2005/12/31

Let it be...!

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
・・・これは一体、何の挨拶なのだろう?
私はひどくとまどい、考え込んでしまった。

「こわがることはない。あなたは神から恵みを受けたのです。」
「あなたから、すぐれた者が生まれ、人々を救うのです。」
・・・どうしてそんな事がありえよう?
私はその条件を満たしていないのだ。

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」
「神にとって不可能なことは、一つもありません。」
・・・主よ、あなたを信頼します。本当に、私は取るに足らない者です。
どうぞ、あなたのお言葉どおり、この身になりますように。


主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、
何と幸いなことでしょう!


わがたましいは主をあがめ、
わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
主はこの卑しいはしために
目を留めてくださったからです。

ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、
私をしあわせ者と思うでしょう。

力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。
その御名は聖く、そのあわれみは、
主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
(ルカ1章より)


マリヤは、御使いの知らせを聞いて、ひどく考え込んでしまった。
「そんな事は私におこるはずがない。だって、あり得ないでしょう?! 」

でも彼女は、主を信じた。主を信頼した。
そして告白した。そして、喜びと平安に満たされた。


私が納得したかどうかは、問題ではない。
この世の常識も、問題ではない。
人々の中傷も、問題ではない。
神にとって、不可能なことは何一つない。

私をあなたの管としてください!
私はあなたを信頼しているのです!


「あなたのおことばどおりこの身になりますように!」
Let it be to me according to your word!


本当に、これから後、どの時代の人々も、
私をしあわせ者と思うでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださったのです!

主よ、感謝します。
すべてを、感謝します。

What is Love?

私たちが愛するのは何故だろう?
私たちが愛すべき人とは誰だろう。

主よ、あなたは何故こんな私を愛するのですか?
主よ、こんな私のどこが高価で尊いんですか?
主よ、あなたの愛で満たしてください。
主よ、私も人を愛したいのです。
愛って、何でしょう?


愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。
愛のある者はみな神から生まれ、
神を知っています。
愛のない者に、神はわかりません。
なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって私たちに、
いのちを得させてくださいました。
ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
(1ヨハネ4:7-9)


「神は愛」であって、愛がないと神は分からない。
とすると、どうやってその愛を知ることができるのか?
遣わされたひとり子を、「愛」として受け取る事ができれば、
「神」をも知る事ができるということか。
「神学」とは、つまり、愛を学ぶことなのか。

2005/12/29

従順の原動力

神から与えられた志は、もしそれが本当に神から与えられたものなら、
それに従って行動することが、神のみこころだ。
その従順を通して、神は働いてくださる。

しかし、人にその従順をもたらすものは、何だろう?
もし、みこころに関しての十分な知識があったとしても、それは必ずしも従順をもたらすとは限らない。また、表面上で従っているように見えたとしても、必ずしもそれは従順とは言えない。

では、キリストが十字架の死にまでも従われたのは、なぜだろう?
・・・そう、「愛」こそが、従順の原動力なのだ。


知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
人がもし、何かを知っていると思ったら、
その人はまだ知らなければならないほどのことも
知ってはいないのです。
しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
(1コリント8:1-3)

愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、
すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して耐えることがありません。
預言の賜物ならばすたれます。
異言ならばやみます。
知識ならばすたれます。
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、
預言することも一部分だからです。

こういうわけで、いつまでも残るものは
信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。
(1コリント13:4-9, 13)


十字架の愛の大きさを思う。
私たちの愛の源はここにあるのだ。
主よ、あなたの十字架を、今日も仰ぎます。

2005/12/28

いのちを保つ

時々、くじけそうになる。
魂に戦いが挑まれるのだ。

愛そうとすること、憐れみを働かせようとすること、誠実に生きようとすること。・・・それらは、自分で自分が傷つくことを恐れていては成し得ない事だ。「恐れる者の愛は、全きものとなっていない」のだから。

あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行って、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
・・・私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、
信じていのちを保つ者です。
(ヘブル10:35, 36, 39)

信じることには、忍耐が欠かせない。
いのちの希望を仰ぎ見つつ。

信じます。主よ。

2005/12/26

Without You

Paul Balocheというワーシップリーダーがいる。
車の中で彼のCDを聴きながら、その歌詞がとても心に響いてきた。


Without You

Like a love without devotion
Like a cloud without the rain
Like a heart without emotion
Like a wound without the pain

Without You I am nothing
I am nothing without You
Only You can make something
Out of nothing
I am nothing
Without You

Like a prayer without an answer
Like a bird without a song
Like a hope without a future
Like a night without the dawn

Without You I am nothing
I am nothing without You
Only You can make something
Out of nothing
I am nothing
Without You


あなたなしでは

献身のない愛のように
雨の降らない雲のように
感情のない心のように
痛みのない傷のように

あなたなしでは、私は何者でもない
私は何者でもありません、あなたなしでは
あなただけが、何もないものから何かをつくり出す事が出来る方
私は何もないものです
あなたなしでは

応えのない祈りのように
歌うことのない鳥のように
将来のない希望のように
夜明けのない夜のように

あなたなしでは、私は何者でもない
私は何者でもありません、あなたなしでは
あなただけが、何もないものから何かをつくり出す事が出来る方
私は何もないものです
あなたなしでは



シンプルな歌詞だけれど、何だか心に響くものがあった。

主よ、私自身は本当にからっぽな者です。
でも、あなたは無から有を生み出すお方。
この私からでも、何かを生み出すことがお出来になります。
どうか、私をいつでもあなたと共にあらせてください。

クリスマスの回復

今年のクリスマスは、本当に楽しかった。
心がジワッと温まる、そんな喜びに満たされたクリスマスだった。

今年は、私自身体調を崩した事もあり、あまり具体的な奉仕に駆けずり回ることが出来なかった。それは、時には歯がゆい事でもあった。でも今回、私にとっては「自分が果たすべき役割が何であるか」、しっかりと自覚しながら、考えながら、祈りながら、喜びに満たされながら、仕えることが出来たように思う。

私は、自分に与えられた恵みによって、
あなたがたひとりひとりに言います。
だれでも、思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。
いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった
信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
一つのからだには多くの器官があって、
すべての器官が同じ働きをしないのと同じように、
大ぜいいる私たちも、キリストにあって
一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
(ローマ12:3-5)

ユースクリスマスの演劇。
私に与えられたのは、「ブザーを押す」こと。でも、嬉しかった。誇りをもって、このことをさせて頂いた。

クリスマス礼拝。
私の役割は、午後の礼拝、夜の礼拝の司会をすること。とても楽しかった。


何だろう。今年のクリスマスは、教会の中に「自由」と「一致」からくる温かいものが流れていたような気がする。私の視点が変わったのだろうか?それもあるのかも知れないが、本当に主はこの教会に、「回復」を与えてくださっているように思う。

回復の年。
まず教会にこそ、いや、私自身にこそ回復が必要だったのだと思う。そして来年は、ここに確かに生きておられる主の霊がこの地を満たすに違いない。

そんな期待感に満ちている。

2005/12/23

The Volunteer Revolution

ウィロークリーク教会からは多くの事を学ぶ。
ミッション3000がどこに行こうとしているのか、明確な示唆が与えられるからだ。

そのウィロークリーク教会のビル・ハイベルズ師の"The Volunteer Revolution"という本を読んでいて、とても刺激を受けた。その中で、ボランティアというよりも、そもそもイエスキリストは私たちに何を教えておられるのかということについての、基本的な視点がよくまとまっている箇所があったので引用し、日本語に訳してみたいと思う。


A TRANSFORMED WORLD(変革された世界)

イエスは、神の考える「変革された世界」を次のように教えた。

それはまず、「教会の中」で現されるべきものであり、
次にそれが、「この世の中」に示されるべき。
  1. 神を愛し、人を愛すること。 ・・・形式ではなく、本当の関係を築き上げなさい。
  2. 弱い人たちを顧みること。 ・・・新しい価値観に生きなさい。
  3. 自分の十字架を負うこと。 ・・・自己中心をやめ、犠牲と困難を覚悟しなさい。
  4. 全世界に福音を宣べ伝えること。 ・・・出て行って、すべての人を弟子としなさい。

・・・私たちが持つべき根源的な視点を大変よく網羅していると思う。(後で読んでみたら、訳が分かりにくかったので、大胆に要約して書き直しました。悪しからず。)

もう一箇所、REWARDS OF VOLUNTEERINGという所も、大変示唆にとんだ記述がされていて、とても考えさせられたので、これも引用したい。

・・・でも今日は、ここまでにしておこう。

明日のユースクリスマスが祝福されますように・・・!

2005/12/22

信頼の力

「信頼」は、この世の中で最も美しい事の一つだと思う。

しかし本質的に、「信頼」にはリスクが伴う。先の事は分からない。絶えず想定外の出来事がつきまとう。「信頼」とは、自分が傷つくかもしれない可能性をあらかじめ認めることだ。「信頼」の度合いが大きければ大きいほど、裏切られた時のダメージは大きくなる。だから、裏切られたり、傷つけられたりする経験が重なると、もう傷つきたくないという自己防衛のために「信頼」の度合いを引き下げてしまう。自ら「信頼」の度合いを引き下げることは可能だが、「裏切る」ことは基本的に相手の側にあり、自分ではコントロール不可能だからだ。

しかし、人を信頼するというのは大きな力だ。それは、自分自身にとってだけでなく、相手にとっても大きな力になるものだ。信頼は、信頼を生み出すのだ。


神は、人を信頼された。神は、「自由意志」を持った存在として人を創造された。それは、裏切られる可能性を百も承知の上で人を造ったということだ。

しかし、人は神を裏切った。
そして、神の心は傷ついた。

しかし、神は人を信じ続けた。神の私たちへの信頼はいたるところに見られる。

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、
あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
(ルカ22:32)

これは、神の私たちへの信頼である。彼らの信仰はなくならない。彼らは必ず立ち直る。祈るということは、そのように信頼するということだ。

神は、私たちが真の信頼関係を回復するようにと、ご自身をささげられた。それは、不信仰からくる、律法によるリスク管理ではなく、信頼と愛によって、その人の内にある本来の姿が回復するためだ。信頼されると、不思議とその力が発揮されるのだ。

「・・・私はあなたに約束したのです」
一人の人が、勇気をもって信頼し始める時、この世界が変わる。
私はそう信じる。

2005/12/20

ムイ・ビエン

スペイン語の挨拶で「調子はどう?(コモ・エスタ?)」と聞かれたら、
調子が悪くても笑顔で「ムイ・ビエン(調子いいよ)」と答えるらしい。
(本当かな?)

ということで(?)今日は、鼻炎の話です。

慢性の鼻炎が気になって耳鼻科に行った。
そしたら、あらら。慢性副鼻腔炎だとのこと。
度重なる風邪や肺炎も、これが原因かも知れないとのこと。

私は鼻づまりで、よく口で息をする。これは喉に良くない。おまけに、副鼻腔に出来た膿から、細菌が喉や呼吸器に落ちて風邪や肺炎を引き起こす可能性があるらしい。万年風邪っぽい症状は、ここから来るのだと考えると納得がいく。さらに、そういう時に頭を下に向けると頭痛がひどくなる。それらの原因が、副鼻腔炎から来るものだとすれば、それを治せば全体的な症状が軽くなるということだ。なんだか希望が出てきた。

しかし、ネットでいろいろ調べる限り、副鼻腔炎も耳鼻科系の病としては治療が困難なものらしい。それでも、悪循環を引き起こしているのだから、対処療法的な治療でも、結構良い結果が出るのではないかと個人的には楽観視している。今日はとりあえず10日分の抗生物質等をもらい、来年早々もう一度きちんと写真を撮って治療方針を決めましょうとのことだった。

「からだ」というのは不思議だ。目に見える症状が本当の病とは限らない。症状を押さえるばかりが良いこととは言えない。根本的な原因を見つける必要がある。しかし、根本的な原因が分からない場合もあるし、分かっても治せない場合もある。そういう時は、もう一度からだ全体を見て、何をもって「健全」とするのかを再定義しなければならない。いや、身体的なからだだけではない。そもそも人間とは何なのか、何をもって人間らしい生活と呼ぶのかを考え直さなければならないのだろう。

幸いにして、私にはそういう事を考える機会がたくさん与えられた。その気になれば、どんな事からでも学ぶ事ができるのだ。

これは、私の得たかけがえのない「自由」の一側面。
ムイ・ビエン。グラシアス!

2005/12/18

従順の学び

キリストは従順を学ばれた。
何ということだろう!考えれば考えるほど、すごい事だ。


キリストは御子であられるのに、
お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、
とこしえの救いを与えるものとなり・・・
(ヘブル5:8,9)


キリストは神の御子であって、神そのものである方だ。キリストはただ一人罪のない方で、完全な者であったはずだ。その方がなぜわざわざ「従順を学び」、「完全な者とされる」必要があったのか?別の箇所には、このように書いてある。


善を行っていて苦しみを受け、
それを耐え忍ぶとしたら、
それは、神に喜ばれることです。
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。

キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、
その足跡に従うようにと、
あなたがたに模範を残されました。

キリストは罪を犯したことがなく、
その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、
苦しめられても、おどすことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになりました。
(1ペテロ2:20-23)


つまり、キリストは私たちの模範として、苦しみを受けられ、従順を学ばれたのだ。従順を学ぶということは、「完全な人」としての正しい姿だった。「完全な人」というのは、そういうものなのだ。

キリストのこの姿勢は、私たちに大きな示唆を与える。

私たちは、このお方を通して、完全な救いにあずかった。しかし、どうして完全な救いを得た者が、なお苦しみに甘んじて「自分の救いを達成する(ピリピ2:12)」ために、努力する必要があるのか。 それは、その姿勢こそが「完全な人」としての姿だからだ。完全な救いにあずかったからこそ、自ら従順を学ぶ必要があるのだ。


いつも主にあって喜びなさい。
もう一度言います。喜びなさい。
(ピリピ4:4)


パウロは獄中の中にあっても、いや、獄中の中にあったからこそ、キリストにあるこの真理を悟り、自分の喜びとして、あふれるばかりに喜んでいた。私たちはどうだろう?万が一にも従順を学んでいたとしても、人のご機嫌取りのようなうわべだけの従順になっていなかっただろうか?

主よ、あなたが私のうちに生きてくださっている事を信じます。そして、私にもキリストの従順にあずかる希望を与えてくださっていることを感謝します。キリストに似たものとして、日々栄光から栄光へと私をつくり変えてください。あなたが見ていたものを、私もしっかりと見つめ、あなたが大切にしていた事を、私も大切にすることが出来るように、導いてください。この特権をありがとうございます。私はあなたのものです。もう一度あなたにお委ねいたします。

2005/12/16

信者の模範

ユースクリスマスのリハーサルに出た。
感動で胸が熱くなった。

素晴らしい劇だった。12月24日、2回公演で1000人集められるように取り組んでいる。集められた人たちは、間違いなく感動して心が温かくされるだろう。生き方が変えられるだろう。

でも、本当に生き方が変えられるのは、実際に取り組んでいる彼ら自身だろう。それぞれの立場で一生懸命取り組んでいる一人一人は、自分たちが伝えているメッセージを、きっと見ている者に与えられる感動よりも、何十倍も深く自分のものとするに違いない。一つの事にむかって、みんなで力を合わせて取り組むというプロセスは、完成した表面上の成果以上の意味がある。今年のクリスマスを終えたとき、彼らはグッと成長している事だろう。そんな事を思いながら、とても嬉しくなった。

なんだか、視点がおじいちゃんみたいだ。
でも、一人一人の成長がとっても嬉しい。

年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。
かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも
信者の模範になりなさい。
(1テモテ4:12)

彼らにあふれる喜びと、真剣な取り組みは、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも現れていた。もちろん、未熟さはあちらこちらにある。でも、その未熟さを知るがゆえの謙遜と従順は、立派な「信者の模範」だと思った。生き生きとした、いのちに満ちていた。

主よ。私にも絶えず柔らかい心を与えてください。
内なる人を日々新しくしてください。
信仰の若々しさを失うことなく、成熟へと導いてください。

2005/12/13

ぽった?

「ハリーポッター・アズガバンの囚人」をDVDで借りてきて見た。
やっぱり最新版を見る前に、一通り見ておかなくてはと思いまして。

 しかし、「クリスチャンはハリーポッターなんて身にいくべきでない!」という意見もありうるだろう。そういう意見は尊重するし、それはそれでいいと思います。

 でも、なぜそういう意見を主張するのかは、ぜひ教えて頂きたいです。魔法を取り扱っているから?戦いがあるから?そんな映画いくらでもあるんだけど・・・。?映画からの悪い影響を恐れているのでしょうか?では、どんな悪い影響でしょう?ナルニア国物語だったらいいの?なぜでしょう?クリスチャンの原作ならすべて安心なのでしょうか?実際、見てからそう判断しているのでしょうか?
 もちろん、「信頼すべき人の意見を信頼するから」という事も理にかなっていると思います。でも、自分で自分の考えの責任を放棄してはならないと思います。


主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、
それ自体で汚れているものは何一つないということです。
ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。
(ローマ14:14)


 多くの小説、ファンタジーがそうであるように、これらの物語は、そのプロットを通して、それぞれに大切なメッセージをもっている。それをじっくりと観て聴いたらいいんじゃないだろうか。本一冊読むぐらいのインパクトはあります。クリスチャンではないからそこでの思想そのものも悪いのだとしたら、もう私たちはこの世の中にいれなくなる。むしろ、彼らからこそ多くを学ぶ事が出来るんじゃないか?
 リバイバル新聞の記事では、これが学校の秩序に反抗してポッターがヒーローになるというのがメインテーマだからよくない、というような事が載っていた。馬鹿げてる!正しくないと思う事を制限することも、時にはもちろん必要だろう。でもそれ以前に、もっと積極的に「私たちが守るべき大切な価値観」とは何かの見本をしっかりと見せてあげて欲しい。

私たちは、本当の意味で自立し、主体的に育っているだろうか。
また、私たちが人を育てる時、そのような人格を育てているだろうか。

 もし私の自由によって弱い魂が滅びてしまうのなら、私は喜んで、自分の意思でそれを手放そう。しかし私はむしろ、「情報の制限」の背後にある律法主義的な思考停止から来る悪影響のほうが心配だ。現代の子供達、大人達に本当に必要なのは、正しい価値観に基づいて物事を自分で判断する事が出来る力を身に付けさせる事なのではないだろうか。

 自らの体験を通して出なければ、学ぶ事が出来ない限度というものがある。それを積極的に身に付ける訓練が必要だ。あれやこれやと制限する前に、どうしたらその様な人格を身に付ける事が出来るか、誠実に、大胆に取り組むべきなのではないだろうか?


<追記> 読み返してみて、どうもこの記述は、なかなかうまく表現できている気がしません。もし、これを読んでくださっている方がおられたら、これは、私の自己対峙のため記述である事をご容赦ください。そして、ご意見・ご指導くだされば感謝です。

2005/12/11

神の国

義と平和と聖霊による喜び。・・・それが神の国です。

自分が嫌になって、死を選びたいと思った時。そんなどん底の中で、人が人として生きることの本当の意味を捜し求め始めた時。すべてを理解した訳ではないけれど、キリストこそ道であり、真理であり、いのちであると信じ、人生を賭けてみようと思った時。キリストのからだとして、その一つの器官として、私も必要とされているという事を知った時。私も用いられて、他の人の益となれた事を実感出来た時。キリストの十字架の愛が、私の理解をはるかに超えて、真に私を生かすものである事に感動した時。私もキリストに似たものとして、真の謙遜を身に付けたいと餓え渇きが与えられた時。すべての事が互いに働いて益とされていることが分かった時。

「義と、平和と、聖霊による喜び」は、いつも私を取り囲み、私を導いてくださった。人間が人間らしく生きることへの餓え渇き。心の落ち着きと、正しい人間関係。聖霊による新鮮な喜び。神の国とは、そういうものだ。

今日、クリスマスに洗礼を受ける事になった青年との交わりを通して、神の国が今そこにある事を実感した。主は生きておられる!今、自分が生かされている!こんな素晴らしい神の家族に自分が加えられている!そんな、喜びが、彼の内側からあふれ流れ、私の心にも注がれてきた。そんな嬉しい時を過ごすことが出来た。

はじめは、彼に対して、洗礼の学び、すなわち「信仰告白の学び」をするように依頼された。しかし、私はそれをする事に躊躇するものがあった。C-BTEの学びを通して、組織神学的な学び、無機質な知識の羅列の様な形での教理の学びは、かえってこの新鮮な喜びをもった器を萎縮させ、今与えられている純粋な義への餓え渇きを変質させてしまうのではないか、そんな恐れがあったからだ。信仰告白の学びは、むしろクリスチャンとしての基本原則を実践し、本当の意味で聖書的に考える力が養われ始めるまで控えたほうがいいとまで感じていた。

しかし、主は、この時を備え、知恵を与えてくださり、なんと今までで一番いのちにあふれた「信仰告白の学び」をすることができた!しかも、45分くらいで、全項目を終えてしまった。今回、私が特に注意したのは、「相手が、信仰生活の本質や全体像を見失わないように伝えること」である。私が満足するために、この学びをしているのではない。彼が本当にキリストにあって、輝いて生きることができるように、その人格が正しく方向付けされるように導いているのだ。そんな事を意識しながら学びを進めて行った結果、私自身も「信仰告白」に記されている素晴らしい信仰の本質に感動することができた。

ああ、救われたばかりの魂の、聖霊の喜び。こんなにもパワフルなものがあるだろうか。

彼は、学びを終えて、「やっぱり、神につくらた人間として、人間らしく生きるように導かれているんだ、ってことがこの学びを通して聞こえてきました」と言った。なんて素晴らしいんだろう!私の今回のやり方は、その心を育むという目的において、とても効果的だったようで、本当に感謝だ。

今、まさに教会が目指している方向が、確かに主のみこころである事を実感できた。さあ、すでに主を知っている皆さん、もう一度この新鮮ないのちの御霊に触れましょうよ!いつの間にか、いっぱしの宗教家のように、表向きは立派に見せかけて、まったく喜びのない生活に陥っていませんか!?

神の国は、義と、平和と、聖霊による喜びです。(ローマ14:17)

私を通して、神の国が実現しますように。
聖霊を豊かに注ぎ、私を生かしてください。

2005/12/09

限度と自由

今日もなすべき事一つ一つが守られ、行なう事ができた。
自分としては、かなり仕事量等セーブしているつもりだった。でも、この密度と量は、恐らく今の私の限度ギリギリの所だろう。

 重要だけれど、緊急でない仕事というのは、後回しにしがちだ。でも、自分自身を客観的にみつめて、しっかりとそこに時間も労力も費やさなければならない。
 戦略的な計画の作成や、リーダーシップの育成、はたまた自分自身の健康づくり、人間関係の育成などは、充実した奉仕、生活のために本来最も重要視すべき事柄だ。しかし、うっかりしていると後回しにしてしまいやすい。これらをしっかりと見据えて、自分自身をコントロールする力を養うこと。それが、今の私に課せられている訓練だと思う。
 もちろん、福音のために何でもする覚悟だ。しかし、それは自己満足的に、あれもこれも行なう事とは違う。自己犠牲の意味をはき違えてしまってはいけない。

キリストは、自由を得させるために、
私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、しっかり立って、
またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
(ガラテヤ5:1)

主よ。本当の自由を与えられたしもべとして、キリストに似たものとして、私を整え、つくりかえてください。主よ。

2005/12/08

的外れ

私たちは、何とズレやすいんだろう。
良かれと思ってやっている事が、何と的外れになりやすいんだろう。

今日、まわりで一生懸命議論している人の話を聞きながら、心が痛んだ。誰もが熱心なのだ。必死に神を愛そうとしていて、人を愛そうとしている。そのために、自らが犠牲まで払おうとしている。

それなのに、どこかがおかしい。なぜだろう?
私も例外ではないはずだ。


それに比べ、イエス様は何と自由だったことか。
目的をまっすぐに見据えて、何と大胆に行動できたことか。

そのイエス様の行動は、当時の律法学者には理解できなかった。
でも、これこそ神のみこころそのものだったのに。
「罪人たちと食事をしている」
「食いしん坊の大酒飲み」
「なぜ安息日に人を癒すのか?」
「なぜ昔の人たちの言い伝えを破るのか?」

・・・イエスは言われた。

『この民は、口先ではわたしを敬うが、
その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。
人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』

・・・あなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、
神のことばを空文にしています。
そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。
(マルコ7:6-7,13)

「人の言い伝え」だって、最初は熱心さのゆえに「良いもの」として作られた。でも、一度文字に書き表されると、今度はその文字面に捕らわれてしまうのが人の常だ。

イエス様が来られたのは、律法を破棄するためではない。あえて人の言い伝えを破ったのは、むしろ神のみこころを成就させるためだ。神のみこころを実践するためには、時には「人の言い伝え」という壁を乗り越えなければならない。私たちの内側にある、「自分のやり方」を捨てるように、チャレンジが与えられるのだ。

ああ愚かなガラテヤ人。
十字架につけられたイエス・キリストが、
あなたがたの目の前に、
あんなにはっきり示されたのに、
だれがあなたがたを迷わせたのですか。
(ガラテヤ3:1)

律法の下に閉じ込められた私たち。律法はキリストへ導くための養育係となったのだ。今私たちはすでにキリストのもとにあるのに、まだ養育係から離れられないでいる。怖いのだ。養育係の下にいたほうが、安心だと思っているのだ。でも、そこに本当の自由はない。本当の自立はない。本当に委ねることはできない。それは、キリストに従う者とは言えない。

でも、主よ。
あなたは解決をお持ちです。
主の十字架の謙遜を、私たちに注いでください。
古い自分に死に、新しい自由を体験する事ができるように解放してください。
自由に愛する事が出来るようにさせてください。
私を作り変えてください。

2005/12/07

自信と確信

「佐藤兄はアメリカから帰ってきて自信に満ちている感じがする」
・・・登喜子先生のコメントである。

 うがって受け止めることも出来る言葉だが、良い意味で言ってくださった事を信じ、素直に感謝して受け止めたい。
 確かに、confidenceは強くなったような気がする。しかし、「自信」とは違うのだ。私は今でも自信はない。自分のやっている事ややり方、考え方が最善とは思えない。
 でも、「確信」はある。確かに主はこのように導いておられる、確かに今主はこのことを、こういう風に男らしく語るようにと私を導いている。そんな確信はある。

考えてみると、先生方を前にして、よくまあしゃべったなぁ。でも、語らずにはおれない事があるのだ。そして、今がその時なのだ。 不思議なことに、まったく恐れがない。人に受け入れられるかどうかという恐れからは、ずいぶんと解放された気がするのだ。

私の按手をもってあなたがたのうちに与えられた神の賜物を、
再び燃え立たせてください。
神が私たちに与えてくださったものは、
おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
(2テモテ1:6-7)


昨日、話合いの中でピンとくるものがあって、帰りがけに本屋で「7つの習慣」というベストセラーを買ってきた。パラパラと読んで・・・あらあら。これはまさに今、話し合っていたことそのもだし、私の考えも全く同意するものだった。(まだ1部しか読んでないけど)どうも著者コヴィー氏はモルモン教徒らしいのだが、内容は素晴らしく、ウィロークリークのブックセンターでも置いてあった。

これからは、ますます一般書を読む必要を感じている。特に、誠実に真理を求めて生きようとしている人たちが、手にとってみるような本を知っておきたいと思っている。そこにこそ、未信者との接点が生まれると思うからだ。「未信者対象の礼拝」を行なっていこうとするとき、私たちは、未信者の向いている方向を向いている必要がある。というか、私たちの向いている方向に、ともに未信者も向けさせる。みんなで一つの方向に向かって取り組むという中で、未信者も信者もはじめから一つになって歩んでいく事が出来るんではないか。

2005/12/05

新しい風

先生方って、何て謙遜なんだろう。
その姿勢につくづく感動した。

牧会者の先生方のリトリートにて、私がこの数週間ずっとまとめてきたC-BTEの報告書とミッション3000とリーダーシップ育成に関わる様々な提案書を発表させて頂いた。先生方は、へりくだって私の話に真剣に耳を傾け、そこにある神のメッセージをしっかりと受け止めようと多くの時間を割いてくださった。そして、絶えず自己変革していこうとする、先生方のあの姿勢。ああ、これが本郷台の教会を祝福へと導いてきた、真のしもべ達の姿なのだ。この器たちに養われ導かれている事に、あらためて感謝し、あらためて感動した。そして私なりに誠実に、私の果たすべき務めを果たすべく、その話合いの場に身を置かせていただいた。

確かに感じる。主のみわざの胎動を感じる。
新しい風だ。ウィロークリークの教会で話されていた、あの風だ。
新鮮な聖霊のいぶき。
人にいのちを与えられた、神の息。


主の御手が私の上にあり、
主の霊によって、私は連れ出され、
谷間の真ん中に置かれた。
そこには骨が満ちていた。
主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。
なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、
ひどく干からびていた。

主は私に仰せられた。
「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」
私は答えた。
「神、主よ。あなたがご存知です。」

主は私に仰せられた。
「これらの骨に預言して言え。
干からびた骨よ。主のことばを聞け。
神である主はこれらの骨にこう仰せられる。
見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、
おまえたちは生き返る。
わたしがおまえたちに筋をつけ、
肉を生じさせ、皮膚でおおい、
おまえたちの中に息を与え、
おまえたちが生き返るとき、
おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」

私は命じられたように預言した。
私が預言していると、音がした。
なんと、大きなとどろき。
すると、骨と骨とが互いにつながった。
私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、
肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。
しかし、その中に息はなかった。

そのとき、主は仰せられた。
「息に預言せよ。
人の子よ。預言してその息に言え。
息よ。四方から吹いて来い。
この殺された者たちに吹きつけて、
彼らを生き返らせよ。」

私が命じられたとおりに預言すると、
息が彼らの中に入った。
そして彼らは生き返り、
自分の足で立ち上がった。
非常に多くの集団であった。
(エゼキエル37:1-10)


主よ。来てください。
今こそ、主の御霊を注いでください。
今が、その時です。

2005/12/04

信頼

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。
私の望みは神から来るからだ。
神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。
私はゆるがされることはない。
私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。
私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
あなたがたの心を神の御前に注ぎだせ。
神は、われらの避け所である。
(詩篇62:5-8)

私は神を信じるようになってから、神への信頼が消えた事はない。
考えてみると不思議なことだ。

自分が嫌になったことや、自分が信じられなくなった事なら嫌というほどある。というよりも、ほとんどの時とエネルギーとを、自分の内側の自信のなさを隠したり、防御したりするのに使ってきたような気がする。それは、神を信じてからも同じだ。人を疑ったり、裁いてみたり、反発してみたりした事も数え切れないほどある。

でも、神への信頼自体が消えた事はないのだ。たとえ理解できないことがあっても、思い通りに行かない事があっても、大いなる理解を越えた存在がどんな時でも私を支えてくれているという信頼によって、今の私は成り立っている。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。
彼にはご自身を否むことができないからである。
(2テモテ2:13)

わたしを呼べ。
そうすれば、わたしは、あなたに答え、
あなたの知らない、
理解を越えた大いなる事を、
あなたに告げよう。
(エレミヤ33:3)

私は、すでに得たのでもなく、
すでに完全にされているのでもありません。
ただ捕らえようとして、追求しているのです。
そして、それを得るようにと
キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
(ピリピ3:12)

私が真理を求め、神を捕らえようとしている時、キリストは私がそれを得られるようにと、すでに私を捕らえてくださった。何という愛、何という恵みだろう。

私が神を信じる事が出来るようになったのは、私が神のすべてを理解する事が出来たからではない。しかし、信じる事が出来たのだ!何という恵みだろう。

そして神を知れば知るほど、私の得たものの大きさ、素晴らしさに今でも感動する。感動が増し加わっている。何という恵みだろう!

こんな素晴らしい奇跡が、私の人生になされたのだ。
もう私は、私自身の存在意義を自分自身で主張する必要はないのです。

主よ、感謝します。
あなたを信頼します。
何という愛、何という恵みだろう!

2005/12/03

啓示

時々、主は「ピカーッン」とアイデアを与えてくださる。これは啓示だろう。
今まで祈りもだえ考え困っていた何かに対し、突然いのちが注がれるような、そういう経験を時々する。

ミッション3000について、その全体像をもっとしっかりつかめる様に図を描くことは出来ないかと祈って作業していた。そうしたら、次々にヒントが与えられて、シンプルかつパワフルなツールを作成することが出来たと思う。本当に感謝だ。

 いろいろな事に手を出す私は、私自身が神様によってどのようにデザインされたのかをなかなか正確に読み取れない。でも、だんだんと見えてきた事がある。わたしは、何かのスペシャリストになるというよりは、いろいろな物事を統合してそのフレームワークを提供する役割を担うように導かれているように思う。
 私は、物事の全体像を理解するのが得意なようである。また、全体像の枠組みをしっかり構築した所においては、ほぼどの様な物事もその関連によって位置づけをしていくことが出来る。逆に、全体像が見えない中で、極端にバランスを欠いたアイデアや人為的過ぎる物事に関しては直感的に不快感を感じる。
 また、それよりも、その概念を、表現する事が好きであり、得意である。時にはその理念に基づいてデザインを行ない、時にはそれを音楽にしてしまう。いずれにせよ、私の心にジーンと来た何かを、ビジュアル的にまとめてみて、それを効果的にコミュニケーションする。いろいろな賜物がからむが、「理解し、まとめて、表現する」という部分がコアになる賜物かもしれない。

 ・・・「私は何々が出来る」とか、「私は何々が得意」とかいう表現は、傲慢に聞こえるかもしれない。普段の生活の中では、聞き手にもう少し配慮して言葉を使うべきだ。しかし、ここで私は自分を誇るつもりは全くない。むしろ、弱さも含め、神様が私をどのようにデザインされたのか、それをなるべくありのまま見極める事が出来るようにとの取り組みの一環だ。

ということで、万が一これをご覧になっている方がいらっしゃったら、気に障るような表現をお許しくださいね・・・!このブログは第一義的にはモノローグなのです。
m(_ _)m

2005/12/02

BGM

ユースクリスマスのBGMの録音を手伝った。
すでにキーボードに打ち込んである音源をCDに落とすだけの作業。

でも、31曲もあった。
すごいなあ。それを知らずに、私は15曲目ぐらいで思わず、もう終わり?って聞いてしまったら、「あと15曲くらい」と言われてしまった。冗談だと思ったら、本当だった。

出来上がったものを、聞くのにはそれほど時間はかからないけれど、それを作るまでにどれほどの労力、時間、忍耐が捧げられていることか。それを恐らくほとんどの人は知らない。いや、「知る」というほどのイメージすらないだろう。ある人にとっては、そういう能力があって素晴らしいわね、で終わってしまう事かも知れない。でも、そこに捧げられている時間は、能力ではない。情熱であり、献身だ。

でも、労苦して出来上がったものが、ダメ出しされて、やり直しを命じられる事もあるという。
「あなたが、ダメだと言うのは簡単だけど、私がどれだけ時間をかけてこれをしてきたか分かってるの?」 ・・・ついついそんな事を言いたくなってしまうに違いない。実際、その通り、その人は、そんな労苦を全く省みないで、あっさりと言いのけてしまっただけかもしれない。


さてさて私だったら、そういう時、どうするだろう。
何十時間もかけて、手間隙をかけて、やっと出来上がった何かを、「あ、それはもういらなくなったんだ」とか、「もっと、こうできないの?」とか、簡単にあしらわれたら・・・?

「分かりました」と言って、すなおにその言葉を受け止め、不必要に傷付く事もなく、前に向かって喜んで引き下がる事が出来るだろうか。それとも、表面上だけ受け止めて、内側は不平不満でいっぱいになるだろうか?いやいや、表面ですら受け止められず、あくまでも自分自身の労苦からなされた成果を主張し続けるだろうか?

逆の立場ならどうだろう。相手がどれだけ苦労したかが分かっている時。でも、どうしてもそれが、その場に合わない、もしくは不必要だと思われる時。相手を思いやって、何とかそれを生かす形で用いる道を模索するか。それとも、感謝を表しつつも、遠まわしに不要を伝えるか。いや、はっきりと面と向かって断るか?


・・・これは、相手や、いろいろな境遇によって変わってくる事だと思う。でも、往々にして私は甘い。そして、どちらの立場に立っても、「相手に受け入れられやすい方」を選んでしまう。もしくは、それを恐れて、冴えない対応になってしまう。

あなたがたのことばが、いつも親切で、
塩味のきいたものであるようにしなさい。
そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。
(コロサイ4:6)


主よ、どうか心の動機を取り扱ってください。言葉を守ってください。
キリストが私の心を支配し、正しい判断力と、真に愛にあふれた行動をもって、一人一人に接していく事が出来ますように。そして、必要であれば喜んで自分自身の思いを捧げ、キリストに従うようにして従っていくことが出来ますように。私の労苦は、あなたが知っていてくださるのですから。

2005/12/01

試みの意味

試みには2つの意味があるという。

1. 心の中にあるものが何であるかが明確にされるため。
創世記22章で、神はアブラハムのイサクを献げる信仰に「今わたしは、あなたがわたしを恐れる者であることが、よく分かった」と言っておられる。

2. その人をより強く、純粋にするためのもの。
この事を通して、自分を神に引き寄せるものとなる。

主は試みの中にあっても、必ず「脱出の道を備えてくださる」。
しかし、それは「逃げの道」ではない。
神のみこころのうちに確立される、勝利へと導く道、祝福への道。

・・・祈祷会のメッセージより。

2005/11/30

窓としての教会

再び、大和田さんの音響で小学校へ。

今日は、音響機材の運搬のためだけに手伝いに来てくれた若者達が何人かいた。音楽室が4階にあるので、体力減退気味の私にとってはとても心配だった。でも、いろいろな配慮していただき、学校の先生方も多数協力してくださったので、とてもスムーズにセッティングをする事ができた。いつもいつも感謝ばかり!

中でも、雅樹がこの「重荷を負う」奉仕を手伝ってくれたのは、特別に嬉しい。彼は、私が教会でMIC(若者男子)のために特別に奉仕を始めた時の、一番初期の頃の教え子でもある。あの頃中学生になったばかりだった彼も、今ではもう立派な大学生。しばらく一緒に何かをするような機会はなくなっていたが、こうしてわざわざ朝早く出て来てくれて、本当に嬉しかった。今日は他にも手伝ってくれる人がたくさんいたので、彼にとっては「ほとんどなにもしてない」と思えるくらい、あっけなく終わってしまった奉仕かも知れない。でも、嬉しかった。きっと彼も嬉しかったに違いない。

そこで思う。
 たった一時間、単純に荷物を運ぶだけであっても、みんなで力を合わせれば、あっという間に終わってしまうような事がある。何も、一日中する必要はない。すべての知識が必要なのでもない。素晴らしいコミュニケーション能力が必要なのでもない。喜んで仕える心さえあれば、ほんの少しの力を出し合えば多くの事、大きな事が出来るのだ。
 なのに、その人の状況を十分に考えられなかったり、逆に考えすぎたり、一人一人に多くを求めすぎたり、逆に勝手にこちらで線を引いてしまったりと、神様が私たちが共同体として生きていくために用意されたお互いを生かしきれていない事が何と多いことか。

ボブ・モフィット師は言った。教会は、傷付いたこの世にあって、神の国がどんなに素晴らしいところであるかをこの世に示す「窓」となるべきだと。この「窓としての教会」が、互いに仕えあう姿は、自発的に喜んで仕えあうコミュニティを体現したものでなければならない。果たして、私たちのコミュニティは本物だろうか?本当に「窓」として、この世に光を照らすものとなっているだろうか?

私たちが目指している方向性は間違っていない。
しかし、そこに向かう私たちは常に変革される必要がある。
今、その息吹を様々なところから感じている。

2005/11/29

準備

ただいま自宅にて、牧師先生方に提出するための資料を作成中。
どの範囲まで含んだものにするべきかを考えつつも、「愛が結ぶ教会」としての4つの愛の結びつき方をアレンジしてみた。このほうが、現状と今後の方向性をはっきりさせると思ったからだ。

眠い。あしたは、大和田さんの小学校でのコンサート。
雅樹が来てくれるのは嬉しいなあ。

感謝

2005/11/28

Healing Rain

ネットでいろいろ検索していたら、Michael W. Smithのビデオに行き着いたので、少し見てみた。

"Healing Rain"(癒しの雨)というタイトルの曲のミュージックビデオ。
http://www.hotget.com/videocode/Michael_W_Smith-Healing_Rain--8395.htmlで見れます。

驚いたことに、私はこのビデオを見ながら泣いていた。

この曲はCDを持っているので知っていた。この曲をはじめて聴いたときは、それほど魅力を感じはしなかった。良い曲だが、それほど特別なものは感じていなかった。しかし、このビデオを見ながら、突然この曲の世界に目が開かれた気がした。そこに祈り込んであるものが、心に響いたのだと思う。

最近、この手の映像に弱いようである。
道行く人々の痛んだ状況を淡々と映し出す。そして、神を知っているものがその一人一人をじっと見つめている、そんな映像である。
まったく同じ類の構図で泣きじゃくったのは、映画「マザーテレサ」を1人で見に行ったときのことだ。マザーテレサが修道女の学校から一歩外に踏み出し、道端で死に掛けている人々を見たときの、あの視線だ。

突然、ものの本質が分かるようになるという事がある。一度見えるようになると、今まで違う見方をしていた事が不思議なくらい、確かな現実がある。
イエスキリストに贖われ、新しい生活に歩むようにと召された私達に必要なのは、この何とも言えぬ心をえぐられるような思いを主と共有する事だと思う。私たちが、まだ自分で必死に助けを求めている時には見えなかった事。でも、私はすでにキリストと共に十字架に付けられたのだという事が分かれば分かるほど、イエスはその思いを私たちに与えてくださる。そんな気がする。

イエスは、すべての町や村を巡って、
会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、
あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
また、群衆を見て、
羊飼いのない羊のように
弱り果てて倒れている彼らを
かわいそうに思われた。
(マタイ9:35, 36)

2005/11/26

校風

今日は、地域の小学校での大和田さんの人権教育コンサート。
4、5年くらい前からだろうか、音響担当として、教会にあるPAを持ち出して同行させてもらっている。この事を通して、多くの事を学ばせてもらっている。

 今日は私は体調が悪かったので、重い音響機材の出し入れ等は、すべて神山兄と高岡大ちゃんがやってくれた。感謝だ。朝早くからの見えないところでの地味で忠実な奉仕は、神様がちゃんと見ていてくれます。豊かな報いがありますように。
 また、今日の学校は、とても落ち着いているように思った。子供たちも、しっかりと、のびのびとしていた。自分の言葉で、ちゃんと考えることが出来るし、積極性もあった。もちろん、一人一人、いろいろとその背後に抱えているものが違うのはどこでも同じだ。でも、全体の雰囲気というか、校風というものはある。これは一体どこから来るものなのだろう?全体を支配している空気というか、考えるまでもなく支配している共通の土台のようなものがある。特に子供たちにとっては、家族とともに、自分のまわりにあるこの小さな集まりが、すなわち現実の世界すべてなのだ。

子供たち一人一人の顔を見つめながら、胸が熱くなった。

2005/11/25

御霊の実

「御霊の実」と、「御霊の賜物」は違う。

賜物はギフト、すなわち贈り物。神様が、一人一人に与えてくださった贈り物。神様は、一人一人に計画をもって、必要なものを与えてくださった。それは、単に能力だけではなく、環境、家族、性質、経験、情熱など、その人の個性を形成する様々な要素からなりたっている。それを、自分自身で正しく把握する事は、神様がその人にどんな計画を持っておられるのかを読み解く、重要な手がかりになる。しかし、それを正確に見極めるのは非常に難しい。なぜなら、私たちの視点はすでにこの世の価値観にどっぷりと浸かっているので、「神様の計画」にすらこの世的なランクがあるように感じているからだ。何か特定の賜物があるように見える人の方が、ランクが高いように見えてしまう。だから、自分自身をも偽って、「こうありたい」という姿と、ありのままの自分とを正確に区別する事が出来ず、必要以上に自己卑下してみたり、自己誇示してみたり。しかし、そういう事から解放されたとき、神様が計画してくださっている本当の使命に歩む事が出来るようになる。一人一人に与えられている賜物は違う。しかし、それは、その人の価値を決めるものではない。


その賜物が正しく用いられた時、御霊は私たちを通して「実」を結ばせてくださる。

良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、
また、悪い木が良い実をならせることもできません。
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって
彼らを見分けることができるのです。(マタイ7:17-20)

あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、
そのあなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)

それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。
成長させてくださる神なのです。(1コリント3:7)

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。(ガラテヤ5:22-23)


実を結ぶ事が目的であるならば、その目的で用いられるのが一番幸せである。しかし、だからと言って簡単に実は実らない。蒔かれた種を、丁寧に、手間をかけて、忍耐をもって、時間をかけて育て、さらに不毛な時期を過ぎて、ようやく実が結ぶようになる。必ず実がみのるということを、まだ見ぬうちから確信するからこそ、時間も、労力も、何もかも投資してそれに打ち込めるのだ。


・・・と、ここまでは普段考えてたことをまとめてみた事。
なぜ、今日こんなことを書こうと思ったかというと、私自身がこの「御霊の実」の一つを身に付ける事が出来るようにと、主は私を訓練してくださってるのだと気付いたからだ。
その御霊の実とは「自制」である。私は自制心に欠けていると思う。自分自身を制御できていないことがある。それが、「適応障害」という結果になった。理由が何であれ、働きすぎを制御できないのは、私に「自制」という実がない証拠である。そして、主はその「自制」を私に身に付けさせ、自分自身で「限度を超えない」ということが出来る力が備わるように、御霊を通して働きかけて下さっている。そのためにも、私に多くの賜物を与えてくださっているのだ。

主の計画は人知をはるかに超えてすばらしい。その主への信頼が増せば増すほど、御霊の実を豊かに実らせることができるのだと思う。

2005/11/23

帰ってきました!

日本に無事帰ってきました!
でも、気が抜けたのだろうか?・・・また熱が出てきてしまった。主治医の信愛クリニック井出先生にお世話になろうと思ったら、今日から金曜日まで休診とのことだった。

不謹慎だが、むかし、むかし、体の弱い人を羨ましく思った事がある。やらなければならない事を、やらなくてもいい口実になると思ったし、他の人から、より優しくされているような気がしたからだ。病気をすると、確かにやるべき事の量は減らされる。多くの人の優しさに触れられる。しかし、目標を目指して前に向かって一心に走りたいと願う者にとっては、体が思うように動かない事ほど悔しいことはない。自己中心な私が、それまで全く意識すらしてこなかった、これらの様々な弱さを抱えた多くの人達は、そんな苦しみをずっと抱えてきたのだろう。今更ながら、自分自身の視野の狭い、傲慢な思いを悔い改めずにはいられない。

もう、いい加減、体が元気になってほしい。正直、疲れてしまった。
あの、パウロも肉体の弱さを主の前に取り去って欲しいと3度も願い出たこと、若い次期リーダーであるテモテもパウロに体の弱さを心配されていたことに慰められる。何よりもキリスト自身が私たちの弱さをその身にまとってくださった事を心に留めつつ、主の栄光がこの身にも現される事を心から信じたい。

2005/11/21

自己変革

今日はウィロークリークの中心的な礼拝・・・Seeker's Service(求道者向けの礼拝)に参加した。参加してみてびっくり。私は勘違いしてた。求道者向けの礼拝とは何かを。

 もちろんいろんな側面があると思うのだが、私が今日見て感じたことはとても大きなチャレンジとなった。求道者向け礼拝とは、当たり障りのない、受け入れられやすい事をやって求道者にも違和感なく来てもらおう、という物ではない。むしろ、クリスチャンであってもクリスチャンでなくても、人が人として生きていく上で最も大切なことが何であるのかを、深く考え、はっきりと提示することだと思った。ともすると、クリスチャンには「未信者を信者にすること」に全力を注ぎ、あとクリスチャンになったら、一安心してそれでよしとしてしまう傾向が正直言ってあるように思う。そして、さらに忠実なクリスチャンは、教えられたことを言葉としてくらいしか把握していないのに、正しく生きようとして、結果として律法的になってしまう事が往々にしてある。いい人であればあるほど、そうだ。
 しかし、今回の礼拝では、「これこそが人間の生きる道だよね」という社会の中で困っている人たちに、きちんと目をむけ、小さなことから大きなことまで仕えていく。互いに仕えあっていく。内側に集まる集まりではなく、目を外に向けていこう、という呼びかけが、信者にも未信者にも語りかけられる。その価値観を共有した未信者、そして自分もそう生きたいと同意した未信者の方々は、じゃあどうすればそういう風に生きる事が出来るんだ、という疑問を当然感じる。そして、イエスキリストが自分の人生にとって不可欠な存在であることを知り、その後もよろこんでそこで仕えていくことが出来るようになる。そんな素晴らしい機会になった。これこそが、求道者に対して繊細な礼拝だと思った。

夜には先生方と一緒にツアーの分かち合いをした。感動だったのは池田先生の言葉だ。今回のツアーに同行したセブンスデーアドベンチストの方々に対して、池田先生は「かつて「異端だ」とはっきり教えられていて、その偏見はずっととれなかった。でも、宮本先生の姿勢に感動してこうして繋がりが出来るようになり、普通のクリスチャンだということが分かった。いまだに福音派の私たちが持っている壁がある。先生、赦してください。」

すごいことだと思った。セブンスデーが自己変革をしようとしている事にまず感動。そして、そのセブンスデーに対する壁を自分の中に見出し、はっきりと悔い改めて和解・解放のみわざへと導く池田先生に感動。
自分とは違う人(結果としてすべてだが)とどのように関わるのかについては、相当の成熟が必要。
「初歩の教え」を教えてもらわなければならない。

2005/11/20

うぃろぅくりぃく

4週間がとうとう終わってしまった・・・。
さ、前を向いて。

アイオワからシカゴまで、あっという間のフライト。
シカゴの空港からタクシーで30分くらい乗って、池田先生、月井先生がちょうど訪問中のウィロークリーク教会に着いた。合流完了!
先生方も元気そうだった。

第一印象。。。でかい!教会というより、大学という感じ。しかも、なにもかもエクセレント!
でも、本当に一人一人がいきいきとよく仕えていて、未信者にしっかりとフォーカスをあて、救われた者たちの訓練にもしっかりと力を入れているのがよく分かった。

詳しくはまだよく分からないけど、とりあえず、今日はここまで。
おやすみなさい。

2005/11/19

I am ready.

C-BTE の研修が終わった。「たったの4週間」だったのに、人生をひっくり返してしまうくらいのインパクトがあった。神様は、最善の時に、最善の方法で、最善の事を教えるために、私をここに導いてくださったのだと思う。

私の変わらない確信は、「神様は、私を丁寧に導いてくださる」という事である。神様は、私のすべてを知っていてくださり、取り扱われなければならない事の一つ一つを、正確に、正しい順番で、十分な時間をかけて、時に優しく、時に厳しく、ふさわしい方法で訓練し、私を造り替えてくださる。私には理解できない事も多い。でも、主はそのすべてを良く知っていてくださるのだ!


わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
・・・主の御告げ・・・
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
(エレミヤ29:11)


主よ、心は定まりました。
Now, I am ready enough to be wounded in the battle field.
ここに、私がおります。私を遣わしてください。


主よ、ここに導いてくださった事を感謝します。ここで出会った一人一人に感謝します。アメリカの片田舎の比較的小さな教会で、誠実に、忠実に、大胆に、主のみこころに従っている姿を見る事が出来てありがとうございます。世界の各地でなされている、人知をはるかに超えた主の御業に触れる事が出来てありがとうございます。日本の国のために、あなたの熱い思いを与えてくださってありがとうございます。

2005/11/18

Ted Ward

もう1人のゲスト、長年Jeff ReedのメンターをしているTed Ward師がゲストスピーカーだった。BILDの教材が、Nonformalな形で、これだけの規模で確立されたのには、この先生の貢献が大きかったとのこと。

特に印象に残った事が二つある。
 一つは、教育(特に神学教育)のために、「新しいことをやることの恐れ」が人々の中にある、という示唆だ。より良いと思われることを提案しても、「それはやった事がない」というだけで、よく吟味もせずに今まで続けてきたことを手放せないでいる事が多いという事だ。ビル・ウィルソン師の「今まで手に入れたことのないものを手に入れようと思うなら、今までにやったことのないことをしなければならない」という言葉を思い出す。私たちの内側に壁がある。私の内に壁がある。主よ、どうか私たちの目を開いて、あなたの御心を行なうことを教えてください!
 もう一つは、「サラリーをもらう牧師」について。それはとても素晴らしいけれど。。。教会が牧師にサラリーを与えて(しかも全く不十分なサラリーで!)、牧師をその場所に縛り付けておく。なんでもしてくれる牧師と、なんにもしらない信徒の構造が出来上がってしまう。教会は使命を見失う。パウロは複数の場所の牧師だったのではないか?新約時代の牧師はそうだったではないか?今、新約の時代に、キリストと使徒たちの方法に従っていこうとするなら、今まで当然と考えてきたことを見直さなければならない。
 パウロはチャーチスターターではあったが、チャーチフィニッシャーではなかった。そのためにテトスを連れて行き、最後の務めを果たさせた。教会の確立の最後の仕事をよく出来る人は、チャーチプラントもよく出来る人だ。


・・・いろいろ考えさせられる。
私は、私のおかれている立場から、なさねばならないと感じていることを、ふさわしい態度で、ふさわしい方法で、ふさわしい対象に伝えなければならない。主よ、どうかどうか、私の唇を開き、語るべきことを語り、語るべきでないことを語らずにいることができるように。唇を開くとき、いつでも神の恵みが豊かにあふれ流れ、聞いている方々の心に圧倒的な主からの感動と確信が与えられますように!

日本だ。この壁を打ち破ってください。
日本のあらゆる場所に、教会が出来ますように。
日本のすべての教会が息を吹き返しますように。

2005/11/17

Almost there...


もう少し!もう少しでプランニングが終わる。

結局この1週間は、個別のプランニングだけだった。しかし、このプランニングのために集中する時間というのがどれだけ貴重なものか、やってみないとわからないだろう。

大概のセミナーで、よく学び、何をすれば良いのかもわかったとしても、結局帰ってからそのためだけに時間をとって十分にプランを練り上げるようなことはなかなか出来ない。しかし、今回のプランニングは、学んだ知識を総動員して、これから実際行なうことへつなぎ合わせていくので、より具体的なプロセスが見えてくる。

First Principles Seriesの第6週目が、いつもReshaping our Lives となっているように、手を動かし、頭を働かせ、知識を組み合わせ、前に向けたプランを作成することで、知識が実際に知恵として体の中にしみついていく。

あと少し!

私の立場から、ふさわしい動機と態度をもって、男らしく、先生方に説明をし、主の霊によって心の一致が与えられて、具体的に取り組んでいく事ができるように導いてください。

2005/11/16

雪だよ~

今朝は朝から寒かった。 雨は昼過ぎから雪に変わった。
インド人もびっくり。写真撮りまくってた。

今日はまた一日プランニングに集中していた。
伊藤先生は、昼食も抜いてがんばっていた。

プランは少しずつ出来ていく。それぞれの数字を、文字を入力していく中で、具体的にその時のことを想像してみる。足りないところが見えてくる。それをまた文章にする・・・。
とりあえず、本郷台のリーダーシップデベロプメントプランの草案は出来上がった。問題は、これに十分なコンセンサスが与えられること。そして、誰がこれを実際に動かしていくのかということになる。

さてさて、ただのプランがプランで終わらないように。
コミットしてやってくれる人は誰かな~~・・・・。

2005/11/15

胸が張り裂けそう・・・

苦しい・・・。
胸が張り裂けそうである。

・・・と言っても、病気のせいではない。

日本の魂に主が抱いておられる熱い思いに、胸が張り裂けそうなのだ。いや、この主の熱い思いに、応え得るものを持ち合わせていない自分自身への苛立ちなのかも知れない。思いや願い、手に入れたいものがすぐそこに見えているのにそれを表現できない、幼子のうめきような、何とも言いがたいプレッシャーに押しつぶされそうだ。何も、私が私の立場でそんな重荷を負うことはない。一体自分を何者だと思っているのか?それは分かっている。でも苦しいのだ。

いや、そんなに美しいものではないかも知れない。単に、私のうちにある、まだ癒されきれていない、苦々しい傷がうずいているだけなのかも知れない。その傷に触れるのを恐れているだけなのかも知れない。見せ掛けだけを取り繕って、今ある立場が脅かされるのを恐れているだけなのかも知れない。

いや、単に骨を折りたくないだけなのかも知れない。最も難しいと思われること・・・、でもやらなければならないこと・・・、そういう事はできるだけ他の人にやってもらいたいと思っているだけなのかも知れない。自分は、美味しい所だけを取って、さも労しているかのように見てもらいたいと思っているだけなのかも知れない。


 こんな、思いに押しつぶされそうになっているのは、今日一日、日本でのC-BTE導入のプランについて具体的に検討する機会が与えられたからだ。はじめは、やや抽象的な所で済ませるつもりだった。数値目標も、日本の現状から考えて現実離れしない程度に・・・というふうにしか考えていなかった。
 ところが、ところが、カンボジアの働き人と話をしている内に、涙が出そうになってきた。カンボジアもそう、インドもそう。何十年間も、福音の扉が閉ざされていると思われていたところに、大きなリバイバルが訪れているのだ。彼らは、教会の増殖にリーダーの育成が間に合わない、という現状の問題からBILDの教材を導入しようとしている。強烈な勢いで、強いリーダーの再生産が急務とされているからだ。日本では、確かに状況は違う。しかし、どうして違うと言い切れるのか?本郷台の教会で多くの恵みを受けている自分は、もう少し大きくビジョンを描けると思っていた。いや、私のビジョンではない。主が描いていることを、どれだけ真摯に受け止める事ができるか、ということだ。しかし、それが出来ない。とたんに現実が自分を縛る。そして、このままでは、多くの人が結論付けたのと同じように、「日本は特殊だ。日本は伝道が難しい。日本には霊的壁が強すぎる。」と言ってあきらめ、クリスチャンとしてなんとなく周りに合わせて当たり障りなく生きていく、そんな所に落ち着いてしまいそうだ。

 祈りが足らないからか?もちろん、祈りは足らない!もっともっと、祈るべきだ。熱心になって悔い改め、この国の救いのために涙して祈るべきだ・・・。
 でも・・・。でも、祈れば祈るほど、この苦しさは大きくなっていくような気がする。そうだ。主任牧師が言っていた。祈ったら、祈った通りに行動せよと。

目を覚ましていなさい。
堅く信仰に立ちなさい。
男らしく、強くありなさい。
(1コリント16:13-14)

 主よ、あなたに信頼します。私の心からの献げものです。どうかお受け取りください。私はあなたのものです。弟子として整えてください。しもべとして整えてください。宮として整えてください。あなたの花嫁として整えてください。主よ・・・。

私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が肉にあって生きているのは、
私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

あなたがたのからだは、
あなたがたのうちに住まわれる、
神から受けた聖霊の宮であり、
あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって、
神の栄光を現しなさい。
(1コリント6:20)

主よ。この身をお献げします。
あなたの栄光の御業のために、お用い下さい。

2005/11/14

あと一週間

 IOWAでのC-BTEの学びもあと一週間になった。と言っても、あとは具体的な戦略を考え、プレゼンテーションをするということにフォーカスを当てるようで、ローカルチャーチから参加した私は、少しお気楽な感じ。肺炎で、エナジーが一気に下がってしまい、あまりアグレッシブに達成しようという思いはない。

 しかし、本郷台にどのように持ち帰るかについては、ものすごい責任感を感じている。なぜかというと、表面的に導入する事も可能だとは思うのだが、本質的にここで学んだことは、教会の体制になんらかの構造改革をもたらすものだと思うからだ。日本社会において、構造改革に本気で着手しようと思ったら、小泉首相ぐらいの胆の据わり方が必要だろう。「日本権力構造の謎」という本を大学時代に読んだ事があるが、基本的に日本の組織はアメーバのようにつかみ難い。もちろん、本郷台の場合、そんなことはないのだが、理路整然と話したからといってよいものではない。
 私の置かれている立場で、相応しい秩序の中で、成し遂げるには相当の祈りとフォーカスが必要だと思う。

 Wisdom! Oh, I need wisdom! Please!

2005/11/13

英語か病気か

それにしても今年は妙な年だ。
英語か、病気か。

年初にインフルエンザにかかりダウン。一週間休み。
その後ビジョンカンファレンスの準備で英語資料と格闘、英語での連絡。
カンファレンス終了後ダウン。肺炎、適応障害、潰瘍性大腸炎。3ヶ月休み。
その間、大和田さんのレコーディングのため2週間ナッシュビルへ。通訳。
アイオワに4週間。カンファレンスで学び。そして、肺炎!

神様は特別な計画を持っておられるに違いない。
不思議な神様、信じますから、早く完全に治してくださ~い!

今日は、一日ゆっくりしていた。
夕方から、Toddのお母さんの家に行き、お母さん、お兄さん家族と会った。
子供のSamがライトセーバーごっこをしかけてきたが、
ちょっと体調が心配なのであまり動かずにじっとしていた。

まだ、だる~いです~。(ToT)

2005/11/11

Pneumonia? Again?

Pneumonia... 肺炎です。
いやな予感はしてたんだけど、果たしてそうなってしまった。でも、いろいろな意味ですべてが整えられていて、感謝だった。


さて昨日はとても大事な日だった。

 パウロ書簡の学びの3日目、クライマックス、しめくくり。神がデザインされた教会の秩序を、明快に語られた。家族の秩序。そして家族の家族としての教会の秩序。納得。
そこで疑問が起こってくる。・・・なぜ私達の教会には「長老」がいないのだろう。パウロが地域教会を確立するために「長老」を大切なポイントとしているのはあきらかだ。やりのこした仕事としてテトスにそれを頼んだのだから。長老は健全な教えを守り、群れを養う事が求められている。
 最近の教会では、「ミニスター」と「長老」の役を同時に担った形の聖職者が「牧師(パスター)」である。呼び方は何でもいいのだが、初代教会の確立にあたってパウロが意図したことをはっきりと汲み取って組織も形成されなければいけない。・・・考えさせられる。


そして、夜はバンケット。どんなものになるかと思ったら、す、すごい、感動!教会の中でコース料理が堪能できるなんて!分厚いポークチョップ、美しいデザート。
でも、何よりも目が留まったのは、若い人たち、若い婦人達がサーバーとしてよく仕えてくださった光景。本郷台でも、おばちゃんたちのあたたかいおもてなしはあるけど、この世代がここまで快く仕えることが出来ているのを凄いことだと思った。


バンケットの食事が終わったごろから急に寒くなりだした。震えるので、熱さましの薬をもらって飲む。しかし全然だめ。バンケットはそこで抜け出し、Moniqueに家につれて帰ってもらう。Moniqueが電話でどうしたらよいかを確認してくれて、「SARSの可能性はないですか!」など、色々聴かれた。熱を測ったら101.6度!ついに沸点を越えたかと思いつつ、「今晩、救急診療室に行きなさい!」との事だったので、そうすることにした。
Moniqueが連れて行ってくれた場所は、とてもきれいな、親切な、(だけどゆっくりした)病院だった。まず保険が使えるということを聞いて一安心。看護婦は何回か来たが、実際にドクターがやってくるまでに2時間もまたされた。ドクターは症状を聞き、胸の音を聴き、「恐らくウィルスに感染したかなにかでしょう」とのことだった。が、私は前回の経験から、音を聴いただけでは僕の肺炎は発見できない、、、という感覚をもっていたので、思い切って先生にレントゲン写真もとってもらうようお願いした。
・・・・そんな、こんなでゲロゲロしながら待っていたが、先生がやってきて「うん、確かに肺炎だね」とのこと。
それにしても医療用語は、英語で説明できない。難しい、貴重な体験をしてしまった。

パウロの学びを終えた後だったこと
バンケットの食事をおいしく食べた後だったこと
適切なコンタクトが取れて病院にいけたこと
海外旅行損害保険で治療費がカバーできること
的確に診断しもらえたこと
モニークがずっと仕えていてくれたこと

2005/11/09

ウォルター・カイザー


今日の夜は、特別ゲストとしてGodon-Conwell Theological Seminaryの学長、Walter Kaiser師のメッセージがあった。私にとっては名前すら聞いた事のない先生だったが(失礼!)、現代の神学にとって、旧約聖書、聖書神学について大きな貢献をされている方だそうだ。 BILDの教材にも大きな貢献をしているとのことで、ほとんどの人が先生のことを知っていた。

インフォーマルな形でメッセージは語られた。しかし、彼自身の経験を一つのストーリーとして語られる中で、さらっと引用した御言葉の数々が心に留まった。それをさらっとここに引用・・・。

  • 箴言19:18 「幻がなければ民はほしいままふるまう」・・・「幻」は神のことば。預言。
  • 出エジプト32:25 「幻がなくてほしいままにふるまっている民」・・・モーセの不在の中で。
  • ルカ24 「エマオ途上の弟子達」・・・聖書全体を理解する目が開かれていなかった。
  • 使徒2 「ペテロの説教」・・・聖霊により、旧約の意味が分かるようになる。
  • 詩篇16 「よみを見ない」・・・キリストの復活を表わしていた!
  • Ⅱ歴代7:14 「わたしの顔を慕い求めるなら」・・・天を焦がれるのは罪が赦されたからでなく、彼がそこいるから。
  • 箴言85:6 「聖徒達をふたたび生かされないのですか?」

サイン済みの著書を頂き、写真を撮らせてもらった。
忙しくて、疲れたけど、ありえない時の一つだった。感謝!

2005/11/08

ぐったり。。。

幸いなことに今は比較的良くなったが、今日は一日あまり調子が良くなかった。頭が重く、体の節々が痛く、咳が出た。お昼に風邪薬をもらい、食後一時間ほど少し横になって休んだ。ぼーっとしていたが、それ以上ひどくならなくて良かった。カンファレンスはあと2週間ある。体が支えられますように!

さて、今日はパウロ書簡からの学びだった。(あんまりしっかり参加できなかったけど。)
この学びは、Pauline Epistles: Strategies for Establishing Churches というタイトルが付けられている。「地域教会の確立のための戦略」という意味だが、なぜパウロ書簡をその様な位置づけで読むのかという聖書的な理解が不可欠だ。
  • パウロが自分自身の役割をどのように見ていたか。他の使徒とどう違うのか。
  • パウロが何度も"establish"という言葉を使っているがそれがどういう意味なのか。
  • パウロの手紙が教会の確立(establish)のためにどのような役割を果たしているのか。
そんな点がディスカッションの焦点だった。(と思う)
今日は、あまり脳みそが働かなかった。(>_<) はたらけ、はたらけ。。。

与えられている健康の尊さよ。。。

2005/11/07

ジャパニーズ・ディナー

Steve先生のお宅に招かれて夕食をご馳走になった。
奥さんのJudyは、学生の頃、金沢で1、2年過ごした事があるとのことで、日本に対して特別な心を持っている。守谷先生ご夫妻がホームステイしているのだが、その部屋にはいろいろな日本の飾りがあり、コタツまであった!そして今日は、内陸のアイオワではなかなか食べられない寿司を作ってくれたのだ。

海老と卵の握り寿司。もっとも日本で新鮮な素材の寿司を食べ慣れている味覚から言うと、すごくおいしかったとは言えないけど(ごめんなさい!)、そんな感覚とは全く別次元の、心のこもった本当に嬉しい食卓だった。本当に感謝です!



急に寒くなった。ちょっと、頭が重い。風邪をひかないといいんだけど・・・。明日から、「パウロ書簡」の学びが3日間。とっても楽しみにしているので、できれば資料を読んでから参加したかったんだけど、早めに寝たほうが良さそうだ。

おやすみなさい・・・。(_ _;)...zzZ

2005/11/06

Moniqueの家族

今日は朝からゆっくりしていた。
Toddは玄関のドアに、もう一枚のガラスの扉を取り付けるためにずっと動いていた。

そして午後からは、Moniqueの家族がやってきて、交わりの時をもった。今日はJadeの6ヶ月の誕生日なのだそうだ。お父さんとお母さん、そして妹。とても温かい雰囲気の、そして楽しくよく話をする家族だ。食後にUNOをしたり、いろいろな事を話したりして、とても楽しかった。

「基本原則」の学びの中で、家族がどれほど重要かを教えている。そして、教会は「家族の家族」として認識されている。このホームステイの間に、キリストを中心とした家族の美しい姿のモデルを、何度も何度も見させてもらった。

家族の回復は、日本の社会にとっても深刻な問題だ。しかし、教会こそが家族の本来あるべき姿をこの世に指し示し、神の国の栄光を表わす大切な機関となりうる。教会で仕えるのに忙しいあまり、家族を大切にしないならば、偽善者になってしまう。どうか、主のいのちによって、日本の教会・家族のすべてがいのちを吹き返しますように!

地域教会の戦略をつくる

 C-BTEのカリキュラムは非常によく出来ていると思う。「聖書神学」の研究にしっかりと基づいている。今回の4週間のカンファレンスでは「基本原則」「使徒の働き」「パウロ書簡」は駆け足で学んでいる訳だが、実際には「聖書全体を網羅した上での初歩の教え(=基本原則)」、「初代教会の拡大と確立の鍵(=使徒の働き)」、「地域教会の確立のための戦略(=パウロ書簡)」という学びになっている。そこに、「パラダイムシフト」と「実際の状況にあわせた戦略の作成」というものが組み合わさっており、非常に実践的・具体的な学びである。「神学」は、教会の働きと独立して存在するのではなく、まさにその中核をなすものである、ということがはっきりと感じられた。

 「使徒の働き」の学びの中で、地域教会の戦略を作る時のプロセスへの提案があった。
1. まず「宣教の哲学」を明文化すること。つまり、私達がどこに立っているのかという聖書理解を明確にすること。
2. 戦略を作成するための基本的がガイドラインを作成すること。
3. 自分の教会の置かれている場所での様々なコンテクストにあわせて、具体的な方策を考える。

このプロセスは非常に助けになると思う。なぜなら、どこが柔軟に変えてもよい部分で、どこは変えてはならないかという事をはっきりさせるからだ。もし、哲学の部分(=聖書理解)に関連するところに対してチャレンジを受けたとしても、そこを変える為にはもう一度、神学的な作業をきちんとおこない、徹底的な議論を尽くして(考えつくして)からでないと、手を付けることはできない。根本的な部分がフラフラしていては、何も築き上げられないからだ。


自分達で作らなければならないとは言え、Oakwood Road Churchの宣教戦略は非常に参考になる。

◆ガイドライン(一部要約)

  1. 「使徒の働き」と「使徒の書簡」に記された教会形成の基本原則に基づき、地域教会の確立のために働く。
  2. 「忠実であり、託された物(健全な生活、健全な教え)を受け継いで行く事ができる」と認められた人が、適切な訓練を受け、実際に他の人にも教える事が出来るようにするための計画を作成する。
  3. 神が「大きく開かれた扉」を通してのみ与えてくださるミニストリーの機会に、長老達に信任された成熟したチームをによって応答する。
  4. 「使徒の働き」で言われている「宣教の働き」に、「戦略的な地域への宣教」「新しい信者を適切に導く」「地域教会の確立」「地域教会への励まし」「サイクルが伝播され増殖する」という事を通して、力を注ぐ。
  5. 遣わされたチームと共に立ち、必要に応え、福音のさらなる拡大に継続的に参加し続ける。
  6. 宣教の機会が、一つの地域教会では手に負えないほど大きい場合は、地域教会でネットワークを組む。そこには他の組織、戦略も含まれるが、このような組織は地域教会にまさる権威を持つべきではなく、地域教会が用いる事ができる道具として機能するべきである。
  7. 地域教会は、その地域において引き続き整えられ、拡大し、地域社会にイエスキリストの福音をもってインパクトを与えていく。

◆Implications

  1. キリストから託された金銭を用いて、神学校等から来た人に対して、地域教会におけるミニストリーの確立と、賜物とキャラクターがしっかりと認められる前にサポートする事には、慎重であること。
  2. 「短期宣教」か「生涯の宣教」であるかに関わらず、海外で行なわれたすべての働きを、「宣教の働き」と定義してしまいたくなる誘惑を避けなければならない。社会改善、開発、医療の働き、ソーシャルワークなどの働きが、私達の働きの中心的な焦点になってはいけない。これらの働きは、パウロの宣教旅行にモデルがあるように、「宣教の働き」を助けるものとして存在するべきだ。
  3. 「宣教師派遣団体(Mission Organizations)」が、地域教会が委託と派遣の中心であるというこのに、真に献身しているかどうかを吟味する必要がある。
  4. 「宣教団体(Evangelism Organization)」は、多くの場合地域教会がキリストの教会を建て上げることに失敗してきた結果として生み出されてきた。彼らのツールは有効である事を認めつつも、地域教会が信者の生活とミニストリーの中心であるということに、とって変わるものではなく、伝道や弟子訓練を含めて、地域教会が中心にあるべきだということを無視してはならない。
  5. 私たちは、地域教会が私達の第一の優先順位であるように、財務に関して注意を払う必要がある。私達の教会に与えられた時間、賜物、金銭は、一つ心となって「宣教の働き(パウロのモデル:地域教会の確立・成長・増殖)」のために、方向付けされる必要がある。
  6. 地域教会は、リーダー訓練の責任を負っており、彼らを単純に神学校に送ることで、自らの責任を放棄してはならない。神学校などの組織は、「忠実な人に託されたものを渡していく」という働きを、地域教会が行なっていくのを助けるためのツールとしてのみ用いられるべきである。

これって、すごくないですか?
いろいろ考えさせられます・・・。

パウロの宣教サイクル

この学びをしていてショックだった事の一つは、この部分だ。

・異邦人への宣教、初代教会の確立は、キリストがパウロに託した特別な任務である。
・パウロのメッセージは、normative(クリスチャンが必ず従うべきもの)である。
・パウロ自身が、normative(クリスチャンがどのように生きるべきかの見本)である。
・では、パウロの宣教の戦略は、normativeと言えるか?
 ・・・言えます! Yes, but less normative.
   Less normativeと言っているのは、文化の違い等があり、文字通りすべてとは言えないかも知れないが、それでも「必ず従うべき型」のようなものがあるという事が言える。("Church-Planting Strategy-Pauline Cycle," David Hesselgrave; "A Look Through Three Lenses," Gene Getz)

 つまり、パウロの宣教の戦略に「必ず従うべき型」を見出すとすると、その型を無視して「大宣教命令を効果的に行なうための戦略」というのを勝手に作る事は出来ない、ということになる。
 この事の意味は大きくて、いわゆる「パラチャーチ」(キャンパスクルセードなどの「宣教団体」とか、「神学校」とかいう、宣教を効果的に進めるために「戦略的に」つくられた団体)に、そのあり方の再考を促されることになる。それどころか、地域教会の戦略に対しても、十分にその役割を果たしているかどうかの再考が迫られる。
 ・・・私たちは、御言葉に従いたいのだけれど、あまりにも簡単に聖書の大事なメッセージを読み飛ばしている。しかし、一旦normativeと言えるものを、はっきりと見出したなら、それと向き合う必要がある。

 そういう意味で、本郷台キリスト教会、そしてミッション3000の戦略に関しても、もう一度みんなでじっくり考える時間が必要だと思った。それは、「どうしたら効果的にできるか」という問い以前の問題で、「聖書的かどうか」についての理解の明確な共有が必要だと思うからだ。
 幸いに、私達の教会で目指している事、行なっている事は、正しく方向付けがなされているように思う。しかし、関わっているリーダー達全員に、より明確に神学的理解が共有されるならば、聖霊はこの働きをより力強く後押しし、御心がこの地でもなされるだろう。

<パウロの宣教サイクル(単純化したもの)>
・鍵となる都市への宣教(Ezangelize Strategic Cities)
・地域教会の確立(Establish Local Churches)
・忠実なものに託す(Entrust to Faithful Man)

 宣教の基本原則の上に立ち、「大宣教命令」を完全に含んだ形で本郷台の教会の内側を再構築し、その延長線上で既存の教会の壁をこえ、無限に広がりうる戦略が与えられる事が与えられますように・・・!

2005/11/05

Process Driven

「BILDのリソースにユニークな点があるとすれば、"Product Driven"ではなく、"Process Driven"であるということです。」なるほど。2週間を終えてその重要性がわかってきた。

ここ数日間の感動は、どこから来たものだろう?
ここ数日間に湧き上がってきたおそれは、どこから来たものだろう?
ここ数日間に味わった喜びの源は何だろう?

・・・聖霊による喜び!御霊の実だ。

 少なくとも、生涯のうちのある時点において、「私はどこまでも主に従っていきます」と告白し、弟子としての献身の一歩を歩みだした事のあるものとしては、「聖書から明確に語られる」こと以上にエキサイティングなことはない。そして今、そういう経験をしているのだ!御言葉とのフレッシュな出会い。ああ、この喜びを伝えたい。

 デボーションのために聖書を読むとき、必ずしも御言葉をフレッシュに味わっているとは言えない。ある節に目が留まって、じっくり考え、主の語りかけを聴くという事ももちろん素晴らしい。しかし、聖書全体のメッセージが、明確な解釈で浮き彫りにされてくるのは、本当にすばらしい。
 しかし、「明確な解釈」というだけなら、文献を読んで同意すればすむのだが、「Procss Driven」である今回のコースは、そのプロセスを自分の目でやってみて、実際に「自分で聖書から見つけ出す」という喜びがある。みこころの発見!ステキです。

 ローマ12:1-2の「心の一新」によって、自分を変えなさい。という部分は、英語では"Renewal of our minds"だ、英語ではMINDとHEARTに明確な使い分けがある(と私は感じる)。ギリシャ語で正確にどうかは分からないが、MINDと訳されている部分は、より理性的、頭を使って「考える」という部分に関係しているように思う。だから「自分の頭でしっかりと考えて、理性的に明確な理解し、その新しい理解をもとに古い考え方を再構築する」というプロセスそのものが、Renewal of our Mindsにとっては決定的に重要だと思われる。そして、ローマ12で言っているのは、この「理性的な明確な理解・再構築 」によって、自分自身を変える事ができる、ということを示しているように思う。この「明確な理解」のためのプロセスを通して、聖霊が私のうちに働いて、私を造り替えてくださるのだと思う。
 つまり「心の一新によって自分を変えなさい」というのは、明確な聖書理解が、生きた供え物として自分自身を神に献げる「礼拝」のために、必要不可欠だということだ。
 このブログの名前は、「ワーシップな生活」(living worship)である。そして追求しているのは、実際にそのように生きることである。今回の学びの経験が、そのために大きなインパクトを与えたのは言うまでもないです。感謝!



さて、今日は引き続き「使徒の働き」を学んだ。
◆パウロの宣教サイクル
パウロは「大宣教命令」の達成のためにある戦略を持っていたようだ。それがここで紹介されている「パウロのサイクル」である。
パウロは、(1)伝道し、(2)教会を建て上げ、(3)忠実な人に権威を与えた。
この戦略は、ただの一つの戦略に過ぎないと思いますか?
それとも、クリスチャン全員が従わなければならないもの(normative)ですか?

地域教会の役割は?
権威はどこからくるのか?
パラチャーチの役割(があるとすれば)?
パラチャーチに権威がありうるとすると、どんなときか?
どのような関係を結んでいけばいいのか?

◆ネットワーク
◆フィロソフィー/戦略


さてさて、今日はピザの日。Thank God It's Friday!
ピザをもってMarkとマキーラのうちへ。
最新のテレビとオーディオで、「バットマンビギンズ」を見た。
やっぱり、まだ映画の英語が十分に分かるほどにはなっていないなぁ。

いろいろ書こうかと思ったけど、ねむっ。
寝てしまおう。
あしたの朝、少しゆっくり寝ていよう。

今週うけたインパクトを、なるべくこの週末のうちに消化しておきたいな~。

2005/11/04

大宣教命令に従うとは?・・・hmmm, wait a minute!

今日のディスカッションは、「大宣教命令を実現するために地域教会が果たすべき役割は?」(The Role of the Local Church in Fulfilling the Great Commission)という所から始まった。

昨日は疲れて寝てしまったので、読んでおくべきだった文献を読まずにディスカッションに入ってしまった。だからディスカッションの間、話を聞きながら、ひたすら文献を読んでいた。その文献は、「クリスチャン・ミッションの心」というもの。("The Heart of the Christian Mission," David Hesselgrave) この文献があまりにも重要な事を取り扱っていると思ったので、読んでいてだんだん恐ろしくなってきた。今後のためにも、少し慎重に要約してみます。

"The Heart of the Christian Mission," David Hesselgrave

 今日、それぞれの立場によって「教会とは何か、その使命は何か」という観点が違うために、多くの混乱がもたらされている。ここでは、「教会の第一の使命は、キリストの福音を宣べ伝え、信者を地域教会(そこで彼らは、信仰によって建て上げられ、効果的に仕える者とされる)へと集め、それによって世界中に新しい会衆を建て上げることである。」ということを提起したい。

◆「教会」に対する神の計画
 キリストはこの地上におられる時、教会の設立を預言され(マタイ16:16-18)、十字架で死なれた時、ご自身を教会に献げ(エペソ5:25)、今は天において教会をきよめ(エペソ5:26,27)、再び来られるとき、父の御前で教会を称賛(glorify)される(1テサロニケ4:13-18; 黙示録4-6)。
 教会とキリストとの関係には、次のような意味深い比喩が使われている。「キリストの建物」として(エペソ2:19-21)、「キリストの霊的なからだ」として(エペソ1:23; 1コリント12:12,13)、「キリストの花嫁」として(エペソ5:25-33)。
 神は「教会」をあらかじめ計画し、御子をその死と復活によって「教会」に与えた。御子は「教会」を建て上げ、その使命を全うできるように、弟子達を教え整えた。そして聖霊によってその使命をなし得る力を与えられた。(エペソ1:19-23, 使徒1:4-8)

◆大宣教命令(Great Commission)
 「大宣教命令」がクリスチャンに与えられた使命であることに疑いはないが、4つの福音書および使徒の働きから、より注意深く解釈される必要がある。それぞれの聖句は相互補完的な関係にあると言える。
 クリスチャンの使命について社会的な理解を得るための努力の中で、ある人は「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします(ヨハネ20:21)」という命令をより優先すべきだと解釈している。そしてイエスが病いを癒し、貧しい者たちに福音を宣べ伝えた(ルカ7:19-23)のだから、私達の遣わされる第一の使命は「社会改善」にあると結論付けている。もちろん、この世で「良い行ない」をする事が弟子達に与えられた命令である事に異論はないが、「良い行ない」が「大宣教命令=私達の使命の中心」にあるとするのは、聖書の正しい解釈とは言いがたい。むしろヨハネの記述は、「大宣教命令」の「『宣教し、バプテスマを授け、命令を守るように教える』ことによって、あらゆる国の人々を弟子としなさい」という命令の権威を強調していると言える。

◆ペンテコステ
 キリスト教の拡大にとって決定的な出来事といえば、「ペンテコステ」である。キリストが約束された通り、聖霊が臨まれた時、弟子達は(1)力を受け、(2)キリストの証人となり、(3)エルサレム―ユダヤ―サマリヤの全土―地の果てまで出て行った。聖霊は、Holy Spiritであると同時にMissionary Spritでもあるのだ。その結果多くの人が弟子に加えられ、弟子達はどこに行っても御言葉を宣べ伝え、何人かがクリスチャンになった所必ず「教会」が形成された。

◆パウロと教会のミッション
 使徒パウロには、「異邦人に福音を届ける」という特別な責任が与えられた。したがって、パウロのミニストリーは私たちの使命を理解するために、特別に重要なものである。教会の確立(establish)はパウロの働きであり、「使徒の働き」もパウロの働きが完全(complete)なものだった事を示している。(参照:"Missionary Methods: St. Paul's or Ours?," Roland Allen)
 なぜパウロはそこまで成功したのか?その重要な理由の一つに、パウロが自分自身の第一の使命(Primary Mission)を、福音を宣べ伝え、教会を確立する事であると捉えていたという事がある。副産物として、社会的な状況の改善等があったとしても、パウロの第一の使命は「福音が宣べ伝えられ、人々が回心し、教会が確立したとき」に果たされたと言える。隣人を愛せよという「最も大切な命令(Great Commandment)」への服従は、「キリストが命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」という命令の一部であるが、「良い行ない」はパウロの使命の「実」であって、「根」ではない。

◆現代における「教会」とそのミッション
もし今日、私達のミッションに混乱があるとすれば、それは御言葉に問題があるのではなくて、「歴史的な遺産」によって目がくらまされているか、「私たち自身がつくりあげたもの」が目をくらませているのである。

(1) 「ミッション(Mission)」について~広過る!
 19世紀以前の宣教師達は、彼らが達成すべき事が何であるかを、いつでも明確に認識していた訳ではないようである。「ミッション」は、学校を作ったり、病院を作ったり、文化的な悪習を正したり、衛生環境を改善したりするという形を取った。これらはすべての人に賞賛されるべき事ではあるが、これらの価値ある働きは「弟子を作る」こともなく「教会を確立する」こともなかった。したがって、歴史的に後の世代に引き継がれたとき、これらの「ミッション」は私たちが本当に引き受けるべきものなのかという疑問、または「ミッション」のための組織が、私達の優先すべき働きから離れて存在するという結果になった。
 また現代においては、私たちはこのパラチャーチとしての「ミッション」組織を増殖させ、あらゆるタイプの「社会改善運動」を引き受けることになった。これらの努力は、ガラテヤ6:10によればクリスチャンが引き受けるに相応しいものではある。しかし、このような社会改善という働きのための組織は、「教会の第一のミッション(使命)を第一」としない限り、「ミッション」組織と呼ぶには相応しくない。福音宣教と教会増殖を明確にサポートする組織のみが「ミッション」と呼ばれるに値する。

(2) 「福音宣教(Evangelism)」について~狭過ぎる!
 一方で「福音宣教」は、「クルセード」のように、人々が個人的にイエスキリストを救い主として受け入れるように計画された大規模なキャンペーンの事として認識されるようになった。また、同じ目的のために、「個人伝道」のためのツールもたくさん開発された。「クルセード」や「個人伝道」はもちろん推奨されるべきだが、ほとんどの場合、新しい信仰決心者が地域教会にしっかりと根付くことはなかった。「信仰決心者の増殖」が強調されすぎる一方で、「信者の会衆の増殖」が強調されることが不十分だったと言える。


(3) 「ミッションと福音宣教をもう一度一つにする」
 この200ほどの歴史が私達に教えてくれるのは、大宣教命令への従順を通してたとえ他にどんな素晴らしい取り組みが生まれたとしても、それは世界中の人々の間に教会を生み出して行くものでなければならないという事だ。本来は「ミッション」と「福音宣教」は同じ目的に使われる。

◆今日の優先順位~クロス・カルチャーなチャーチ・プランティング
 もし「大宣教命令」に本当に従おうとするなら、私たちはもう一度「開拓者としての精神」を取り戻し、すべての場所にいるまだ救われていない人々の所に届いていく必要がある。自分達と地理的・文化的に近いところから、遠いところにある人々にまで、私たちがどの様にして届こうとしているのか、すべてのクリスチャンが自分自身に問い直してみる必要がある。
 言葉の使い方はいろいろとあるにせよ、ミッションの欠けた教会も、教会の欠けたミッションも神の計画と調和していない。同様に、福音宣教の欠けた教会も、教会の欠けた福音宣教も神の計画と調和していない。
 それが教会の使命であり、それをできるだけ効果的に行なっていく必要がある。


・・・私たちが本当に大宣教命令に従っているか、一部分だけの理解では本来の使命を見失ってしまう危険性があることを肝に銘じた。そして、そのためにはいつもその使命の中心には「地域教会の増殖」があるということを思い起こす必要がある。

---

今日、家から送ってもらおうとお願いしていた薬が届いて感謝みました。
とりあえず安心です。そのため、さっき飲んだ薬が効いて、頭は既に寝ています。


重要な話ですが、今日は話しはこれまで!!


佐藤賢二
明日のための準備の時間が取れるようにお祈りください!

2005/11/03

ファミリーのファミリー!

ここOakwood Road Churchでは、教会の共同体を、家族の家族(Family of Families)として捉えている。これは、First Principlesの教えの中にも出てくるものだが、文字通りそれを実践している。

水曜日の夜は、通常「Midweek Fellowship Group」と呼ばれる、小グループの集いがある。本郷台で言うところの牧会ファミリー、いわゆるセルグループのようなものだ。内容はそれぞれ状況の分かち合い、祈り合い、ちょっとしたフェローシップ、礼拝メッセージについてのディスカッションといったところ。

ステキだなと思ったのは、文字通り「家族」がいくつか集まってこのグループを構成しているということ。そして、(今日はあまり時間が取れなかったが)、礼拝メッセージについてもその基本原則を抽出しようとの意図からだろうが、ソクラテス式ディスカッションが行なわれる。

日本と違うのはどこだろう?
場所の問題?
時間の問題?
家族の問題?
文化の問題?

教会のコミュニティに献身して歩むために、このような小グループは不可欠だ。
牧会ファミリーのあり方にも、もっともっと深く考え抜くという作業が必要だと思う。

Jadeがずっと泣き騒いでいた。
Moniqueがどれほど気が狂いそうになっていることか。
でも、そのような状況での彼らの態度・姿勢が本当に素晴らしい。
自分が気が狂いそうになるからといって、赤子に叫んだりしない。
でも、そのような状況で幼児虐待が起こりうるというのは、想像に難くない。
母親になるというのは凄いことだ。

ここの所良い天気が続いている。
たくさんの星が見えた。

「使徒の働き」の読み方

今日から3日間の「使徒の働き」の学びが始まった。
Acts: Keys to the Establishment and Expansion of the First-Century Church
との題名が付けられている通り、初代教会の確立と拡大の鍵を知るためのものだ。

実際の中身に入る前に、まず一つの文献を読んだ。
「使徒の働き」で教えられている事を解釈する能力が十分でないため、
結果として、教会に様々な教派が生み出されてしまったという。
("Acts-The Problem of Historical Precedent," Gordon Fee and Douglas Stuart)
「使徒の働き」にある初代教会のあり方に、現代の教会そのものの規範を求めようとして
読み始めると、どこで線引きをしたらよいのかの判断が難しい。
また「使徒の働き」が物語形式で書かれているため、
単なる「物語」として読み過ごしてしまう可能性がある。

さてさて、本郷台キリスト教会の「ミッション3000」というビジョンは、
「初代教会の姿に教会のあるべき姿のモデルを見出す」との考え方に基づいている。
そういう意味で、「使徒の働き」に書かれている初代教会のあり方を
どのように見るか、解釈するかに確信を持つことは、決定的に重要なことだ。

そこで、読み手が勝手に判断するのではなく、著者であるルカがどの様な意図をもって
(もちろん聖霊によって)この書物を書いたのか、何を言おうとしたのかを知る必要がある。
それを知るための鍵は2つ。
1.「使徒の働き」の中で、ルカが所々締めくくりの言葉を入れている。
  その締めくくり方で、ルカがどのような意図をもってこの書物全体を構成したのかを知る。
2.ルカの福音書のはじめに、ルカは書物を書いた意図を述べている。
  「使徒の働き」は別の書物だが、ルカのその意図は福音書に留まるものではなく、
  「使徒の働き」にも適用して考える事ができる。(という聖書的な裏づけがある)

と、まあ、こんな議論を、ソクラテス式問答で行なうというプロセスで学びは進められる。 この学びが効果的なのは、「徹底的に考え抜く」という事をディスカッションの中で強いられるという部分だろう。

単なる知識を問うのではない。
真の意味で「聖書的に考える」、そして「聖書的に生きる」ためには、
こういうプロセスの訓練が必要なのだ。

しかし、「これが答えです」という教え方をしてくれないのは、疲れるし、時にフラストレーションがたまる。(ToT)
でも、今まで自分にはとても理解不能と思っていた、聖書の中の真の教えに 確信をもって目が開かれることの喜びにまさるものはない。

聖書に対してのワクワク感が拡げられた感じ。
うれしい!

目標は知識ではない。
しかし、正しい知識に基づいた「知恵」は必要だ。
C-BTEで理解している「神学」とは、まさにこの「知恵」を得ること。

ミッション3000の土台が、自分の中に、よりしっかりと据えられる事を期待している。

2005/11/01

Trick or treat! 初期のリーダー育成について考える

C-BTEのカンファレンスも2週間目に入った。
質的にも量的にも信じられないほどの内容と格闘しているが、
なかなか、こんな立場に立たせられる特権はないだろう。
真摯に向き合って取り組んでいきたい。

さてさて、今日はType1とType2のリーダーの育成のための
フォリオ/ポートフォリオを、日本というコンテクストの中でどの様に
導入していくかのディスカッションとなった。

この週末から加わった仙台バプテスト神学校の守谷先生ご夫妻と、
伊藤先生とともに、4人でいろいろと話し合った。
神学校を「リソースセンター」として役割を変えていこうとしている、先生方の視点と、
教会ベースで教育を行なっているが、体系だてられた神学教育の導入を
課題としている本郷台キリスト教会の立場。
いろんな立場から物を見て、考えるのは大事なことだし、視点がググッと拡げられる。
両者とも、きっと今後のネットワークの働きの中で重要な鍵を握っていくのだろう。


ところで今日はいわゆる「ハロウィーン」。
「成熟したクリスチャン」として、一人一人が確信に満ちて
このコミュニティイベントを機会として用いているように思った。

"Trick or treat! ... thank you!!"
ホームステイ先であるRoush家にも次々とかわいらしいコスチュームをつけた
子供達がやってくる。とっても微笑ましい光景だった。

2005/10/31

主の晩餐(Lord's Supper)

聖餐式って、どうやりますか?
今日、ここOakwood Road Churchで行なわれた「主の晩餐」は、 今までの常識を覆すものだった。

本郷台でもいろいろ工夫していると思うけど、 僕も個人的に聖書で言われる「パンを裂く」という行為がどういうことなのか、 よく考えていました。

---たとえばこんな箇所---
ルカ24章、エマオ途上の弟子達は、イエスとともに食卓に着き、 イエスがパンを裂いた時、彼らの目は開かれ、イエスだと分かった。
使徒2章、3000人が弟子に加えられ、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、 交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
マルコ14章、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、 祝福して後、これを裂き、彼らに与えた。
1コリント11章、いっしょに集まっても「主の晩餐」を食べるためではない、 と責められている。ひとりひとりが吟味しなさい。
------

今日の集会は、夕方5時に始まった。
それぞれが食事を持ち寄ってくるいわゆる「ポットラック」スタイル。
会堂には25くらいの円テーブル。
その周りにそれぞれ座って、数曲讃美する。
牧師であるJeff先生がこの集まりの意味を説明する。
そして、各テーブル毎に「パンを裂き」一緒に頂く。
その後それぞれの持ち寄った食事を食べ、「家族の家族」としての
教会のコミュニティーの交わりを深める。
ある程度の時間が過ぎた所で、証しの時間がある。
決められた人の証しの後は、誰もが自由に証ししたり、祈ったりする。
最後に、ぶどう液を一緒にいただく。
(通常はこの後にも讃美をする)

・・・だいたいこんな感じ。

教会が、家族の家族であるということを感じる事が出来るようにしたい、
との願いから、このようなスタイルが生まれてきたのだろう。 とても「自然な家族の交わり」が主によって大切にされていたことがとても伝わってくる。形式的な聖餐式より、ずっといいと思った。

そのまま真似て導入することは出来ないまでも、
主と使徒たちの教えを守りつつ、私達のコンテクストでどのようにするのが
最善なのか、引き続き考えていきたいと思った。

2005/10/30

Iowa State Universityを散歩

Amesは大学の街だ。
5万人ほどの人口で、2万5千人以上はこの大学の学生なのだそうだ。
土曜日の今日は、ゆっくりと大学敷地内を散歩した。


広いキャンパス。美しい芝生。
本郷台で、サッカーグラウンドを作るためのスペースを探すだけで
一苦労している事を考えると、まったく羨ましい限り。
そして、家族を大事にして休日をゆっくりと過ごす。
大切な価値観を継承していくために、良い環境が整っていると思う。

もうすぐハロウィーン。
家々の装飾もそんな雰囲気になってきた。

2005/10/29

Chicago Style Pizza

ここRoush家では、金曜日はピザの日!なのだそうだ。

一緒にホームステイしている伊藤先生が、
「シカゴスタイルのピザ」を友人に勧められたと言っていたが、
ToddとMoniqueによると、なかなかこの辺りでは、
本当にシカゴスタイルのピザは見つけられないとの事だった。

でも、今日はじめて行ったというこの店では、本物のシカゴピザがあった!

Isn't that cute? ピザの向こうに写っているのはJade.

アメリカ~ンな感じでいいですね。


C-BTE5日目: パラダイムシ~フト!again

日を追うごとに、「これこそ今、私達の教会に必要なものだ!」という確信が強まっている。
ああ、ここに来れて本当に良かった!

と同時に、恐ろしいほど重要な責務を負っていることも思う。
主よ、どうかここで示されている事を、正しく取り扱うことが出来るように、
知恵を与えてください・・・!


今日のディスカッションは、こんな感じ。

1.「First Principles」が神学教育の第一段階であることの確信
2.パウロ―テモテのモデルについて
3.「Doing Theology in Culture」が実際に私達のなすべきことである。


週末だし、もう疲れてしまったので、今日はここまで!
明日は、少し休みつつ、すでに学んだことに思いをはせる事ができればいいなっ。

2005/10/28

C-BTE:4日目 パラダイムシフト!

ねむ~。
今日の宿題は33ページほどのアーティクルを読んでいくこと。
「たったの」これだけなのに、目を通すだけで結構時間かかるじゃん!

今日から別のグループに移った。
ミャンマー、バングラディシュ、ナイジェリアなどの人がいた。
昨日よりおとなしいディスカッション。
リードしてくれたSteveはとても分かりやすく話してくれた。


なかなか深い内容をはなせたんだけど。
だめだ。頭がまわる~まわる~
今日はおしまい!!

2005/10/27

C-BTE3日目: First Principlesの冊子を使ってみる

ふぅっ。つ・か・れ・た・・・。
ようやく明日のための課題を読み終わった。
明日はレクチャー中心だと思うけど、今日の話では「ちゃんと準備してくる」という事も
訓練されなければならない、とのことだったのでぇ。
自らを省みてみると、今まで結構いい加減だったなぁ、と思う。


さてさて、今日はFirst Principlesのシリーズの一冊目を使って、
実際に学びの進め方を体験した。
(ちゃんと準備していかなかったけど)
やってみるとなかなか面白い。というか意義深い。
っていうか、とっても必要なことだ。そして今まで欠けていたことだ。


---
<ソクラテス・メソッド技能セット>

1.「聖書神学(Biblical Theology)」を行なう。
2.適切に文献を読む。
3.ソクラテス・ディスカッションを導く。
4.深く・統合的に考える。
5.質的な評価
6.ライフディベロプメントのフォリオ・ポートフォリオを構築する。

<ディスカッションノート>
1.福音のメッセージ
2.バプテスマ
3.First Principles
4.心の一新
5.弟子としての生き方
6.生活を一新する

※いきなり、「ディスカッションのページ」からスタート。
 でも、その前のプロセスは、みんなおうちでやってくる前提なんだよね。
 ものの考え方、学習の仕方が根本的に違う。
※リーダーは、いくつかの質問を使いながら、
 みんながしっかりと考え、答えをおのずから見つけ出す事ができるように
 ダイアローグを中心にすすめる。自分では答えは言わない。
 とはいえ、導きたい方向性はもっており、権威をもって導く必要がある。


あわわわ。。。。おやすみっ

2005/10/26

Hotel Rwanda

映画を見た。
Oakwood Road Churchで上映したのだ。
夜7時、用意されたフリーのポップコーンを手に会堂へ。

ルワンダの虐殺時のストーリーで、
多くの人をホテルにかくまってそのいのちを助けた
ホテルのオーナーの話だった。
ちょっとストーリーの詳細について行けないところがあってけど、
まったく知らなかった事実に少しでも目を向けさせられるものだった。

明日、そのホテルのオーナーだった人が、
Iowa State Universityに来て講演会をするのだという。
行けるかな?
体調と相談してだな。

ちょっと疲れた。
顔がひどい。今までで一番ひどい。っていうか、痛い。

目に見えてひどいのはつらい。
早く直るといいんだけど・・・。

ねようっと。

C-BTE2日目: First Principlesを教えるにあたって

今日は、昨日とは打って変わってグループでのディスカッションが中心になった。

グループは15人ぐらい。
日本はすでにBILDとのパートナーシップがあるので、
「すでに知っている人グループ」になってしまった。
まったく初めてだったのは僕だけなのかなあ。
ナイジェリアやカンボジアの人たちの英語を聞き取るのが大変だったが、
次第に慣れてきた。

背後にある理念についてしっかり理解することが今日のトピックだったと思う。


---
<ディスカッション・ノート>
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私たちは、「考える」という事を要求しない、空白を埋めるタイプの学びに慣れてしまっている。

パウロは、「使徒たちの言い伝え」を守ることを強調している。
(Ⅰテサロニケ4:1-2、Ⅱテサロニケ2:15、3:6など)
それが、「キリストと使徒の方法」と呼ばれるものだ。
キリストは、使徒たちに教えを託した。それは、知識を越えて彼らが実際に
生活で実践していくものだ。
それを表わすのに「ディダケー」というギリシア語が使われている。
「ディダケー」とは、「教え」という意味だが、実際に行なうものであり、
彼らのコミュニティーで受け継がれていくものだ。
今日は、出てこなかったが使徒の働き2章の最後で描写されている
教会の姿の中で言われている彼らが守っていた教えというのはこのことだろう。

では、教えの中心となるものは何か?
それは、聖書の中でリストになってはいない。
あるのは、パウロが書いた手紙である。
それは「キリストの教え」とも言えるのか?
そう、キリストが託したものだ。

そしてそれは単に個人が適用するものではなく、教会の形成に深く関わっている。

「組織神学」は、人が考えたカテゴリーでものをまとめる。
しかし、「聖書神学」は聖書を全体としてとらえ、
聖書そのものにカテゴライズさせるのだと言う。

「聖書的に考える」というスキルが必要。
そのためには、より深い学習プロセスが必要になる。
覚える、自分の言葉で言う、行なう、吟味する、組み合わせる、再構築する。
すでに知っていることと、新しく知ったことを組み合わせ、
どんな状況にも対応できるようになるためだ。
そして、自分自身で聖書の教えを再構築する。

First Principlesは、単に聖書全体をカバーするだけでなく、
その学習プロセスまで考えた方法。
BILDのリソースはその前提で作られたものなので、
そのような用い方をしないと、十分な効果が期待できない。
---

2005/10/25

C-BTE1日目:カンファレンスの全体像

カンファレンス一日目。
みんな、しゃべるのが速いよぉ。
慣れない言葉もいっぱい出てきて、結構聞き流してしまっている。

でも、ようやく何がなされているのか、ということが見えてきた。

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Introductory Seminar
アウトライン
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◆セッション1:
Accelerating Church Planting Movements Worldwide by
Training Leaders in "the Way of Christ and His Apostles"
(「キリストと使徒の方法」でリーダーを訓練することで、
 世界中のチャーチプランティング・ムーブメントを加速させる。)

今、世界は劇的に変化しており、新しい世界観の構築が急務となっている。
キリストと使徒たちの方法に、革新的に立ち返る必要がある。
BILDとはフィロソフィー、カリキュラム、ネットワークである。

フィロソフィー:
1 パウロの宣教サイクル
(1)戦略的都市の伝道
(2)地域教会の確立
(3)忠実な者に委任する
2 ディダケー(教え)
3 パウロ―テモテ・モデル

教会が存続しないのはなぜか?
1 タイプ3のリーダーをふさわしく訓練するのに失敗
2 「固有、土着(indigenous)」という言葉の理解が不十分
3 「教会」の定義が不完全
4 使徒の教えに留まらない
5 神学校教育が、リーダーを育てるのに不十分


<考えたこと・疑問点・示されたことなど>
・本郷台で導入するためには、何を変えていかなければならないのだろう。
 どこが私たちの考えの中で障害となっている部分か?
・本郷台では実際に仕える者となることを重視して、多くの働きが生み出されている。
 しかしそのコアとなる「教会」に何か欠けているような気がする。
 「教育・牧会」を根本的に見直して変革していく必要があるように思う。
・MDCと一般信徒の教育のあり方の関係は?
・チャーチスクールの延長線上にC-BTEを置く事が出来るだろうか?
・聖書的に考え、成熟したリーダーを育てることのできるリーダーを育てるために、
 私が果たしていくべき役割はなんだろう。
・現在の教会のビジョン、取り組み、ミッション3000と、C-BTEとの関係、
 位置づけをしっかりと考え直す必要がある。
・時間の使い方、すでになされている働きとのバランス
・教会は「どの様な人を育て生み出したいのか」という明確なイメージを確立したい
・「アンテオケタイプの教会」とは?
  ・・・教会を生み出していく教会。


◆セッション2:
Curriculum for Type I and II Leaders
(タイプ1と2のリーダーのためのカリキュラム)

First Principles(基本原則)は、聖書的に考え理由付けができる能力を育てる。

<考えたこと・疑問点・示されたことなど>
・First Principlesとは、この世の幼稚な教えではなく、キリストの初歩の教えのこと。
 キリストと使徒によって教えられた信仰の基本。
・クリスチャン誰もが、これをマスターしないと、確信をもって神のみことばに聞き、
 それを行なっていく事ができない。
・すべてのものに初歩の教えがある。このことは、最近ギターの練習で左手の
 薬指と小指をトレーニングしながら考えていたことだった。
 苦痛がともない、楽ではない。でもやらないと次に進まない。
・考える事を教える教育
・本郷台で行なわれている様々なセミナー等との整合性、位置づけを考えてみたい。

・教育体系、ミニストリーの実践、牧会体制、事務体制、様々な外部向けの働き。
 本郷台キリスト教会の教会員が「成長する」というのはどのような道順をたどるのか。
 一人一人が、少なくとも自分自身でそのプランを立てる事が出来るような
 状態に導いていく必要があるのではないか。
・概念、フィロソフィーは分かった。しかしBILDの教材を用いていくことが、最善かどうかは
 吟味する必要もある。(基本的に英語であるということも含めて)
 もう少し教会で手を加えるべきところはないか?
・「日本語のテキスト」のためにはどうしたらいいか?


◆セッション3:
Curriculum for Type III and IV Leaders
(タイプ3と4のリーダーのためのカリキュラム)

<考えたこと・疑問点・示されたことなど>
・「リーダー」が育たなければ、教会は続いていかない。
 今まで自分は、育てる事というのをどのように捉え、行なおうとしていたのだろうか。
 堅い食物を食べる事が出来ない人に、精神論的に堅い食物をチャレンジさせている
 だけではなかったか?
・まだまだ自分の頭の中でも「献身者」が神学を学ぶものだと考えている古い人がいる。
・これらのリソースを学んでいくためには、まず自分が精通しなければならないのか。
 それとも基本的な方法、スキル、フィロソフィーをマスターすれば、自分でも行なえるのか?
 でも、少なくてもディスカッションのためには、他の人も必要だなあ。
・セルシステムの中でのリーダー訓練はどうだったっけ?
 LTGのようにリーダーがいらないというシステムをどう捕らえるか。
・本郷台のように、地域の問題に積極的に関わっていこうとする時、
 単なる知識を越えて、本当に聖書の言っていることの中で問題を解決していかなければならない。
・「聖書はこう言っている」という議論は、時に律法的であったり、
 自己正当化するためであったりする。気に入った箇所だけを繰り返し強調し、
 他のことにきちんと耳を傾けられない人もいる。
 そのために、確信をもってみことばを正しく扱うことに長けたものとなる必要がある。


◆セッション4:
Desiging a Certified, Nonformal, Indigenous, Level I-V Program
(1~5のリーダーのための、証明された、学校外の、固有のプログラムをデザインする)

<考えたこと・疑問点・示されたことなど>
・「修士」「博士」などの学位は、実際には必ずしもその人にその能力があることを保障しない。
・「よく訓練され学んだ人」を適切に評価できるシステム・基準が必要。
・本郷台で、本当に継続していく教会を建て上げていくための戦略は?
・BILDはこれから5年間、グローバルなリーダーシップトレーニングの働きにコミットするという。
 私達の教会も、彼らの取り組みから学ぶ事があるのではないか。
・頭の中ではいまだに古い神学校の概念を捨て切れていないのに、
 一方で「既存の神学校は役に立たない」という考え方が進入してきている。
 もう一度神学教育の必要性を明確に語る必要がある。

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2005/10/24

アイオワに来て

カンファレンスへの参加のためアイオワに来た。
アイオワ州なんて、来ることないと思ってたので、
どこにあるのかも、どんなところかも想像付かなかったけど、
とってもよさげな所で一安心。

もうほとんど収穫が終わっちゃったみたいだけど、
コーン畑が一面に広がる景色。

空港のあるデモイン(Des Moines)から、1時間ほど北上したところにあるエイムス(Ames)という町に、
今回の目的地であるBILD International、そしてOakwood Road Churchがある。
このAmesは50万人ほどの人口の町で、半数以上がアイオワ州立大学の学生とのこと。
その少し南側にあるHuxleyという町でホームステイしている。
ToddさんとMonikさんという若い夫婦の家。6ヶ月になるJadeという赤ちゃんがいて、
とても雰囲気のよい、素敵なところだ。

今回ここに来たのは、C-BTE(教会で行なう神学教育)を
本郷台キリスト教会に導入するために、訓練を受けることが目的だ。

今日は日曜日。
Oakwood Road Churchで行なわれている教会学校、および礼拝に参加した。
教会学校では、ちょうどToddさんが9th Grade、日本でいう中学3年生のクラスで
子供達に教えていた。大人と同じ教材で、すでに数週間行なってきた様子。
このスモールグループで行なう学びに受け答えする彼らに正直驚いた。
この学びの最も基本的な概念を、自分の言葉でしっかりと考えて言い表している。


礼拝もとても素敵で好感がもてた。
チャペルもワーシップの雰囲気も本郷台に似ている。
でも、楽器はギター2本、ベース、エレキドラム、キーボード、サックス。
それに讃美者が3人という感じ。
そして、メッセージも地域にインパクトをあたえる、ということをシリーズで語っている。
このメッセージは、今の本郷台の方向性にぴったりと一致する。

<メッセージノート>
アメリカの一般的な福音派の教会は、教会の外の世界のことを
(1)教会をおびやかす存在、または
(2)宣教する対象
としてしかみなしていない。

しかし私たちの良い態度とよい行ないを通して、
キリストを本当に反映するような市民として、教会は生きるべき。

私たちは、天に国籍を持つと同時に、
この世界でも国籍がある。いわば、「resident alien(永住する寄留者)」として過ごす。

聖書もたくさん開いた。
エレミヤ29:4-7
Ⅰペテロ1:1-2, 2:11-12, 2:13-17, 2:18-20, 3:8-9
ピリピ1:27-30, 2:1-5, 1:12-14, 4:1-3
Ⅰコリント6:1-4, 6:5-8
Ⅰテモテ3:7

自分自身の内側にしっかりとした、キリストの土台を築き上げつつ、
確信をもって主の働きを地域に対してしていく。


今回のカンファレンスで、私自身が何を学んでいくのか、
一つの方向性が見えてきたようで、とても楽しみになった。
うれしいなあ。

2005/10/16

葬儀の奉仕をしながら

イエスは仕えられるためではなく仕えるために来られた。
そのイエス様は「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。」
「わたしを信じるものは死んでも生きるのです。」と宣言された。

1コリントの8~14のあたりを示されて読んだ。

ここで言う異言・・・霊的な賜物全般を象徴していると言えるかな?
 ラッパのようにはっきりとした音を出さなければならない。
 ほかの人に理解できるように通訳が必要
 調和が大切
 愛がなければ、やかましいドラやシンバルと同じ。

自分の色が出すぎてはいけない。
自分の色を出さなくてもいけない。
無色透明になるためには、みんながいなくなるか、
みんなが完全に溶け合って行くこと。

私たちは無色透明で、キリストの栄光だけがそこに輝く。
そんなキリストのからだを建て上げたい。

2005/10/15

永遠のテーマ

さて、クリスチャンとして、
いや一人の人間として、もっとも追求すべき品性は何でしょうか?

この手の問いかけに対しての答えは、あらゆるレベルで
どのようにも答えることが出来るので、
完全な正解というのはないとは思うのですが、
あえて言うとするならば、「謙遜」の一言に尽きるのではないでしょうか。

「謙遜」って、シンプルで深いです。

今、私が感じているのは、「等身大の私を正しく見極めること」こそが、
謙遜なのではないか、ということです。
どうしても、私は何かをするときに、その事を通して自分の存在価値を
他の人に認めてもらいたいと思います。もしそうでなくても、少なくとも
自分自身で満足をしたいと思います。
そして、その様な評価が得られなかったときには、自分自身が否定されたかのように
感じてしまいます。

等身大の私、というのは、否定的な面も肯定的な面もひっくるめて、
すべてありのままの自分を認識するということです。
私はまったく取るに足らない、罪深い、救いようのない存在です。
と同時に、いのちがけで愛されるほどに、高価で尊い存在です。
自分では自分をどうすることも出来ません。
ただ、無条件で愛してくれる方に身をゆだねる以外ありません。

このテーマ、きっと何度も何度も繰り返す書くことになると思います。

2005/10/14

このブログで目指すもの

この地上で生を受けた以上、
誰でも有意義に過ごしたいと思いますよね?

私は17歳の時に、様々な悩みの中、模索の中、
いわゆるクリスチャンたちの信じる信仰に自分自身を
賭けてみようという決心をいたしました。
何も知らない私でしたが、そこに何かがあると思ったのです。

そして、早いものでもうすぐクリスチャンになるまでの日数を、
クリスチャンになってからの日数が追い越そうとしています。

そして、知れば知るほど、奥深いこの世界、
分からないながらにも選び取る事ができたことを感謝しています。
今までを振り返りつつ、これからの生涯の一瞬一瞬も、真摯に生きていくために、
この記述をまとめてみることにしました。


そういうわけですから、兄弟たち。
私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。
いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、
神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、
心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ12:1-2)
「聖い、生きた供え物として自分自身をささげる」
これが、このブログのテーマです。

これはある種のモノローグではありますが、
一個人の自己対峙の記録が、ある時は、別の人にとって
最も必要な洞察を与えることもあり得るという事を踏まえて、
この記述は公開いたします。
時に、配慮の欠けた事があるかも知れませんが、
笑って受け流していただければ幸いです。

今もこの私を支え、導いてくださるお一人お一人に感謝しつつ。