2006/05/16

悩む教会

「クリスチャンになったら悩みなんてなくなるよ。」
そんな気楽な人は、さすがにいないかも知れない。

しかし、悩んでいる人を見て、
「キリストを信じなさい。そうすれ救われるよ。」
と声をかける人は多いのではないか。

このこと自体は何の問題はない。
しかし、それを言っている私たちが、
目を開けて目の前の現実をしっかりと見ようともせず、
心を開いて彼らの心の声をしっかりと聴こうともせず、
万能薬のように「信ぜよ、信ぜよ」というのは、
キリストの姿からも、使徒たちの姿からもほど遠い。


そういう思考パターンが出来上がってしまうと、
道ばたに、半殺しの状態で倒れている人がいるときにも、
通り過ぎないまでも、「あなたに必要なのは信仰です」と言って、
それ以外の事が見えなくなってしまう可能性がある。
クリスチャンでなければ、そんな事は言わないだろう。
彼らは「最終的な答え」を知らないがゆえに、なんとかして
彼らを助けたいと思って、とにかく緊急に必要と思われるものを
用意してあげようとするのではないか。
たとえそれが的外れなものであったとしても、その心は伝わるのではないか。

ある人の「悩み」を見いだした時、私たちに出来る最善のことは何だろう。



今日、クリスチャンの雑誌を読みながら、
そこに出ている記事の前に、しばし考えさせられた。

それは、「悩む教会」という一つのあり方だ。
北海道日高地方にある「べてるの家」。
精神的な病気を持つ人や、様々な障がいを抱えた人たちのコミュニティだ。
この働きの元となったのは、過疎の町の小さな教会だった。

彼らが、精神的な病気の人を受け入れていってから、
教会に障がいをかかえる人たちが出入りするようになり、
教会のツケで飲み歩く人もいた。そして教会の評判は下がりに下がったという。
礼拝中も人が出入りして落ち着かず、
「ここでは礼拝ができない」と遠ざかる教会員もでてきた・・・。

しかし、そんな時だ。
「今まで出会うことのなかった彼らの悩みを共に悩み、共に挫折し、共にとまどい、
無力のなかでただ祈るしかない悩み多い教会のまえにひれ伏したとき、
そこには『悩む教会』という新しい可能性と希望が与えられたのである」

「悩む教会」という希望!
なんという、主からの啓示だろう!


人の痛みを、私の痛みとすること。
人の喜びを、私の喜びとすること。
人の悩みを、私の悩みとすること。

これは、イエス様の姿だ。


私たちもそのような存在になれないだろうか。
私たちは、答えなんか知らない。
知っているのはイエス様だけだ。
でも、ともに痛んだり、喜んだり、悩んだりはできるかもしれない。
そういう人が失われているということが、
この時代の問題なのではないか。

答えを知ったかぶる必要はない。
私たちがともに痛んだり、喜んだり、悩んだりする時に、
イエス様がともにいてくださる。
ただ中にいて下さる。


その変な壁を打ち壊して、自由にイエス様に働いていただこうじゃないか。
そして、いっしょに悩もうじゃないか。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

うんうん。悩もう。

匿名 さんのコメント...

http://www.donghaeng.net/english/love.htm
http://www.donghaeng.net/english/faith.htm
http://www.donghaeng.net/english/cross.htm
http://www.donghaeng.net/english/duty.htm

泣けるし、笑えるし。
とにかく見てください。
むと

さとけん さんのコメント...

(ToT) 感動しました。

十字架の愛に感動できるって、感謝だな・・・。

匿名 さんのコメント...

Very best site. Keep working. Will return in the near future.
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