2006/07/29

ハチのキモチ

窓辺で作業をしていたら、何か物音が聞こえる。
「ブーン・・・」
反射的に身を避けてみる。

「何か虫がいるな。よし無視しよう・・・。」
と、しょうもない親父ギャグがとっさに頭に浮かんでくる
自分に罪責感を感じながら、虫の存在は忘れる事にして
黙々と作業を続けることにした。

「ブーン・・・」
ああ、うざいなー。と思っていたら、
その音の発生源が目の前まで飛んできた。

ハチだ。それもデカい。
スズメバチか?
いやスズメバチではなさそう。
とりあえず、ほっとするも、
やっかいな物を目にしてしまったと思う。

「ブーン・・・カン、カン、カン」
よく見る光景だが、ハチが窓にがんがん体当たりしてる。
「あほやなぁ、あいつ」

と思いながらも、心の善良なさとけんは
黙ってみている事ができず、
おもむろに窓の方にむかって歩き出し、
窓をあけてそいつを解放してやることにした。

「でも、時々いるんだよなー。せっかく窓開けても、
 そこから出ないでまた中をぐるぐる飛び回るヤツ」

でも、このハチ君はとても素直に窓から
さわやかに飛び立って行ってくれた。
「さとけん、ありがとうー!ブーン!」


その瞬間、ボクの心の中に一つの思いが沸き起こった。
ボクら人間も、これと同じような事いっぱいしてるなーと。

自由にされたい、解放されたいと願っているのに、
そこにある窓に気がつかずにガンガンと頭をぶつけている。
まわりの人はそれをうるさがり、危害を加えるものだとして
避けようとする。

せっかく窓をあけて、自由になる道が示されていても
それを理解せずに、むしろ警戒心を抱いてそこから出ようとしない。
もし出ようとしないでそこに居座ろうとでもするなら、
忍耐のない者達は、そいつの息の根を止める道を選ぶ。


自分がどちらの立場に立ったとしても、本当に必要な視点がある。
小さいハチの姿を通して、
ちょっとした、でも大切な事を教えられた気がする。

2006/07/27

右から左へ、左から右へ

人には右脳と左脳がある。
右脳は、感覚的・感情的な部分を担当し、
左脳は、論理的・理性的な部分を担当しているらしい。

人間にも右脳タイプの人と左脳タイプの人がいる。
でも、右脳だけの人、左脳だけの人というのはいない。
人間が人間らしく生きていくためには、この両者のバランスが大切だ。


最近気付かされているのは、
この右から左、左から右というコミュニケーションの大切さだ。
人が感動したり、泣いたり、笑ったりする事は、右側が担当している。
これはものすごく人間らしい部分だ。
しかし、これだけに頼ると、その瞬間瞬間の感覚に振り回されてしまう。
しかもその感情の表れ方が、心の傷など様々な要因でうまく発揮出来ないとき、
本来苦しむべきでない部分でも苦しんでしまう。

そんなとき、右側で起こっている事を、左側がきちんと受け止め、解釈し、
理性的な理解をする事がすくなからず助けになる。
そして、理性的な理解になると、それはより永続的なものへとなって行く。


何かを考えたり、知識として理解したりするのは、左側の担当。
これも人間に顕著に与えられた特殊な能力だ。
しかし、これだけに頼ると、無味乾燥なものとなり、
人の心を理解しない、硬直した生活になってしまう。
人生に与えられている、心から楽しんだりする能力が奪われてしまう。

そんなとき、左側で理解した事を、右側にうまく伝達し、
それを解放してやる必要がある。
そして、それを心で受け止められるようになると、生活が生き生きとしてくる。


これは、不正確さを恐れずに言えば、こういう感じかもしれない。
・聖書=左脳の担当(知)
・御霊=右脳の担当(情)
・コミュニケーション=私の担当(意)

つまり、この知・情・意のバランスが、生き生きとした健全な生活の土台となる。


神様が与えて下さっている豊かな祝福を、
私の祝福として受け取ること。
そしてその祝福が私を通して伝わって行く事。

そのために、何が健全で主に喜ばれる事なのか、
全身全霊をもって求めて行くものでありたい。

2006/07/24

楽しみながら走る

久しぶりに(と言っても一ヶ月ぶりに)映画を観に行った。
何を観るか少し迷ったが、ちょうど良い時間にやっていたのが、
ディズニー&ピクサーの「カーズ」

それほど期待してはいなかったのだけど、
なかなかどうして、かなりのお気に入りの映画になった。
観ていて何度も素直に涙を流した。
映画なので詳しい内容は書かないけど、
これはむしろ大人が観て感動できる映画だと思う。

大切なものって何だったっけ?
スピードって?
友達って?
人生って?
本当の生きがいって?

めちゃくちゃ奇麗なCGの映像美と、
単純明快だけどツボを押さえたストーリーで、
ずーっと食い入るように観てしまった。


「ゆっくりと楽しみながら走っていた時代」から、
いつの間にか「楽しみに行くために走る」ことへと変わってしまった人々。
どこかへ行くというのは、単なる手段だから最短距離が一番いい。
そんな世の中になってしまったからこそ、
失われたものの大きさに、もう半ば取り返しのつかなくなった頃に気づくのだろう。

人生の目的とはなんだろう?
もしボクたちの人生が、その目的へむかうための単なる手段だとしたら、
ボクたちもまた最短距離を超スピードで走り抜くのが一番かもしれない。
しかし、楽しみながら走ることが目的だとしたら?
今そこにある自分自身やまわりの人たちとの関係こそが目的だとしたら?

ボクたちは、わき目もふらずに走ることを美徳としすぎて来たのではないだろうか。
目的を見失ってはいけない。でも、そのプロセスはもっと大事だ。
人が人として生きているということ。
人が人らしく生きるということ。
もう一度、そんな事を考えさせられた。

2006/07/20

回復・解放・自由

ここ数週間、ずいぶんと体調が良くなって来た。
それまで、体調が良くなったかと思ったら
突然バーンと悪くなる事が多かったので、
しばらくは恐る恐る様子を見ていた。
でも、今回は本当に回復の手応えを感じる。


要因はいろいろあるだろうなー。
いろんな方に紹介された健康法。
生活パターン。
精神的なゆとり。
そして、誠実に祈ってくださる方々の愛。

体力的にも、精神的にも、時間的にもゆとりができると、
自分の内側に、人を受け入れる事ができる
健全なスペースが出来るのを感じる。
だから、いろんな人との距離感というのを
自分自身でしっかりと把握できる。


ボクのイメージの中では、愛とは解き放つ事だ。
縛られている人を解放し、自分もその人を縛らない。
でも、それが本物であれば、その自由の中で、
相手自身が本当になすべきことを選び取る事が出来るのだ。

そういう意味で、私自身が解放されていることは、
他の人をも自由にすることだと思う。
キリストの十字架は、私たちを解き放つものだ。

真の自由と愛によって、この地に回復をもたらす者とされたい。

2006/07/07

君だから素晴らしい

揺るがない絶対的な存在に、
ありのままの価値を認められること。

たったそれだけで、私たちの歩みは全く変わります。

生きる希望があふれ、喜びに満たされ、
こころは平安そのものです。
自分の存在を確認するために、一生懸命努力する必要はありません。
自分が自分であるためには、ただありのままで十分なのです。
そんな確信を与えられること。
今、多くの人が、そのような土台を必要としています。

ことばには力があります。
私たちを作られた創造主は、
今も変わらずに、その愛のメッセージを語り続けてくださっています。
そして、私たちは互いにその主の愛をもって、
愛し合うように召されているのです。

イエスは言われました。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあうこと、
 これがわたしの戒めです。(ヨハネ15:12)」

私たちの存在そのものに価値がある。
私たちはこのメッセージを、絶えず聞き続ける必要があるのです。
もちろん、本当の愛とは、ことばや口先ではありません。
しかし、初めにことばがあり、ことばが人となるのです。
私たちは、いのちをかけてこの主の愛を告白をしようではありませんか。

主が造ってくださった私たちの本来の美しさは、
その愛のことばから輝き始めるのです。

2006/07/03

自衛手段

とても調子が良くなって来た気がします。
・・・でも調子に乗らないように気をつけますね。


ところで皆さん、人はみんな自分の安全確保のために
様々な自衛手段を取るんだ、ということがようやく少しずつ分かってきました。
人それぞれ、どのような状態を「安全」と感じるかも違いますし、
その安全を確保するために無意識に取る行動パターンも千差万別です。

実はボクの場合、自分をなるべく客観的に見つめると、
こんな感じのパターンが多いことに気づいてきたのです。
(1)話し合う
(2)避ける
(3)逃げる
(4)忘れる

とにかく、言い争ったり、戦ったりするのは基本的に嫌いです。
そして、そこで傷付けたり傷付けられたりするのが辛いので、
なるべく話し合って、少なくとも心が打ち解け合う方向を目指します。
でも、話がこじれそうな時や、相手が聞く耳を持ってないと感じる時や、
どうやっても自分自身が消化しきれないと感じるときは、
その状態を避け、逃げてしまいます。

そして、もっとひどい時は、先の事でも後の事でも、
思い出すと気が重くなってしまうような事は、
考えないようにするどころか、記憶から追いやってしまうようなのです。
(もちろん、意識の深い所には残っていると思うのですが・・・)

だから、たとえ良いと思っていた記憶でも、何かをきっかけにして
その記憶そのものにも嫌悪感を抱くようになったときなどには、
無意識のうちに、忘れようとしている自分がいるようなのです。


この「ようなのです」というのは、どうもそうらしい、というだけで、
あやふやなのですが、そういう所がボクにはあるように思えてきました。
(単に忘れっぽい事を自己正当化しているだけなのかなー?)


ではでは、この「自衛のための行動パターン」は良いものなのでしょうか?
それとも悪いものなのでしょうか?
どうなんでしょう。悪い結果を生んだときは悪くて、
良い結果を生んだときは良い、とでも言いましょうか。


自衛手段なのですから、危機回避という意味では良いものでしょう。
でも、その「危機」とは、あくまでも自分にとっての「危機」であって、
本当は誰でも成長のために必ず通らなければならない試練や恵みをも
回避してしまう可能性があるのではないでしょうか。


ある時には、この自衛手段を手放す必要があります。
なぜなら、それは十字架を経験することを拒むからです。
「愛」の大切な一側面は、恐らく「無防備になること」なんだと思います。
だから、自分が傷付く事を恐れてばかりいては、本当の愛は流れて行かないのです。
「完全な愛は、恐れを閉め出す」ものなのですから・・・。


自衛手段は、人によってはこんなものがあるでしょう。
ルールをつくること。すべてを計画すること。人を操作しようとすること。
すべてをコントロールしようとすること。相手を攻撃すること。
笑い飛ばしてしまうこと。だまりこんでしまうこと。
やたらと批判ばかりすること。とんでもなく自己卑下してそこに留まる事。
権威を利用すること。そのほか色々・・・。

なぜ、そうしてしまうのかという背後にある深い傷を想像すると、
とてもとても、そのこと自体を簡単に指摘して済ませてしまう事はできません。
簡単にはこの自衛手段は手放せないのです。
だって、自分を守って来たんだから・・・。


でも、そんな自分の姿に気づく事は、
必要な時にそれを手放す事ができる決断へと導いてくれると思います。
そして、恐れからではなく、愛から行動出来るようになるとき、
ボク自身も、まわりの方々も、本当の平安につつまれて歩む事が
できるようになるのだと思います。

この一生の大仕事、ともに分かち合いながら、成熟へと向かって行きたいですね。

2006/07/01

くるくる

ヘルペスもそろそろ良くなったかなーと思っていたら、
今日は朝から頭がくるくるしていた。

しばらくじっとしていたら直るかと思ってたけど、そうではなかった。
結局今日も休むことにして、病院にいった。
前にももらったメニエル病とかに効く目まいの薬をもらってきた。
今は朝よりずいぶんと楽になったけど、
ボクの頭の中はどうなっちゃってるんでしょう・・・。


さてさて、仕事を休んでいる日にナンですが、
夕方になってちょこちょことLogicをいじって、
ようやく日々こつこつ作って来た曲がかたちになりました。
裏のページにアップしておきますので、よろしければお聴きくださいませ。