2006/06/26

予感

予感的中。
再度ヘルペス発症です・・・。

だるーい感じと、肌の荒れ方を見て、皮膚科に行くことにしたら、
案の定ヘルペスだと。

でも明らかにそうだって分かる前に行けたから、
きっとすぐに良くなるでしょう。

にん、にん。
(ToT)

2006/06/24

愛の連鎖

今日は久々の外部でのPA奉仕だった。
みんなボクの体調を気遣ってくれて、
一番大変な力仕事やいろんな調整はみんなやってくれた。
ボクはひょこっと言って、ちょこっと指示出して、
ちょろっとオペレートして、ささっと帰って来ただけ。
でも、本当に心地よい、素晴らしい時を過ごせた。

今回は初めて中上祐子さんのためにこのPAを持ち出して使った。
おまけにホールは音の響きが扱いやすく、ほとんど凝った調整してないのに、
まるで、PAをしている自分がうまいかのような錯覚に落ち入るほど!
o(^-^;)o

心地よいコンサート。
そして「ゴスペル」という音楽が、一般的にとても好意的に
受け入れられているのを実感した。

ゴスペル  Gospel...  Good News...
福音、 良い知らせ・・・


誰もが「良い知らせ」に餓え渇いているんだと思う。
でも「良い知らせ」を聞き慣れてないので、
「良い知らせ」をどう受け止めたらいいのか分からない。
「良い知らせ」なんて、どうせ一瞬の気晴らしなんじゃないか。
「良い知らせ」なんて、どうせ何か裏があるんじゃないか。
「良い知らせ」なんて、本当はないんだ・・・。

聞こえてくるのは「悪い知らせ」ばかり。
そして「悪い知らせ」にすっかり自信をなくしながら、
物事を真正面から受け止めなくても済むような生き方を、
誰もが学んで行くようになっている。
それが、この世にあって、大人となるということ。
ちょっとサビシイ・・・。


ゴスペルブームは、その餓え渇きと醒めた心との
ちょうどバランスの取れた所で受け入れられているようにも思う。
ここだったら、その「気分を味わえる」から。

そう、でもその「良い知らせ」と親しむ事には意味がある。
その「良い知らせ」とともに歩む道があるんだということに
目が開かれて行くとき、ほんのちょっとした事から、
それが本当に自分のものとなる。
もし、自分がそれをちょっとでも体験すれば、その輪は広がって行くかも・・・。


中上さんの歌に「Chain Reaction」という曲がある。
曲のメッセージは、「負の連鎖」ではなく「愛の連鎖」へ、という呼びかけ。

確かに、マイナス思考のエネルギーは恐ろしいほど強烈だ。
しかし、主の愛のエネルギーはそれを超えるのだ。

もっと本物の「愛」を学ぼう。
もっと神様がつくって下さった「ありのままの自分」に誇りを持とう。
ボクにも、主の愛をあらわす場が、目の前にあることを信じよう。
それが大きな事であったとしても、小さな事であったとしても、
その価値は変わらない。

ボクにしか、届けられない人々が待っている・・・。
ボクから始まる、愛の連鎖。
あなたから始まる、愛の連鎖。

2006/06/21

愛の家

恐れから来る否定的なエネルギーほど、私たちを蝕むものはない。
・・・久々にナウエンを読みながら、そんな事を感じた。

前に購入していたのに、まだ読んでない本が何冊かあった。
他の本も心が惹かれたらどんどん買ってしまうので、
ナウエン以外にも読みきれていない本はたくさんある。

しかし、ナウエンを読むと、その誠実さと、洞察の深さと、
その主張の明確さに、他の人とは違う圧倒的な練られた品性を感じる。


今読み終えたのは「キリスト者の視点から見た、親しさ、豊かさ、喜悦」という
副題のついた、『いのちのしるし』という本だ。
ナウエンによると、


この本は、ときに逆が正しいように見えたとしても、愛は恐れよりも強い、
という確信に立って書かれている。・・・「完全な愛はすべての恐れを追い払う」
・・・この本のなかでわたしはこの完全な愛のしるしを探し、
このしるしにそって進んで行く方法を見つけたいと思う。
恐れの家から愛の家へと移っていく霊的な動きの可能性を示したいと願っている。


と述べられている。
そして、その「しるし」が、「親しさ、豊かさ、喜悦」なのだ。



愛は、恐れから来る両極端な行動を超越したものだ。

愛は、隔離への恐れや、近づきすぎる事への恐れを超越し、
あらゆる状況で真の「親しさ」をもたらす。

愛は、不毛への恐れや、恐れから駆り立てられる生産性を超越し、
あらゆる状況で真の「豊かさ」をもたらす。

愛は、恐れからくる律法主義や、恐れから来る根のない状態を超越し、
親しみに満ちて、実り豊かな生活の報酬として、
「満ちあふれる喜び」をもたらす。



私たちが生きる、ということはとても神秘に満ちている。
私たちは、どうしても自分自身の存在価値を、
自分たちの外側に見いだそうとする。
しかし、私たちの内側に与えられるこれらの「愛のしるし」を
見失う事なく、いつまでも「愛の家」で過ごしていきたい。

2006/06/12

主体性

愛は行動・・・ということを考えていたら、コヴィー氏による『7つの習慣』に行き着いた。
以前に読んで感銘を受けた部分でもあるので、引用を交えながらそこでの考え方を紹介したいと思う。



あるセミナーで主体性について講義していた時、ある男性が前に出て来てこう言い出した。
「先生のおっしゃっていることはよく分かるんですが、人によって状況はすべて違うんですよ。例えば、私の結婚を考えていただけますか。不安でたまりませんよ。妻と私は昔のような気持ちがもうないんです。私は妻を愛していないし、妻も私のことなんか愛していません。こんな状態で何ができるって言うんですか。」
「愛する気持ちをもう失ってしまったんですね」と訊くと、
「そうです」と彼は答え、「子供が三人もいるので、とても不安なんです。どうしたらいいのでしょうか」と続けた。
「奥さんを愛しなさい」と私は返事した。
「ですから、今言ったでしょう。その気持ちはもうないって」
「だから、彼女を愛しなさい」
「先生は分かっていない。愛という気持ちはもうないんです」
「だったら、奥さんを愛すればいいんです。そうした気持ちがないのだったら、それは奥さんを愛するとても良い理由になりますよ」
「でも、愛情を感じないとき、どうやって愛すればいいんですか」
「愛は動詞である。愛という気持ちは、愛という行動の結果にすぎない。だから奥さんを愛しなさい。奥さんに奉仕をしなさい。犠牲を払いなさい。彼女の話を聴いてあげなさい。感情を理解してあげなさい。感謝を表わしなさい。奥さんを肯定しなさい。そうしてみては、いかがですか」


これは「主体性を発揮する」という項目の中で書かれている話である。
この中で鍵となる考え方は、人間は「刺激と反応の間に選択の自由」をもっているということである。この選択の自由の中には、人間の人間たる4つの独特な性質<自覚・想像力・良心・自由意志>がある、というものだ。

確かに、ボクたちは、主体性を失いがちだ。
何か特定の不快な状況に遭遇すると、いつも決まって「こう反応してしまう」とか、ある感情にが沸き起こると、こういう行動を押さえられない、とか。


しかし、自分の人生の責任を自分で引き受ける事が出来るようになると、それらに必要以上に振り回される必要がなくなるのだと言う。
「責任」は、英語でレスポンシビリティー(Responsibility)だが、この言葉の語源は、レスポンス(Responce:反応)と、アビリティー(Ability:能力)という言葉からなっている。主体性のある人は、そのレスポンシビリティー「自分の反応を選択する能力」を発揮しているということになる。彼らは自分の行動に対する責任をとり、状況や環境、または条件付けのせいにしようとはしない。彼らの行動は自らの価値観に基づく意識的な選択の結果であり、状況によって起きる一時的な感情の結果ではない。



「刺激と反応の間に選択の自由」がある、というのは大きな希望ではないか?
もちろん、すべてがそううまく行く訳ではない。しかし、自分の人生を健全な意味で自分自身の手のうちに取り返す必要は誰にでもあるように思う。実際、多くの人が抱えている問題は、ここから出発しているのではないだろうか。

皆さん、どう思われますか?

2006/06/09

愛は行動

今日医者に行ってレントゲンをとり、
肺炎の陰がなくなっていることを確認しました。
お祈りして下さっている皆さん、本当にありがとうございます!

ただ、今週はじめの血液検査の結果ではCRPという炎症反応がまだ0.9ありました。
でもその前はCRP18.31というとんでもなく高い数値だったので、
これでも、ものすごく良くなっているんだと思います。
(ちなみに、正常値は0.0〜0.45。まあ、0.9なら、ほとんどオッケーですね)

以前から、はっきりと原因が特定出来ないときもCRPが高い事があり、
ちょっと嫌な感じではあるのですが、経過を観察しながら
健康に気をつけていきたいと思います。



ところで、今日診察に行ったら、先生からこんな質問をされました。
「心療内科の診察をしている時、よく『愛は行動です。感情ではないんです。』という
 アドバイスをしているのですが、聖書にこれに相当する教えはありますか?」

いくつか思い浮かんだのですが、その時は少しだけ話をして、
持ち帰らせていただきました。

例えば、患者さんが「でも愛という気持ちがわき上がってこないんです。」
とおっしゃるような場合、先生の信念としてそのように話をしているそうなのです。


でも、単に自分の信念としてではなく、これは恐らくキリスト教的な思想だから、
もし聖書の中でこれに相当するような教えがあったら、それをぜひ教えて欲しい、
とのことなのです。



いくつか思い当たる節はあるのですが、
皆さんだったら、どのように応えられますか?
ぜひぜひ、皆さんお知恵をお貸しください!

2006/06/01

世の中には

入院するほどの肺炎ではないのだけど、治療には抗生物質が必要。
昨日は点滴をしてもらって、
今日は休診日なんだけど、点滴をするから朝いらっしゃいとの事でした。

約束の時間に10分遅れていったら病院に入れない。
がーん。残念。

しょうがないので(Googleの翻訳ではno gingerと訳されるらしい・・・)
家に帰って、おとなしくしていた。

すると午後3時頃、病院の先生から電話があって、
「今から行ってもよろしいでしょうか?ご自宅で点滴します」
「も、もちろん!お願いします」

ほどなく、先生がバイクでやってきて、点滴を施してくれた。



この先生には、昨年から随分とお世話になっている。

きちんと話を聞いてくれる、
経過をきちんと把握して心と体全体を考えてくれる、
内視鏡の手技が超うまい(痛くない)、
不必要にやたらと薬を出さない、
必要に柔軟に応えてくれる、
ソフト整体やアロマテラピーを併設している、
土曜も日曜も診療している、
木曜の休みは訪問看護している

などなど、本当に頭が下がる先生なのです。

特に昨年、アメリカ滞在中に、継続して飲むべき薬がなくなった時や、
具合が急に悪くなった時、メールを送ってみたら迅速に返事を返してくださり、
適切な対応をしてくださった。


それだけでなく、クリスチャンではないけれどキリスト教にも敬意と関心を持っていて
教会の祈祷会にも出席してくださった。
ボクが診察に行くときには、しょっちゅう信仰についての話にもなるのです。


世の中には、こんな良い意図をもったステキなお医者さんもいるんです。
先生の体が支えられるように祈ります。