのだ。そうに違いない・・・。



主よ。心が頑なのは、この私です。
他の誰かではない、この私が、あなたとどう向き合うかです。
この女のように、私はあなたに向かう事ができるでしょうか。
あなたに最高のものを捧げられない自分自身を、
自己正当化していないでしょうか?
ああ、主よ。純粋な心であなたに向かう事ができますように。
どうか、心が固く閉ざしてしまう前に、
しっかりと、あなたの語りかけに耳を傾ける事ができますように。