2006/01/31

音がするよ

「痛くないと思うけど、パキッと音がするよ」

そう言うと先生は、直径2~3mmぐらいの注射針をボクの目の前に差し出した。おもむろに右の鼻の穴に差し入れると先生は立ち上がり、左腕ですばやくボクの頭を抱きかかえるようにして固定した。

「音がするよ」
不覚にも先生の言葉に、心が動揺していた。音がするなんて、聞いていない。さっきまで、あんなに平静だったのに、一気に胸の鼓動が高まった。とたんに、逃げ出したいような衝動にかられた。

だいたい、とても麻酔が効いているようには思えない。
こんなに意識がはっきりしているじゃないか。それまでの時間にやった事と言えば、鼻の穴に細長い包帯を詰め込んで20分ほどじっとしていただけだ。その包帯を、するすると抜き取った時だって、はっきりとした感覚があった。普通、麻酔をすれば、もう少し朦朧とするものではないのか。

先生はボクを見て、ニヤッと笑った。うん、確かに笑ったと思う。
ボクは身をすくめた。

先生の指先に力がこもる。
いや、指先というよりも、腕全体だ。
先生の腕と一体になった針が、ボクの脳天にむかって押し付けられた・・・。

「ンゴグァギッ!」

ヴッ。
気持ち悪い。

数滴、緑色の液体が零れ落ちたかと思うと、ボクの鼻先からは赤みを帯びたドロッとしたものが垂れ下がった。ちょうど・・・、色や質感はイカの塩辛といった感じだ。
確かに、思ったほど痛くはない。しかし・・・、痛くない分、その頭蓋骨に響いた鈍い音は、背筋を凍らせるようなものだった。

数人の看護婦がボクの周りに集まっている。
格好悪い。
この人たちには、ボクはどのように映っているのだろう。
鼻からイカの塩辛をぶら下げた男。
絶対に、街中で不意に出会ったりはしたくない。

先生は注射針の反対側に、生理食塩水の入った容器を取り付け、針先からボクの頭蓋骨の中にそれを流し込んだ。目の奥や奥歯が、内側から圧迫されて痛い。先生はさらにボクの頭蓋骨の中の圧力をあげた。破裂する・・・。鼓膜も押し破られそうだ。そういえば、パスカルの法則ってのがあったっけ。確か、どの部分の圧力も一定になるってやつ・・・。

そんな、どうでもいい事を考えていると、先生が言う。
「かなり堅くなってるな。シゼンコウが塞がってる。切開しなきゃダメか・・・。」

おい、おい。そんなぁ。今さら、切開はないでしょ。

と、思った瞬間。
「あ、抜けた」

鼻からは、さっきのイカの塩辛が押し出され、透き通った水が一気に流れ出た。

ああ・・・、カ・イ・カ・ン・・・。


後は予定通り、薬の入った液体をそこに流し込み、処置は終了のはず。
・・・と、思ったら、先生はボクの頭を両手で押さえ、右へ・・・、左へ・・・。
そう、ボクの頭は先生の手の中でなされるがままにシェイクされていたのだ。

ああ、無情。

ボクは、この処置を馬鹿にして、「オレ、脳みそシェイクするんだ」と茶化していたのが、本当にシェイクされる事になるとは・・・。ボクは看護婦さんたちの目には、「イカの塩辛を鼻から出して、脳みそシェイクされた奴」として一生記憶されることだろう。

こうして、無事に上顎洞洗浄の処置は終わった。


空っぽになるって、気持ちいい。
ボクはただ、黙って身を差し出しただけだ。


今日はゆっくり眠れるかな。
でも、あの音だけは忘れられなさそうだ・・・。

2006/01/29

ホセアの気持ち

「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。
この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。」
(ホセア1:2)

これは強烈なことばだ。
今日のメッセージを聞きながら、考えさせられた。

この命令を受け取ったホセアは一体、どんな気持ちだったんだろう。
神様は、預言者ホセアに神の心を共有するようにと、この命令を語られた。


神の心・・・。

神は、イスラエルを特別に選ばれた。
神は、イスラエルの民を愛していた。

しかし彼らは神を愛さなかった。
神の目から見たら、彼らは姦淫の民。
目も当てられない。とても受け入れられない。


・・・あれ?これは、イエス様の事?

「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕えるものの姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われました。」
(ピリピ2:6-8)

イエスの十字架は、義を打ち破る愛の力。
いのちを差し出して、汚れた罪の杯を飲み干したその愛。

神様、私には絶対にそんな命令を与えないで下さい。
神様、私には無理です!そんなのいやです!


イエス様は言ってくださる。
「いいんだよ。」


神の心は繊細で、やわらかい。同時にとてつもなく厳しい。

ああ、この主に守られて来たんだなぁ。
原点の確認が与えられました。

2006/01/27

ナウエンとの出会い

ヘンリ・ナウエンの本が届いた。
古本2冊、Amazon.co.jpで頼んでいたもの。
薄かったので、ざっと目を通した。

ナウエンは、ノートルダム、イエール、ハーバードなど、
プロテスタント&カトリックの最高峰の大学において神学を教えていた。
しかし、50歳を越えて自らの歩みを省み、
前に書いたジャン・バニエの創始したラルシュ共同体で、
知的障害者たちとの共同生活をする道を選んだ。


彼はこのように言う。

これからの時代のクリスチャン指導者は、まったく力なき者として、
つまり、この世にあって、弱く傷つきやすい自分以外に、
何も差し出すものがない者になるように召されている、
ということを言いたいのです。
(「イエスの御名で」からの引用)

指導者は、人々を指導する者ではないのか?
弱く傷付きやすい自分を差し出していては、指導にならないのではないか。

でも、私は直感的にナウエンのことばに同意せざるを得ない。
私には何もないけれど、そんな自分を差し出す。・・・こんなに力強いことはない。
人々が必要としているのは、(求めているかどうかは分からないが)
こういうリーダーだ。

しかし、そういうリーダーになるのはそう簡単ではない。
そして、ナウエンは自分の神学的知識や功績が全く役に立たない
環境の中で、むしろ彼らから愛を受け、教えてもらい、友情を育んだ。
こういう誠実さが必要なんだよな。


もう1つ、心に残った点の引用・・・。

問題の最も深い根が自分自身にあるという現実に直面することを避けて、
世界の問題を解決しようとして走り回っている。

わたしたちはちょうど、きれいな花に向かい、
「あなたはここで何をしているの?神のために何かもっと忙しくできないの?」
と尋ねて、
「ごめんなさい。わたしは美しくあるためにただここにいるの」という、
花の答えを理解できない忙しい人に似ている。
(「友のためにいのちを捨てる」から引用)

忙しさが増す現代においては、容易に自分自身の存在そのもの、
そして心のありようを見過ごしてしまう。
そして、次々と解決のための策を見つけようとするが、
それも自分自身から目をそらすための手段でしかない。

私たちの心の姿勢が根本的に変わる必要があるのだ。


勇気を持って自分自身に目を向けよう。
勇気を持って心を開こう。
教えることを通して、教えられよう。
無力な私を差し出す事ができる喜びを味わおう。

熱いか冷たいか

私はなまぬるい。
すみません。まず、それは認めます。

私にとって、白か黒かというはっきりとした世界はほとんどないのです。
すべてがグレー。灰色。
これは性格かな?

人は言う。
いや、「熱いか、冷たいかであって欲しい」って書いてあるでしょう?
白黒はっきりさせるべきじゃないの?
だから、あんたは生ぬるいんだ。


うん・・・。それはそうなんだけど・・・。
どうも、釈然としないんだよね。

何事も、スパッと切れない。
むしろ真理はその「熱いか冷たいか」の間のどこかにあると思っている。
この絶妙なバランスの中にこそ真理があると思っている。


「熱い人」たちには、私はじれったいのだろう。
うーん。ごめんなさい。


でも、私の心は熱く燃えているのです。
「熱く」なろうとするあまり、熱いCompassionを生ぬるくしてはいけない。
生ぬるい私だけど、ずっと熱く燃やされていたい。

2006/01/25

ぼーっと考えている事

どうしたら教会は変わるのだろう。

私は、私の教会を愛している。
私は、私の教会を信じている。
しかし、その思いが、変革の妨げになることすらあるのだ。

決して今が悪いわけではない。
しかし、本当にこの世の塩となり、光となろうとするならば、
変わっていかなければならない事もあると思うのだ。


今、自分自身の中で、根本的なことをもう一度とらえなおそうとしている。
本も乱読&積読。頭の中はぐちゃぐちゃです。

今日は、あえて、ぐちゃぐちゃなまま吐露します。

万が一、この記述を読んでおられる方がいたら、
ここに書いていることは、あくまでも自己対峙のためである事を了解いただきたい。
きちんとした文章になっていませんし、誤解を恐れずに書いています。
論点を網羅しているわけでもありません。

これは、頭の中にあることを、思うがままに、並べてみたものですので、
まだまだ、考えるための種にすぎません。
でも、なるべく平易なことばで書くようにしました。


<教会とは? >
「教会は本当に神の家族である」
教会にこそ、真の共同体が回復された姿があらわされるべき。
教会の運営は、会社のようにはなされるべきではなく、
家族のようになされるべきだ。

しかし、家族のあり方は、千差万別。
家族は解決でもあるが、家族が一番傷つく場所でもある。
だから、教会が健全になるためには、まず家族のあり方が問われるべき。

「教会は、キリストのからだである」
福音の宣教、真のコミュニティの確立、リーダーシップの育成など、
キリストのからだである教会が中心になされるべきである。
教会外の働きは、教会をサポートするために存在するべきである。
神の計画は、「個人の救い」にとどまらず、「教会の確立、増殖」にある。


<セル・グループ(牧会ファミリー)とは?>
真にキリストにある生き方を学ぶところ。
セル集会そのものは、家族にとっての家族会議のようなもので、
本質はその集会そのものにはないが、
一家団欒をもたない家族に、家族としての機能が果たしにくいのと同様、
実際に親しい交わりを定期的にもたないと、セルそのものが機能しにくい。


<礼拝とは? 祈りとは?>
真の礼拝者になること。
日曜日ごとに集まる礼拝は、そのライフスタイルの一部にすぎない。
礼拝の集会はたいせつだが、礼拝に出席したからといって、
自動的に真の礼拝者になるわけではない。

同様に真の祈り手となること。
祈祷会は、たいせつだが、祈祷会に定期的に出たからといって
自動的に真の祈り手になるわけではない。

ではなぜ週に一度集まるのか?
使徒の働きを読むと、たしかに週のはじめに集まっていた形跡がある。
しかし、だからといって、今やっている礼拝・祈祷会の形式は
自動的には正当化されない。

もちろん、歴史的に続けてきた事には意味がある。
今おこなっている形態には、正当な理由がある。
しかし、「なぜ」それをやっているのか、それは絶対的な基準なのか、
どうしても変えてはいけない部分はなんなのか、
そして、思い切って変えるべき部分はなんなのか、
いつも問い続ける必要があると思う。


<奉仕とは?>
私たちが、みこころに生きる上で、なくてはならないもの。
私たちは、奉仕の働きをするために召された。

奉仕とは、キリストのからだを建て上げること。
キリストのみこころを、実践すること。
キリストの愛を、体現すること。


<みこころとは?>
一人一人が神の個人的な計画を見出し、自由意志を用いてそれに従うこと。


<福音とは?>
規則によってではなく、自由の御霊によって歩むことができるという希望。
人間が一番人間らしく生きられる道がある、ということを指し示すこと。


主よ、私は自分でおよびもつかないような事、
限度を超えるような事、みこころに反するような事はしたくありません。
でも、人々が真の福音を知るのを、教会が、クリスチャンが、いや私が、
妨げになっている可能性が大きいのです。
ですから、真にみこころに生きるために、私の目のおおいを取り除けてください。
私にふさわしい態度を与えてください。
真のあわれみと、真の勇気をあたえてください。
お委ねします。主よ。

2006/01/23

貧しい?

貧しい人とは、何かを必要とし、
かつ必要としていることを認めていて、
助けを求めている人たちのことです。

・・・これは、ジャン・バニエの「ラルシュのこころ」からの引用。


こう考えると、イエス様が「心の貧しい者は幸いです。」
と言われた意味が分かりやすい。


「私は、心に<何か>を必要としているのです。助けてください!」
天の御国は、この様に告白できる人たちのものなのだ。


しかしどういう訳か、しばしば私たちは、こういう誠実な人たちを食い物にする。
「救いは、思いや感情を越えたものなのです。あなたは救われました。」
といって、安易な解決をあたえて、めでたしめでたしとする。

そして、その<何か>は「信仰」によって満たされた事にして、それを助けることをしないばかりか、その人がその必要を訴えたり、助けを求めたりすら出来ないようにしてしまう。それはあなたの信仰が足りないからですよ、とでも言うかのような暗黙の強制力によって。

でも、その人が天の御国をこの地にもたらすためには、
心が貧しくあり続ける必要があるのだ。
神の国が、この地に実現するとしたら、心の貧しい人たちの集いの中でだろう。


ここで述べているのは、「心」の必要だ。
「心」はいつも耕される必要がある。
一番、この「心」を耕してくれるのは、「私とは違う人たち」だ。


貧しさは、悪ではない。
天の御国は、その人のものなのだから。

2006/01/22

山を動かす方法

動いたんですよ、山が!

どうやって動かしたかって?
そりゃあ、決まってるじゃないですか?
クリスチャンなら誰でも知っているでしょう?

え?はいはい・・・って。
そりゃあ、信仰の先輩なら、当たり前のことかも知れないけど、
いやあ、こればっかりは、自分で体験しないと。
なんだか、じーんと感動しちゃいますね。

もちろん、体験したことありますよね?
それじゃあ、僕の話、しちゃってもいいですか?


そう。山が動いたんです!
「雪の山」が!

昨日の、ダイヤモンドチャペルの駐車場の雪かき隊。
実は、駐車場に大きな山を作ってしまっていたんですよ。
もちろん、昨日の降り続く雪の中では最善の計画でした。
しかも良く考えられていて、きちんと車が駐車できるようになっていました。

でも天気が良くなってきたら、欲が出てきたのか、
この山がとても邪魔に見えてきたんですねー。

で、第一礼拝の後、一緒に見ていた兄弟が、「これを動かそう」って言うんです。
正直、この広い駐車場で、それをやるのはちょっと無理かなーって思いました。
だから、僕はより「現実的な方法」を考えていました。


なんか、一気に出来る方法ないのかなぁ。
たった2人でスコップで、えっちらおっちらやってても、ラチがあかないじゃない。


・・・でも、とにかくやり始めてみました。
そ、そしたら、一人、ふたりと人が増やされ、
山がなくなっていくではありませんかーっ!


そうなんです。
山を動かす方法。

とにかく目の前の山を、少しずつ動かしてみる事!
それしかないですね。


よし、他の山も動かしてみよう!

2006/01/21

なのにステキ

今日は何かズレた感じ。
自分的には、あーぁ、何やってんだお前?って感じ。
なのに心の中では、ステキな気持ちで満ちている。


思っていたよりも雪が降り積もっていたことから、
「想定外」の出来事だらけになった。
(想定しようとしてなかっただけなんだけど)

僕が、やっていたことは、ちぐはぐの後手後手。
でも、みんなが、本当に心を込めて、自発的に補ってくれた。
「仲間」だなぁって感じた。素直にうれしい。

みんな、ステキだなぁ。
家で、一人一人に感謝を捧げながら、とても温かい気持ちになった。


主よ、どうか一人一人の労にあなたが豊かに報いて下さい!
喜んで与える事を知っている者たちを、さらにあなたの喜びで満たしてください!


まだ降り続ける雪を見ながら、祝福を祈った。

2006/01/20

平安の祈り

神様 私にお与えください。
自分に変えられないものを 受け入れる落ち着きを、
変えられるものは 変えてゆく勇気を、
そして二つのものを 見分ける賢さを。

・・・「平安の祈り」と呼ばれる有名な祈りのことばだ。

AAなど、依存症から立ち直るための、12ステップのプログラムの中でも
使われるものだという。


久々に、「やらなくてはならない事」に追われている。
もちろん、昔と違って、かなり休み休みやっているつもりだ。
でもやっぱり、仕事を抱えだすと、古い自分が待ってましたとばかりに
心の内側からニョコニョコと顔を出そうとしているのが分かる。

「正しい動機」で始めたはずの事が、自分の内側で変質してしまい、
「自分で納得がいくまで」(すなわち自己満足するために)やらずには
いられなくなったりしている自分に気付く。

でも一方で、体の弱さに敏感であれることは、本当に恵みだ。
強制的に、「限度を越えない」ことを学ばせられる。
そして、自分自身の不完全さを受け入れるという訓練がなされる。
やはり、「自制」という御霊の実がみのるための、プロセスにいるのだ。


でも、私は忘れない。
私は、神の前に自分自身をささげたのだ。

「自分自身の力でやる」という誘惑に負けはしない。
自分自身の「責任を放棄」したりはしない。
たとえ弱さを告白しても、「甘えの構造」に引き戻されはしない。
自分を大切にせずに、「間違った自己犠牲」はしない。

私は、神のみこころのままに変革され続けるのだ。
私は、このプロセスの中でこそ主を見出したのだ。
そしてこの主こそ、私の人生をともなってくださる方なのだ。


主よ、私を導いてください。
私の目を開いてください。
私がなすべき事を見極められるように。
そして、何があってもそのなすべき事を行なう事ができるように。
私が踏み入る必要のない領域を見極められますように。
そこにも、神のみこころを見出し、平安が与えられますように。

明日は雪にならないようにと祈る。
週末の様々な行事のため、そして受験生たちのため。

2006/01/18

産みの苦しみ

パウロの産みの苦しみは、何のためだったのか。
あらためて、まずペテロへの非難の言葉を読み直してみた。

しかし、彼らが福音の真理について
まっすぐに歩んでいないのを見て、
私はみなの面前でケパ(ペテロ)にこう言いました。

「あなたは、自分がユダヤ人でありながら
ユダヤ人のようには生活せず、
異邦人のように生活していたのに、
どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。・・・
(ガラテヤ2:14)

ペテロは、ヤコブやヨハネとともに「柱として重んじられていた」(ガラテヤ2:9)。
しかし、その筆頭であるペテロに対して、
「あなたは、自分自身が福音の真理に歩んでいないではないですか!!」と
みんなの面前で非難したのだ。

使徒の筆頭ペテロに対して。
キリストとともに生活したペテロに対して。
明らかにキリストからの召しを受けたペテロに対して。
聖霊注がれ、一度に3000人を救いに導く説教をしたペテロに対して。

パウロは、キリストと生活すらしていないではないか。
パウロは、その道の者を殺害までしていたではないか。
パウロは、ある人たちからは、使徒として立場も疑問を持たれていたではないか。

これは強烈だ。
そして、見逃せないのは、あの有名な聖句も、
この流れでペテロに向けられたことばだった。

私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
(ガラテヤ2:20)


パウロのこの大胆さは、本当に彼が彼のことばのとおり、自分自身が十字架についており、キリストが自分のうちに生きておられるのでなければ、考えられない。

いや、まさにこの「ペテロに対してすら福音を説教する」という事自体が、パウロが十字架に付くことなのかも知れない。


パウロが、ここまで必死になって語った「福音の真理」に対して、私はどこまでまっすぐ歩いているだろうか。

キリストは、自由を得させるために、
私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、しっかり立って、
またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
(ガラテヤ5:1)


十字架につくことこそ自由のはじまりだ。
自由!その最大の障害は、自分自身の内側にある。

私の子どもたちよ。
あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、
私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
(ガラテヤ4:19)

主よ。私のうちにキリストを形造ってください。
そして、私もこの産みの苦しみをさせてください。
たった一人でも、キリストによって自由にされるように。

2006/01/17

FRIENDS

借してもらったMichael W SmithのDVDを見た。

20周年記念で、Amy Grantもゲストで出ているやつだった。
El Shadaiとか、Thy Wordとか、懐かしい~曲が、何かとっても良かった。
Secret Ambitionは、アレンジがDelirious?風に現代っぽくなってて面白かった。

でも、やっぱり個人的には FRIENDS が好きだった。

FRIENDSは、ちょうど僕がアメリカにいた頃、流行っていて、みんなよく聴いていた。
そして、別れ際に泣きながらこの歌を歌うシチュエーションに、強烈に感化され、
「ずるいぞアメリカのクリスチャン仲間!」と、僕もこんな曲書いてみたいと思うようになった。

そんな背景もあって、「君だから素晴らしい」という名曲(!)が生まれたのでした。


・・・それはさておき、やっぱりMichaelかっこいい。
たぶん、生き方なんだと思う。うん。
「忘れないで。Woshipはライフスタイルなんだ!」
って、ライブ中に話していた。
そうそう、僕もそういえるようなワーシップリーダーになりたいと思って、
このBlogも「ワーシップな生活」なんです。

それが分からずにワーシップリーダーなんて出来ないよ。
(今、やってないけど・・・)

2006/01/16

心を開かせるには?

切ないよ、パウロさん。
そんな哀愁に満ちたセリフ。

私はあなたがたのたましいのためには、
大いに喜んで財を費やし、
また私自身をさえ使い尽くしましょう。

私があなたがたを愛すれば愛するほど、
私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。
(2コリント12:15)


パウロは、自分を理解せず、疑い、拒絶するコリントの人々に対し、権力や自己正当化や、強硬手段を用いることを望まなかった。そのかわり、何とかして彼らの心が開かれるように、まず自らの心を彼らに対してオープンにした。

コリントの人たち。
私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。
私たちの心は広く開かれています。

あなたがたは、
私たちの中で制約を受けているのではなく、
自分の心で自分を窮屈にしているのです。

私は自分の子どもに対するように言います。
それに報いて、
あなたがたのほうでも心を広くしてください。
・・・私たちに対して心を開いてください。
(2コリント6:11-13, 7:2)


相手の心を開かせるにはどうしたらよいのか?
私はいつも、「北風と太陽」の話を思い出す。
強硬手段は、人の心を開かせるどころか、閉ざしてしまうのだ。

パウロは、彼らに対して、「信頼」を告白した。
「愛」と「希望」を明らかにした。

私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、
私はあなたがたを大いに誇りとしています。
私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても
喜びに満ちあふれています。

私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることが
できるのを喜んでいます。
(2コリント7:4,16)

パウロが、実際には彼らとの関係で非常に葛藤を覚えていたのは明らかだ。しかし、パウロは、彼らを本当の意味で生かし、主体的な愛を引き出すためには、彼らを信頼すること、そして彼らにその信頼を伝えることが一番必要なことであることを理解していたに違いない。


てっとりばやい解決を求めるあまり、私たちはこの「信頼」を重視しない。
でも実は、真の信頼関係こそ最短の問題解決なのだ。

2006/01/15

そんな時もあるさ

今日は、気温が上がったのに、寒気がした。

頭が重く、熱っぽく、体の節々が痛い。
ああ、11月の肺炎の時と似ている。
体調が悪いと、思考も狂ってくる。
辛いな・・・。

あえてポジティブな告白を主にするのも讃美だけど、
ありのままの辛さを主の前に注ぎだすのも、実は讃美の一部だと思う。
詩篇を読むと、そう思う。

あえて、自分で自分の信仰を正当化する必要はない。
たとえ私がどうであろうと、主は生きておられるのだ。

主よ、私の霊も、魂も、体も、すべてあなたのものです。
あなたの目には、私は高価で尊いのだから、
信頼して、すべてをありのままで受け入れます。

2006/01/14

もう一度、ラブ・レター

パウロさんの手紙、やっぱり泣けます。

どんな気持ちで手紙を書いたのか、
どんな思いをその手紙に込めたのか、
そして、そこから何を生み出そうとしていたのか。

何で今まで気が付かなかったのだろう!


あなたがたが私たちの奉仕による
キリストの手紙であり、
墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、
石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが
明らかだからです。
(2コリント3:3)


あなたがた自身が、私たちの奉仕を通して生み出された
「キリストの手紙」なのです・・・。

つまりパウロにとって、彼らに手紙を書くのも、訪問するのも、交わりをするのも、
すべて、彼ら自身が「キリストからのラブ・レター」として整えられるためなのだ。
その手紙は、彼らの心の板に記される。
・・・人々が彼らの心をに触れるとき、生きたキリストの愛が伝わるようにと。

そういう意味で、パウロの使命は、「手紙を書くこと」だったのかもしれないです。
なんか、感動です。


ところで、そんなパウロさんの手紙を読んだ、我らの愛するペテロさん。
彼が、負けじと書いた(?)手紙の中で、パウロさんの手紙について、
こんなコメントを残しています。


また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。
それは、私たちの愛する兄弟パウロも、
その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。

・・・その手紙の中には理解しにくいところもあります。
無知な、心の定まらない人たちは、
聖書の他の箇所の場合もそうするのですが、
それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
(2ペテロ3:15-16)


ぷっ!
「パウロさんの手紙ってのはさあ、難しくて分かりにくいんだよね~。」
なんて、ペテロさんに言ってもらえると何だかほっとします。(笑)
パウロに面と向かって責められた経験のあるペテロさん。(ガラテヤ2:11)
ちょっとした、皮肉ですかねえ。

でも、パウロさんの手紙をその時代の聖書(旧約聖書)とすでに同列に
扱っていたことは伺えますね


「私たちも手紙なんだ。」

人は、私からどんなメッセージを読み取ってしまうんだろう。
どきどきです。

2006/01/13

ラブ・レター

ラブ・レターって書いたことありますか?

自分の思いがどうやったら相手に伝わるのか。
果たして相手は自分のことをどう思っているのか。
そもそも自分のこの思いにどれだけ根拠があるのか。

そんな事を悶々と考えながら、
勝手に切なくなってみたり、いらだってみたり・・・。
書いては丸め、書いては丸め・・・。

最近は、そんな経験する人も少ないかもしれないですね。
でも、「手紙」に思いを託すのって、自分の成長のためにも益になる体験だと思います。


べ、べつに今ラブレターを書いてる訳じゃないですよ!!
パウロの手紙を読みながら、なんだか、今までになく
心に訴えかけてくるものがあったんです。


私は大きな苦しみと心の嘆きから、
涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。

それは、あなたがたを悲しませるためではなく、
私があなたがたに対して抱いている、
あふれるばかりの愛を
知っていただきたいからでした。
(2コリント2:4)


泣けます。ほんと。なんて誠実なんだろう。

コリントの人たちは、恐らくパウロの事を完全には理解しきれず、
非難したり、疑ったり、ののしったりしていた。
でも、パウロはコリントの人たちを信じ、励まし、慰め、キリストにある愛と喜びの世界へと、何とかして導こうと、苦悶していたのだ。


私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。
(2コリント1:7)

私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、
あなたがたの喜びのために働く協力者です。
あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。
(2コリント1:24)


パウロが、自分自身の召しに、これほどまでの確信がなかったら、
彼らへの愛と情熱が、これほどまでにあふれていなかったら、
キリストの愛に、これほどまでに自分自身で感動していなかったら、
これほどまでに、影響力のある働きは出来なかっただろう。


聖書は、神からのラブ・レターだという。
そして、その聖書の重要な部分は、人から人へのラブ・レターになっている。
「神は、あなたを愛している」というメッセージは、
人格から人格へと伝えられるものなのだ。

なぜなら、私が愛することなしに、神の愛は現れないのだから。

Intel入ってるの?

Intelの入ったMACが登場したそうだ。
Steve Jobsはいつも大胆だなあ。

私はそもそも、仕事をしていた時、”NEXTSTEP”なるOSを使っていた。
これこそ、現在MacOS Xの原型になるものだ。

そして、Jobsが戻ってからは、Appleは再び大成功だね。
こういう組織を作れるJobsってやっぱりすごいんだなーと思う。

MPUに関しても長年のポリシーを、あっさりやめてしまった。
この潔さの背景にある、本当に必要なものが何であるかを
嗅ぎ分け、見つけ出し、納得させ、さらに良いものとして大胆に吸収する。
なかなか、ない能力ですよ。

一組織のリーダーとして、彼の活動を密着取材してみたいなあ。

2006/01/11

自由って

人間には「自由意志」が与えられている。
これこそ、人間性を発揮する鍵だと思う。

本当の「自由」とは、この「自由意志」を用いて、正しい事をする能力だと思う。
「何が正しい事なのか」を理解する能力も人間には与えられている。
私はそう信じている。

自由には責任がともなう。
しかし、人は「無責任」になったり、「責任転嫁」をして自らの責任と向き合おうとしない。
決まり事をつくり、非人格化させ、思考停止となる。
人の自由を信頼しなくなり、コントロールしようとする。
目先の、固定化されたものの見方しか出来なくなるのだ。

しかし、私たちは、必ずしも人や環境にコントロールされる必要はない。
私たちは、もう一度「責任をもつ」ことを決意すればよいのだ。
責任を持って、自由意志をはっきりする決意をする。
自由は、そこから取り戻される。

その結果は必ずしも望んでいたものにならないかもしれない。
でも、誠実にそれを続けるなら、必ず望んでいた以上の実を得るだろう。


今日は、熱が出て、仕事を休んだのだ。
悶々と、そんな事を考えていた。

2006/01/10

原則ゆえの変化

新春恒例になった、JCMN断食祈祷会。
今回、特別に来て下さったベン・ウォン師は、私たちにチャレンジした。

「確信したことをやり続けなさい。」

本質を求め、原則中心に考えよということ。
だからこそ、方法に関しては自由になれるのだ。

彼が今日、部分的に話してくれた原則はこれ。
(1) 神のみこころが中心だということ。
(2) コミュニティを形成する必要があるということ。
(3) あわれみの心をもつこと。

私たちは、あせって実を得ることに目がくらまされて、根っこを見過ごしていないか?

私たちは、「セル教会」の方法論を、原則と履き違えていたのではないか?
何が、聖書的な原則なのか、もう一度原点に立ち返る必要がある。


日本の国を愛し、憂い、悔い改め、とりなす、真のしもべ達がともに祈っている。
主よ、あなたにあっては、不可能なことは何一つありません。
あなたの目をお与えください!

2006/01/09

だって男同士ですから

男ばかり総勢36名。
一泊でメンズ・フェローシップを行ないました。
統計によると、日本の教会の平均礼拝出席者数は36名だとのこと。
そう考えると、壮年ばかり36名集まったこの集会、結構すごいです。

ミッション3000の実現に向けて、みんなで意見を出し合いました。
私から見ると、やっぱり男性は男性だなあ、というのが率直な感想。
喧喧諤諤、少々強引なところも。(笑)

でも、社会で実績を積み上げてきた経験と責任感。
そして、感情よりも筋道だったものの考え方。
これは、本当になくてはならないものです!
ある意味、これが男性たちの誠実な交わりだと思いました。
「こうあるべき」という、より広い視点からものを見て考えることができるのが、男性のいいところだと思います。そして、感情的に傷つきすぎない。そこが女性と違う雰囲気をかもしだします。(でも、男性も本当は傷つきすぎているがゆえに、傷つかないように防御壁が強すぎるだけなような気もしますが・・・)

とにかく、今後にむけた、素晴らしい前進を期待させる、
新年にふさわしい集いでした。

どうか、この耕されつつある壮年たちが、さらに豊かな実を実らせていきますように!

2006/01/07

テモテの気持ち

テモテは、若くして大役を任せられた。

パウロは、その死の間際に、彼の「純粋な信仰(2テモテ1:5)」を呼び起こしている。
「純粋な信仰」を持つのは、たやすい事ではない。その「純粋な信仰」ゆえに、どれだけテモテは傷付いてきたことだろう。

パウロは、テモテの最大の理解者であり、指導者であった。
そして、パウロのテモテにあてられた手紙にあふれる愛は、読めば読むほど感動する。パウロがテモテにあてた最大のメッセージは、パウロ自身の生き方である。この手紙は、その生き方の手本があってこそ書けるものだ。知識をまとめた「教理マニュアル」でも、「伝道戦略」でもない。もちろん、パウロには非常に明確な教理と戦略があった。しかし、この手紙は、テモテという人格にあてて書かれた、パウロという人格そのものなのだ。彼の教理と戦略は、彼自身を思い起こしさえすれば、よく分かるのだ。


・・・しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、
またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった
迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。
何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。
しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。
(2テモテ3:10-11)

しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、
困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
(2テモテ4:5)


テモテの気持ちになってみた。
どれほど彼は、パウロという人格から、受けとめられる必要としていたことか。
これらの励ましのことばを受け取る必要があったことか。

テモテは、パウロの背中を見て育った。
そして、今パウロは、彼の近くにはいない。
それどころか、今、まさにパウロはこの世を去ろうとしているのだ。
純粋な信仰を持ち、困難な状況に一人置かれているテモテに、
この手紙を通して、知識ではなく、パウロという人格が生き続けることになる。

キリストに従う生き方は、その生き方を通して伝えられるべきなのだ。


「牧会書簡」と呼ばれるこの手紙。
「牧会」とは何かを考えさせられる。

2006/01/06

人間になる

「人間になる」とはすごい言葉だ。
これは、ラルシュ創始者のジャン・バニエの本のタイトルだ。
題名に惹かれて衝動買いしてしまったが、すばらしく良い本だった。

ラルシュとは、「知的障害者と、彼らと一緒に生きようという気持ちを持った人たちが共に暮らす共同体」だ。世界中で働きがなされているが、日本でも静岡に一つ、ラルシュの家があるらしい。


この本の、「第一章 孤独」の書き出しを引用してみたいと思う。

本書の主題は、心の自由ということです。それは、心を<不安>や<孤独>の桎梏(しっこく;束縛)から、また私たちに他人を排除・排斥させることになる<恐れ>から解き放つこと、自分の心を開くことです。そうすれば、私たちに共通の人間性も見えてくるようになります。私は、この共通の人間性に気付くことによって孤独が愛に変わり、私たち自身も生まれ変わることができるということを言いたいのです―――そして愛はつながり(belonging)の中で、つながりを通して育ちます(ただし、ある人とのつながりは同時に他の人を隔てることにもなりえますが)。共通の人間性に気付くことによって、私たちは自分の自己中心的な衝動や心の傷から自由になれます。そして最終的には赦すこと、自分の敵であるような人を愛することもできるようになります。こうして初めて、真に人間になることができるのです。


・・・実は、ジョン・バニエの本を実際に読むのはこれが初めてだ。しかし、彼の文からは、単なる学者や思想家にはない、自らが実際にその様に生きている者からしか決して伝わって来ない、深い慈愛と、明快さがある。(そして、訳文も非常に分かりやすい)

今私が、いや私たちが、追求しようとしているものを、指差してくれているような気がする。この本の内容については、また触れることになるだろう。

読んでみたい方は、ぜひどうぞ!一応、Amazon.co.jpへのリンクを載せておきます。(なぜか訳者名しか表示されていないようですが、大丈夫です。)

2006/01/05

岩の上に立つ

ペテロって、本当に愛すべきキャラクターだ。
人間味があって、親近感がわく。


私は、イエス様がペテロに語られた2つのみことばを通して、献身に導かれた。
一つ目は、イエス様のことばに従ったペテロが、あまりの大漁に驚いた時のいきさつ。

・・・これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、
「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言った。
・・・イエスはシモンにこう言われた。
「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
(ルカ5:8-11)

1997年、このところから「人間をとる漁師となる」事を、個人的に深く語られた。そして、イエスに従うために、まず「舟を陸につける」作業をするようにと導かれた。すなわち、今の仕事を整理して、次のステップに進めるように準備を整えることだった。


二つ目は、弟子たちが向かい風と波に悩まされる中、湖の上を歩いて近づいてきたイエス様とやりとりをする場面から。

・・・すると、ペテロが答えて言った。
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、
水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい」と言われた。
そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
(マタイ14:28, 29)

1999年、この箇所から、会社をやめてフルタイムで仕える献身者となることを決心した。当時、「もし可能でしたら、あなたに100%仕えさせて下さい」と祈る中で、「来なさい」と主が答えてくださったのだ。そこで私は、舟を出て(会社をやめて)、水の上を歩いて(不安定な中を信仰をもって歩んで)、イエスのほうに行くことを選んだのだ。


だから、わたしのこれらのことばを聞いて
それを行なう者はみな、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、
風が吹いてその家に打ちつけたが、
それでも倒れませんでした。
岩の上に建てられていたからです。
(マタイ7:24, 25)

もちろん、聖書のことばのすべてに言えることだ。
でも私の生涯に、主が直接介入して語ってくださった、特別なことばがある。

これからも、これらの岩の上に、しっかりとした土台を築き上げて行きたい。

日本語吹替版

ハリーポッター見に行きました♪
地元、港南台でやっているのを知って、いきおいで行ってしまいました。
これだけ多くの要素を、よくギュッと一つの作品にしたな、って感じ。
なかなか、味わい深い映画だと思いました。


ところで、入口では、チケット売りのお姉さんに怪訝そうな顔をされた。
「お客様、何名さまですか?」
「あ、一人です。(わるいか?)」

「割引券か何かお持ちですか?」
「いや、ないです。(しまった。何かあったのかな)」

「・・・では、1800円になります。」
「あ、はい。(高いな、ふつうに)」

「あ、お客様、こちら日本語吹替版ですがよろしかったでしょうか?」
「へ?あ、はい(っていうか、買ったあとに聞いてどうすんだ?)」

冬休みなので、家族連ればかり。
大人がいたとしても、レディース・デーなので、女性ばかり。
しかも、そこに行くまで、「日本語吹替版」であることに気付かなかった・・・。
(ついでにスクリーン、ちっちゃ!)

実は、先日見に行った「チキンリトル」も日本語吹替版だった。
こちらは、字幕版が満員だったため。
英語が分からない訳でもないのに、何も好き好んで日本語吹替版に行くことはない。
昔だったら、絶対行かなかっただろう・・・。

でも、日本語吹替版って、思っていたより悪くないんですよ!
この2回連続の日本語吹替版体験は、結構面白かったです。やっぱり、耳から入ってくる日本語って、何にも考えなくても理解できるんですよねぇ。字幕を見ないので、映像に集中できるし・・・。

そして、この翻訳作業って、字幕のための翻訳作業とまた少し違うんだろうな、なんて事を考えてしまいました。もとの言葉と同じ長さで、意味がそのまま通じるように、時にはジョークも笑えるように、自然に理解できる日本語に訳すのって、とっても難しいはずです。

教会では、よく英語の歌を日本語にして歌います。そして、英語の歌詞が良ければ良いほど、日本語の歌詞が残念に思うのです。私も、訳すことがありますが、その時は、新しい歌を作り直すような覚悟で、大胆な意訳をしてしまうこともあります。でも、心から納得いくようなものは、なかなか作れません。


そもそも、「ことば」は、コミュニケーションの手段です。

コミュニケーションとは、
(1)伝える側
(2)伝えられる側
(3)伝える内容
(4)伝える手段
(5)伝える環境
(6)伝える時
(7)伝える理由
・・・などの要素が複雑に絡み合って成り立っているものです。
そして、それぞれの要素に、さらに奥深い歴史や文化があります。
それは裏を返せば、思い込みや先入観があるということです。

そういう意味で、伝えたいことを、100%その通り相手に伝えるというのは至難のわざです。むしろ、そのコミュニケーションを通して、何を達成したいのかという事をもう一度考え直してみる必要があります。「正確に伝える」という事ばかりに捉われていると、そもそも何を誰に何のために伝えるのかという目的を達成できない事が多いからです。そして、多くの場合、「正確に伝える」ことよりも、大事な事が見えてくるのです。「真実を語るのが、本当の愛だ!」というような事を、よく考えもしないで言うことの危険性も感じます。「愛をもって真実を語る」のとは次元が違うように思うのです。

特に、映画や歌のような、右脳にも左脳にも訴えかけるようなアートに関しては、最新の注意をはらう必要があると思います。(私は、宣教や教育、いや人生そのものも、アートだと思っています。)

映画は一つの体験です。
イエス様自身が、「神のことば」だというのは、見逃せない点です。
映画「パッション」は、アラム語で上映されていたけど、強烈な体験をしました。

もちろん、バランスが必要です。
だから、知識的にも、技術的にも、人格的にも成長する必要があるのです。


うーん。・・・伝えるのって難しいなぁ!


・・・えーと、とにかく、日本語吹替版も、なかなか捨てたもんじゃないですよ。
翻訳してくれた方に拍手!

2006/01/03

スポーツマンシップ

何気なくテレビをつけたら、イチローが出ていた。

昨年は、苦労しながらも5年連続200本安打を達成した彼だが、その背後には様々な戦いがあった事を知った。そして、あらためて、彼のベースボールに向かう姿勢に心を打たれた。

私は、スポーツをすることは、極端に言えば、生きることの縮図だと思う。
勝利を目指して一心に走る。そして、そのプロセスを通して、自分自身が養われ、チームワークが培われる。その姿を通して、多くの人に勇気と感動が与えられるのだ。


競技場で走る人たちは、みな走っても、
賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。
ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。
彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、
私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

ですから、私は決勝点がどこか
わからないような走り方はしていません。
空を打つような拳闘もしてはいません。
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。
それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、
自分自身が失格者になるようなことのないためです。
(1コリント9:24-27)


「勝てばいい」というものではない。
宣誓!我々は、スポーツマンシップにのっとり、正々堂々と戦います!

しかし、決勝点がどこかわからないような走り方はしたくない。
私はどこを目指して走っているのか?
走っている間に、それを忘れてしまうような事がありませんように!


・・・私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、
私たちの前に置かれている競走を
忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
(ヘブル12:1-2)

2006/01/02

君は愛されるため生まれた?

「君は愛されるため生まれた」という素晴らしい曲があります。

韓国で作られた曲だそうです。日本でも流行りましたね。
私たちの教会でも、時々歌います。

この曲を聴いて、多くの人が涙を流すのを見て来ました。今の日本を生きる私たちの、心の琴線にふれるものがあるのだと思います。でも、逆に言うと、本当に多くの方々が、心の奥底で、この「愛のメッセージ」を浴びせられることなしに生きてきたんだという事なのです。それを思うと、心が痛くなります。

今、自分自身の存在不安に悩む子供達がたくさんいます。いや、子供ばかりではありません。大人たちだってそうなのです。「あなたは愛される価値のある存在だよ」って、魂の深いところに語りかけられる必要があるのです。

この時代は、正しい求心力を失っているように思います。
突然「重力スイッチ」のヒューズが飛んだような状態です。
一生懸命もがいても、前に進めないのです。
バランスもとれないし、下手するととんでもない所に飛んでいきます。
何よりも、なんだか落ち着かないのです。

「愛されている」という実感は、なくてはならないものです。


・・・でも、「愛されるために生まれた」という言い方の中に留まってしまう事も、まだ消極的だと思います。確かに「愛されるために生まれた」のだけれど、私たちは、それよりももっと素晴らしい事を体験するために生まれたのです。

そう、それは「愛するため生まれた」という事です。

多くの人は、この高尚な使命を理解し、自分自身を犠牲にして神と人を愛そうとします。でも、「自分自身」が愛されているという実感をもてないまま行なっている場合が多いのです。(特に、クリスチャンになる人ってまじめな人が多いですし・・・。) 本当の意味で自己犠牲をするためには、「自分自身」が何者かがはっきりと分かっている必要があります。自分自身すら存在価値を把握できないものを、どうして正しく献げる/与える事ができるのでしょうか?私たちが、献げる/与えるものは、価値があるものでなければなりません。私は「愛される価値のあるものだ」って事を実感して初めて、「この大切ないのちを、同じような大切ないのちのために献げよう」という決断ができるようになるのです。


「君は愛されるため生まれた」
この曲が、ますます歌われることを通して、真に愛されることを受け取れる人たちがたくさん起こされ、真に愛することに燃やされる人たちも立ち上がっていく事を心から願います。

愛は、地球を救うのです。

2006/01/01

種を蒔け

あなたがたは正義の種を蒔き、
誠実の実を刈り入れよ。
あなたがたは耕地を開拓せよ。
今が、主を求める時だ。
ついに、主は来て、
正義をあなたがたに注がれる。
(ホセア10:12)

これは、教会の今年の標語のみことば。
今年は、「回復の年Ⅱ」。
昨年に引き続いて、回復の年の2年目なのです!

でも、このみことばから言うなら、「農業の年」って感じです。
・・・種を蒔け
・・・実を刈り入れよ
・・・耕地を開拓せよ
・・・注がれる
きっと、私たちは、お百姓さんから知恵を学ぶべきですね!


種を蒔いても、放っておいては、豊かな収穫を期待することはできません。
お百姓さんは、水を注ぎ、肥料をやり、雑草をとり、いろんな手をつくします。
でも、「健全に育てさえすれば、時が来れば、必ず収穫をもたらす」という事を、
本気で信じているからこそ、手をかけ、愛情たっぷりに育てるのです。

時間はかかります。手間もかかります。
でも、確実に実を実らせるのです。

「時間がかかる。」
・・・その事が、理解できれば、今なすべき事が見えてきます。
ちょっとやそっとの問題で、揺り動かされる必要はないのです。



そして、今日の先生のメッセージは、私の信条とも言える箇所からでした。

私は、すでに得たのでもなく、
すでに完全にされているのでもありません。
ただ捕らえようとして、追求しているのです。
そして、それを得るようにと
キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

兄弟たちよ。
私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ、この一時に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、
ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて
上に召してくださる神の栄冠を得るために、
目標を目ざして一心に走っているのです。

ですから、成人であるものはみな、
このような考え方をしましょう。
もし、あなたがたがどこかで
これと違った考え方をしているなら、
神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。

それはそれとして、
私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
(ピリピ3:12-16)


私たちは、キリスト・イエスを信じてからも、みな求道者として歩むのです。しかし、その求道中の私を、主はまず捕らえてくださいました。主が、私を捕らえてくださったのは、私がそれを捕らえる事ができるようになるためです。

「忍耐」とは、単に辛い事を我慢することではありません。
まだ見ぬ物を、必ず得ると確信して、先に喜ぶ事です。
すなわち、「忍耐」とは「信仰」なのです。


収穫には忍耐が必要です。
でも、信仰のある者にとっては、
種まきや耕すことも収穫の一部として喜べるのです。

さあ、作業に取りかかりましょうか!