2006/12/31

歳の数を遥かに越えて・・・

恵みを書き留める作業、第2弾です!
基本的にブログから抜き出している事+ゆーこちゃんとの出会いばかりなので、
かなり偏りがありますが、悪しからず^_-☆


3月
●近隣の湘南のぞみ教会でメッセージの奉仕を出来た事。

4月
●奉献式のために、1999年の教会の動きをまとめたビデオを作り、あらためて感動できた事。
●マザーテレサのDVDを買って、観ながら感動した事。
●ブロークバックマウンテンの映画を観て、人との関わりについて考えられた事。
●大きな荒削りの十字架を見つめる事ができた事。
●深く内面を探られる受難週を過ごす事ができた事。
●エスペランサのイースター礼拝で奉仕出来た事。
●健全な「枠」や「境界線」について考える事が出来た事。
●新しい皮袋となるために、自己変革が必要であるという事に思いを馳せられた事。
●具合が悪い時に、安心して休ませてくれた環境と、安心して休む事が出来た自分自身の内面における解放。
●みちしる君の結婚式に出て感動し、「告白すること」の力強さと大切さに目が開かれた事。

5月
●目の上にヘルペスが出来たけれど、速やかに適切な治療が出来、癒された事。
●DTMを始める事が出来、自分自身の趣味としてのやりがいを見つける事ができた事。
●ダイヤモンドチャペルの十字架の上にかかる、美しい約束の虹を見る事ができた事。
●大ヒット曲(笑)「しあわせにするよ」を作る事ができた事。
●度重なる肺炎にもめげず、毎回癒されている事。
●mixiで、久しぶりにゆーことコンタクト取れるようになった事。
●ゆーこが突発性難聴になった時、その事実をmixiで知り、祈りに加われた事。
●ゆーこの突発性難聴が癒された事。

6月
●肺炎の治療のために、病院の先生がわざわざ休診の日に家まで来て点滴をして下さった事。
●「愛は行動である」という事について、いろいろと考える事が出来た事。
●上郷森の家での中上さんのコンサートにて、PAで奉仕する事ができた事。
●ゆーこが快気祝いで横浜に来るのをきっかけに再会出来た事。
●ゆーことの再会を通して、結婚がみこころかどうかを真剣に祈り求めるための遠距離恋愛へと道が開かれていったこと。
●ゆーことの関係を通して、心に喜びと潤いが与えられた事。

歳の数だけ・・・

ご無沙汰しています・・・!
いつも年末になると、牧師先生が「一年間の感謝を、最低歳の数だけはリストアップして、それをしっかり感謝しなさい」とのお勧めをしてくださいます。毎年、それを何となくしか出来なかったのですが、今年はこのブログのお陰で、えらく細かい事(しかもやった事以上に考えた事)をリストアップ出来そうです。

という事で、今年の一月からのブログを見返してみました。
ああ、何という数!(笑)
ここ数ヶ月、まったく手つかずだった事を悔い改めさせられました。

とりあえず、感謝の第一弾(1月〜3月まで)です。


1月
●新しい一年を期待しつつスタートする事が出来た事。
●ブログを曲がりなりにも続け、自分の考えを整理し、多くの人とコミュニケートできた事。
●一人で映画を見る事を通してリラックスし、いろいろな事を考えられた事。
●メンズフェローシップの祝福と発展、壮年との関わり。
●JCMN断食祈祷会や、コーチング説明会において、セルについて再び考えられた事。
●体が本当に元気になった事
●パウロの手紙を、手紙として読む事を通して、自らも神の手紙となるチャレンジを受けた事。
●マイケルWスミスのCDやDVDを貸してもらったこと。
●雪の降る中、何もかもズレてしまっていた中、一人一人の温かさを感じて喜べた事。
●副鼻腔炎の処置として、上顎洞洗浄することができ、肺炎にもなりにくくなった事。

2月
●様々な体験から「キリストのからだに対する根本治療」という視点が与えられた事。
●ナウエンの本と出会えた事。
●ありのままの自分のを認め、それを差し出す事しか自分には出来ないのだという事に気付けた事。
●ただいっしょにいるという事が、どれほど大切かという事に気付けた事。
●「これからの牧会ファミリーについて考える会」を導く事が出来た事。
●仕事を大切にするためには、家族が大切だという事を確信出来た事。
●私の存在そのものが神からの賜物なんだという事に気付けた事。
●自分が自分である事こそ、神が私のために用意しておられる計画を知る鍵であると知れた事。
●「自分自身を生きる」ことと「信者の模範となる」ことを召しとして受け取れた事。
●生まれてから、キリストを心に受け入れてからの歩みの日数の方が多くなった事。
●一つとなるためには、今目の前に置かれた人に対しての誠実さが鍵であると知った事。
●教育主事としての召しを受けた事。
●堀井家の二人と、むっちゃん達と一緒に語り明かす事ができた事。
●MDCの同期会を開く事ができた事。
●「ともに食事をする事は礼拝である」と気付く事が出来た事。

3月
●祈祷会での母の証しを通して、父の事を思い出し感謝できた事。
●iMacを購入した事。
●「肉的で宗教的」なのではなく「霊的で世的」なクリスチャンになる様チャレンジを受けた事。
●「神に対して正直に、人に対して誠実に」という方針が与えられた事。
●JECAの総会に出席出来た事。
●教会紹介の冊子を無事に作る事ができた事。
●「自立した信仰を持ち、聖書的に考え、情熱をもって神の召しに応える人」を育てようと考えた事。


おお、もう歳の数に肉薄している!(笑)

2006/10/29

友達との再会

この一週間ぐらいの間で、いろんな大切な人と再会しました。

まず、一番大切なゆーこちゃん♪
彼女の4givenという素敵な讃美グループのコンサートでお手伝いをさせて頂きました!一緒に鍼治療に行ったりもして、とても有意義な時を過ごせました。o(^-^)o 初めて本郷台での礼拝に出てもらい、みんなから祝福の言葉を頂きました〜!ありがとうございます。

そしてコンチネンタルズの仲間であり、ボクたち二人の事をそれぞれ良く知ってくれている堀井夫妻(えいちゃんとしょーこちゃん)。彼らは今、コパンというグループで活躍しています。
いろんな意味で、ボクたちの憧れであり、お兄ちゃんお姉ちゃんです。おいしい食事、温かい真実な交わりをありがとう♪

去年ナッシュビルでお世話になった、Jeff Nelsonと向日かおりさんのコンサートに行きました。人格的に、信仰的に、雰囲気的に、とっても大好きな先輩たちです!
ちなみに、大和田広美さんや教会の仲間たちも写っています。

こちらも、コンチネンタルズで一緒だったことのある、末松さん。リサイクルショップを経営しつつ、ゴスペルピアニストとして、そしてクリスチャンアーティストのネットワークを築くために、陰で仕えています。
お互いの変貌(?)に驚きつつも(笑)、主が確かに一歩一歩ボクたちを練ってくださってきたんだという事を確かめ合う事ができました。そして、今、神様が確かに何かを始めようとしておられるんだという事にあらためて目を留めさせられました。


今まで、ボクはあまり友達を大切にして来なかったかも知れないけど、一番頼りになり、支えになるのは、こういう友達なんだなーと、しみじみと思いました。ブログなんかを通じて、こういう友達のネットワークが再構築されているのも嬉しい限りです!

今後ともみなさま、本当によろしくお願いします!

おまけ

素敵なめがね〜!?


いやいや、ただの検査用です。
妙に似合ってる??

2006/10/03

発表します〜!


久しぶりのブログ更新になりますが、ここで発表させて頂きます。

ボクもとうとう来年の5月に結婚することになりましたー!相手は、大阪在住の瀬戸口裕子さんです。



 本当に自分でも驚くような経緯でした。でも確信に満ちて決断する事ができたのです。いつもは「石橋を叩いても渡らない」ような性格のボクが、今回ばかりは「石橋であると確信して叩きもせずに突っ走った(笑)」ような感じもします。
 でも、それは付き合いの期間の短さというだけの事です。むしろ、それまでの間に二人がそれぞれに信仰者として成熟し、お互い、伴侶となるべき人を確信できるようにと、目を開かせて下さった神様への信頼によって踏み出すことができたと言う事ができます。

 概略だけですが、その経緯を紹介させてください。

<初めの出会い>
 裕子とは、ボクがまだ学生だった頃によく参加していた、ジャパニーズコンチネンタルズという讃美グループのツアーを通して出会いました。もう今から13年も前の事です。その時点でお互いにステキだなとは思っていたのですが、それぞれ別々の道を歩む事になります。
 まだ、まったく機は熟していなかったのでしょう。

 今、思い返すととても恥ずかしいのですが、当時のボクは、同世代の女の子たちに対して、どうも不用意な接し方をしていたようです。これは、はっきりと告白して悔い改めなければならない部分だと思っています。その事に少しずつ気が付いてから、ボクは極力そのような事がないようにと努めてきたつもりなのですが、どうでしょう??


<ボクの歩み>
 その後ボクは、大好きだった讃美を通して神様に仕えていくという道ではなく、一般の企業に勤めつつ主に仕えるという生活を選びとりました。5年ほどたって、フルタイムで主に仕えるようにと導かれ、その道を歩み出します。教会での訓練を終え、教会の事務スタッフとして4年半ほど仕えました。

 ボクは自分では、もっと早く結婚すると思っていました。
 結婚へのあこがれはありましたが、実際にはなかなか「自分のビジョン」と「結婚」という事がはっきりと結びつかず、確信を持って進む事ができませんでした。


<体調を崩す>
 昨年の6月、ボクは体調を崩し、3ヶ月の休暇を頂くことになります。
 おそらく精神的・肉体的なストレスから、免疫機構が極端に悪くなり、それ以降、少し疲れるとすぐに肺炎になったり、ヘルペスを発症したりしてしまいました。ごく軽いものですが、潰瘍性大腸炎という難病にもなっていました。

 自分自身の生活のあり方・奉仕のあり方を根本的に見直さざるを得なくなりました。
ボクは少々ワーカホリックな所があり、何かあるとすぐにいくらでも夜遅くまでかけて何かを作ったり、仕事をし続けたりします。
そして、それは主にある熱心だと思っていました。
 しかし、ボクの背後にあるのは、そういう純粋な熱心さだけではなく、単に自分自身が働いていないと落ち着いていられないからであるという側面もある事が分かってきました。


<ゆっくり考える>
 しかし、この3ヶ月の休み、そしてその後のペースダウンした生活は、自分自身の信仰生活、いや自分自身そのものについてゆっくりと考える大切な機会となったのです。

 中でも重要な役割を果たしたのが、昨年11月に参加したC-BTEという学びでした。リハビリも兼ねてということでまるまる一ヶ月、アメリカのアイオワ州にある教会で行われたこの神学の学びに参加したのですが、そこでの「聖書そのもののメッセージを読み取り、聖書的に考える」という訓練は、ボクの人生を決定的に変えるような学びでした。

 そこで与えられた確信は、「教会は家族であり、家族は教会である」ということです。
 教会は決して個人の生活をサポートするための付け足しの機関ではなく、教会という共同体を形成する事自体が神のみこころであるという確信です。
 そして家族は、教会を構成する大切な核となる機関であって、結婚は創造の初めから語られ、キリストと教会との関係において明確にされ、終わりの日に完成するみこころの中心の一つであるということ。結婚は、決してしてもしなくてもいいものではないということを示されました。

 それまでのボクには「結婚をすると、主に仕える時間が減る」というような感覚もどこかにあったようです。でもその一方でその考え自体にも違和感がありました。しかし、このC−BTEの学びを通して、「結婚こそ宣教を前進させ、教会の土台を据えるものだ」という確信が与えられたのです。


<彼女について>
 彼女はボクがコンチネンタルズにあまり関わらなくなった後も、よく活動に参加し、ハワイへのツアーや、アメリカのコンチネンタルズにも参加しました。そして、今は関西方面で森祐理さんのピアニストをしています。また、コンチネンタルズのOBで作ったグループで讃美をしています。

 彼女を見ていて関心するのは、とても明るく楽しい人なのだけれど、決して「自分が自分が」と前に出てくる事を好まず、周りに置かれた人たちが生かされるように、用いられるようにと縁の下の力持ち的な仕え方をしているということです。
 柔らかい性格だけれど、芯がしっかりしている。そして、何をするにも楽しむ事ができる。一人でいることも、多くの人と一緒に過ごす事も、同様に楽しむ事ができる。とても素晴らしい、柔和で謙遜な、成熟した人格を持った人だと思いました。


<再会>
 彼女と再会したのは、今年の6月です。
 その直前にソーシャルネットワーキングサイトのミクシーで名前を見つけられ、久々にインターネット上ではコミュニケーションできるようになっていました。
 しかしその直後、彼女は突発性難聴という、これまた難病にかかってしまいます。音楽をやっている彼女にとっては、致命的な病です。ボクは、その経緯をミクシーの日記を見ながら祈らされていました。しかし、その後彼女は友人の勧めで素直に入院し、そこでの治療が効いてほんの数日で奇跡的に癒されるのです。薬の副作用ではずいぶんと苦しむこととなりますが。

 そして、その数日後。
 「横浜に住んでいる彼女のお兄さんが快気祝いをしてくれるので、横浜に行きます」という日記がミクシーに書かれました。それを見て、ボクは、久しぶりに彼女と会ってみたいと思いました。久しぶりだからというのもあったし、今どういう状況なのかにも興味がありました。音楽を続けている事、また病を抱えていることも、ボクとの大きな共通点として、すでに惹かれていたのかもしれません。

 そして、久しぶりに会うことになりました。
 ほんの3時間ほどの散歩(?)と食事のひと時でしたが、長いブランクを全く感じさせないほどの打ち解けた、濃い話が出来ました。とは言え、結婚やつきあいを感じさせるような会話はその場ではほとんどしませんでした。でも、お互いの心に、その瞬間にすでにある種の確信めいたものが与えられていました。


<つきあいが始まる>
 それから数日間、お互いにお互いの事を特別な存在と感じて祈りました。
 その後、ボクは過去の自分の反省から、中途半端に思わせぶりな事はしたくなかったので、自分自身の思いを理路整然と文書にまとめて、彼女にメールを送りました。「二人が結婚する事が神のみこころかどうかを一緒に求めるという目的で、互いの親交を深めて行きたい」という事を伝えたのです。
 ボクの中では、「結婚を前提につきあう」ということと「結婚がみこころかどうかを知るためにつきあう」ということの違いがはっきりしていたので、その事を初めに伝えたかったのです。

 彼女の答えは即答でした(笑)

 でもボクの文章は理路整然としてるけど、本当に好きなのかどうか伝わって来ないという事でした・・・(^_^;)


 その後毎日、無料電話のスカイプでいろいろな事を分かち合いました。そして、インターネット上に二人だけの掲示板をつくり、祈りの課題などを出し合いました。話せば話すほど、これほどピッタリの人はいないという確信が強まっていきました。
 何よりも、お互いに、一緒に過ごす時間が一番自分らしく、ありのままで、無理のない自分だという感覚がありました。そして自分の存在が、相手をより相手らしくしているのだという事が、無理なく心にすっと受け入れられるようになりました。


<プロポーズ>
 8月には、大阪に行きました。治療のためですよ(笑)
 彼女は、突発性難聴の治療の副作用で苦しんでいる中で、中国鍼と漢方の素晴らしい先生と出会う事になります。そして、速やかに癒されていきました。ボクの病を知っている彼女は、「ぜひこの治療を受けに、大阪に来て!」と言いました。
「私に会うためではなく、治療のために来て下さい!」
 この発言は、ボクが結婚を決めた、大きなポイントの一つでしたね。

 ボクは実際に行く8月までには、すでに結婚についての大きな確信が与えられていました。そして、大阪に行った時には、きちんとボクの思いをつたえなくてはならないと思いました。祈り、そのための準備をして、大阪に行きました。
 そこで、彼女に「結婚して下さい」とプロポーズをしたのです。
 (詳しい経緯はここでは書きませんが・・・、自分なりに精一杯考えました。)
 そして、この時も即答です!
 晴れて、結婚の意志がお互いに確認できました。

 それ以降、驚くほどのスピードでいろいろな事が整えられ、来年の5月12日に結婚するようにと導かれて行ったのです。


<ボクの文章って・・・>
 概略だけを報告しようとしたのに、長くなってしまいました。
本当は、ここに書かなかった数々の事柄のほうが、実際的な中身なのですが、どうもやっぱりボクが文章を書くと堅くなってしまうみたいですね・・・。書き出すと、本当にキリがありません。でも、一つ一つが神様から与えられた恵みなので、なんらかの形で、それらを分かち合う事ができたらいいなと考えています。

 この文章だと、ボクの今の喜びや感動はあんまり伝わらないのかも知れないとも思うのですが、どうもボクの場合こういう所からスタートする方がしっくりくるようです。もし個人的に聞いて下さる方がいらっしゃれば、いくらでもノロけることができますよ〜。
o(^-^)o

神様へ、そして皆様への心からの感謝を込めて、ここに報告&発表させて頂きました。どうぞ、これから結婚までの道のりが支えられますように、お祈り下さい。二人の関係を通して、神様の祝福の計画がどんなに素晴らしいかを分かち合う事ができればと願っています。
そして二人の結婚後の生活と主に仕える働きが、さらに祝福されるようにどうぞお祈り下さい!

2006/08/24

イメージ

アンダースウィークのコンサートに行ってきました。
彼はずっとレーナマリアのツアーのピアノ奏者として同行してた人。

もう驚嘆!
色とりどりの音色が、自由に飛び出てくる。
すんごいことをやっているんだけど、
楽しんでやっているし、心に響いてくる。
ピアノの代わりにエレピ(fp8)を使ってたけど、
あれって、あんなに表現力のある楽器だったんだ!
とにかく、心の内側が満たされた。

小さい頃、ピアノを弾いてみたいと一瞬思った事はあった。
(まあ、団地住まいだし、家にはなかったから
 どっちにしろありえない話だったんだけどね)
でも、小さい頃はそういうワクワクするような音楽に
であった事がなくて、そして弾いている人をカッコイイと
思った事がないんだよねー。
しかも、ピアノを弾くのは女の子ってイメージ。

もし、あんなにカッコイイ人が、かっこよくピアノ弾いてる
姿を小さい頃に見たら、「ああなりたいっ」て思ったかもなー。


結構、イメージって大切なもの。
昔は食わず嫌いも結構あった。
「男はだまって勝負だ!」とかいう言葉にも影響された。
勉強ばっかりしてるのもかっこわるいと思った。
「オタク」という言葉が世に出たころは、
パソコンをしばらくやめた。


今、大事なのは、大切な言葉の意味とイメージを回復することかもしれない。
愛とか、希望とか、夢とか、そういうこと・・・。
家族とか、夫婦とか、親子とか、そういうもの。
男らしさ、女らしさとかそういうのもそうだ。
愛国心というのも、そのたぐいかもしれない。

もし、人が人として生きていく上で大切な概念の一つ一つが、
健全なイメージを取り戻す事ができれば、
子ども達も、そこにむかって希望を抱けるのかも。
そして、この社会も大切な事を共有して歩んでいける。


最終的には、良いものと、そうでないものを、
単なる枠組みではなくて、自分自身で判別できるようになること。
そして、それを選び取る事が出来るようになること。
そのためには、何が「悪いことか」を教える以上に、
何が「良いことか」を教える事が必要だと思う。
その「良い事」は、本当に本物でなくてはならない。
そのイメージを与える側の価値観が、問われてくる。


どうか、日々、良いものを見分ける事ができる目を与えてください。
ボクの周りに置かれている一つ一つのかけがえのない恵みに
感謝をもって心を留めていく事ができますように。
ボロボロに傷付いたこの世の価値観が、少しでも健全なものへと
回復していきますように。

2006/08/15

なつやすみ

子供の頃は、夏休みって本当にワクワクしたなー。
あれもしたい、これもしたいって、考えただけで嬉しかった。
でも、いつの間にか、夏休みをとれる時間も短くなって、
いろんな意味で余裕がなくなってしまって、
ああ、大人になるってなんだか寂しい事だなーと思ってた。

でも本当は遊びって、豊かな人格をつくるために、
なくてはならないものなんだよね。
クリエイティビティーは、遊びの心がなくては、とても成り立たない。
遊びがなくなると、なんだか心の豊かさも失われて行くような気がする。
本当に思いっきり遊ぶ事が出来てこそ、勉強にしろ、仕事にしろ、
なすべき事に思う存分集中することが出来るんじゃないだろうか。

そういう意味で、今年の夏休みは、久々に本当に充実した時になりました。
心もからだもリラックスして、十分にエネルギーを補給する事ができました♪


今は、クリエイティブな「遊び」が出来ない子がたくさんいる。
つくられた魅力的な世界を、与えられるがままに消費している。
何もなくても楽しむ事なんて出来ない。
人と人との関わりの楽しさも、友情構築のプロセスにある喜びも煩わしさも知らない。
人生を楽しむ事も、自分で生き抜いて行くための力も身に付いていない。

どうしたら、人間が人間らしく成長していくことが出来るんだろう?
ボクはボクなりに、そのために精一杯取り組んで行こうと思う。
今からでも遅くはない。ボクは信じている。
ボク自身への取り組みは、必ず身近な人たちの祝福になっていくはずだから・・・。

2006/08/04

君に会えて嬉しい

裏のページに曲をアップしました〜!
興味のある方は、ぜひぜひ聴いてやってください。
これはなんと、今から14年も前に作った曲なんです・・・。
時のたつのは早いものですね。


今日は、久しぶりに目の周りが腫れてしまって、とても痒かったです。
掻かないで済むように、冷やしたりしながらしのいでいました。

「早く帰っていいよー」と言われたので、
感謝して素直に帰って、横になりました。
やっぱり少し疲れてたのかなー。
休んだら皮膚の調子もよくなってきました。

今日も感謝です〜。

2006/07/29

ハチのキモチ

窓辺で作業をしていたら、何か物音が聞こえる。
「ブーン・・・」
反射的に身を避けてみる。

「何か虫がいるな。よし無視しよう・・・。」
と、しょうもない親父ギャグがとっさに頭に浮かんでくる
自分に罪責感を感じながら、虫の存在は忘れる事にして
黙々と作業を続けることにした。

「ブーン・・・」
ああ、うざいなー。と思っていたら、
その音の発生源が目の前まで飛んできた。

ハチだ。それもデカい。
スズメバチか?
いやスズメバチではなさそう。
とりあえず、ほっとするも、
やっかいな物を目にしてしまったと思う。

「ブーン・・・カン、カン、カン」
よく見る光景だが、ハチが窓にがんがん体当たりしてる。
「あほやなぁ、あいつ」

と思いながらも、心の善良なさとけんは
黙ってみている事ができず、
おもむろに窓の方にむかって歩き出し、
窓をあけてそいつを解放してやることにした。

「でも、時々いるんだよなー。せっかく窓開けても、
 そこから出ないでまた中をぐるぐる飛び回るヤツ」

でも、このハチ君はとても素直に窓から
さわやかに飛び立って行ってくれた。
「さとけん、ありがとうー!ブーン!」


その瞬間、ボクの心の中に一つの思いが沸き起こった。
ボクら人間も、これと同じような事いっぱいしてるなーと。

自由にされたい、解放されたいと願っているのに、
そこにある窓に気がつかずにガンガンと頭をぶつけている。
まわりの人はそれをうるさがり、危害を加えるものだとして
避けようとする。

せっかく窓をあけて、自由になる道が示されていても
それを理解せずに、むしろ警戒心を抱いてそこから出ようとしない。
もし出ようとしないでそこに居座ろうとでもするなら、
忍耐のない者達は、そいつの息の根を止める道を選ぶ。


自分がどちらの立場に立ったとしても、本当に必要な視点がある。
小さいハチの姿を通して、
ちょっとした、でも大切な事を教えられた気がする。

2006/07/27

右から左へ、左から右へ

人には右脳と左脳がある。
右脳は、感覚的・感情的な部分を担当し、
左脳は、論理的・理性的な部分を担当しているらしい。

人間にも右脳タイプの人と左脳タイプの人がいる。
でも、右脳だけの人、左脳だけの人というのはいない。
人間が人間らしく生きていくためには、この両者のバランスが大切だ。


最近気付かされているのは、
この右から左、左から右というコミュニケーションの大切さだ。
人が感動したり、泣いたり、笑ったりする事は、右側が担当している。
これはものすごく人間らしい部分だ。
しかし、これだけに頼ると、その瞬間瞬間の感覚に振り回されてしまう。
しかもその感情の表れ方が、心の傷など様々な要因でうまく発揮出来ないとき、
本来苦しむべきでない部分でも苦しんでしまう。

そんなとき、右側で起こっている事を、左側がきちんと受け止め、解釈し、
理性的な理解をする事がすくなからず助けになる。
そして、理性的な理解になると、それはより永続的なものへとなって行く。


何かを考えたり、知識として理解したりするのは、左側の担当。
これも人間に顕著に与えられた特殊な能力だ。
しかし、これだけに頼ると、無味乾燥なものとなり、
人の心を理解しない、硬直した生活になってしまう。
人生に与えられている、心から楽しんだりする能力が奪われてしまう。

そんなとき、左側で理解した事を、右側にうまく伝達し、
それを解放してやる必要がある。
そして、それを心で受け止められるようになると、生活が生き生きとしてくる。


これは、不正確さを恐れずに言えば、こういう感じかもしれない。
・聖書=左脳の担当(知)
・御霊=右脳の担当(情)
・コミュニケーション=私の担当(意)

つまり、この知・情・意のバランスが、生き生きとした健全な生活の土台となる。


神様が与えて下さっている豊かな祝福を、
私の祝福として受け取ること。
そしてその祝福が私を通して伝わって行く事。

そのために、何が健全で主に喜ばれる事なのか、
全身全霊をもって求めて行くものでありたい。

2006/07/24

楽しみながら走る

久しぶりに(と言っても一ヶ月ぶりに)映画を観に行った。
何を観るか少し迷ったが、ちょうど良い時間にやっていたのが、
ディズニー&ピクサーの「カーズ」

それほど期待してはいなかったのだけど、
なかなかどうして、かなりのお気に入りの映画になった。
観ていて何度も素直に涙を流した。
映画なので詳しい内容は書かないけど、
これはむしろ大人が観て感動できる映画だと思う。

大切なものって何だったっけ?
スピードって?
友達って?
人生って?
本当の生きがいって?

めちゃくちゃ奇麗なCGの映像美と、
単純明快だけどツボを押さえたストーリーで、
ずーっと食い入るように観てしまった。


「ゆっくりと楽しみながら走っていた時代」から、
いつの間にか「楽しみに行くために走る」ことへと変わってしまった人々。
どこかへ行くというのは、単なる手段だから最短距離が一番いい。
そんな世の中になってしまったからこそ、
失われたものの大きさに、もう半ば取り返しのつかなくなった頃に気づくのだろう。

人生の目的とはなんだろう?
もしボクたちの人生が、その目的へむかうための単なる手段だとしたら、
ボクたちもまた最短距離を超スピードで走り抜くのが一番かもしれない。
しかし、楽しみながら走ることが目的だとしたら?
今そこにある自分自身やまわりの人たちとの関係こそが目的だとしたら?

ボクたちは、わき目もふらずに走ることを美徳としすぎて来たのではないだろうか。
目的を見失ってはいけない。でも、そのプロセスはもっと大事だ。
人が人として生きているということ。
人が人らしく生きるということ。
もう一度、そんな事を考えさせられた。

2006/07/20

回復・解放・自由

ここ数週間、ずいぶんと体調が良くなって来た。
それまで、体調が良くなったかと思ったら
突然バーンと悪くなる事が多かったので、
しばらくは恐る恐る様子を見ていた。
でも、今回は本当に回復の手応えを感じる。


要因はいろいろあるだろうなー。
いろんな方に紹介された健康法。
生活パターン。
精神的なゆとり。
そして、誠実に祈ってくださる方々の愛。

体力的にも、精神的にも、時間的にもゆとりができると、
自分の内側に、人を受け入れる事ができる
健全なスペースが出来るのを感じる。
だから、いろんな人との距離感というのを
自分自身でしっかりと把握できる。


ボクのイメージの中では、愛とは解き放つ事だ。
縛られている人を解放し、自分もその人を縛らない。
でも、それが本物であれば、その自由の中で、
相手自身が本当になすべきことを選び取る事が出来るのだ。

そういう意味で、私自身が解放されていることは、
他の人をも自由にすることだと思う。
キリストの十字架は、私たちを解き放つものだ。

真の自由と愛によって、この地に回復をもたらす者とされたい。

2006/07/07

君だから素晴らしい

揺るがない絶対的な存在に、
ありのままの価値を認められること。

たったそれだけで、私たちの歩みは全く変わります。

生きる希望があふれ、喜びに満たされ、
こころは平安そのものです。
自分の存在を確認するために、一生懸命努力する必要はありません。
自分が自分であるためには、ただありのままで十分なのです。
そんな確信を与えられること。
今、多くの人が、そのような土台を必要としています。

ことばには力があります。
私たちを作られた創造主は、
今も変わらずに、その愛のメッセージを語り続けてくださっています。
そして、私たちは互いにその主の愛をもって、
愛し合うように召されているのです。

イエスは言われました。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあうこと、
 これがわたしの戒めです。(ヨハネ15:12)」

私たちの存在そのものに価値がある。
私たちはこのメッセージを、絶えず聞き続ける必要があるのです。
もちろん、本当の愛とは、ことばや口先ではありません。
しかし、初めにことばがあり、ことばが人となるのです。
私たちは、いのちをかけてこの主の愛を告白をしようではありませんか。

主が造ってくださった私たちの本来の美しさは、
その愛のことばから輝き始めるのです。

2006/07/03

自衛手段

とても調子が良くなって来た気がします。
・・・でも調子に乗らないように気をつけますね。


ところで皆さん、人はみんな自分の安全確保のために
様々な自衛手段を取るんだ、ということがようやく少しずつ分かってきました。
人それぞれ、どのような状態を「安全」と感じるかも違いますし、
その安全を確保するために無意識に取る行動パターンも千差万別です。

実はボクの場合、自分をなるべく客観的に見つめると、
こんな感じのパターンが多いことに気づいてきたのです。
(1)話し合う
(2)避ける
(3)逃げる
(4)忘れる

とにかく、言い争ったり、戦ったりするのは基本的に嫌いです。
そして、そこで傷付けたり傷付けられたりするのが辛いので、
なるべく話し合って、少なくとも心が打ち解け合う方向を目指します。
でも、話がこじれそうな時や、相手が聞く耳を持ってないと感じる時や、
どうやっても自分自身が消化しきれないと感じるときは、
その状態を避け、逃げてしまいます。

そして、もっとひどい時は、先の事でも後の事でも、
思い出すと気が重くなってしまうような事は、
考えないようにするどころか、記憶から追いやってしまうようなのです。
(もちろん、意識の深い所には残っていると思うのですが・・・)

だから、たとえ良いと思っていた記憶でも、何かをきっかけにして
その記憶そのものにも嫌悪感を抱くようになったときなどには、
無意識のうちに、忘れようとしている自分がいるようなのです。


この「ようなのです」というのは、どうもそうらしい、というだけで、
あやふやなのですが、そういう所がボクにはあるように思えてきました。
(単に忘れっぽい事を自己正当化しているだけなのかなー?)


ではでは、この「自衛のための行動パターン」は良いものなのでしょうか?
それとも悪いものなのでしょうか?
どうなんでしょう。悪い結果を生んだときは悪くて、
良い結果を生んだときは良い、とでも言いましょうか。


自衛手段なのですから、危機回避という意味では良いものでしょう。
でも、その「危機」とは、あくまでも自分にとっての「危機」であって、
本当は誰でも成長のために必ず通らなければならない試練や恵みをも
回避してしまう可能性があるのではないでしょうか。


ある時には、この自衛手段を手放す必要があります。
なぜなら、それは十字架を経験することを拒むからです。
「愛」の大切な一側面は、恐らく「無防備になること」なんだと思います。
だから、自分が傷付く事を恐れてばかりいては、本当の愛は流れて行かないのです。
「完全な愛は、恐れを閉め出す」ものなのですから・・・。


自衛手段は、人によってはこんなものがあるでしょう。
ルールをつくること。すべてを計画すること。人を操作しようとすること。
すべてをコントロールしようとすること。相手を攻撃すること。
笑い飛ばしてしまうこと。だまりこんでしまうこと。
やたらと批判ばかりすること。とんでもなく自己卑下してそこに留まる事。
権威を利用すること。そのほか色々・・・。

なぜ、そうしてしまうのかという背後にある深い傷を想像すると、
とてもとても、そのこと自体を簡単に指摘して済ませてしまう事はできません。
簡単にはこの自衛手段は手放せないのです。
だって、自分を守って来たんだから・・・。


でも、そんな自分の姿に気づく事は、
必要な時にそれを手放す事ができる決断へと導いてくれると思います。
そして、恐れからではなく、愛から行動出来るようになるとき、
ボク自身も、まわりの方々も、本当の平安につつまれて歩む事が
できるようになるのだと思います。

この一生の大仕事、ともに分かち合いながら、成熟へと向かって行きたいですね。

2006/07/01

くるくる

ヘルペスもそろそろ良くなったかなーと思っていたら、
今日は朝から頭がくるくるしていた。

しばらくじっとしていたら直るかと思ってたけど、そうではなかった。
結局今日も休むことにして、病院にいった。
前にももらったメニエル病とかに効く目まいの薬をもらってきた。
今は朝よりずいぶんと楽になったけど、
ボクの頭の中はどうなっちゃってるんでしょう・・・。


さてさて、仕事を休んでいる日にナンですが、
夕方になってちょこちょことLogicをいじって、
ようやく日々こつこつ作って来た曲がかたちになりました。
裏のページにアップしておきますので、よろしければお聴きくださいませ。

2006/06/26

予感

予感的中。
再度ヘルペス発症です・・・。

だるーい感じと、肌の荒れ方を見て、皮膚科に行くことにしたら、
案の定ヘルペスだと。

でも明らかにそうだって分かる前に行けたから、
きっとすぐに良くなるでしょう。

にん、にん。
(ToT)

2006/06/24

愛の連鎖

今日は久々の外部でのPA奉仕だった。
みんなボクの体調を気遣ってくれて、
一番大変な力仕事やいろんな調整はみんなやってくれた。
ボクはひょこっと言って、ちょこっと指示出して、
ちょろっとオペレートして、ささっと帰って来ただけ。
でも、本当に心地よい、素晴らしい時を過ごせた。

今回は初めて中上祐子さんのためにこのPAを持ち出して使った。
おまけにホールは音の響きが扱いやすく、ほとんど凝った調整してないのに、
まるで、PAをしている自分がうまいかのような錯覚に落ち入るほど!
o(^-^;)o

心地よいコンサート。
そして「ゴスペル」という音楽が、一般的にとても好意的に
受け入れられているのを実感した。

ゴスペル  Gospel...  Good News...
福音、 良い知らせ・・・


誰もが「良い知らせ」に餓え渇いているんだと思う。
でも「良い知らせ」を聞き慣れてないので、
「良い知らせ」をどう受け止めたらいいのか分からない。
「良い知らせ」なんて、どうせ一瞬の気晴らしなんじゃないか。
「良い知らせ」なんて、どうせ何か裏があるんじゃないか。
「良い知らせ」なんて、本当はないんだ・・・。

聞こえてくるのは「悪い知らせ」ばかり。
そして「悪い知らせ」にすっかり自信をなくしながら、
物事を真正面から受け止めなくても済むような生き方を、
誰もが学んで行くようになっている。
それが、この世にあって、大人となるということ。
ちょっとサビシイ・・・。


ゴスペルブームは、その餓え渇きと醒めた心との
ちょうどバランスの取れた所で受け入れられているようにも思う。
ここだったら、その「気分を味わえる」から。

そう、でもその「良い知らせ」と親しむ事には意味がある。
その「良い知らせ」とともに歩む道があるんだということに
目が開かれて行くとき、ほんのちょっとした事から、
それが本当に自分のものとなる。
もし、自分がそれをちょっとでも体験すれば、その輪は広がって行くかも・・・。


中上さんの歌に「Chain Reaction」という曲がある。
曲のメッセージは、「負の連鎖」ではなく「愛の連鎖」へ、という呼びかけ。

確かに、マイナス思考のエネルギーは恐ろしいほど強烈だ。
しかし、主の愛のエネルギーはそれを超えるのだ。

もっと本物の「愛」を学ぼう。
もっと神様がつくって下さった「ありのままの自分」に誇りを持とう。
ボクにも、主の愛をあらわす場が、目の前にあることを信じよう。
それが大きな事であったとしても、小さな事であったとしても、
その価値は変わらない。

ボクにしか、届けられない人々が待っている・・・。
ボクから始まる、愛の連鎖。
あなたから始まる、愛の連鎖。

2006/06/21

愛の家

恐れから来る否定的なエネルギーほど、私たちを蝕むものはない。
・・・久々にナウエンを読みながら、そんな事を感じた。

前に購入していたのに、まだ読んでない本が何冊かあった。
他の本も心が惹かれたらどんどん買ってしまうので、
ナウエン以外にも読みきれていない本はたくさんある。

しかし、ナウエンを読むと、その誠実さと、洞察の深さと、
その主張の明確さに、他の人とは違う圧倒的な練られた品性を感じる。


今読み終えたのは「キリスト者の視点から見た、親しさ、豊かさ、喜悦」という
副題のついた、『いのちのしるし』という本だ。
ナウエンによると、


この本は、ときに逆が正しいように見えたとしても、愛は恐れよりも強い、
という確信に立って書かれている。・・・「完全な愛はすべての恐れを追い払う」
・・・この本のなかでわたしはこの完全な愛のしるしを探し、
このしるしにそって進んで行く方法を見つけたいと思う。
恐れの家から愛の家へと移っていく霊的な動きの可能性を示したいと願っている。


と述べられている。
そして、その「しるし」が、「親しさ、豊かさ、喜悦」なのだ。



愛は、恐れから来る両極端な行動を超越したものだ。

愛は、隔離への恐れや、近づきすぎる事への恐れを超越し、
あらゆる状況で真の「親しさ」をもたらす。

愛は、不毛への恐れや、恐れから駆り立てられる生産性を超越し、
あらゆる状況で真の「豊かさ」をもたらす。

愛は、恐れからくる律法主義や、恐れから来る根のない状態を超越し、
親しみに満ちて、実り豊かな生活の報酬として、
「満ちあふれる喜び」をもたらす。



私たちが生きる、ということはとても神秘に満ちている。
私たちは、どうしても自分自身の存在価値を、
自分たちの外側に見いだそうとする。
しかし、私たちの内側に与えられるこれらの「愛のしるし」を
見失う事なく、いつまでも「愛の家」で過ごしていきたい。

2006/06/12

主体性

愛は行動・・・ということを考えていたら、コヴィー氏による『7つの習慣』に行き着いた。
以前に読んで感銘を受けた部分でもあるので、引用を交えながらそこでの考え方を紹介したいと思う。



あるセミナーで主体性について講義していた時、ある男性が前に出て来てこう言い出した。
「先生のおっしゃっていることはよく分かるんですが、人によって状況はすべて違うんですよ。例えば、私の結婚を考えていただけますか。不安でたまりませんよ。妻と私は昔のような気持ちがもうないんです。私は妻を愛していないし、妻も私のことなんか愛していません。こんな状態で何ができるって言うんですか。」
「愛する気持ちをもう失ってしまったんですね」と訊くと、
「そうです」と彼は答え、「子供が三人もいるので、とても不安なんです。どうしたらいいのでしょうか」と続けた。
「奥さんを愛しなさい」と私は返事した。
「ですから、今言ったでしょう。その気持ちはもうないって」
「だから、彼女を愛しなさい」
「先生は分かっていない。愛という気持ちはもうないんです」
「だったら、奥さんを愛すればいいんです。そうした気持ちがないのだったら、それは奥さんを愛するとても良い理由になりますよ」
「でも、愛情を感じないとき、どうやって愛すればいいんですか」
「愛は動詞である。愛という気持ちは、愛という行動の結果にすぎない。だから奥さんを愛しなさい。奥さんに奉仕をしなさい。犠牲を払いなさい。彼女の話を聴いてあげなさい。感情を理解してあげなさい。感謝を表わしなさい。奥さんを肯定しなさい。そうしてみては、いかがですか」


これは「主体性を発揮する」という項目の中で書かれている話である。
この中で鍵となる考え方は、人間は「刺激と反応の間に選択の自由」をもっているということである。この選択の自由の中には、人間の人間たる4つの独特な性質<自覚・想像力・良心・自由意志>がある、というものだ。

確かに、ボクたちは、主体性を失いがちだ。
何か特定の不快な状況に遭遇すると、いつも決まって「こう反応してしまう」とか、ある感情にが沸き起こると、こういう行動を押さえられない、とか。


しかし、自分の人生の責任を自分で引き受ける事が出来るようになると、それらに必要以上に振り回される必要がなくなるのだと言う。
「責任」は、英語でレスポンシビリティー(Responsibility)だが、この言葉の語源は、レスポンス(Responce:反応)と、アビリティー(Ability:能力)という言葉からなっている。主体性のある人は、そのレスポンシビリティー「自分の反応を選択する能力」を発揮しているということになる。彼らは自分の行動に対する責任をとり、状況や環境、または条件付けのせいにしようとはしない。彼らの行動は自らの価値観に基づく意識的な選択の結果であり、状況によって起きる一時的な感情の結果ではない。



「刺激と反応の間に選択の自由」がある、というのは大きな希望ではないか?
もちろん、すべてがそううまく行く訳ではない。しかし、自分の人生を健全な意味で自分自身の手のうちに取り返す必要は誰にでもあるように思う。実際、多くの人が抱えている問題は、ここから出発しているのではないだろうか。

皆さん、どう思われますか?

2006/06/09

愛は行動

今日医者に行ってレントゲンをとり、
肺炎の陰がなくなっていることを確認しました。
お祈りして下さっている皆さん、本当にありがとうございます!

ただ、今週はじめの血液検査の結果ではCRPという炎症反応がまだ0.9ありました。
でもその前はCRP18.31というとんでもなく高い数値だったので、
これでも、ものすごく良くなっているんだと思います。
(ちなみに、正常値は0.0〜0.45。まあ、0.9なら、ほとんどオッケーですね)

以前から、はっきりと原因が特定出来ないときもCRPが高い事があり、
ちょっと嫌な感じではあるのですが、経過を観察しながら
健康に気をつけていきたいと思います。



ところで、今日診察に行ったら、先生からこんな質問をされました。
「心療内科の診察をしている時、よく『愛は行動です。感情ではないんです。』という
 アドバイスをしているのですが、聖書にこれに相当する教えはありますか?」

いくつか思い浮かんだのですが、その時は少しだけ話をして、
持ち帰らせていただきました。

例えば、患者さんが「でも愛という気持ちがわき上がってこないんです。」
とおっしゃるような場合、先生の信念としてそのように話をしているそうなのです。


でも、単に自分の信念としてではなく、これは恐らくキリスト教的な思想だから、
もし聖書の中でこれに相当するような教えがあったら、それをぜひ教えて欲しい、
とのことなのです。



いくつか思い当たる節はあるのですが、
皆さんだったら、どのように応えられますか?
ぜひぜひ、皆さんお知恵をお貸しください!

2006/06/01

世の中には

入院するほどの肺炎ではないのだけど、治療には抗生物質が必要。
昨日は点滴をしてもらって、
今日は休診日なんだけど、点滴をするから朝いらっしゃいとの事でした。

約束の時間に10分遅れていったら病院に入れない。
がーん。残念。

しょうがないので(Googleの翻訳ではno gingerと訳されるらしい・・・)
家に帰って、おとなしくしていた。

すると午後3時頃、病院の先生から電話があって、
「今から行ってもよろしいでしょうか?ご自宅で点滴します」
「も、もちろん!お願いします」

ほどなく、先生がバイクでやってきて、点滴を施してくれた。



この先生には、昨年から随分とお世話になっている。

きちんと話を聞いてくれる、
経過をきちんと把握して心と体全体を考えてくれる、
内視鏡の手技が超うまい(痛くない)、
不必要にやたらと薬を出さない、
必要に柔軟に応えてくれる、
ソフト整体やアロマテラピーを併設している、
土曜も日曜も診療している、
木曜の休みは訪問看護している

などなど、本当に頭が下がる先生なのです。

特に昨年、アメリカ滞在中に、継続して飲むべき薬がなくなった時や、
具合が急に悪くなった時、メールを送ってみたら迅速に返事を返してくださり、
適切な対応をしてくださった。


それだけでなく、クリスチャンではないけれどキリスト教にも敬意と関心を持っていて
教会の祈祷会にも出席してくださった。
ボクが診察に行くときには、しょっちゅう信仰についての話にもなるのです。


世の中には、こんな良い意図をもったステキなお医者さんもいるんです。
先生の体が支えられるように祈ります。

2006/05/31

Not Again!!

肺炎です・・・。(ToT)

これで一年以内に3回肺炎をしたことになります。
調子がいいかな?と思ってたら一気にがくっと悪くなる。
はーっ、つかれた・・・。

2006/05/22

SMAP???

曲作りましたよ!
ここから、Podcastをクリックしてたどって下さい。

「SMAPが歌いそうな曲」というイメージで曲作りをチャレンジしたのですが、はたしてどうだか・・・???歌詞は、前にこのブログで書いた「告白」をテーマにつくってみました。Mくん、ありがとう!

よろしければお聴きください。(*^_^*;)
ご意見、ご感想お待ちしてま〜す^ー^

2006/05/20

虹のかかるとき

虹だよ~。
こんなにくっきりはっきりした虹を見るのは初めてかも。



天気がころころ変わって、蒸し暑い日だったけど、
十分な湿気と十分な日差しで、ステキな虹ができました。

すごいね。

2006/05/16

悩む教会

「クリスチャンになったら悩みなんてなくなるよ。」
そんな気楽な人は、さすがにいないかも知れない。

しかし、悩んでいる人を見て、
「キリストを信じなさい。そうすれ救われるよ。」
と声をかける人は多いのではないか。

このこと自体は何の問題はない。
しかし、それを言っている私たちが、
目を開けて目の前の現実をしっかりと見ようともせず、
心を開いて彼らの心の声をしっかりと聴こうともせず、
万能薬のように「信ぜよ、信ぜよ」というのは、
キリストの姿からも、使徒たちの姿からもほど遠い。


そういう思考パターンが出来上がってしまうと、
道ばたに、半殺しの状態で倒れている人がいるときにも、
通り過ぎないまでも、「あなたに必要なのは信仰です」と言って、
それ以外の事が見えなくなってしまう可能性がある。
クリスチャンでなければ、そんな事は言わないだろう。
彼らは「最終的な答え」を知らないがゆえに、なんとかして
彼らを助けたいと思って、とにかく緊急に必要と思われるものを
用意してあげようとするのではないか。
たとえそれが的外れなものであったとしても、その心は伝わるのではないか。

ある人の「悩み」を見いだした時、私たちに出来る最善のことは何だろう。



今日、クリスチャンの雑誌を読みながら、
そこに出ている記事の前に、しばし考えさせられた。

それは、「悩む教会」という一つのあり方だ。
北海道日高地方にある「べてるの家」。
精神的な病気を持つ人や、様々な障がいを抱えた人たちのコミュニティだ。
この働きの元となったのは、過疎の町の小さな教会だった。

彼らが、精神的な病気の人を受け入れていってから、
教会に障がいをかかえる人たちが出入りするようになり、
教会のツケで飲み歩く人もいた。そして教会の評判は下がりに下がったという。
礼拝中も人が出入りして落ち着かず、
「ここでは礼拝ができない」と遠ざかる教会員もでてきた・・・。

しかし、そんな時だ。
「今まで出会うことのなかった彼らの悩みを共に悩み、共に挫折し、共にとまどい、
無力のなかでただ祈るしかない悩み多い教会のまえにひれ伏したとき、
そこには『悩む教会』という新しい可能性と希望が与えられたのである」

「悩む教会」という希望!
なんという、主からの啓示だろう!


人の痛みを、私の痛みとすること。
人の喜びを、私の喜びとすること。
人の悩みを、私の悩みとすること。

これは、イエス様の姿だ。


私たちもそのような存在になれないだろうか。
私たちは、答えなんか知らない。
知っているのはイエス様だけだ。
でも、ともに痛んだり、喜んだり、悩んだりはできるかもしれない。
そういう人が失われているということが、
この時代の問題なのではないか。

答えを知ったかぶる必要はない。
私たちがともに痛んだり、喜んだり、悩んだりする時に、
イエス様がともにいてくださる。
ただ中にいて下さる。


その変な壁を打ち壊して、自由にイエス様に働いていただこうじゃないか。
そして、いっしょに悩もうじゃないか。

2006/05/08

Another Journey of My Spiritual Life

ヘルペスのぶつぶつは、おかげさまで良くなってきました。
そのかわり、皮膚の湿疹がアトピーみたいな感じで広がっていて、
痛し痒しという感じです。
こちらをたてれば、あちらがたたず。

とりあえず皮膚科の先生の言う事に従って、
しばらく様子を見てみます。
体調的にはずいぶん良くなったと思います。


休みを利用して、デジタルでクリエイティブな生活が出来るよう、
家の環境を整えて、少し実験してみました。

せっかくiMacがあるのだからと、もう一つのページをつくってみました。
http://web.mac.com/satoken.church

これには、Another Journey of My Spiritual Lifeという名前をつけました。
「どこが?」と言われそうだけど、
今、本当に自分自身のあり方について試行錯誤なのです。
そして、ボク自身を含め、これからの時代を生きる人々のライフスタイルが、
霊的な輝きをもったものとなるよう、「信者の模範となる」のが目標です。

目指すのは、創造的破壊。
イエス様やダビデがそうだったように、「囲いの中の人」よりも、
囲いの外にいる人とより接点を持てるように、実際に行動してみたいのです。


こんな事が出来るのは、今自分が置かれている極めて特殊な環境のゆえだと思っています。
多くの人の祈りと、守りがあってこそ。
そして、自分の弱い部分がなければ、今の取り組みは時間的にも不可能でしょう。


人間的な弱さに流れてしまう事もあると思うけど、
今はとにかく思ったまま行動してみたいと思います。


1%にも満たない日本のクリスチャンの常識を、
もう一度イエス様の視点で考え直してみたいのです。

長い人生だから、表面的な結果を性急に求め過ぎないで、
じっくりと土台作りをしていきたいと思います。

2006/05/02

ブツブツ

疲れると肌に出ることが多い。

特に目の上。
典型的には右目まぶたがガサガサになる。

ここんところ落ち着いてたんだけど、
2、3日前から、左まぶたがヤバくなって来た。
昨日の夕方にはブツブツができてて、
今日の朝には全体的にぶくっと腫れてしまった。
しかも、今回はちょっとばかし、痛い。

連休前だし、かかりつけの医者と、皮膚科とに行っておいた。
すると・・・

「これは、ヘルペスですね」


ああ、なんとなくそんな気がしてたんだ。
でも本当に今日医者に行けてよかった。
飲み薬と眼軟膏をもらったが、下手すると視力が下がってしまうとの事。
こわーい。

今日はさすがに映画に行くのも断念して休んでおく事にしたよ。


忍耐忍耐・・・。

2006/04/30

告白

「Mさんを、必ず幸せにします。」
会衆の前で、彼はきっぱりとそう宣言した。

迷いはない。
形式張ったものとも違う。
間違いなく、彼自身の心から湧き出て来た言葉だった。

祝福された結婚式。
主の愛に満たされた、門出の時。


しかし、あろうことか私の心にまず浮かんで来たのは、非常に醒めた感情だった。
「<必ず幸せに>なんて、果たして出来るものか・・・。」
「まだまだ、若いな・・・」

でも、それを打ち消すように、次の瞬間には全く違った思いが心に満ちていた。
「いや。本物の告白とは、きっと、そういうものなのだ・・・」


確かに、世の中に「必ず」なんて言えるものは、そう多くはないかも知れない。
でも、誰もが必ずそうだと言い切れるものに、告白など必要はない。
その不確定なものを、実際に確実なものへと繋ぎ合わせる入り口となるのは、
他でもない、その告白している本人なのだ。

自分自身には、自信がないかもしれない。
でも、その告白は、もう後戻りの出来ない所に自分は来たのだという事実を、
自分自身に対して宣言するものとなる。



私にとっての信仰上の問題は、この潔さに関するものである気がしてきた。
多くの場合、私は「石橋を叩いたのに渡らない」ことが多い。
結果として、何かに踏み出す事や、新しい事をするのには、ものすごくエネルギーがいる。
それを打ち破らなければならない・・・という、このブログでよく取り上げる問題意識は、
私自身の問題の裏返しに過ぎない。


今日の礼拝でも、さらなる信仰の歩みへのチャレンジが与えられた。
同時に、その陰で見えない部分の働きへの大きなチャレンジもあった。


そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。
「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。
「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
(民数記13:30-31)


さて、私はどちらを選ぶのか。
昨日の結婚式で、この若いカップルに大切なことを教わった気がする。

2006/04/27

休むとき

頭いたいかなー。
喉いたいかなー。
体だるいかなー。

って思ってたら、パワーがしゅぅぅぅんと萎んでしまい、
結局、昨日と今日、お休みしてしまった。

他にいっぱい休みを必要としている人がいるのに、
不平も言わずに熱心に仕えておられる方々がいるのに、
ボクは一体何をしているんだろう・・・。
そんな思いが頭をよぎるのは事実。

さあ、ここですよ。個人的にしっかりと向き合わなくてはいけないのは。
まず「自分は自分であって他の人ではない」ということ。他の人を憐れんだり、犠牲を払って仕えることは必要。しかし、もしその動機が「みんな大変なのに私は休んでいて申し訳ない・・・」というものだとしたら、少し危険信号。その時点ですでにそれは、他者への憐れみではなく、自らの罪責感に変わっている。そして、自分も忙しくすることで、(たとえ具体的に他者の力になれなかったとしても)自分自身を納得させてしまう。

次に、私が休むということがもたらす結果について。ある人たちにとっては、負担が増えることになるだろう。なそうとしていた仕事も遅れるかもしれない。しかし、私は長い目で見れば、休むべきときに休む事が出来ない人々が、信仰を持ってそれをなす事ができるための道備えになるのではないかと思う。私たちは、どんなライフスタイルを思い描いているのか。クリスチャンとしてのライフスタイルは、そうでない方々のライフスタイルとどこが違うのか。そして、どこが一緒なのか。いや、一緒であるべきなのか。

いろんな意味で、教会は、かなり社会に影響されている。
本来は、教会やクリスチャンが社会に影響を与えるべきなのだ。
人々が教会を見た時、クリスチャンである私たちを見た時、そこに何を見いだすだろうか。
それは殻に閉じこもって、自分たちの考えにだけ固執した、ちょっと変わった人々?
それとも、既存のあり方を大胆に打ち破り、本当の自由と解放を与え、生活の意味を取り戻し、愛にあふれた調和のとれた日常生活の回復をもたらした、イエスキリストを見いだすだろうか。

私たちは、クリスチャンになればなるほど、クリスチャンでない方々との接点が減っていく。
イエス様はむしろ逆だった。どんどん罪人の友となるべく人々の間に出て行った。
なぜ私たちはそうでないのか?
教会のあり方に何か問題があるのか?
私の考え方に何か問題があるのか?
それとも別の何かがあるのか?

ここはじっくりと腰を据えて考えてみた方がいい。
私たちが進もうとしている先には、神のみこころの世界がはっきり見えるのか?
これは世界観の問題だ。
私たちは、正しい世界観を持っているだろうか?


さて、今イエス様がここに現れたら、何をするだろうか。
もう一度心を開いて、考えてみたい。
イエス様だったら、私たちのどこから手を付けられるだろうか。

あり得ないめぐみの中、いただいた二日間の休暇。
この事実に心から感謝しつつ、明日にむけて歩みだろう・・・。
主よ、私をもう一度お委ねします。
主が、私の内側で生きて下さい。感謝します。

2006/04/23

新しい皮袋

イエスはいつも大胆だ。

イエスは、人々に忌み嫌われていた、罪人や取税人と一緒に食事をした。
そして宗教家たちが断食をしているとき、イエスの弟子たちは断食しなかった。
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

イエスは当時の宗教家たちの慣例に従わなかった。
慣例ではなく、父なる神のみこころに従う事に興味があったのだ。

罪人である私たちに向けられた、父なる神の憐れみ・・・。
それこそ、イエスキリストをこの世に送られた神のみこころだ。
イエスキリストは、父なる神に従って、自らが引き裂かれる事を覚悟して、
自分自身をささげられたのだ。
  ・・・罪人を招くための皮袋として。


「新しいぶどう酒」とは何か?
それは、今まで恵みを受ける対象とは見なされなかった人たち。
今まで、教会が受け入れようとしていなかった人々。
単純に、教会のあり方、自分自身のあり方そのものが、
人々をキリストのもとへ近づけるのを妨げていることはないか。
新しいぶどう酒を入れる事ができるためには、
教会が、そして私自身が、新しい皮袋となる以外にない。


自分自身を変えるというのは、実は至難の業だ。
私たち一人一人が問われる。
しかし、確実に新しいぶどう酒がやってくる。
彼らには新しい皮袋が必要だ。

キリストご自身こそ、私たちの皮袋。
受け入れられないものを受け入れてくださった。
私たちも、キリストにならい、新しい皮袋へと変えていただこう。
私たち(すなわち教会)は、キリストのからだなのだから。


わくわくする話。
今、本当に教会に一つのうねりがある。
変革への切望・・・。
働きの広がりを通して、神が私たち自身のあり方を取り扱って下さっているのだ。


必ずそれはなります。
主よ、委ねます。用いて下さい。

2006/04/17

「枠」について

「枠」ということについて考える事がよくある。
「境界線(Boundary)」という言葉が頻繁に使われるようになり、
そしてクリスチャンたちの間では、同名の本もよく読まれているようだ。

私たちは、個人としても、社会組織としても、
自らの「枠組み」について、自分がどのようなスタンスを持っているのかを、
あえて意識してみることは、とても有意義な事だと思う。

人はそれぞれ神によって定められた時に、それぞれに定められた訓練がある。
その人の成長の段階に応じて、神はもっとも適切な訓練をなしてくださる。
それぞれが持っている「枠組み」へのスタンスに関しても、
主は同様に、定められた時、定められた方法で、私たちを訓練なさろうとしている。

大切なのは、今、主が「自分自身に」与えようとしておられる訓練が、
どの部分なのかをしっかりとわきまえる事だと思う。


以下は、この事についての覚え書きです。


1.「枠」の中に留まるべき時。

 エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。(使徒1:4)


2.「枠」そのものを広げるべき時。

 あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、
 綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。(イザヤ54:2)


3.「枠」から飛び出すべき時。

 イエスは「来なさい」と言われた。
 そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
 (マタイ14:29)


4.「枠」を築くべき時。

 「さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」
  そこで彼らは、「さあ再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。
 (ネヘミヤ2:17,18)


5.「枠」を壊すべき時。

 ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、
 訪問したりするのは、律法にかなわないことです。
 ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、
 汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。
 (使徒10:28)


主よ。私が「今」受けるべき訓練を見失う事がないように。
「私が」受けるべき訓練は、誰かが受けるものとは違うかもしれません。
あなたは、私を丁寧に導いて下さるお方。
だから、たえずあなたに耳を澄ませて、その導きを確信できますように。
委ねます、主よ。

大逆転

十字架に向かうイエスの、あの傷付いた姿。
鞭打たれ、つばをかけられ、あざけられたその姿。
これが、私たちの王、私たちの先生、私たちの救い主の姿だって?
うそだろ・・・。

そして、あまりにも弱々しい・・・。

敗北。
失望。
困惑。
疲労・・・。

あなたを信じて従ってきたのに、
これがその結末だというのですか・・・?
もう、人々に会わす顔がない。
家を捨て、両親の説得を振り払い、いのちをかけて
あなたに従ってきたではありませんか。
信じていたのに・・・。


しかしそれから後になって、
イエスは、その11人が食卓に着いているところに現れて、
彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。
(マルコ16:14)


・・・主よ、あなたなのですか?

悲しみに打ちひしがれていた弟子達の心を責められたのは、
よみがえられたイエスご自身だった。
不信仰と頑なな心を責められる主。
ああ、主よ、お赦しください。
でも、あなたがいてくださるのが、何よりも嬉しいのです。

主は生きておられる!

心を閉ざしていたのは私でした。
主はよみがえられたのに、またしても
この心はあなたを締め出してしまっていたのです。
・・・あなたがお生まれになった時と同様に。


敗北は、勝利への入り口だった。
失望は、絶望に終わる事がなかった。
困惑は、確信への道だった。
疲労は、神の力と神の知恵だった。


「全世界に出て行き、すべての造られた者に、
 福音を宣べ伝えなさい。」
(マルコ16:15)

栄光の大逆転劇。
今こそ、出て行って、福音を宣べ伝えるときです。
それは、100%神の御業。


十字架と復活。
勝利の主、イエスキリスト。
すべては、ここから始まるのですね・・・!

ハレルヤ!

2006/04/14

最期の誘惑

「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
「他人は救ったが、自分は救えない。」
「キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。
 われわれは、それを見たら信じるから。」
(マルコ15:30-32)


イエス・キリストへの最後の誘惑。
十字架から降りて来い。
そうすれば信じるから・・・。


ああ、主よ。
この恥辱を受け、最期まで十字架の死に従って下さった事を感謝します。

父なる神への、絶対的な信頼。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
と叫ばずにはいられないほどにまで、従い通して下さった・・・。


彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
(イザヤ53:2,3)


私たちに与えられた十字架の勝利。
それは、どこまでも弱くなって下さった主の姿。

ああ、私に一番欠けているもの、
そして一番必要なものは、まさにその姿です。
私にも負わせて下さい。
十字架の主とお出会いするために。

2006/04/13

私ではない。

そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、
 わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
弟子たちは悲しくなって、
「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるイエスに言い出した。
(マルコ14:18-19)


最後の晩餐の席上。
イエスのことばに弟子たちはひどく悲しんだ。
「まさか、私ではないでしょう?」
弟子たちは、なぜ、こんな事をイエスに言うのだろう。
自分自身のことなのに、なぜイエスに問う必要があるのか。

しかし、同時に私たちは、「自分のことが一番分からない」という感覚に
多かれ少なかれ同意するのではないか。
イエスのことばを聞いた弟子たちは、
「それが、自分ではないとは言い切れない」という思いが心をよぎり、
イエスに「それはあなたではないよ」と言ってもらって安心したかったのではないか。


そうかと思うと、その直後にペテロをはじめ弟子たちは、口を揃えてイエスに主張する。
「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、
 私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14:31)

これも、彼らの中の正直な意思の告白として、精一杯真実のものであるだろう。
しかし、その後弟子たちは、最も大切なときに居眠りし、
その筆頭のペテロに至っては、夜が明けぬうちにイエスを3度知らないと言う事になる。


私たちは、私たちの願いとは裏腹に、矛盾をいっぱい抱えた存在だ。
言行一致などほど遠い。
そして、イエスはそんな私たちの矛盾を背負って十字架にかかってくださった。


私たちは、このイエスを心で信じて、口で告白する。
告白する事は、決意の意志表明だ。
「できないかも知れないけど・・・」なんて、あらかじめ言い訳をする必要はない。
これは、私たちの信仰告白なのだから。
私たちの信仰は、すべて神の御子イエスの十字架と復活にかかっている。
私たちを召して下さった方は真実なのだから、
ただひたすらに、この方に目を留めて生きよう。


私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。
私は神のめぐみを無にはしません。
もし義が律法によって得られるとしたら、
それこそキリストの死は無意味です。
(ガラテヤ2:20-21)

2006/04/12

無駄なこと

世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、
この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。
(マルコ14:9)


イエスに、純粋で、高価な香油を注がずにはおれなかった女。

なんのために、こんな無駄な事を・・・。
人々は彼女に憤慨した。


たしかに、このお金を貧しい人たちへの施しとして用いる事もできただろう。
でも、これは彼女が選んだことであって、他の人がとやかく言う必要のないことだ。
なのに、なぜ人々は憤慨する必要があったのか?


彼女の行為、彼女の犠牲、彼女の愛は、明白だった。
恐らく、人々の心の奥底の純粋な良心は、彼女の行動に
心が揺り動かされる何かがあることを、うすうす認めていたのではないかと思う。
そのとき、人は自分自身の内面を省みて、心が刺されたような気持ちになる。
そこでくずおれて、涙して自らのあり方を悔い改める事もできたのだ。

しかし、人々は自分のあり方を変えたいとは思わなかった。
とたんに「自己正当化」をする方向へと、心は傾く。
そう。悪いのは、この女だ。
「香油を無駄にしない私」の方が正しいのだ。そうに違いない・・・。



主よ。心が頑なのは、この私です。
他の誰かではない、この私が、あなたとどう向き合うかです。
この女のように、私はあなたに向かう事ができるでしょうか。
あなたに最高のものを捧げられない自分自身を、
自己正当化していないでしょうか?
ああ、主よ。純粋な心であなたに向かう事ができますように。
どうか、心が固く閉ざしてしまう前に、
しっかりと、あなたの語りかけに耳を傾ける事ができますように。

福音が宣べ伝えられるための神の方法

こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。
(マルコ13:10)

アーメン!
そうだよね。全世界に福音が宣べ伝えられなくちゃ・・・。
えーと、それで、それはどうすればいいのかな?
前の節を読んでみると・・・。
あれ?あれれ!?


「・・・人々は、あなたがたを議会に引き渡し、
 また、あなたがたは会堂でむち打たれ、
 また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。
 それは彼らに対してあかしをするためです。」
(マルコ13:9)

私たちは、引き渡され、むち打たれ、世の権力者の前に立たされる。
そして、それこそが、福音があらゆる民族に宣べ伝えられるための神の方法・・・。
ああ、そんな役を私が担うことが出来るのでしょうか?
私は何を言ったらよいのでしょう?


「彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、
 何と言おうかなどと案じるには及びません。
 ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。
 話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」
(マルコ13:11)


ああ、ここでもマニュアル通り、型通りの答えをして安心しようとしていた
私の姿がありました。
「自分に示されることを話す」=「聖霊が話す」
ということを確信できるでしょうか?

いえ。案じるのはやめましょう。
たとえ私が愚かであっても、あなたは真実な方です。
ですから、あなたは必ず私に語るべきことを示してくださいます。
人に受け入れられようとは思いません。
ですから、たえずあなたに聞くことが出来るように心がけます。
すべてが、あなたの御手のうちにあることを信じ続けることができますように。


「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって・・・」
(ゼカリヤ4:6)

「また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。
 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
(マルコ13:13)

2006/04/10

怒り

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と書いてあるではありませんか。
 それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。
(マルコ11:17)


イエスが怒っている。あの優しい、柔和な小羊イエス様が。
イエス様は、何をそんなに怒っているのだろう。

人はうわべを見るが、主は心を見る。(1サムエル16:7)
イエスは、彼らのどんな心をご覧になって、怒られたのか。


しかし私が最も驚いたのは、イエスの怒りではない。祭司長と律法学者たちの反応だ。彼らはイエスの言葉を聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談しはじめたのだ・・・!
どうして、彼らはイエスの言葉を聞いて、自らのあり方を省みなかったのだろう。人は失敗するものだ。だから、それに気づいた時に、素直にそれを認めればそれでいいのだ。普通の人々ですら驚嘆したイエスの教えを、彼らが理解できないはずない。なぜ、宗教指導者たちは恐れて敬遠したのか?


私の考えでは、イエスが怒られたのは、この宮が、商売人たちが、宗教指導者たち自身の存在が、そして彼らがつくりあげたシステム自体が、人々を真の祈りから遠ざけているということに、心を痛めたからではないだろうか。
単に宮での商売の善し悪し云々ではない。彼らの心が遠く父なる神のみこころからかけ離れているばかりか、彼らの存在自体が人々を神へ近づけなくしているということを怒られたのではないだろうか。


今、同じ主の前に立った時、イエス様の目に私たちの教会はどのように見えるだろうか?
私たちクリスチャンはどのように見えるだろうか?
いや、私自身は、どのように見えるだろうか?
この世に光を輝かせなくしているのは、他でもない、私自身なのではないか?


わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、
わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、
わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。
今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。
わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。
(2歴代7:14)


主よ。へりくだり、悪い道から立ち返るべきなのは、この私です。
あなたの聖い宮として、ふさわしく整えてください。
み顔を慕い求めます。どうか、この地をいやしてください。
あなたに信頼します。

2006/04/09

ロバの子

「なぜそんなことをするのか?」
「主がお入り用なのです」
(マタイ11:3)

まだだれも乗ったことのない、小さなロバの子。
イエスは、エルサレムへの勝利の入城をする時、
イエス様自身を乗せて運ぶ大切な役割に、何の経験もない、
小さなロバの子をあえて選ばれた。

そして今も、何も分からない、何も出来ない者たちを特別に選び、
イエス様の生きたいのちを届ける働きとして、
イエス様の愛を伝える働きとして、
大切に、大切に用いてくださる。

このロバの子についてのみことばは、
ボクが献身の決心をした時に与えられた一連のみことばのうちの一つだ。
心には決めたが、それを会社の上司に、また両親に伝える時、
彼らは一体何というだろうか・・・。そんな恐れが心にあった時、
主はこのみことばを通して心に平安と励ましを与えてくださった。

相手が主を知っているかどうかは関係ない。
「主がお入り用なのです」
それが本当に主の権威あることばなら、彼らはすでにみこころのうちにある。
「弟子たちが、イエスの言われた通りを話すと、彼らは許してくれた。」

このみことばの通りに、ボクは大胆に、これは主の働きであることを率直に伝えた。
すると驚くことに、ボクの両親も、会社の上司たちも、
ボクが会社をやめて、フルタイムで主に仕えるための働きをすることを、
驚くほどすんなりと理解してくれて、励まし、送り出してくれた。


今日から受難週。
棕櫚の聖日の箇所を読みながら、イエス様の大切な働きに、
この小さいボクも加えてもらっていることに心から感謝した。

今日も一日、多くの恵みがあった。
たしかに、変化が起こっている。
教会の中に新しいうねりを感じる。
素晴らしい主のみわざが、豊かに前進しようとしている。
楽しみだなあ。

主よ。どうか、この一週間、
特別にあなたの十字架を覚えさせてください。
そこからあふれながれるものは、人にいのちを与えます。
永遠への扉を開きます。
どうか、あなたの十字架がリアルにせまってくるように、
私の心の奥の鈍くなっている所に、主の血潮を注いでください。
ハレルヤ。

2006/04/08

引き裂かれたからだ

彼らとともに食卓に着かれると、
イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。
するとイエスは、彼らには見えなくなった。
そこでふたりは話し合った。
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、
 私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
(ルカ24:30-32)


イエス様だ。
確かに目の前にイエス様が生きておられる。
私たちのただ中に生きておられる。
だって私たちの心は、こんなにも燃やされているのだから・・・!

私たちの心を燃やすのは、イエス様の十字架。
十字架で引き裂かれたイエス様のからだ。

この十字架の主は、
ともに食事をしている時、
十字架と復活について語り合っている時、
弟子たちに現れてくださった。

主は、いつでもともにいてくださる。
でも私たちの目が開かれるのでなければ、
それが主である事すら分からない。
目が開かれた時、
私たちの心は、うちに燃やされている。


私たちの心を燃やすもの。
それは、単なる野心ではない。
自己中心や虚栄でもない。
いのちを得るために、いのちをささげられた、
イエス様の十字架の愛。
それ以外に、私たちの心を燃やすものはない。
そして、その十字架の愛は、
イエスに従って、自らを十字架につけた者から
あふれ流れてくる。


今日も、そんな主と出会った。

主のしもべ達の語り合いの中で。
祝福の食卓を囲んで。
犠牲の奉仕を通して。
自らの弱さを通して。
苦悩を抱えた兄弟姉妹を通して。
熱く燃やされた兄弟姉妹を通して。


主よ、あなたです。
わたしを生かしているのはあなたです。
もっともっと深く、あなたを知る事ができますように。
もっともっと広く、あなたを伝える事ができますように。
もっともっと熱く、心を燃やしてください。
あなたの十字架を慕います。
あなたのそばに引き寄せてください。
主よ。

2006/04/07

じれったくても

「まだリハビリ中。」
そう自分に言い聞かせて、なかなかやるべき事に
取り組めない自分を慰めながら、今日も一日過ごした。

こういう時は、目に見える小さな課題を一つ一つ終えていくのがいい。
そして、あとで振り返って、これとこれが出来た!といって恵みを数える。
すべては、神の御手のうちにあるのだから、
落ち着いて、深呼吸して、神の御業を待ち望める事さえ出来れば、
「その日その日の内に十分ある」という労苦も、少しずつ負っていく事ができる。

ボクはどちらかというと思考の枠組みは元々柔軟な方だとは思う。
でも、実際の仕事においては、枠の中にいる方を好むし、
どんな事もあいまいな側面を残して進めていく、のが私の普通の方法である。
しかし、一つ一つのなすべき事柄はそうはいかない。
その理解と確信の達した所にしたがって、出来る限りの事をする。
不必要に大きすぎる事を考えると、
今の状態では、ちょっとやる前から億劫になる。


主よ。今日も支えられました。
あなたの恵みはつきることがありません。
どうか私の内面が、主にあってしっかりと根を張り直しますように。
ゆっくりで構いません。
じれったくても、あせることがないように。
じれったくても、あきらめることがないように。
主よ、私を御手のうちで造りかえてください。
主よ。

2006/04/05

BootCamp !? Macindows?

なんということだ。
Appleが正式にWindowsをIntel Macで動かせる仕組みを作ってしまった。

しかも次期OSのネイティブの機能になるようだ。
仕事ではWindowsを使ってる関係上、ファイルの共有さえ問題なく出来るんなら、
たぶん使う事になるだろうなー。便利だもん。

あっちこっち、みんなでMacでWindows動かすぞー、おーって
動いてくれたみなさん、おつかれさまでした。
その関心の高さがApple自身を動かす事になった大きな要因でしょう。


Macって会社はどうなってるんだろう。
もう、感心する事ばかり!
Microsoftとは、Windows x MacOS という図式で戦ってたけど、
過去の一時期はMacOSをいろんなハードにいれる方向性もあった。
でも、Steve Jobsが戻ってから、物事の進め方が変わり、
あのかわいい初代iMac登場。
「Appleは、魅力的なハードウェアのメーカー」でもあるんだという部分がしっかりと強調された。

そしてiPod&iTunesのインパクト。そこでは、音楽機器メーカーとの対立の図式。
でも、ソフトウェアを合法的に、便利に、かっこよくダウンロードできる仕組みと、
ぜひ持ち歩きたいiPodのあのデザイン。完璧に一つの世界を創設した。

そして、Windows Vistaが発売延期になっている中で、今回BootCampの発表。
MacOSのコアをオープンソースにした事や、Intelプロセッサへの移行も驚いたけど、
Apple自身がデュアルブートの仕組みを提供してくれるとは思わなかった。

これによって脅威になるのは、他のPCメーカーだろうなー。
だって、他のPCではMacOS動かない(動かしちゃいけない)のに、
MacではWindows動いちゃうんだもん。ハードウェアの美しさを考えても、
Windowsをメインで動かすためにMacを動かす人がいてもおかしくないよ。

それにしても、このプラン、はじめからあった話なのかなー?
どういうプロセスでこの意思決定がなされたのかに興味がある。
そういえば、このiMac付属の「マイティーマウス」、ボタン一つなのに、右側を押すと
右クリックとして判断されるしくみらしい。だから、Appleは、
いずれはこれでWindowsを動かす可能性もある、ということを考えていたのではないか?


いやー。本当、やっぱりSteve Jobsの周辺を密着取材したい。
どうやって、こんなにすごい意思決定をやってのけてるんだろう。
どうやって、こんなにシンプルに全体を作る事ができるんだろう。
どうやって、優秀な技術者たちを一つの方向に確信させ、モチベーションを保たせているのだろう。
どうやって、急な出来事に対応しているんだろう。


すごいや。すごいや。
常識や伝統や枠を超えて物事を考える事ができること。
人々の話を調査してそれに合わせるのではなく、
人々のライフスタイルを新しく創造していくような仕事の進め方。


こんなことが教会でできたらいいなー。
働きが大きくなれば、大きくなるほど、
シンプルでパワフルな仕組みが必要だ。
主よー。力を与えてくださーい!!

2006/04/04

あなたの知らない世界

映画「ブロークバックマウンテン」を見た。
アカデミー賞3部門受賞。
うーん。別にお勧めではないけど、お勧めです。


たぶん同性愛がテーマです。
人間描写としては良くわかりました。
でも何でそうなるのかは良くわかりませんでした。


これからは実際に、こういう問題をかかえた人たちと向き合う事もあるのかな。
ここで「問題」って言葉を使っている時点で偏見なのかな。
確かに、当然そういうこともあり得るんだって思って見れば、
この映画は、人間の普遍的な深い苦悩を描写した、なかなかの作品だと思いました。

でも実際、同性愛者に福音を伝える機会が訪れたら、ボクはどうするだろう。
それは神が与えた秩序と違う罪だから、やめなさいと言うだろうか?
過去の傷などの根っこから来るものだと諭して、内なる人の癒しのために取り組むだろうか?
それとも、自分が汚されないように距離を置くだろうか?
それとも「いいんだよ」と言って受け入れてしまうだろうか?

うーん。まったく分からない。
どうしよう。


でも、目に見えてくる部分の行動や思想には同意しないでも、
しっかりと友達になることは出来るかな。
いや、やっぱり偏見を抱いて裁きまくってしまうかな。


いろいろ映画を見てるけど、最近見た中では一番はっきりとした意見を持ちにくい映画だった。
イエス様だったらどうするのかな。

今まで考えてみたこともない世界に目が開かれた。
私が映画を見る大きな理由の一つがこれ。
「あなたの知らない世界」に目が開かれること。
でも、実際にその世界に住んでいる人がいるのだ・・・。


主よ。他の多くの人と同じように、いや私自身と同じように、
彼らも罪にとらわれて苦しんでいます。
あなたの福音は、彼らにこそ必要ですよね?
あなたが望んでおられるのは、すべての人が救われることです。
「救い」とは何でしょう?
今、私はどう祈ったらいいのかも分かりません。
主よ。お委ねします。主よ。

2006/04/03

世の中の矛盾

「私たちが世の中の矛盾である事を怖れてはなりません。」
・・・映画「マザーテレサ」の最後の方に出て来たセリフだ。

この言葉が正確に何を意味しているのかは、よく分からない。
でも、とても心に響く言葉だった。


マザーの働きが大きく広がるにつれて、それを束ねる組織と計画が必要になっていた。
でも、マザーの働きをずっとそばで支えていたセラーノ神父が、
30年かかってようやくマザーの見ているものを共有したとき、
「私は終わるのが怖かったんです。」
とマザーに赦しを乞い求めたときに、マザーが言ったセリフだ。

私たちは、世の中の論理を拒絶する必要はないし、
それを完全に受け入れる必要もない。


本当に主のみこころに立った強さが欲しい。
「わたしは渇く」という主の声を、
貧しい者たちの中でも最も貧しい者のうちに聞き取る事ができたマザー。

ボクは、ボクの生きているこの時代に、この場所で、この肉体で、
主の御声を聞く事ができるだろうか。


私が世の中の矛盾となること・・・。
確かに怖れている。

人の目には矛盾にしか見えない主の姿。
主に従うためには、自分の中でつじつまを合わせようとする事を
まずやめる必要があるのかもしれない。
そうしてこそ、本当のIntegrityが得られるのかも・・・。


主よ。私のうちにある恐れは、あなたがご存知です。
あなたが生きてくださるのでなければ、私はむなしい者です。
あなたにあって生きるために、
私の多くの部分はまだまだ砕かれなければなりません。
主よ。私はあなたの御手のうちにあります。
どうか、御心のままに造りかえてください。

見て信じる

映像にはパワーがある。
本を読むだけ、話を聞くだけでは伝わりにくい事も、
無条件で心に届くことがある。


一方で「信仰は聞く事から始まる」のだからと、
映像を伝道の手段として考えるのを警告する意見を聞いた事がある。
それも、素晴らしい神学者からである。
正直、驚いた。
確かに、みことばそのものを「語る」ことの重要性、
そしてそれを「宣べ伝える人」の必要性は言うまでもない。


でも、「ことば」は人となって私たちの間に住まわれたのだ。
見えない主が、見える形となって。
神のことばが、生ける人となって。

だから、文章だろうと、絵画だろうと、映像だろうと、
それを伝える手段はなんでもいい。心に届けばいいのだ。
何とかして、幾人かにでも福音を届けたいのだから。

大事なのは、実際にその通りに生きている人の存在だ。
そういう人を通して、イエスが実際に生きている事が目に見えるのだ。


昨日、頼んでおいた「マザーテレサ」のDVDが届いたので、
「ノーカット完全版」の前半部分を見た。
映画館で見たときも涙したが、今回も涙した。
主は生きている。
そして、生ける主に本当に生かされている人を見る時、
心に深い感動が与えられるのだ。


昨日、私たちの教会の通ってきたところを、
わずかながら映像化したものを礼拝で用いたが、
そこに実際に主が生きているからこそ、
幾ばくかでも心に触れるものがあったのだと思う。


見ずに信じる者は幸いです。
でも、見て信じる者も幸いです。

主が心に生きてくださるのであれば。

2006/04/02

眠い。。。

明日の礼拝に向けて、2つのものが完成した。

「教会紹介」の冊子と、奉献記念礼拝で流すビデオだ。
教会紹介の冊子は思っていた色と少し違ったけど、とにかく間に合ってよかった。
これは、毎年作るんだから、ある程度間違ったらそれも来年なおせばいいや。
ビデオの方は、素材があまりなく、困った。
でも、祈っていく中で、当初の予定とは違い、
1999年の教会の動きを中心にまとめてみることにした。

牧師先生の、昔のテープを引っ張りだして来て聞いてみた。
本当に感動・・・。
ダイヤモンドチャペル購入時の「ゼロ回答」前後の牧師先生の
パワーといったら、すばらしいです。


ああ、眠い。
明日、早く起きなきゃ行けないのに、こんな時間・・・
今、DVDが出来上がるのを待ってるとこなんですよ。
はやくおわって〜!
むにゃむにゃ

2006/03/31

Revolution

話題の"Revolution"という本を読み始めた。

George Barnaという人が書いた本だが、リバイバル新聞に載っていた記事をみて、どうしても読むべき本という気がして、Amazonで頼んでおいたのだ。最初の3章ぐらいしか読んでいないが、恐らくこの本で述べられている内容は、今ボクが抱えている問題意識とかなりオーバーラップする。

C-BTEの学びの時にもはっきりと自覚したのだが、ボクたちが生きているこの時代は、「教会」のあり方に、数百年に一度くらいの周期で起こりうる、ラディカルな変化が生まれつつある時だ。よって、ボクたちが当たり前に考えているクリスチャンのあり方、教会のあり方などを一旦主にお返ししなければ、この変化についていく事はできない。

ボクたちが、本当に神を愛し、人々を愛していくために、もう一度、考え方の枠組みを、みこころに従って構築し直す必要がある。

"Revolution"には、すでに実際にそのような変革に、信仰をもって踏み出した人々の姿が書かれている。本の中で、そのような人々は「革命家(Revolutionaries)」と呼ばれている。

彼らは、以下のような情熱によって特徴づけられるとのこと。

1. Intimate Worship(親密な礼拝)
2. Faith-Based Conversations(信仰に基づいた会話)
3. Intentional Spiritual Growth(意図的な霊的成長)
4. Servanthood(しもべであること)
5. Resource Investment(資源の投資)
6. Spiritual Friendships(霊的な友人関係)
7. Family Faith(家庭での信仰)

要するに、クリスチャン一人一人の献身が問われているのです。
うーん。ドキドキします。

また、読み終わったら何かしら書きたいと思いますねー。

2006/03/30

働き人

収穫は多いが、働き人が少ない。
だから、収穫の主に、収穫のために
働き手を送ってくださるように祈りなさい。
(マタイ9:37-38)

働き手が少ない。
なぜだろう。

いくつか原因は考えられる。
1. 働き人となれる人が物理的にいない。
2. 働き人になれる可能性はあるが、適切な訓練を受けていない。
3. 働き人になれる人はいるが、機会が与えられない。
4. 働き人となることの意味をしっかりと把握していない。
5. みんな忙しすぎる。
6. 働き人が忙しくて、次の世代を育成できない。
7. 働き人が忙し過ぎて、次の世代が魅力に思わない。

でも、働き人、そして次のリーダーたちを育てていくのでなければ、
本当に長期にわたって機能するような働きにはなっていかない。

考えなければならない大きなテーマはこれです。
「リーダーとして、どんな人を育成していったらいいのだろうか」
普遍的でありつつ、今の時代に即した、永続する教会を建て上げていくために、
どのような人材が必要なのだろうか。

これを考えるにあたっては、まず「教会」の概念を吟味してみる必要がある。
そして、今の時代がどのような時なのかを見極める必要がある。

結論的に言うと、
正しく自立した信仰をもった人。
何が健全な教えなのかを聖書から自分で導きだすことができる人。
あつい情熱をもって、キリストが召した所で命をかけて仕える事が出来る人。


私たちは、主の弟子として、訓練を受けなければなりません。
多くの人にとって、「聖書の言っている事をじっくり考えて、その思想をつかみ取る」
ということはあまり訓練されず、人が教えてくれた答えを丸暗記するような勉強のしかたしか
してこなかったのではないでしょうか。
いろいろな新しい枠組みの所へ飛び出していって、イエス様の素晴らしさを伝えて歩くのだとしたら、
その場所における生きた現状/問題と、聖書のみことばを正しく結びつけてやる必要があります。
そうしてこそ、単なる慈善活動ではない、キリストにあった福祉、奉仕、宣教ができるのだと思います。

こういう形で人を育てるのは、なかなか難しいと思うが、
長い目で見ても、このような訓練がないと、
さまざまな働きは、ただの福祉事業に終わってしまう。

「弟子訓練」という時、やっぱり「じっくり考える」という行為(考え方)そのものが訓練される必要がある。

主よ。働き人を送ってください!
私も働き人の一人ですが、どうか自分自身がなすべき事をきちんと見極め続ける事ができるように、
私を整え、用いてください!

2006/03/28

ただいま

帰ってきました!
どこに行ってたかって?
うーん。どっか行っちゃってたんです・・・。

去年体調を崩して以来、久々に仕事をかかえこんでもがいているような状態になりました。
でも、個人的には昨日で一段落。
そのとたんに肉体的にも精神的にもずいぶんとスッキリしました。

ストレスを抱え込んでしまう傾向は変わってないなー、と思いながら、
それでも少しは変わったかな?と思う点を前向きにリストアップしてみよう。

1. 思うように行かない時でも、人格が否定されたような感覚にまではならない。
2. 必要以上に成果を良く見せようと思わない。
3. なんだかんだ言いながらも、それなりに健全に息抜きできるようになっている。
4. 孤独だとは思わない。
5. 他の人を責めようとは思わない。
6. 回復が早い。
7. 立ち位置がずれそうになっても、ちゃんと戻れる。
8. 自分の力量をしっかりと意識しながら作業できる。
9. このリストにあげてるような事を自覚的に意識できるようになっている。

うーん、素晴らしい。(笑)
この数ヶ月の訓練は無駄ではありませんでしたな。


さて、この期間何をしていたのでしょう?
これもちょっとリストアップします。

1. 2006年版「教会紹介」の冊子の作成。
2. ハーベストスクール「体験スクール」実施。
3. 近隣の教会での礼拝メッセージ奉仕。

後は日々のもろもろの作業です。
この中でメインは「教会紹介」の冊子づくりでした。
今度の日曜日(4月2日)が教会の「奉献記念礼拝」なので、
そこに配れるよう、ギリギリのギリギリで昨日原稿を入稿しました。
かなりイッパイイッパイになりながらも、恵みの時でした。

その中から、一カ所だけ図を引用します。
私が普段教会の働きに関わりながら、いろんな動きを見ながら、
この働きをどうやったらより良く理解できるだろう?
適切に関われるだろう?と思って祈っている中で示された図です。



教会の働きで、私たちが重点をおいているのは次の3つ。
1. 礼拝
2. ファミリー
3. 奉仕・宣教

そして、その働きを支えている、建て上げの働きは以下の3つ。
1. 祈り
2. 教育(みことば)
3. 実務

この図の特徴は、目に見える働きが広がれば広がるほど、
その中心で苦しみながら、祈りとみことばと事務的な働きに踏みとどまる人が必要であり、
それがあってこそ働きが前進するというイメージを視覚化できたこと。
それぞれの働きを広げるほど、真ん中の部分は「引き裂かれるような」痛みを持つのです。
そして、その中心にはイエス様の十字架。
何よりも、イエス様がこの位置に立ってくださっているからこそ、
私たちは働きを進める事ができるのです。
十字架で引き裂かれたイエス様のからだ。
そのからだと血潮を覚える聖餐を覚えないではいられません。

そして、その痛みを伴う部分に、実務(事務)の働きを組み込む事ができたこと。
おそらくほとんどの教会の牧師先生たちもそうでしょうが、実際に牧会していく時には、
この事務的な働きの占める割合が本当に大きいと思います。
これは、自分が事務の働きに身を置く献身者として仕えさせてもらったが故の視点です。
苦しみつつもあえてそこに身を置ける人がどうしても必要だと思うのです。


そんなこんなで、どっか行っちゃってたけど、
とても収穫の多い期間でした。
お祈りで支えてくださった方々、ありがとうございます。

神様、ただいま!

2006/03/21

直感

教会の属している連合の総会に出席した。
「出席する事に意味がある」という程度にしか思っていなかったのだが、
個人的にはなかなか有意義な時を過ごせた。


昼食の時。
昔お世話になった、若者に人気の通称「のりのり」と呼ばれる牧師先生に久しぶりに会い、昼食の時はずっと話をさせてもらった。見違えるほどスマートになったのりのりを見て、体調を壊したのではないかと心配になったが、実際にはその逆で、地道な食事療法を2年以上続けた成果の表れだとの事。いろいろな意味で、ボクが取り組んでいる事一つ一つの、一歩先を歩んでいってくれている気がしてうれしかった。


総会の所々で、その場では分からないはずのWBCの最新情報が時々報告されるのも嬉しかった。
(8回の時点での情報に対して、「そのために祈りましょう」と議長に投げかけたウチの牧師もすごいと思ったが・・・)

何よりも「実直に取り組んでおられる各教会の取り組みは、絶対に主に覚えられている」という、希望と平安を直感的に感じる事ができたのが一番嬉しかった。それは、悩みと苦しみの中からのみ生み出される類の、100%主だと理解できる事が起ころうとしているのだと思えたからだ。


主よ、どうか日本の教会を顧みてください。
私たちの理解を超えた、大いなる事をなしてください。
私たちは、負うべき重荷を担います。
主が栄光をとってください。
信頼します。主よ。

2006/03/20

誠実と正直

神に対しては、できる限り正直でありたい。
人に対しては、できる限り誠実でありたい。


『7つ習慣』のコヴィー氏によれば、
正直というのは「言葉を現実にあわせること」であり、
誠実というのは「現実を言葉にあわせること」なのだそうだ。


もちろん、正直であろうとするなら、誠実であることも求められるし、
誠実であろうとするなら、正直であることも求められる。
それぞれの言葉の解釈には、いろいろな考え方があるだろう。
しかし、意識のレベルであえて適切に使い分ける事によって、
心の動きを訓練する事が出来るかもしれない。


神に対して、私が行なうべき大切な事は、祈りである。
「みこころにかなった祈りをすれば聞かれる」という言い方を時々聞く。
頭のいい人は、そこで「ふむふむ、じゃあこう祈ればいいんだな」と、「みこころにかなった祈り」をささげはじめる。しかし、現実には何がみこころなのかは、祈る前には実際には分からないのだ。
だから、自分自身の偽らざる感情、個人的な願い、希望や不安など、神の前にはなるべく包み隠さず祈るようにしよう。そうでないと、神との関係が建前だけになってしまう。そして、生身の正直な自分自身が生きている現実の場に、神を迎え入れることができなくなってしまう。

人に対して、私が行うべき大切な事は、適切なコミュニケーションである。
「お互いの間は何の偽りもない関係を持とう」というのは、気持ちのいい考えだ。でも、互いに正直であるという事は、それを受け取った人の正直な感情をも受け入れるということだ。内容によっては、どちらかがグッとこらえる事なしに事態が収拾しないことも多いのではないか。それでも、一方的に正直であろうとするのは、単に「自分を受け止めて欲しい」というメッセージに成り下がってしまう危険性がある。だから人との関係においては、正直である以上に、誠実さが求められるのだ。自分自身で限度を認め、それを表現し、それに忠実である事。これらを皆、愛をもって行なっていくのだ。

このブログで行おうとしている「自己対峙」は、実際には神と交わる事によってのみ可能になると思う。神の前には必然的に正直でなければならないのだ。
人を意識して書き始めると、適切な自己対峙が出来なくなってしまう。このブログは「自分自身の自己対峙のプロセスを人前にさらす」事が益になり得るという希望をもってやっている。だから、多少は人をも意識している。でもその意識の仕方は、他の人に誠実であろうとすること。そういう訓練でもあると思う。


と、長々と書いたが、要は「しばらくブログ更新できなくてごめんなさい」ってことです!
別に書く事が負担なんじゃなくて、神の前に正直に出れてなかったのかなぁと思います。実際には、ここ一週間ぐらい、本当に体調が悪くて、目眩がしたり、体中がダルかったりしてました。やるべき仕事があって、休み休みはやっているけど、久しぶりに抱えた目に見えるストレスで、あっさりやられちゃってるだけなのかも知れない。でも、とにかく、あまり正常な状態ではなかったという事だけは確かだと思います。

とりあえず、今日医者行ったら、前回の血液検査の結果からビタミンB12が少ないので、注射して薬を出しましょうということになった。ビタミンの注射なんて、気付け薬みたいなものですが、結構体は楽になった気がします。
おまけに、母も「そんなことじゃないかと思って」と言っておいしい肉を買ってきてくれた。これだけおいしい料理をバランスよく気を使って母が準備してくれているのだから、栄養失調(去年なった)とか、ビタミン不足というのはちょっとおかしい。
やっぱり、腸の働きの方なのかな。やっぱり吸収が悪いのかな・・・。なんて考えるが、とりあえず、体力が回復してくれるのを待つのみ。

主よ。本当に情けないです。
体力も精神力も、ボクがこうであって欲しいと願うレベルにはほど遠い気がします。
それなのに、あなたの前に強がってみたり、人に甘えてみたり。
どうか、私の存在そのものが、あなたの生きた交わりの中に歩む事を
心から喜ぶ事が出来るようにさせてください。

2006/03/14

ゆっくり

昨日は、夜8時半には寝てしまった。
朝には一度起きたものの、聖書を読んだらまたグーグー。
疲れていたのかな?

今日は話し合いのために、教会に行った後は、部屋の片付けをした。

私はあまり片付けが上手ではない。
でも、片付けると、気持ちがすっきりするし、体の運動にもなる。
そして、何をやるにもはかどる。
手をつけるのがおっくうなのだが、一度片付けだすと、それなりのこだわりもあったりする。

すっきりとした机に、あわせてデスクチェアを買ってきた。
きもちいい。


仕事が忙しすぎるときには、部屋を過ごしやすく整えようなんて、
あんまり考える余裕もなかった。だいたい、部屋で過ごす時間が少なすぎるんだもの。
今、家で過ごす時間の過ごし方に目が向けられてきた。
これは、きっとボク自身の回復にとって、いいことだ。


何気ない毎日が、さらに祝福されていきますように。
何事もゆっくり、しっかりと行なっていけますように。
主よ、期待します。

2006/03/10

「私のために祈ってください」

兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、
また、御霊の愛によって切にお願いします。
私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。
私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、
またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。
(ローマ15:30,31)


「私のために祈ってください」
・・・これは、クリスチャンの間でよく交わされることばの一つだ。
昨日の祈祷会では、祈りの必要を他の人に執り成してもらえるようにと、
ひたすらすがる真剣さについて語られた。
パウロは、あちらこちらの箇所でその事を訴えている。


この箇所で、パウロはいったい何を語っているのだろうか。
誰に対して、何について、祈ってほしいと言っているのだろう。
パウロは、まだローマには一度も行ったことない。
しかし、キリストのあふれる祝福を携えてローマに行くつもりだと彼らに告白している。
パウロは、マケドニアで集めた献金を持ってエルサレムに向かう最中だったのだ。

そこで改めて見てみる。
「祈ってください」という祈りの依頼は、ローマの信者に向けてなされている。
「祈ってください」という祈りの内容は、
 -「ユダヤにいる不信仰な人々から救い出されること。」
 -「エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなること。」
 -「そうして、あなたがたの所へ行き、ともにいこいを得ることができるように。」

「ユダヤにいる人々」や「聖徒たち」というのは、というのはクリスチャンのことだろう。パウロは、エルサレムのクリスチャンたちに自分が受け入れられない可能性があることを危惧していた。パウロが「福音」だと思っているもの、「信仰」だと思っているものが、彼らと共有できるか、また、パウロの異邦人への奉仕を正しく受け入れてもらうことができるか。
・・・そんなことを、まだ見た事もないクリスチャンになりたてのローマの人々に祈りのリクエストとして出している。

またそんな時、パウロのまわりの仲間たちは、エルサレムで大変な苦労をすることが前もって分かっていたので、パウロにエルサレムに上らぬようにと、しきりに忠告している。

しかし、パウロこれに対しては、
「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えた。(使徒21:12)

パウロが死ぬことさえも覚悟していたのは、愛する先輩たちとの信仰上の対決だった。
自分に与えられた確信を、正しい態度で、正しい方法で向き合い続けること。
ここにこそ、さらなる祈りのサポートが必要なのだ。

教会の歴史を変えるのは大きなチャレンジだ。
しかし、イエスはなすべきことに取り組んだ。
パウロもイエスにならって、変革が拡大するように取り組んだ。

では私は?
「皆さん、私のために祈ってください」
私は本当に弱いものです。
確信を投げ捨てず、正しい態度で、正しい方法で、
向き合い続けていくことができますように。
そして、主の栄光だけが輝きますように。

2006/03/07

霊的で世的な弟子として

「私は世的ではないかも知れないけど、肉的だと思う」
・・・これは、しばらく前にボク自身を見つめつつ口にしたことのあるセリフだ。

ここでの漠然とした定義はこんな感じである。
「世的」というのは、世の人のように行動し、世の人ののように考えること。
「肉的」というのは、神ではなく人の思いで行動したり、考えたりすること。

「世的」の反対にあるのは「宗教的」
「肉的」の反対にあるのは「霊的」


そこで便宜上、人々を以下の4つのタイプのグループに分類していみたい。
A.肉的で、世的
B.霊的で、世的
C.霊的で、宗教的
D.肉的で、宗教的

          霊的
           ↑
           |
      B    |   C
           |
世的<----------> 宗教的
           |
      A    |   D
           |
           ↓
          肉的


多くの人が、「霊的」であることと「宗教的」である事を履き違えている。
神に従って歩んでいきたい、という純粋な思いは、いつしか
単なる宗教的形式主義的なところに変質し、落ち着いていってしまう。

多くの人は、まず【肉的・世的】な生活から始まる。
しかし、宗教に助けを求めたり、良い行ないで解決しようとすると、
【肉的・宗教的】になっていく。

しかし、ある人たちは、本物の福音と出会い、信仰を持つようになる。
すると【霊的・世的】人たちが誕生する。

ところが、そういう人たちを放っておけないのが、【霊的・宗教的】な人々。
彼らは、【霊的・世的】な赤ちゃんクリスチャンを、
何とかして【霊的・宗教的】な生活へと向かわせようとする。
もちろん、成熟を目指すために生活が改善していくための取り組みは必要だろう。
しかし、行ないが「宗教的」になり始めると、
それは硬直化してしまい、結局肉的なものへと変質していきやすい。
つまり、【肉的・宗教的】なクリスチャンになってしまうのだ。
これでは、元も子もない。



イエスは、私たちを「地の塩、世の光」と言われた。

日本にはクリスチャンが1%未満しかいないと言う。
もし、99%の魂に本気で届いて行こうとするなら、
私たちは、【霊的・世的】なクリスチャンとなるべきではないか。

世的であることによって、肉的な生活への誘惑も強くなるかもしれない。
または逆に宗教的になることへの誘惑もあるかもしれない。

でも、イエスはそこに立ち続けたのではないだろうか?


簡単ではないかもしれない。
でも、イエスの弟子として、主の託された最も大切なメッセージを
握り締め続けていきたい。

2006/03/06

ここだけの話?

iMac買ったんです。
インテル入ってるやつ。
とにかく、かっこいい!っていうか、かわいい!
とってもとってもうれしいです。


ここから先は、たぶん、まったくつまらない話です。
個人的にこの分野を、ちょっと振り返ってみたくなっただけですので・・・。



実は、私けっこう昔からコンピュータなるものを触っていました。

一番始めにパソコンを始めたのが小学5年生の時。NECのPC-8001mkII という、ちょっと微妙な位置づけのパソコンです。当時は、外部記憶装置がカセットテープで、300bpsで保存。「コンピュータは何でもできるんだ!」って思ってたんだけど、当時のパソコンは、実質なにもできませんでした。

でも、プログラムを作ったりするのが好きで、BASICのみならず、マシン語にも手を出し、ノートにアセンブリ言語でプログラミングしたものを、手コンパイルしたりして遊んでいました。自分で「お絵描きツール」のようなものを作り、当時はやっていたアドベンチャーゲームを真似たものを作って、中学校の夏の自由研究として提出したりしていました。今、考えるとすごいねー。

それから、高校受験期にはまったくパソコンを触らず、そのまま高校時代はコンピュータとは無縁の生活を送っていました。
(その間、MS-DOS搭載のパソコンが、ガンガン発展していったようです。)

再び、コンピュータに触るようになったのは、大学に入ってから。キャンパスのネットワーク環境が充実していて、UNIXを日常的に使い、電子メールを多用するようになりました。また、ラップトップパソコン(確か、CPUがintel386搭載)を購入。しかし、当時ハードディスクすらついていない、DOSパソコン(DOS/Vですらない)は、僕にとってはほとんど役にたたないものでした。
大学4年生のとき、Mosaicなるソフト(Netscapeの前身)が現れていました。また、大学にはMacもあったので、ちょろちょろと触ってはいました。

大学を卒業し、入社した会社では、まず営業をやりました。
ちょうどその年1995年。Windows95搭載のノートパソコン(DECのかなり薄いやつ)を営業の面々にも一人一台ずつ支給され、WordやExcelをガシガシ使うようになりました。2年目からは開発にまわり、そこでは何とNEXTSTEPを使って、Objective-Cでコーディングとかをしていました。この部署は、基本OSがNEXTSTEPだったし、スピードは速くなかったけど、グラフィックはきれいだし、堅牢に動いている感じの安心感があってよかったです。

このころ、個人的にMacを購入。(確か、Performa5320)これは最悪でしたね。付属のソフトが結構あったのに、なんとこれが動かない!買ったままのMacでは、メモリが足りずに、付属ソフトすらろくに動かなかったんです。フリーズしまくるし・・・。よく知らなかったけど、ちょうどこの頃のアップルは最悪状態だったようです。

海外への出張をきっかけに、Sony VAIO505を買いました。こいつは、かなりいい出来でした。片道2時間かかる通勤中、電車の中でけっこう仕事していました。

その後、AppleがNEXT社を買収。MacOSの次期版のコアとして、OPENSTEPが使われるらしいということで、かなり期待はしていました。

そして、会社を辞める前に、小スペースPCをべアボーンのキットをベースに組み立てて、ずいぶん安くなった15インチの液晶ディスプレイ(でも10万はしたな)を購入。しばらくそれを使っていました。


数年前、Dynabook E8を購入。これが現在にいたるまで、私のメインのマシンです。

で、ここへ来て、iMacがたまらなく欲しくなり、分割払いで購入です。
(はじめての分割払いですよ。)



できれば、仕事と家との雰囲気を変えたかったのと、
音楽を中心に、もっとアーティスティックな生活にしたいと思ったから。
徐々に、いろいろ制作環境を整えられたらいいなと思っています。



・・・結構長くなってしまった。


今回のiMacは、今まで触ったことのあるものの中で、
一番使えそうな雰囲気です。
さーて、どうなるかな。

時々、またMacネタが出てくるかもしれません。
Macユーザーの方々、いろいろ教えてくださいね。
今後ともよろしくお願いします!

2006/03/04

一喜一憂

今週は緊急連絡のFAXが飛び交った。

1.エスペランサ緊急事態のため、連鎖祈祷期間延長のお知らせ。
2.エスペランサ試合&テレビ取材のため、大応援団結成の願い。
3.上記応援団を後押しするため、予定していた奉仕者祝福礼拝の中止。

様々な緊急連絡事項を、教会員全員に周知するのは難しいので
私たちの所では、FAXを持っている方のところに、「InterFax」という
メールからFAXへ同時送信できるものを使って配布している。
いろいろ抜けもあり、もっといい方法もあるかもしれないが、
事務の立場としては、現状ではとても助かっている。

エスペランサ」というのは、私たちの教会から始まったサッカースクールの働き。
素晴らしい働きだが、前進すればするほど様々な壁にぶち当たる。
まるで、出エジプト前のモーセに立ちはだかるパロのようだ。
今回は、特別に祈っている中でもあり、心を一つにしてエスペランサに集中しよう
ということになった。しかし、予定していたものをキャンセルするのは、なかなか難しい。
でも、今回はそれを行なう事ができたのだ。


私たちは、大胆に今までのやり方を変化させる大きなチャレンジの時に来ている。
安息日のために人がいるのではなく、人のために安息日があるのだ・・・。


試合の会場から、メールや携帯電話で、随時報告が送られてくる。
事務室に残っている者達への配慮だ。
そこでも、各試合の様子を聞きながら、一喜一憂する。

結局、エスペランサの試合は、残念ながら予選敗退だったそうな。
でも、価値ある時だったと思う。
具体的に、観戦に行く事ができた人たちは、
よりエスペランサへの祈りが強くなることだろう。
エスペランサにとっても励ましになっただろうな。


何とかして幾人かでも救われるために、
何よりも私たち自身の自己変革が求められる。

用いられるテクノロジーは用いつつ、
絶えずパラダイムシフトを繰り返しつつ、
神のみこころの実践とは何かをいつも祈り求めつつ、
この身を主に捧げていきたい。

2006/03/02

父と母

父と母がいて、ボクがいる。
当たり前だけど、あらためて感謝。

母は心から父を尊敬して第一に考えていたと思う。
母は心からそれを喜んでいた。
愛情にあふれた、あたたかい家庭だった。

もちろん、子ども達にも十分に愛情は注がれていた。
でも、子ども達にエネルギーが向き過ぎなかったのが、良かったのだと思う。
それが、うちの家族を成り立たせる大きな要因だった。


今日、祈祷会で母が証しをした。
それを聞きながら、父の事を思い出し、あらためて感謝した。


思い出して、ちょっと昔の文章を引っ張り出してきてみました。
3年前、父が召天した時に書いたものです。


父が残してくれたことば
~ 父・佐藤寛二闘病生活の中で ~

2003年2月9日(日) 前夜式
2003年2月10日(月) 召天式


2003年2月7日(金)午前10時8分、父は、平安のうちに地上での生涯に幕を閉じました。もちろん寂しさはあります。でも私たち家族の心には、父が最後の数ヶ月を通して見せてくれた歩みを通して、何かとってもすがすがしいものが残っているのです。

母は、この4ヶ月の間、自らが体調を崩した2、3日を除いて、毎日、片道一時間かかる病院まで出かけ、本当によく看病しました。母と父が病室で共に過ごし、毎日仲むつまじくしている姿は、看護婦さんたちの間でもうわさになる程でした。

兄は、父が目を細めて喜ぶ、緋奈乃ちゃん(兄の娘)を連れて行って励ましてやろうと、忙しい仕事をやりくりして出来る限り病院にかけつけてくれました。姉は、父の看病のため、そして母親を支えるために、長期の休暇を申請して仕事を休み、いろいろな形で支えとなってくれました。そして私も、教会の方々の配慮で仕事を早めに終えることができ、面会時間終了間際まで病室にいる母を迎えに行くことができました。

また、親族や友人、教会の方々など、多くの方々が励ましてくださり、父も家族も支えられることが出来ました。

帰りがけには、いつも祈りの時を持ちました。ある時は母が、ある時は父が祈ってくれました。寡黙な父でしたが、病の中で一言一言、噛みしめるように祈ったその祈りの言葉は、いつも希望にあふれ、何か光がさしこむかのようなものでした。そして、そのことばを通して、父が病の中でどのように神と深く出会い、平安を得、死と病に打ち勝っていったのかを垣間見ることが出来ました。
走り書きを集めたものですが、その一部を紹介させていただきます。


  • 長い看病の中で、母が腰を痛めた時。父が祈ってくれた。「・・・愛する、天のお父様、こうして毎日毎日来てくれるママのために・・・。」そういって、言葉が続かなくなる。短い一つ一つの言葉に、母への愛情と心が豊かに注ぎだされていた。
  • 帰りがけに、父の側から「祈ってあげようか」と初めて声をかけてくれた。「うん、じゃあ祈って」と母が頼むと祈りだした。「愛する天のお父様、こうして今日も一日無事に過ごせたことを心から感謝します。このように、ケンジと、ママと、一緒に過ごすことができるひと時をありがとうございます。明日も、あさっても、このような日々が続きますように・・・。」母は感極まって涙を流した。「パパが、いいお祈りするから・・・」満足げな父の顔は、とても輝いて見えた。
  • 「昨日のパパの祈りが、とっても良かったから、今日もパパお祈りして。」と母が言うと、「・・・まーた、おだてちゃって。」とニヤリとする父。「パパが一日の終わりに、面白いこと言ってくれるから、疲れも吹き飛ぶね。」と母。父のユーモアや、茶目っ気。父の温かさが伝わってくる。
  • ある土曜日、父に話し掛ける母。「明日は、礼拝だからね。パパも神様のこと思って祈ってね。主の祈りは覚えてる? 天にまします我らの父よ、願わくは、御名をあがめさせたまえ・・・って覚えてる?」ウン、ウン、とニコニコしながらうなずく父。今日も平安な一日。
  • 「パパ、何か持ってきて欲しいものはある?」と母が聞くと。おもむろに父はひとこと、こう言った。「お祈り。」
  • 病気の進行もかなり進んだころ。突然、やさしい声で父がこのように言った。「もう、天のお父さんに任せるしかないね。」父の顔を見ると、すがすがしく微笑んでいるようだった。
  • 痛み止めの薬が強くなっていったころ。私たちは、少し元気になったら、家に帰ろうねと父を励ましていた。父にお祈りをお願いしたら、このように祈った。「愛する天のお父様・・・、長い・・・病院生活でしたが・・・、明日で最後となります・・・。どうぞ、予定通りに・・・事が運びますように。ケンジや、ヒロミや、ママも・・・、今までありがとうございました・・・。」突然の言葉に、ドキッとし、母も姉も涙を流しながら、「何言ってるのパパ。まだ、明日は帰れないのよ。」と、語りかけたが、父はきょとんとしていた。・・・痛み止めが、効きすぎていたのかも知れない。でも、とにかく、そこに集まっていた一人一人の名前を呼んで、ありがとうと言ってくれた父。うれしかった。
  • 母も私も病院に行くことができなかったある日。姉が一日父の側にいてくれた。帰り際に、「パパ、今日はママも賢ちゃんもいないから、パパお祈りしてね」と姉が言うと、父は「今日はひろみがお祈りして」と言った。姉は慣れない事で戸惑ったけれど、「じゃあ、特別サービスで、今日だけね。」と言って祈りだしたとのこと。その祈りを終えた時、父親は、パチパチと手を叩き、「じょうず~!明日もヨロシク頼むよ」と姉に言って励ましてくれた、とのこと。
  • 兄が緋奈乃ちゃんを連れて行くと、父はいつも嬉しそうにして、元気が湧いてくるようだった。緋奈乃ちゃんが生まれたのは、父と母が洗礼を受ける2ヶ月ほど前のこと。実家の港南台の病院で生まれ、それから3ヶ月近く、緋奈乃ちゃんは港南台で父や母とも一緒に過ごした。そのせいか、緋奈乃ちゃんは、よく父になつく。「ヒナちゃん、じーじにヨシヨシしてあげて」と言うと、その小さい手で父の手や頭を一生懸命さすってくれた。まさに天使のような存在だった。兄も、緋奈乃ちゃんを連れて行くことが最高の親孝行だと思って、父を励まし続けてくれた。
    ある日の父の祈り。「愛する天のお父様。今日も、みんな一同に会し、集まれたことを感謝します。明日は、もっと賑やかになりますように。」寡黙な父ではあるが、賑やかにみんなが集まってくれるのは、やっぱり嬉しいんだなと思った。
  • 正月に3日間家に帰ることができた。この外泊に向けて、年末父は驚くほどの回復を見せた。ほとんど寝たきりであったのに、車椅子に乗せようとする時、「大丈夫」と言いながら、なんと自分一人の力で立ち上がって車椅子に乗ろうとしていた。でも逆に、思ったよりもずっと力の入らない自分の足に驚いた様子で、「おかしいなあ」と言いながら、ベッドに座った。父の気力の回復に、ただただ、あっけに取られるばかり。家についた父は、食べることもできず、ただ、寝ているだけではあったが、家族みんなそろって本当に賑やかに過ごす事ができた、最高の正月だった。あふれる恵みに感謝。
  • 母の誕生日に。母の祈りに続けてこう付け足したとのこと。「パパの分まで、長生きしてください・・・。分からない事があったら、天のお父さんに聞いてください・・・。」それを聞いて母は、「どうやって、パパの分まで生きるの? パパ。重ねることなんて出来ないじゃない。」と、言ってやったんだとのこと。父には、父が癌であるとは誰もはっきりと言わなかった。しかし父は、自分の病気が治る見込みのないものだということを、一人どこかの時点で悟っていたのだと思う。しかし、その事でパニックになったり、人を責めるようなことは一切なかった。むしろ心が定まり、天を見据え、病床で過ごす残りの生涯を、精一杯大切に生きているように思えた。母への言葉は、母を思いやる父からの、精一杯の誕生日プレゼントだったのだとも思う。
  • ある時、父は、母と姉を見比べて、「どっちがどっちか、分かんなくなっちゃったよ。」と言って、ニヤリと微笑んだとのこと。一方母は、時々「ウン、ウン」という返事をするのがやっとの時に、父に顔を近づけて、「パパ!私きれいでしょ!」と言って、父に「ウン」と言わせて、「あー、よかった!」とおどけて見せたりしていた。・・・この数ヶ月間は、病との闘いだった。でも、この数ヶ月間は、父にとっても母にとっても、ようやく二人っきりでずーっと一緒に過ごすことができたもっとも幸せなときだったのではないかとも思う。
  • 2月に入って。父は母の祈りに続けて一言だけこう祈った。「主イエス・キリストの尊い御名をあがめます。ありがとうございます。」
・・・ひたすら感謝し、だんだんと穏やかに、だんだんと輝いていくその父の姿を見続け、母はこのよう言いました。「本当に、病が進むにつれて、不思議とだんだんすがすがしくなっていくんだね。信仰が本物になっていくって、こういう事なのかしら・・・。」

 父は、痛くても苦しくても、わめき散らすような事はしませんでした。「痛い?」と聞くと、よく「まあ、痛いと言われれば痛い」とか、「まあ、こんなもんでしょう」とか、言っていました。でも医師に言わせると「痛くないはずはない。佐藤さんは我慢していますよ。」とのことでした。そして、我慢強い父らしく、最後の最後まで、そのようにして静かに息を引き取っていきました。

 父が息を引き取る前夜、父の姿を見ながら、私の心には聖書の中のある言葉が浮かんでいました。
「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

 「父は耐え抜いて良しと認められたんだなあ。父には、もう素晴らしい『いのちの冠』が用意されているんだ。」と心から確信することが出来ました。

 良かったね、パパ。今まで良いものを残してくれてありがとう。がんばってくれてありがとう。お疲れ様。今は、天国で、いのちの冠が与えられているんだね。天国でもみんなを見守って、みんなのために祈っていてね。本当にありがとう。


病院に入院した日、召天の日。その間のうるわしい会話、父のことばでした。
子供一同

2006/02/28

ともに食する

「ともに食することは、礼拝だと思う。」

・・・この言葉は、かなり心に響いている。
昨日の夜、今日の昼、夜と、友人とともに食する事が続いた。
そして、その場にイエス様が確かにいてくださった事を信じる。

礼拝とは何か?
これは、かなり深い洞察が与えられるべきテーマだ。
私たちは、「礼拝出席」はしていても、「真の礼拝」をしていないかも知れない。
「礼拝出席」は、大いに強調されるべき事だが、
それを強調するあまり、「礼拝に出席する事が礼拝だ」との思い違いを
してしまう危険性があることを、常に自戒し続けるべきだと思う。

わたしの言うことを信じなさい。
あなたがたが父を礼拝するのは、
この山でもなく、エルサレムでもない、
そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、
わたしたちは知って礼拝していますが、
あなたがたは知らないで礼拝しています。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって
父を礼拝する時が来ます。今がその時です。
父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、
霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(ヨハネ4:21-24)


「礼拝の場所」は関係がない。
「知って礼拝するか」どうかも関係がない。
そして、「今がその時」。

問われるのは、「真の礼拝者」かどうかということ。
神は、このような人々を求めておられる。
そして、私たちの心の扉を、叩いておられるのだ。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。
だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、
彼もわたしとともに食事をする。
(黙示録3:20)

私たちは、よくWWJD( What Would Jesus Do?)という問いかけをする。
イエス様だったらどうするだろうか?という意味だ。

ここで、イエス様は、
1 「戸の外に立ってたたく方」
2 「戸を開けた者のところに入られる方」
3 「彼とともに食事をする方」

私たちは、同じようにしているだろうか?
戸をこちらから無理矢理こじあけておきながら、
彼の所に入るどころか、むしろ引きずり出してはいないか?
食事をするどころか、「礼拝」と呼ばれる群衆の中に放り投げて、
その人数を数えて満足してはいないか?


礼拝については、いろいろな視点がある。
だから、一概に善し悪しを論じることはできないが、
少なくとも、自らの姿勢を省みることは誰にでもできるはずだ。

この世界に本物の「福音」を輝かせる事ができていないとしたら、
それは多分にクリスチャンと呼ばれる私たちの責任である。
それが出来ない私たちは、私たち自身が本来受けるべき恵みをも
自らが制限しているということでもある。

だから、自己変革は、誰かのためにあえて犠牲を負うという側面だけでなく、
むしろ「自分の救いを達成する(ピリピ2:12)」という視点からも、
積極的に取り組むべきだと思う。


ね?ともに、食事しましょうよ。

2006/02/25

弟子たち

今日はMDC2期生の同期会。

2000年度、本郷台キリスト教会でダイヤモンドチャペルを使い始めて
初めてのMDC生たち7人が集まって、それぞれの近況などを
ざっくばらんに分かち合った。

MDCとは、ミッション3000弟子訓練センター(Mission3000 Decsiples Center)の略。
ミッション3000の担い手が育つようにと始められた、
実践中心の教会内訓練センターである。
ボクらの代は、とにかく教会で行なうイベントが飛躍的に増えた時期で、
何かあれば必ずMDC生が裏方で走り回っていた。

特に印象的なのが台所での奉仕。
「毎日、台所で、クッキング」(Mainich Daidokoro-de Cooking; MDC)というのが、
ボクらMDC生の日常をはっきり現したフレーズだった。


それにしても、ここで集められた7名の構成は完璧に近かった!

それぞれに与えられた、強烈なキャラクターと、ねじの抜け具合。
でも、主への情熱はいつも熱く燃やされている、そんな7名でした。
今日、分かち合いながら、みんな自分の置かれた所で誠実に生き、
神様は一人一人を、優しく丁寧に導いておられるという事を、
あらためて実感させられました。

・ 若くして生死をさまよう病と闘いながら、主を証ししている兄弟。
・ 一度は諦めかけた、海外宣教に突如道が開かれ、喜んで準備をしている姉妹。
・ 苦しみを経ながら、少しずつ自分の生き方や担うべき働きを見出しつつある兄弟。
・ 見えない所で認められにくい働きそのものに、自らの目的を見出しつつある姉妹。
・ 心の痛みを振り払うように激しく仕えてきながら、ようやく自分が見えてきたという姉妹
・ 何を言われても、必要な働きを一から建て上げていくエネルギーを持ち続ける姉妹
・ 高齢をものともせず信仰に堅く立ち、いつも喜びと悲しみを共有してくださる姉妹

みんなみんな、私の宝です。
この7人を同時に集めた神様、かなりセンスがイイ。
年齢、性別、性格、境遇、嗜好・・・、みんなバラバラ。
でも、なんとも言えず、一体感があるんですよ。

ある意味、イエス様の十二弟子の選びみたい。
本人達も、本当の所よく分かってなかったけど、イエス様に声をかけられたって
ことだけはよく分かってて、来ちゃいました、みたいな。


弟子としての歩みは、まだまだ始まったばかり。
こういう仲間がいるって、相当いいデス!

それぞれが、主のにあって誠実に歩んでいけるよう、互いに励ましあっていきたい。

2006/02/24

良し!

良かったね~。
荒川さん、金メダル!

フリーでは、コーエンもスルツカヤもミスしてしまったんだよね。
(私は、スルツカヤの愛くるしい表情が好きだ)
村主も良かったんだけどな・・・。
相変わらず採点の仕方はまったく分からないですねー。

でも、尋常じゃないですよね、金メダル取るのって。


さてさて、「鳥のオリンピック」についてです。
何人かの人から同じ疑問を頂き、ちょっと自信が揺らいでいたことがあります。

「ねえ、ペンギンって鳥なの?」
「へっ?」

そんな事、疑ったこともなかったので、ビックリ。
でも少なくとも3人から、この質問が発せられたので、念のため辞書で調べました。

ペンギン 0 [penguin]
ペンギン目ペンギン科の鳥の総称。羽毛は獣毛状。脚は短く水かきをもち、陸上では直立して歩く。翼はひれ状に退化して飛べないが、水上滑走や潜水を巧みに行う。熱帯のガラパゴス諸島から南極大陸までの南半球の沿岸に分布。コウテイペンギン・フンボルトペンギンなど。人鳥。


・・・ということで、自信をもって結論。ペンギンは鳥です!


ところで、創世記では、鳥の創造はこのように書かれています。

神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
神は、・・・ 種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。
神はそれを見て良しとされた。
(創世記1:20,21)

「地の上、天の大空を飛べ!」って神様が声を発した時、
ペンギンも「翼のあるすべての鳥」の一つの種類として、造られたのかなー。
・・・でも、飛べない。

でも、そんなペンギンに一言。
「神はそれを見て良しとされた。」

感動の瞬間です。
飛べと言われて、つくられた鳥の一種ペンギン。
でも、ボク、飛べない・・・、なんて落ち込む暇もなく「神はそれを見て良しとされた」


ステキですね!
ボクには採点方法は分からないけど、確かに「神はそれを見て良しと」してくれます。
感動です!!

通りよき管として

鼻の通りは、ずいぶん良くなったなー。

スムーズに鼻から息を吸えるのは気持ちいいっ。
からだに酸素が行き巡る感じが心地いいっ。

左右とも処置が終わって、今日確認したところ結果は良好。
昨日、体調が突然悪くなったからちょっと心配したけど、
単に疲れが出ただけだったかな?

とりあえず、肺炎の原因菌が溜まっている状態は脱しているみたいなので、
感謝しつつ、良い空気をいっぱい吸って、生き生きと歩みたいですネ。


祈ってくださっている方々、本当に感謝です♪

2006/02/22

魅力

フィギュアスケートは、やっぱりオリンピックの華だ。
華麗な滑りを見ながらそう思った。

特に心奪われたのは、コーエン、スルツカヤ、村主。
ボクには採点方法や、スケートとしての良し悪しはよく分からないが、
この3人の滑りは、何か見ているだけで感動させられた。

何と言ったらいいんだろう。
芸術性?味わい深さ?
とにかく、惹きつけて放さない魅力を感じた。


それは、恐らくテクニックではない。
しかし、テクニックがなければ話にならない。
でも、テクニックにとらわれると、本質を見失ってしまう。

芸術家が、真に芸術家であるためには、
それを裏付けるための十分なテクニックが必要だ。
しかし、テクニックそのものは、本質ではない。


これは、私たち自身の人生の本質を考える上でも、大いに参考になる点だ。

私たちは、神の作品。
私たちは、神の美しさをこの世に輝かせる使命がある。
それは、ことばや口先によるものではない。
良い行いによるものですらない。
それは、神ご自身の栄光の輝き。
私たちに、無条件で与えられた贈り物。

もちろん、生きるためのテクニックは必要だが、
それ自体は、人生の本質ではない。

飽くなき追求をやめた芸術家が、もはや芸術家とは言えないのと同様、
私たちは、その生き方において、簡単に分かったふりをして、
安住してしまってはいけない。
だからと言って、安息のない状態の中で、
気を病みながら、混乱し続ける事がよいとは思えない。

私たちは、神の芸術作品として生き続ける事が出来るだろうか。
自分自身を砕きながら、平安と希望にあふれている事が出来るだろうか。
本質を発揮するために、それを見失わずにテクニックを磨く事が出来るだろうか。


テクニックの修得には、順序というものがある。
まずは、ごくごく初歩的な、基本原則を学ばなければならない。
形式を越えたところにあるものを、とらえるためには、
まずその形式を学ばなければならない。
自由にそれを扱えるようになるためには、
自らを律して、まず型に押し込められなければならない。

でも、いつかはその型から脱皮しなければならないのだ。


深い美しさに触れると、なんだかそういうものが呼び覚まされる気がする。
芸術作品には、そんな奥深い魅力があるのだ。

・・・ボクも芸術的になりたいです!

2006/02/21

語り明かそう

徹夜で語り明かした。
こんなの何年ぶりだろう。

1990年に始まった初代「ジャパニーズコンチネンタルズ」の時からの中心メンバー。
えいちゃん、しょうこちゃん、むっちゃん、てるちゃんと、久々に会った。
えいちゃん、しょうこちゃんは、今、GMX、コパンで活躍、むっちゃん、てるちゃんは、ニュージーランドにて邦人伝道を行なっている。今回は、むっちゃん、てるちゃんが、えいちゃんたちの家に来ているというので、急遽訪問させてもらった。

当時ボクは最年少の18歳だった。
彼らは、精神的にも霊的にもあまりにも「若かった」ボクの姿を知っている。
今から考えると、顔から火が出るほど恥ずかしい事もあるが、
でも、あの時点でのボクも、今のボクも、ボクはボク。
数年間ともに同じ働きを担った大切な仲間に久々に会って、
もう一度、「私は今どこにいるのか?」という事を考えさせられて、嬉しかった。
客観的に(というか、相手の立場からの主観的に)、ボクがどう見えるのか、
そしていろんな、意見も言ってもらえて嬉しかった。
心を開き、耳を開き続ける事が、何より大事だと思った。


話をしながら、ボク自身の置かれている立場は、
神様の絶妙な計画の中で用意された、絶妙なバランスの中でのみ保たれている、
普通ではなかなかありえない、特殊な「恵み」の中にいるんだな、と思った。
ボクが日々意識している類の葛藤に真正面から向かい合いながら、
なお、生活を成り立たせながら、今この瞬間を希望にあふれて歩んでいるなんて、
ある意味、奇跡的なことなんだ。

でも、ボクに出来るのは、ボクに出来ることだけだ。
何らかの結論に達して、納得しても、それだけでは意味はない。
ボクは、ボク自身が導かれているように、生きるしかない。
どんなに特殊であったとしても、
ボクにとっては、ボクの人生を生きることこそが、現実の世界だ。
その世界に、いろんな世界観を重ね合わせてみる事は歓迎する。
それは、ボク自身をも、ボクの隣人をも豊かにすることだと思うからだ。


その前日、日曜日には「教育主事」としての任命を受けた。
この立場を甘んじて受け入れた以上、
そのために多くの方に祈っていただく必要を感じる。
「その立場」をまっとう出来るように、というよりも、
「私に、今、この立場を与えられた神のみこころ」を、まっとうする事が出来るように。

多分に自己矛盾をはらんでいるのかも知れない。
でも、私は「教会」というものを、もう少しinnocentに信じている。
そして、自分には新しいものを切り開くだけの力がなかったとしても、
そのきっかけの一つにはなり得ると信じている。

負うべき十字架を、見誤らないよう、目を開き続けていきたい。


徹夜は、こうやって友人と語り明かすためにこそするべきものだと思った。
決して、仕事に追われてするものではないね。

からだが、支えられている事を心から感謝しつつ・・・。

2006/02/18

電話だよー・・・。あ゛っ!

「さとけーん、電話だよーっ、さとけーん」
という声で目が覚める。やばいっ。
つ、月井先生から電話だ。
ち、遅刻だ~~~!

ちなみに、上記の声は、私の声。
そう、携帯電話の呼び出し音なのです。
ふざけ半分に録音したやつをそのまま使い続けているのです。
ほとんどの場合は、バイブレーションにしてるし、
あんまり人に聞かれないようになっています。
でも、前に病院の待合室で鳴ったときははずかしかったなぁ・・・。

それはさておき、遅刻です。
今日は早天祈祷会でメッセージの担当でした。
私は、ここ数ヶ月ずっと眠剤を飲んで寝ているせいか、
朝はちょっと弱い。(その前から弱かったのでわ?という突っ込みは、ナシよ)
だから、最近は、担当の日しか行っていない。
しかも前回は、まったくダメダメで、ドタキャンをして迷惑をかけた。

なのに遅刻。
ちゃんと目覚ましかけたはずなのに~。
でも、仕方がないので気持ちを切り替えてすぐに教会へ向かった。


マタイ5章、山上の垂訓の所から、最近思わされていることを語った。
「心の貧しさ」について。
「義に飢え乾いている」ことについて。
「平和」について。
どれも、映画や本を通して考えられた事ばかり。

教会は(というかクリスチャンは)、もっともっと、
世の中の人がどのようにモノを見て、考えているのか、よく学ぶ必要がある。
こう言うと堅く聞こえる。

でも、最も神を必要としている人たちを、
私たちは勝手に自分達の基準で裁き、近寄らないようにしているのだ。
まさに半殺しにされた人を、見てみぬ振りして通り過ぎた祭司のようだ。


今日、ふだんあんまり話す機会のない二人の女性と話をした。
(へーい、見てる~?)
話していたら、ボクがココのところ必死になって戦っている部分が、
そんなに普遍的な話じゃないのかなーって気がしてきた。
「そんな事考えた事もなかったーーー。」と言われつつ、
ある意味羨ましいなと思った。

ボクは、「普段、まわりにいる人たち」を、「一般的な人たち」だと思っているけど、
実は、そこは、すっげー特殊な人たちばっかりなのかも知れない。
(教会って、本当にそういう事が起こりうる可能性を秘めた場所ですよね)
オレって井の中の蛙?

だから、やっぱり、なるべくいろんな人と接点を持つようにすることは、
ボクの責任だと思った。それも、別に背負い込むこととしてではなく、
ボクの大切な人生の一部分として。

だって、イエス様は、罪人とともに食事をする事を好まれた。
当時の宗教家たちが、どんなに彼を批判しようとも。
でもでも、それは世に流されることとは違う。
流される人は、教会の中だけにいても、十分流されている。
むしろ、世からの「影響」を進んで受ける覚悟を決めたいくらいだ。


こんな、ボクが、明日、「教育主事」に任命される。
ボクは、二つの理由から、少々躊躇している。

(1)人がボクを「教育主事」と意識して見出すと、
  私に対してはじめから構えてしまうのではないか。
  ・・・特に、「先生」という立場に弱い人たちがいる事を私は知っている。
    (まあ、ボクは先生じゃないと思うんだけど)
(2)ボク自身が、与えられた肩書きを勘違いして、
  人々を裁くために振りかざす可能性があるのではないか。
  ・・・私は、本当に醜く、とんでもない奴であることを私は知っている。

それでも、私はそれを甘んじて受けようと思った。

ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。
そして、キリストのからだのために、私の身をもって、
キリストの苦しみの書けたところを満たしているのです。
キリストのからだとは、教会のことです。

私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、
教会に仕える者となりました。
神のことばを余すところなく伝えるためです。
(コロサイ1:24-25)

今までもやっていた、事務的な働き。
これから携わろうとしている、教育的な働き。
そして、ずっと学び続けている、祈りの働き。

これらは、キリストのからだを建て上げるために、
体の隅々にまで行きめぐって、すべてをつなぎ合わせる働きだと思っている。
そして、時に身を引き裂かれるような苦しみを負う場でもある。
主は、私をここに召しておられるのだ。


主よ、ご覧の通り、私はあまりにも相応しくありません。
でもあなたの選びは、私の能力や人格によるものではありません。
ただただ、あなたの賜物と召しなのです。
私は、そのプロセスの一瞬一瞬を委ねます。
主よ、今、ここに、生きる事ができますように。
その変わりつつあるプロセスの中で、あなたを喜ぶことが出来ますように。
何よりも、あなたがいつも微笑みかけてくださっているのですから。

2006/02/17

まだまだ幻想?

再び副鼻腔炎の処置をしました。
今度は左側です。

恐怖だったのは、今日の朝飲んでいくはずだった
痛み止めが見当たらなかったため、飲まずに行ってしまったこと。
やっぱり、前より痛かったような気がします・・・。

そして、やっぱり、「あの音」にゾクッと来てしまいました。

でも今回は、イカの塩辛みたいなのは出てきませんでした。
処置時間も前より短かったと思います。

「あわれみ(Compassion)」というのは、「共に痛むこと」だそうです。
祈りのうちに、共に痛んでくださった方々、感謝です・・・!



そうそう、ナウエンの「差し伸べられる手~真の祈りへの三つの段階」を
読み終わりました。いつもながら、考えさせられる内容。

◆ 第一の移行: 孤独から独りで在ることへ
◆ 第二の移行: 敵意から接遇(もてなし)の心へ
◆ 第三の移行: 幻想から祈りへ

最近、ほとんど速読に近い形で読む事が多いんだけど、
3番目の「幻想から祈りへ」に入ったとたんに、よく理解できなくなってしまった。
おそらく、第一、第二に関しては、ここ一年間ぐらいの間に
自分の中でも深く考えさせられていたことだったので、
「なるほど、なるほど」と、感心させられながら読む事が出来たんだけど、
この部分は、一読しただけでは、ピンと来ない感じがした。

ボクには、まだ「祈り」ということがよく分かっていないんだなと思った。
しばらく期間を置いてから、また読んでみよう。

2006/02/16

わたしもその中にいる

今、教会全体で特別な祈りの取り組みをしている。
緊急の課題が持ち上がり、そのための連鎖祈祷をしているのだ。
今日の祈祷会では、その一つの答えが主から与えられた事を聞き、
みんなで感謝した。

しかし、私はその時に、牧師の祈りの中で
ほんの少しだけ触れられた御言葉によって、心がとらえられた。


もし、あなたがたのうちふたりが、
どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、
天におられるわたしの父は、
それをかなえてくださいます。

ふたりでも3人でも、
わたしの名において集まるところには、
わたしもその中にいるからです。
(マタイ18:19-20)


私がとらえられたのは、「心を一つにして」という部分だ。


私たちが「一つ」になることは、主のみこころだ。
そして、私たちはそのために召された。
しかしその単純な事が、なんと実際には難しいことか。
私たちは、一人一人、あまりに違う。
表面上同じ言葉で、同意したように見えても、
それぞれが考えているイメージまで、全く一致している事は少ないように思う。

使徒2章で、救われた3000人はさっそく、毎日心を一つにして祈っていた。
ありえない!
なんでそんな事が可能なんだろう?

主よ、3000人は、難しいかもしれません。300人ではどうでしょうか?
いいえ、300人も多いです。30人では?
いや、やっぱり12人。
5人ではどうでしょう?
5人家族くらいならば、一致できるのでは・・・。

しかし、主は言われる。
「あなたがたのうちのふたりが、・・・地上で心を一つにして祈るなら」

主よ、ありがとうございます!
たったふたりが、心を一つにして祈ればいいのですね!


でも・・・、たった2人の交わりですら、
心を一つにするって、何と難しいことでしょう!
でも、主は、そこから始めようとされているのです。
目の前に今置かれた人に対して、誠実でなくて、
どうして、群衆の前で誠実である事が出来るでしょう。
目の前に置かれた人に対して、正直である事ができなくて、
どうして、群衆の前で正直である事が出来るでしょう。

2人、3人でもというのは、そこなら簡単だからというだけではない。
その2人、3人との関係こそが、3000人の一致の大きな鍵となるのだ。


先日、「ミュンヘン」という映画を見た。
実話を元に、テロの際限ない報復合戦を通して、真の平和を問いかける作品だった。
あまりにもヘビーな内容だったが、いろいろと考えさせられた。

その中の一つが、果たして「自分達の信条が、相手を裁く理由になるのか」という事と、
平和や家庭を求めて戦っていたはずの人たちが、結局真の平和にも、
家庭の豊かさにも行き着かない事を感じ始め、疑問を持ち始める。

そのラストで、自分に指令を下した国家の者に対して、
「今晩、あなたをうちに食事にお招きします。あなたは遠方からの客人です。
 私にはあなたをもてなす義務がある」
と声をかけていたのがとても印象的だった。
「ともに食事をする」。
生活の中で、顔と顔をつきあわせてじかに触れ合う。
こんな当たり前の事が、当たり前に出来ることこそ、価値のあるものなのだ。

自分の義を主張するばかりの所には、平和は生まれない。
むしろ、互いの違いは認めつつ、それをそのまま受け入れるか、
脇に置くかしながら、「あなたと私が一緒に食事をする」こと。
これこそが、平和への第一歩なのではないかと思った。


2人、3人が心を開いて、互いに耳を傾けあい、交わること。
それは、全世界にが一つとなるための出発点なのだ。
そういう祈り。
イエスがたしかにそこにいると感じられる祈り。
そういう祈りの中で、ボクたちは際限なくつながっていけるのだ。

2006/02/14

私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。
夜には私の歌を思い起こし、
自分の心と語り合い、私の霊は探り求める。

・・・私は、主のみわざを思い起こそう。
まことに、昔からの あなたの奇しいわざを思い起こそう。
私は、あなたのなさったすべてのことに 思いを巡らし、
あなたのみわざを、静かに考えよう。
(詩篇77:5,6,11,12)


2006年2月14日。
この日は、私にとって特別な日だ。
私の生涯において、おそらく最も大切な出会い・・・。
この方とともに歩む決意をしてからの日数が、それまでの日数を越える日。
それが、私にとってこの日が持つ意味だ。


1988年11月19日。
アメリカ、アラバマ州の南端。Gulf Shore。
前日の夜、私たちがその場に到着した時には、もう辺りはすっかり暗くなっていた。
車から降りた私の目に、まず飛び込んできたのは、ぼうっと白く光る地面。

「雪?」
いや、そんなはずはない。
涼しくはなっていたが、まだどちらかというと暖かい季節だ。

「塩?」
私は岩塩の広がる大地というものを見た事がないが、こんな感じなのだろうか。
でも、それもやっぱり違うようだ。
その白さは、生まれてこの方、見たことのないものだった。

降り立ったみんなは、その光る大地めがけて走り出した。
ここに一緒に来たのは、私の行っていた教会のユースグループのメンバーたちだ。


アメリカに来るまで、教会に行ったことすらない私。
キリストが、実際に生きていた歴史上の人物だという認識すら怪しかった私。
「これからの国際人は、キリスト教ぐらい知っておかないとだめだとは思う。
でも、ボクは絶対にクリスチャンにはならないよ。」と、安易に言っていた私。

でも、そんな私はどういう訳か、普通の交換留学プログラムに参加したはずなのに、
現地の公立高校ではなく、私立のクリスチャンスクールに通うことになった。
(考えてみれば、それは私たちが今「チャーチスクール」と呼んでいるものだった。)

ちょっとした失恋からひどく思い悩み、
たったそれだけの事で「死んだっていい」という妙な勇気が与えられた時、
同時に「でも、死んではいけない」との思いも心に湧きあがっていた。

「なぜ、死んではいけないのか?」
「生きているからには、何か目的があるはずだ。」
そんな事から、彼らクリスチャンが信じているものに
何かのヒントがあるのかもしれないと思うようになった。

私はアメリカ人に憧れていた。
彼らは自分と違って自由だと思った。
アメリカに来てから、やっぱりその通りだと思った。
でも、しばらくしてから、彼らが魅力的なのは、
彼らがアメリカ人だからではなく、彼らの信じているものが
そうさせているのだという事を感じるようになっていた。
なぜなら、信じている者とそうでない者との違いが見えてきていたからだ。

キリスト教については、相変わらず理解できなかったけれど、
そこでの友達たちは、とても素晴らしかった。
彼らから流れてくる無邪気さ、温かさのゆえに、
悩みの中にあっても、私はそこに留まり続けることを選んだのだ。
自分には信じられないかもしれないけど、彼らみたいになりたい。
彼らには、そう感じさせるものがあった。

そんな仲間に囲まれて、2泊のリトリート・キャンプに出かけてきた所だった。
金曜日だったけれど、私たちだけ、学校を早く切り上げて出発した。
そんな柔軟さもこの学校にはあった。


・・・私も白い大地めがけて走り出してみた。

キュッ、キュッ
「え?」

歩くと音がする。
これは砂だ! そう、ここは砂浜なのだ。
白い砂浜が、月明かりに照らされて光っている。
こんなに美しい砂は、今までに見た事がない。

私たちはそこで輪になって座った。
一人一人が、思い思いに感謝を語り合った。
その中の一人が言った。

「ここに、Kenjiが一緒にいることを感謝します」
なぜ?なぜ、ボクがいる事が感謝なのか。
でも、心からそう言ってくれる人がいることが、素直に嬉しかった。

そして、私たちは海に向かって横一列に並んだ。
手をつないだ。

「祈りましょう。今日は、目をつぶらないで、祈りましょう。
 この、神様が造られたすばらしい自然を、しっかりと見ながら、
 神様のみわざをほめたたえましょう。」

涙が出た。
こんなに美しい自然を造られた神がいる。
神がいないはずがない。
心があたたかくなった。


翌日。
居心地のいい宿舎のリビングで、ゲストからのメッセージを聞いた。
英語もキリスト教も今ひとつな私には、あまりよく分からなかった。
彼は最後に、昨日の砂浜の砂が入った小さな袋を、
私たち一人一人に渡した。
それを受け取ると、みんな黙って外へ出て行った。
私も同じようにしてみた。

Host Fatherであり、Youth PastorであるPaulが、近寄ってきた。
「Kenji。今、何をしているか、分かったか?」
「いや、分からない。みんなみたいに、この砂を砂浜に撒き散らせばいいの?」
「そうだ。でもこれは象徴なんだ。私たちの罪を神の前に告白する。
 そうすれば、この砂がどこに行ったのか分からなくなるように、
 神は私たちの罪を赦してくださる。」
「何だかよく分からない・・・。」

すると、彼は砂浜に指で大きなハートを描いた。
「Kenjiの心には、いろんないいものがある。
 英語を話す能力。サッカーをする能力。勉強。音楽。柔らかい心・・・。
 でも、こういうものではどうしても満たす事ができない、空洞が、あるんだ。
 そう、ここは神様によってしか満たす事ができない空洞だ。
 どんなに良いことをしても、それだけではその空洞は満たされない。
 神様を信じるとは、その空洞に神様を心に迎え入れることだ。」
「・・・。」
「私たちには罪があって、神様と壁をつくっている。
 イエスはその罪を赦すために十字架にかかってくださった。
 だから、救われるために私たちのするべきことは、
 イエスが自分の罪のために死んでくださった事を信じて、罪を告白することだ。
 でも、もしそうするなら、この撒かれた砂のように、
 それらは何一つ見えなくなる。」

正直、あまりよく分からなかった。
罪のこと、十字架のことは、あまりに自分と関係のないことに思われた。
それを「救い」と呼ぶことも、意味が分からなかった。

でも、心に、自分ではどうすることもできない空白があることは確かだった。
これを拒む理由はない。
分かりはしないけど、イチかバチか、ここに賭けてみるか・・・。


そして、私はPaulに導かれるまま、罪の告白をし、
イエスを私の個人的な救い主として心に迎え入れた。
よく分からなかったのに、心が熱くなって、とめどもなく涙があふれてきた。
自分の中で、何かがふっきれたような感覚だった。

それが、私とイエスとの出会い。
1988年11月19日のことだ。


それ以来、私はその日の事を後悔したことはない。
分からない事は、分からないままで良かったのだ。
イエスとともに歩むことを選ぶ限り、本当に知る必要があることは、
もっとも相応しいときに、知る事ができるようにと導かれている。

・・・その時から6,296日。
ついに、イエスとともに歩む日々が、イエスを知らずに歩んできた日数を越える。
私は、なんて恵まれているんだろう。
まだ何も分からない若き日に、この方と出会う事ができたのだ。


主よ、あらためて、あなたの奇しいわざを感謝します。
あなたが、私の人生の途上において、確かに出会ってくださったこと、
私の歩みを少しずつ、整えてくださっていることを感謝します。
あなたは、私を心から大切にし、自由にしてくださいました。
私は、一人の人格として、本当に愛されています。

私は、あなたの御業を誉め歌い、あなたの救いを告げ知らせましょう。
主よ、これからも、あなたとともに歩ませてください。
あなたは、私のすべてです。

2006/02/11

ボイス

自分の内側から聞こえてくる声・・・ボイス。
そこから少しずつ読み取れるようになってきた事が、2つある。

1.自分自身を生きよ

「自分自身を生きる」って、今さら当たり前のことのように思う。
でも、どれだけ長い間、私はそれをしてこなかったか。
そして、周りの人の評価を意識して生きる事が普通になり、
やがて、逆にその評価そのものに縛られて生きていく。
気がついてみたら、「自分自身」と呼べるものがどれほどあるか。
すべては借り物の思想。なのに、必死に自分自身を守ろうとしている。

そんな所からの脱却がテーマだ。いや、脱却する事が目的ではない。
神が私に与えてくださった、ユニークな召しに応えていくためには、
まず、これは主から委ねられている「自分自身の」人生なんだということ
肝に銘じておかなくてはならない。誰も自分の人生を決めてはくれない。
誰も自分の人生の責任をとってくれない。私は、ただ神がつくってくださった
私の姿をまっすぐに差し出し、与えられた賜物が生かされるならそれでよし、
さらに十字架の道を歩むようならそれでよし。
私に与えられた主の計画を生きるのだ。


2.信者の模範となりなさい

「模範的な信者」という意味ではない。信者の模範になるのだ。
信者とはどういうふうに生きるのか、信者はこういうふうに考えるのか、
信者の生活は確かに本物だ・・・、そんな風に人々が感じられるものがほしい。
完璧である必要はない。生きている以上、そんなことはありえない。
不完全なありのままの自分を認めながら、誠実に喜んで生きる。
それには、ある程度の自制をともなう。なぜなら、私たちが単に良い意図で
行なっている奉仕そのものは、必ずしもバランスのとれた生活をもたらさないからだ。

鍵となることばがある。
・私は一体何者なのか?(identity)
・私の全体的な一貫性はどうなのか?(integrity)
・私の神と人との関係はどうなのか?(intimacy)

そして、人間性と霊性を豊かに回復し、生き生きと生きている人。
信者も、未信者も、ああなりたいと思う者。
でも、決して能力や境遇のレベルではなく、世界観、人生観の部分において。
主のいのちを運ぶ器として用いられたい。

ちょっと、変わった召しかもしれない。
でも、もし一人の人が世界を変える事が出来るのだとしたら、
まず私が自分自身を生きるところから始めなくてはならない。
そして、それを契機に、教会の群れが変わらなくてはいけない。
その変えられた群れの姿があってこそ、この世の光になるのだ。


主よ、これは私にしか生きることのできない、私のいのちです。
何と多くの時間を使って、自分自身を人の手に委ね、
自ら判断することをせず、状況に振り回されてしまってきたことでしょう。
どうか、こんな私をおゆるし下さい。
それでも、自分自身を生きたいです。
そして、周りもクリスチャンも、まったく知らない人も同様に、
私を見て、キリストが確かにそこにいて、私もその様になりたい。
と思われるような人間になりたい。

2006/02/09

トリノオリンピック



・・・って、そう聞こえませんか?

検索してみたら、結構同じこと考えている人がいたさ・・・。

2006/02/08

私の隣人とは?

「私の隣人とは、だれのことですか?」

そうだ。
彼は、自分の正しさを示そうとしてこう言っている。
一体、イエスからどんな答えを引き出そうとしているのだろう?

だいたい、自信たっぷりに、こんな質問している態度がムカつく。
まあ、律法の行ないに関しては、後ろめたさがなかったんだろうね。
ここでも、いかに自分が隣人を愛しているか、
周りの人たちの前で、証明したかったんじゃないかな。

いや、そんな彼でも、心の中にはある種の欠けに気付いていたのかもしれない。
「何をしたら永遠のいのちを、『自分のものとして』受けることができるでしょう」
って、イエスに質問してるんだから、
「こんなに律法を守っているのに、オレの生活、何かおかしい」
ってなんとなく、モヤモヤしたものがあったのかもしれない。


それに対して、イエスは、簡単には答えてくれない。
別に、いじわるじゃないとは思うんだけどね。

強盗に襲われて半殺しにされた人が、道端に倒れていました。
たまたま、通りかかった祭司も教師も、見て見ぬふりをして、行っちゃいました。
でも、普段は決して交流することのないサマリヤ人は、
彼を見てかわいそうに思って、介抱してあげました。
さあ、この3人のうち誰が隣人になったでしょう?

・・・そりゃあ、このサマリヤ人だろ?

「あなたも行って同じようにしなさい」


ここで、はたと考え込んでしまった。
イエスは、一体何を伝えたかったのだろう。

あえてたとえ話を使っているのは、
律法を守ることにいのちをかけている人に、
律法的な答えを与えても救いにならない事をよく分かっていたからだと思う。
きっと、「こうしていれば正しい。こうしていれば安心」って人には、
「気付き」が与えられるように促してやる必要があるんだろう。

それで、イエスは何に気付けと言っているんだろう?


・・・私が気付いたのは、こういうことです。
祭司もレビ人も、「たまたま」そこに通りかかった。
サマリヤ人も、「そこに来合わせた」。
つまり、「偶然」そういう場面に遭遇しちゃったのだということ。

でも、神にあっては「偶然」は単なる「偶然」ではない。
イエスのチャレンジは、要するに、今、目の前で助けを必要としている人に
きちんと目を向けなさい、ということではないだろうか?
そう。一度に一人ずつ。
今、この場所にこそ、イエスを愛する機会が開かれているのだ。

私たちの頭の中は、私たちの生活は、
「イエスに仕えるために、あれもしなくては、これもしなくては」と、
必要以上に忙しくなりすぎていないだろうか?
そして、目の前に突然現れた予定外の必要を、
イエスに仕える上で邪魔なこと、考えたくないこととして、
あまりにも簡単に脇に追いやってしまっているのではないか。
精一杯愛をもって対応したとしても、心の根底では、
「想定外」のことは、悪しき事と思ってはいないか?

もし、これこそが、イエスのみこころなのだとすると、
私たちが、「みこころの実現のために」忙しく駆けずり回っていることは、
著しくみこころから逸れた事になりかねない。

そういう意味で、いつでも主に仕える事ができるように整えられる、というのは、
忙しさで心を失ってしまう事がないように、あえて自制することを
含んでいるんじゃないか。


「私の隣人とは、だれですか」
・・・そう、まさに私の隣に主が置かれた人こそが、私の隣人なのだ。


主よ、およびもつかないような大きな事をしようとする誘惑から守ってください。
今、ここに生きることが出来ずに、良いサマリヤ人になることなど出来ません。
あなたが、目の前に置かれた一人一人と、しっかりと向き合い、
一人一人を愛されたのと同じように、私も、一度に一人ずつ、
しっかりと向き合っていく事ができますように。
うわついた私の心を、あなたの愛で守ってください。

2006/02/06

「才能」と「賜物」

「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と神が言われる時、
恐らくその目に映っているのは、私の「才能」ではなく私の「存在」そのものだ。
私の存在を喜んでくれる方がいる!

存在そのものが贈り物。
私の存在は、神の賜物で満ちているのだ。


ナウエンは言う。

才能と賜物の区別には意味があります。
私たちに与えられている賜物は、才能より重要です。
私たちは少ない才能しか持っていませんが、賜物はたくさん持っています。
私たちの賜物は、私たちの人間性をさまざまな手段で表わすものであり、
私たちが何者であるかを表わすものです。

すなわち、友情、親切、忍耐、喜び、平和、赦し、柔和、愛、希望、信頼、
そのほかの多くのもの。
これらは、私たちが互いに与え合うべき真の賜物です。
(「愛されている者の生活~世俗社会に生きる友のために」より)


でもこの世は、私に「才能」を求めるし、その重圧はただものではない。
「存在」そのもので安住していられるほど、世の中は甘くない。
「自らの価値を証明せよ」という誘惑に、私たちは容易に屈してしまうのだ。

むしろ、「私たちには何もできないんだ」という事をもっと素直に認めるべきだ。
そうすればきっと、存在価値の証明という誘惑から脱して、
純粋に、与えられている賜物を分かち合えるようになる。


無力さという賜物。


主よ、私を、そういう全く新しい次元に、留まらせてください。
私はあまりにせっかちなのでしょうか。
私のうちに、キリストの姿がかたちづくられるまで、
忍耐することを教えてください。
それは、私の希望です。感謝します。

2006/02/05

家族と仕事、どっちが大事なの?

「家族と仕事、どっちが大事なの?」

という、いささか素朴な葛藤は誰にでも起こりうる。
今、私は、あえて言うならば、家族(ファミリー)の大切さを訴えることを通して、
健全な共同体としてのあり方に、バランスをもたらそうとしていることだ。

昨日今日とあまり調子はよくなかったが、主は御業をなしてくださった。

一番祈りに覚えていたのは、「これからの牧会ファミリーについて考える会」。
ミッション3000全体の中で、働きがどんどん広がっていく中で、
また今置かれている率直な様々な現状の中で、
私たちが、自ら考えなくてはならない、選び取らなくてはならない所はどこなのか、
それを、牧会ファミリーの雰囲気で牧会ファミリーそのものについて話し合うことにした。

一つの前提条件を設けた。
「みんな背景が違うので、今回はとにかく相手の言っている事を、
 相手以上に理解する事が出来るように努めながら聞いてください。」

いろんな意見が出る。
それぞれ真剣にディスカッションが出来ていたようだ。

私は私の立場で示されていることを、語った。
メッセージと違い、特に「盛り上がりどころ」というのもなく、
淡々と会を進めていったため、期待していたような成果が生まれたかどうかは
その時の雰囲気では分からなかった。(私が具合が悪かったせいもあるが)

しかし、後になって「ぜひ今後この事について、もう少し話がしたい」という
声が届くようになった。よかった。
今回は、心を耕すための下準備第1弾という所だったので、
ある程度目的は達せられたのかな。

さらなる知恵が与えられて、ミッション3000実現に向けての
鍵として牧会ファミリーが純然と機能していくことを願っている。

「仕事」をしようとすればするほど「家族」が大事になってくるのだ。
そこを抜きに考えてしまうなら、今の日本の現状の必要に
ちっとも届いていくことはできないだろう。

いつも、違う次元からモノを見る訓練が必要だ。

2006/02/03

似ても似つかぬもの

 ある特別な行為や助言以上に大切なのは、心配してくれるだれかが、ただいっしょにいてくれることです。わたしたちが重大な局面にあって、だれかが「何を言い、どうしたらいいかわからないけれど、とにかく、わたしがあなたといっしょにいること、あなたを独りにしないことをわかってほしい」と言ってくれるとき、その人によって慰めと安らぎを与えてくれる友を得るのです。

 人を変えたり、その行いに影響を与えたり、新しいことをさせたり、新しい考えをもたせるような方法や技術を山ほどもっているとき、お互いがそこにいっしょにいるという、簡単そうに見えて実はたいへんな賜物を失う場合が多いのです。自分がそこにいる以上、何か役に立たなければと信じこんだばかりに、この賜物を失う羽目になるのです。

・・・「コンパッション~ゆり動かす愛」(ナウエン他)より。


悩んでいる人を見ると、解決を与えなくてはいけないような気がする。
導きを求めている人を見ると、導かなくてはいけないような気がする。
貧しい人を見ると、与えなくてはいけないような気がする。
困っている人を見ると、何かをしなくてはいけないような気がする。

でも、本当に必要としている人を見ると、見て見ぬふりをしている。


これは、イエスの「憐れみ」とは似ても似つかぬものだ。
私は結局、本当は役に立たない自分への罪責感をごまかすために、
「良い」行いをしようとしているだけだ。
その「良い」行いが重荷だと思ったときには、気がつかなかったふりをして
通り過ぎるのが一番だ。

でも、「友」となるということは、「役に立つ」こととは違う。
かけがえのないお互いが、へりくだって、尊敬しあって、
そこにいっしょにいるということなのだ。


頼んでいたナウエンの古本が、次々と送られてくる。
まだ、さわり読みではあるが、果てしなく謙遜な人格から、ひしひしとイエスの姿が伝わってくる。


明日は、託された重大な任務がある。
あせっているのかな。
肩の荷が重くのしかかっているような感覚。


主よ、私の心を取り扱ってください。
何者かであろうとする誘惑から守り、ありのままのいのちを生きる事ができるように。
人々との接点の中心に、ただあなたがいてくださり、ともに喜ぶ事ができるように。
弱い私を、御前にそのまま差し出す事が出来ますように。

委ねます。主よ。

2006/02/01

根本治療

最後に骨盤矯正に行ってから、もうすぐ一年になる。

「一時的な処置で副鼻腔炎が良くなったとしても、骨のズレが治らないと、結局はその様な炎症を繰り返す事になるから、もう一度きちんと骨盤矯正に行ったほうがいいらしいわよ。」

そう指摘されて、もっともだと思った。
病巣を取り除くことは根本治療とは違う。
もちろん、悪循環を避けるため、対処療法や病巣の摘出は必要だと思う。しかし、体全体の構造や体質、生活パターン等を改善しないと、またいつかは同じことの繰り返しになる。そのために役立つと考えられるのは、骨盤療法や漢方薬ということになる。

骨盤療法というのは、まあ一種の整体みたいなものだが、骨盤のズレが万病のもとだという考えで、治療を行なうものだ。私が行った所では、「バラコンバンド」という生ゴム製の2mぐらいのゴムチューブを、自分で腰や他の間接に巻きつけては取り外す、という事の繰り返しにより、自分でも体の調整ができるというものだ。そして、時々その場所に行って、体全体の調整をしてもらう。

でも、もう一年も行ってない。
本来なら、行かなかったとしても、バラコンバンドで自分なりに体を調整しておくべきだ。
今だからこそ、行ったほうがいいような気もするが、なんだか気後れしてしまう。
一年も行っていないと、顔を合わし難くなってしまった。


うーん。これって教会にしばらく来れなくなってしまった人たちの思考パターンなのかも知れないなぁ。彼らは決して教会に来たくないと思っているわけではない。しかし、ずっと来れなかった事への多少の後ろめたさがあって、かえって来難くなってしまっているのではないか?久しぶりに顔を出すと、別に叱られないまでも、いちいち一人一人に弁解をしなくてはならない事を考えると、なかなか自由に教会に来られなくなってしまっているのではないだろうか。そんな事でずるずると日が延びてしまうと、いよいよ行ったみたいという気持ちも失せてしまう。だいたいそんな所なのではないだろうか。

それからもう一つ考えさせられること。「キリストのからだ」にも対処療法ではなく、根本治療が必要だということだ。 どこか肝心な所の小さなズレが、からだ全体の原因不明の不調につながることもある。
見える問題だけが、本当の問題ではないんだ。


まずは、自分自身と自分の周りの「ズレ」を、なるべく健全な状態へと戻すこと。
案外、そこからすべてが回り出すかもかもしれないな。

2006/01/31

音がするよ

「痛くないと思うけど、パキッと音がするよ」

そう言うと先生は、直径2~3mmぐらいの注射針をボクの目の前に差し出した。おもむろに右の鼻の穴に差し入れると先生は立ち上がり、左腕ですばやくボクの頭を抱きかかえるようにして固定した。

「音がするよ」
不覚にも先生の言葉に、心が動揺していた。音がするなんて、聞いていない。さっきまで、あんなに平静だったのに、一気に胸の鼓動が高まった。とたんに、逃げ出したいような衝動にかられた。

だいたい、とても麻酔が効いているようには思えない。
こんなに意識がはっきりしているじゃないか。それまでの時間にやった事と言えば、鼻の穴に細長い包帯を詰め込んで20分ほどじっとしていただけだ。その包帯を、するすると抜き取った時だって、はっきりとした感覚があった。普通、麻酔をすれば、もう少し朦朧とするものではないのか。

先生はボクを見て、ニヤッと笑った。うん、確かに笑ったと思う。
ボクは身をすくめた。

先生の指先に力がこもる。
いや、指先というよりも、腕全体だ。
先生の腕と一体になった針が、ボクの脳天にむかって押し付けられた・・・。

「ンゴグァギッ!」

ヴッ。
気持ち悪い。

数滴、緑色の液体が零れ落ちたかと思うと、ボクの鼻先からは赤みを帯びたドロッとしたものが垂れ下がった。ちょうど・・・、色や質感はイカの塩辛といった感じだ。
確かに、思ったほど痛くはない。しかし・・・、痛くない分、その頭蓋骨に響いた鈍い音は、背筋を凍らせるようなものだった。

数人の看護婦がボクの周りに集まっている。
格好悪い。
この人たちには、ボクはどのように映っているのだろう。
鼻からイカの塩辛をぶら下げた男。
絶対に、街中で不意に出会ったりはしたくない。

先生は注射針の反対側に、生理食塩水の入った容器を取り付け、針先からボクの頭蓋骨の中にそれを流し込んだ。目の奥や奥歯が、内側から圧迫されて痛い。先生はさらにボクの頭蓋骨の中の圧力をあげた。破裂する・・・。鼓膜も押し破られそうだ。そういえば、パスカルの法則ってのがあったっけ。確か、どの部分の圧力も一定になるってやつ・・・。

そんな、どうでもいい事を考えていると、先生が言う。
「かなり堅くなってるな。シゼンコウが塞がってる。切開しなきゃダメか・・・。」

おい、おい。そんなぁ。今さら、切開はないでしょ。

と、思った瞬間。
「あ、抜けた」

鼻からは、さっきのイカの塩辛が押し出され、透き通った水が一気に流れ出た。

ああ・・・、カ・イ・カ・ン・・・。


後は予定通り、薬の入った液体をそこに流し込み、処置は終了のはず。
・・・と、思ったら、先生はボクの頭を両手で押さえ、右へ・・・、左へ・・・。
そう、ボクの頭は先生の手の中でなされるがままにシェイクされていたのだ。

ああ、無情。

ボクは、この処置を馬鹿にして、「オレ、脳みそシェイクするんだ」と茶化していたのが、本当にシェイクされる事になるとは・・・。ボクは看護婦さんたちの目には、「イカの塩辛を鼻から出して、脳みそシェイクされた奴」として一生記憶されることだろう。

こうして、無事に上顎洞洗浄の処置は終わった。


空っぽになるって、気持ちいい。
ボクはただ、黙って身を差し出しただけだ。


今日はゆっくり眠れるかな。
でも、あの音だけは忘れられなさそうだ・・・。

2006/01/29

ホセアの気持ち

「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。
この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」
(ホセア1:2)

これは強烈なことばだ。
今日のメッセージを聞きながら、考えさせられた。

この命令を受け取ったホセアは一体、どんな気持ちだったんだろう。
神様は、預言者ホセアに神の心を共有するようにと、この命令を語られた。


神の心・・・。

神は、イスラエルを特別に選ばれた。
神は、イスラエルの民を愛していた。

しかし彼らは神を愛さなかった。
神の目から見たら、彼らは姦淫の民。
目も当てられない。とても受け入れられない。


・・・あれ?これは、イエス様の事?

「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕えるものの姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われました。」
(ピリピ2:6-8)

イエスの十字架は、義を打ち破る愛の力。
いのちを差し出して、汚れた罪の杯を飲み干したその愛。

神様、私には絶対にそんな命令を与えないで下さい。
神様、私には無理です!そんなのいやです!


イエス様は言ってくださる。
「いいんだよ。」


神の心は繊細で、やわらかい。同時にとてつもなく厳しい。

ああ、この主に守られて来たんだなぁ。
原点の確認が与えられました。

2006/01/27

ナウエンとの出会い

ヘンリ・ナウエンの本が届いた。
古本2冊、Amazon.co.jpで頼んでいたもの。
薄かったので、ざっと目を通した。

ナウエンは、ノートルダム、イエール、ハーバードなど、
プロテスタント&カトリックの最高峰の大学において神学を教えていた。
しかし、50歳を越えて自らの歩みを省み、
前に書いたジャン・バニエの創始したラルシュ共同体で、
知的障害者たちとの共同生活をする道を選んだ。


彼はこのように言う。

これからの時代のクリスチャン指導者は、まったく力なき者として、
つまり、この世にあって、弱く傷つきやすい自分以外に、
何も差し出すものがない者になるように召されている、
ということを言いたいのです。
(「イエスの御名で」からの引用)

指導者は、人々を指導する者ではないのか?
弱く傷付きやすい自分を差し出していては、指導にならないのではないか。

でも、私は直感的にナウエンのことばに同意せざるを得ない。
私には何もないけれど、そんな自分を差し出す。・・・こんなに力強いことはない。
人々が必要としているのは、(求めているかどうかは分からないが)
こういうリーダーだ。

しかし、そういうリーダーになるのはそう簡単ではない。
そして、ナウエンは自分の神学的知識や功績が全く役に立たない
環境の中で、むしろ彼らから愛を受け、教えてもらい、友情を育んだ。
こういう誠実さが必要なんだよな。


もう1つ、心に残った点の引用・・・。

問題の最も深い根が自分自身にあるという現実に直面することを避けて、
世界の問題を解決しようとして走り回っている。

わたしたちはちょうど、きれいな花に向かい、
「あなたはここで何をしているの?神のために何かもっと忙しくできないの?」
と尋ねて、
「ごめんなさい。わたしは美しくあるためにただここにいるの」という、
花の答えを理解できない忙しい人に似ている。
(「友のためにいのちを捨てる」から引用)

忙しさが増す現代においては、容易に自分自身の存在そのもの、
そして心のありようを見過ごしてしまう。
そして、次々と解決のための策を見つけようとするが、
それも自分自身から目をそらすための手段でしかない。

私たちの心の姿勢が根本的に変わる必要があるのだ。


勇気を持って自分自身に目を向けよう。
勇気を持って心を開こう。
教えることを通して、教えられよう。
無力な私を差し出す事ができる喜びを味わおう。

熱いか冷たいか

私はなまぬるい。
すみません。まず、それは認めます。

私にとって、白か黒かというはっきりとした世界はほとんどないのです。
すべてがグレー。灰色。
これは性格かな?

人は言う。
いや、「熱いか、冷たいかであって欲しい」って書いてあるでしょう?
白黒はっきりさせるべきじゃないの?
だから、あんたは生ぬるいんだ。


うん・・・。それはそうなんだけど・・・。
どうも、釈然としないんだよね。

何事も、スパッと切れない。
むしろ真理はその「熱いか冷たいか」の間のどこかにあると思っている。
この絶妙なバランスの中にこそ真理があると思っている。


「熱い人」たちには、私はじれったいのだろう。
うーん。ごめんなさい。


でも、私の心は熱く燃えているのです。
「熱く」なろうとするあまり、熱いCompassionを生ぬるくしてはいけない。
生ぬるい私だけど、ずっと熱く燃やされていたい。

2006/01/25

ぼーっと考えている事

どうしたら教会は変わるのだろう。

私は、私の教会を愛している。
私は、私の教会を信じている。
しかし、その思いが、変革の妨げになることすらあるのだ。

決して今が悪いわけではない。
しかし、本当にこの世の塩となり、光となろうとするならば、
変わっていかなければならない事もあると思うのだ。


今、自分自身の中で、根本的なことをもう一度とらえなおそうとしている。
本も乱読&積読。頭の中はぐちゃぐちゃです。

今日は、あえて、ぐちゃぐちゃなまま吐露します。

万が一、この記述を読んでおられる方がいたら、
ここに書いていることは、あくまでも自己対峙のためである事を了解いただきたい。
きちんとした文章になっていませんし、誤解を恐れずに書いています。
論点を網羅しているわけでもありません。

これは、頭の中にあることを、思うがままに、並べてみたものですので、
まだまだ、考えるための種にすぎません。
でも、なるべく平易なことばで書くようにしました。


<教会とは? >
「教会は本当に神の家族である」
教会にこそ、真の共同体が回復された姿があらわされるべき。
教会の運営は、会社のようにはなされるべきではなく、
家族のようになされるべきだ。

しかし、家族のあり方は、千差万別。
家族は解決でもあるが、家族が一番傷つく場所でもある。
だから、教会が健全になるためには、まず家族のあり方が問われるべき。

「教会は、キリストのからだである」
福音の宣教、真のコミュニティの確立、リーダーシップの育成など、
キリストのからだである教会が中心になされるべきである。
教会外の働きは、教会をサポートするために存在するべきである。
神の計画は、「個人の救い」にとどまらず、「教会の確立、増殖」にある。


<セル・グループ(牧会ファミリー)とは?>
真にキリストにある生き方を学ぶところ。
セル集会そのものは、家族にとっての家族会議のようなもので、
本質はその集会そのものにはないが、
一家団欒をもたない家族に、家族としての機能が果たしにくいのと同様、
実際に親しい交わりを定期的にもたないと、セルそのものが機能しにくい。


<礼拝とは? 祈りとは?>
真の礼拝者になること。
日曜日ごとに集まる礼拝は、そのライフスタイルの一部にすぎない。
礼拝の集会はたいせつだが、礼拝に出席したからといって、
自動的に真の礼拝者になるわけではない。

同様に真の祈り手となること。
祈祷会は、たいせつだが、祈祷会に定期的に出たからといって
自動的に真の祈り手になるわけではない。

ではなぜ週に一度集まるのか?
使徒の働きを読むと、たしかに週のはじめに集まっていた形跡がある。
しかし、だからといって、今やっている礼拝・祈祷会の形式は
自動的には正当化されない。

もちろん、歴史的に続けてきた事には意味がある。
今おこなっている形態には、正当な理由がある。
しかし、「なぜ」それをやっているのか、それは絶対的な基準なのか、
どうしても変えてはいけない部分はなんなのか、
そして、思い切って変えるべき部分はなんなのか、
いつも問い続ける必要があると思う。


<奉仕とは?>
私たちが、みこころに生きる上で、なくてはならないもの。
私たちは、奉仕の働きをするために召された。

奉仕とは、キリストのからだを建て上げること。
キリストのみこころを、実践すること。
キリストの愛を、体現すること。


<みこころとは?>
一人一人が神の個人的な計画を見出し、自由意志を用いてそれに従うこと。


<福音とは?>
規則によってではなく、自由の御霊によって歩むことができるという希望。
人間が一番人間らしく生きられる道がある、ということを指し示すこと。


主よ、私は自分でおよびもつかないような事、
限度を超えるような事、みこころに反するような事はしたくありません。
でも、人々が真の福音を知るのを、教会が、クリスチャンが、いや私が、
妨げになっている可能性が大きいのです。
ですから、真にみこころに生きるために、私の目のおおいを取り除けてください。
私にふさわしい態度を与えてください。
真のあわれみと、真の勇気をあたえてください。
お委ねします。主よ。