2006/04/30

告白

「Mさんを、必ず幸せにします。」
会衆の前で、彼はきっぱりとそう宣言した。

迷いはない。
形式張ったものとも違う。
間違いなく、彼自身の心から湧き出て来た言葉だった。

祝福された結婚式。
主の愛に満たされた、門出の時。


しかし、あろうことか私の心にまず浮かんで来たのは、非常に醒めた感情だった。
「<必ず幸せに>なんて、果たして出来るものか・・・。」
「まだまだ、若いな・・・」

でも、それを打ち消すように、次の瞬間には全く違った思いが心に満ちていた。
「いや。本物の告白とは、きっと、そういうものなのだ・・・」


確かに、世の中に「必ず」なんて言えるものは、そう多くはないかも知れない。
でも、誰もが必ずそうだと言い切れるものに、告白など必要はない。
その不確定なものを、実際に確実なものへと繋ぎ合わせる入り口となるのは、
他でもない、その告白している本人なのだ。

自分自身には、自信がないかもしれない。
でも、その告白は、もう後戻りの出来ない所に自分は来たのだという事実を、
自分自身に対して宣言するものとなる。



私にとっての信仰上の問題は、この潔さに関するものである気がしてきた。
多くの場合、私は「石橋を叩いたのに渡らない」ことが多い。
結果として、何かに踏み出す事や、新しい事をするのには、ものすごくエネルギーがいる。
それを打ち破らなければならない・・・という、このブログでよく取り上げる問題意識は、
私自身の問題の裏返しに過ぎない。


今日の礼拝でも、さらなる信仰の歩みへのチャレンジが与えられた。
同時に、その陰で見えない部分の働きへの大きなチャレンジもあった。


そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。
「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。
「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
(民数記13:30-31)


さて、私はどちらを選ぶのか。
昨日の結婚式で、この若いカップルに大切なことを教わった気がする。

2006/04/27

休むとき

頭いたいかなー。
喉いたいかなー。
体だるいかなー。

って思ってたら、パワーがしゅぅぅぅんと萎んでしまい、
結局、昨日と今日、お休みしてしまった。

他にいっぱい休みを必要としている人がいるのに、
不平も言わずに熱心に仕えておられる方々がいるのに、
ボクは一体何をしているんだろう・・・。
そんな思いが頭をよぎるのは事実。

さあ、ここですよ。個人的にしっかりと向き合わなくてはいけないのは。
まず「自分は自分であって他の人ではない」ということ。他の人を憐れんだり、犠牲を払って仕えることは必要。しかし、もしその動機が「みんな大変なのに私は休んでいて申し訳ない・・・」というものだとしたら、少し危険信号。その時点ですでにそれは、他者への憐れみではなく、自らの罪責感に変わっている。そして、自分も忙しくすることで、(たとえ具体的に他者の力になれなかったとしても)自分自身を納得させてしまう。

次に、私が休むということがもたらす結果について。ある人たちにとっては、負担が増えることになるだろう。なそうとしていた仕事も遅れるかもしれない。しかし、私は長い目で見れば、休むべきときに休む事が出来ない人々が、信仰を持ってそれをなす事ができるための道備えになるのではないかと思う。私たちは、どんなライフスタイルを思い描いているのか。クリスチャンとしてのライフスタイルは、そうでない方々のライフスタイルとどこが違うのか。そして、どこが一緒なのか。いや、一緒であるべきなのか。

いろんな意味で、教会は、かなり社会に影響されている。
本来は、教会やクリスチャンが社会に影響を与えるべきなのだ。
人々が教会を見た時、クリスチャンである私たちを見た時、そこに何を見いだすだろうか。
それは殻に閉じこもって、自分たちの考えにだけ固執した、ちょっと変わった人々?
それとも、既存のあり方を大胆に打ち破り、本当の自由と解放を与え、生活の意味を取り戻し、愛にあふれた調和のとれた日常生活の回復をもたらした、イエスキリストを見いだすだろうか。

私たちは、クリスチャンになればなるほど、クリスチャンでない方々との接点が減っていく。
イエス様はむしろ逆だった。どんどん罪人の友となるべく人々の間に出て行った。
なぜ私たちはそうでないのか?
教会のあり方に何か問題があるのか?
私の考え方に何か問題があるのか?
それとも別の何かがあるのか?

ここはじっくりと腰を据えて考えてみた方がいい。
私たちが進もうとしている先には、神のみこころの世界がはっきり見えるのか?
これは世界観の問題だ。
私たちは、正しい世界観を持っているだろうか?


さて、今イエス様がここに現れたら、何をするだろうか。
もう一度心を開いて、考えてみたい。
イエス様だったら、私たちのどこから手を付けられるだろうか。

あり得ないめぐみの中、いただいた二日間の休暇。
この事実に心から感謝しつつ、明日にむけて歩みだろう・・・。
主よ、私をもう一度お委ねします。
主が、私の内側で生きて下さい。感謝します。

2006/04/23

新しい皮袋

イエスはいつも大胆だ。

イエスは、人々に忌み嫌われていた、罪人や取税人と一緒に食事をした。
そして宗教家たちが断食をしているとき、イエスの弟子たちは断食しなかった。
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

イエスは当時の宗教家たちの慣例に従わなかった。
慣例ではなく、父なる神のみこころに従う事に興味があったのだ。

罪人である私たちに向けられた、父なる神の憐れみ・・・。
それこそ、イエスキリストをこの世に送られた神のみこころだ。
イエスキリストは、父なる神に従って、自らが引き裂かれる事を覚悟して、
自分自身をささげられたのだ。
  ・・・罪人を招くための皮袋として。


「新しいぶどう酒」とは何か?
それは、今まで恵みを受ける対象とは見なされなかった人たち。
今まで、教会が受け入れようとしていなかった人々。
単純に、教会のあり方、自分自身のあり方そのものが、
人々をキリストのもとへ近づけるのを妨げていることはないか。
新しいぶどう酒を入れる事ができるためには、
教会が、そして私自身が、新しい皮袋となる以外にない。


自分自身を変えるというのは、実は至難の業だ。
私たち一人一人が問われる。
しかし、確実に新しいぶどう酒がやってくる。
彼らには新しい皮袋が必要だ。

キリストご自身こそ、私たちの皮袋。
受け入れられないものを受け入れてくださった。
私たちも、キリストにならい、新しい皮袋へと変えていただこう。
私たち(すなわち教会)は、キリストのからだなのだから。


わくわくする話。
今、本当に教会に一つのうねりがある。
変革への切望・・・。
働きの広がりを通して、神が私たち自身のあり方を取り扱って下さっているのだ。


必ずそれはなります。
主よ、委ねます。用いて下さい。

2006/04/17

「枠」について

「枠」ということについて考える事がよくある。
「境界線(Boundary)」という言葉が頻繁に使われるようになり、
そしてクリスチャンたちの間では、同名の本もよく読まれているようだ。

私たちは、個人としても、社会組織としても、
自らの「枠組み」について、自分がどのようなスタンスを持っているのかを、
あえて意識してみることは、とても有意義な事だと思う。

人はそれぞれ神によって定められた時に、それぞれに定められた訓練がある。
その人の成長の段階に応じて、神はもっとも適切な訓練をなしてくださる。
それぞれが持っている「枠組み」へのスタンスに関しても、
主は同様に、定められた時、定められた方法で、私たちを訓練なさろうとしている。

大切なのは、今、主が「自分自身に」与えようとしておられる訓練が、
どの部分なのかをしっかりとわきまえる事だと思う。


以下は、この事についての覚え書きです。


1.「枠」の中に留まるべき時。

 エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。(使徒1:4)


2.「枠」そのものを広げるべき時。

 あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、
 綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。(イザヤ54:2)


3.「枠」から飛び出すべき時。

 イエスは「来なさい」と言われた。
 そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
 (マタイ14:29)


4.「枠」を築くべき時。

 「さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。」
  そこで彼らは、「さあ再建に取りかかろう」と言って、この良い仕事に着手した。
 (ネヘミヤ2:17,18)


5.「枠」を壊すべき時。

 ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、
 訪問したりするのは、律法にかなわないことです。
 ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、
 汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。
 (使徒10:28)


主よ。私が「今」受けるべき訓練を見失う事がないように。
「私が」受けるべき訓練は、誰かが受けるものとは違うかもしれません。
あなたは、私を丁寧に導いて下さるお方。
だから、たえずあなたに耳を澄ませて、その導きを確信できますように。
委ねます、主よ。

大逆転

十字架に向かうイエスの、あの傷付いた姿。
鞭打たれ、つばをかけられ、あざけられたその姿。
これが、私たちの王、私たちの先生、私たちの救い主の姿だって?
うそだろ・・・。

そして、あまりにも弱々しい・・・。

敗北。
失望。
困惑。
疲労・・・。

あなたを信じて従ってきたのに、
これがその結末だというのですか・・・?
もう、人々に会わす顔がない。
家を捨て、両親の説得を振り払い、いのちをかけて
あなたに従ってきたではありませんか。
信じていたのに・・・。


しかしそれから後になって、
イエスは、その11人が食卓に着いているところに現れて、
彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。
(マルコ16:14)


・・・主よ、あなたなのですか?

悲しみに打ちひしがれていた弟子達の心を責められたのは、
よみがえられたイエスご自身だった。
不信仰と頑なな心を責められる主。
ああ、主よ、お赦しください。
でも、あなたがいてくださるのが、何よりも嬉しいのです。

主は生きておられる!

心を閉ざしていたのは私でした。
主はよみがえられたのに、またしても
この心はあなたを締め出してしまっていたのです。
・・・あなたがお生まれになった時と同様に。


敗北は、勝利への入り口だった。
失望は、絶望に終わる事がなかった。
困惑は、確信への道だった。
疲労は、神の力と神の知恵だった。


「全世界に出て行き、すべての造られた者に、
 福音を宣べ伝えなさい。」
(マルコ16:15)

栄光の大逆転劇。
今こそ、出て行って、福音を宣べ伝えるときです。
それは、100%神の御業。


十字架と復活。
勝利の主、イエスキリスト。
すべては、ここから始まるのですね・・・!

ハレルヤ!

2006/04/14

最期の誘惑

「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
「他人は救ったが、自分は救えない。」
「キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。
 われわれは、それを見たら信じるから。」
(マルコ15:30-32)


イエス・キリストへの最後の誘惑。
十字架から降りて来い。
そうすれば信じるから・・・。


ああ、主よ。
この恥辱を受け、最期まで十字架の死に従って下さった事を感謝します。

父なる神への、絶対的な信頼。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
と叫ばずにはいられないほどにまで、従い通して下さった・・・。


彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
(イザヤ53:2,3)


私たちに与えられた十字架の勝利。
それは、どこまでも弱くなって下さった主の姿。

ああ、私に一番欠けているもの、
そして一番必要なものは、まさにその姿です。
私にも負わせて下さい。
十字架の主とお出会いするために。

2006/04/13

私ではない。

そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、
 わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
弟子たちは悲しくなって、
「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるイエスに言い出した。
(マルコ14:18-19)


最後の晩餐の席上。
イエスのことばに弟子たちはひどく悲しんだ。
「まさか、私ではないでしょう?」
弟子たちは、なぜ、こんな事をイエスに言うのだろう。
自分自身のことなのに、なぜイエスに問う必要があるのか。

しかし、同時に私たちは、「自分のことが一番分からない」という感覚に
多かれ少なかれ同意するのではないか。
イエスのことばを聞いた弟子たちは、
「それが、自分ではないとは言い切れない」という思いが心をよぎり、
イエスに「それはあなたではないよ」と言ってもらって安心したかったのではないか。


そうかと思うと、その直後にペテロをはじめ弟子たちは、口を揃えてイエスに主張する。
「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、
 私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14:31)

これも、彼らの中の正直な意思の告白として、精一杯真実のものであるだろう。
しかし、その後弟子たちは、最も大切なときに居眠りし、
その筆頭のペテロに至っては、夜が明けぬうちにイエスを3度知らないと言う事になる。


私たちは、私たちの願いとは裏腹に、矛盾をいっぱい抱えた存在だ。
言行一致などほど遠い。
そして、イエスはそんな私たちの矛盾を背負って十字架にかかってくださった。


私たちは、このイエスを心で信じて、口で告白する。
告白する事は、決意の意志表明だ。
「できないかも知れないけど・・・」なんて、あらかじめ言い訳をする必要はない。
これは、私たちの信仰告白なのだから。
私たちの信仰は、すべて神の御子イエスの十字架と復活にかかっている。
私たちを召して下さった方は真実なのだから、
ただひたすらに、この方に目を留めて生きよう。


私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。
私は神のめぐみを無にはしません。
もし義が律法によって得られるとしたら、
それこそキリストの死は無意味です。
(ガラテヤ2:20-21)

2006/04/12

無駄なこと

世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、
この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。
(マルコ14:9)


イエスに、純粋で、高価な香油を注がずにはおれなかった女。

なんのために、こんな無駄な事を・・・。
人々は彼女に憤慨した。


たしかに、このお金を貧しい人たちへの施しとして用いる事もできただろう。
でも、これは彼女が選んだことであって、他の人がとやかく言う必要のないことだ。
なのに、なぜ人々は憤慨する必要があったのか?


彼女の行為、彼女の犠牲、彼女の愛は、明白だった。
恐らく、人々の心の奥底の純粋な良心は、彼女の行動に
心が揺り動かされる何かがあることを、うすうす認めていたのではないかと思う。
そのとき、人は自分自身の内面を省みて、心が刺されたような気持ちになる。
そこでくずおれて、涙して自らのあり方を悔い改める事もできたのだ。

しかし、人々は自分のあり方を変えたいとは思わなかった。
とたんに「自己正当化」をする方向へと、心は傾く。
そう。悪いのは、この女だ。
「香油を無駄にしない私」の方が正しいのだ。そうに違いない・・・。



主よ。心が頑なのは、この私です。
他の誰かではない、この私が、あなたとどう向き合うかです。
この女のように、私はあなたに向かう事ができるでしょうか。
あなたに最高のものを捧げられない自分自身を、
自己正当化していないでしょうか?
ああ、主よ。純粋な心であなたに向かう事ができますように。
どうか、心が固く閉ざしてしまう前に、
しっかりと、あなたの語りかけに耳を傾ける事ができますように。

福音が宣べ伝えられるための神の方法

こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。
(マルコ13:10)

アーメン!
そうだよね。全世界に福音が宣べ伝えられなくちゃ・・・。
えーと、それで、それはどうすればいいのかな?
前の節を読んでみると・・・。
あれ?あれれ!?


「・・・人々は、あなたがたを議会に引き渡し、
 また、あなたがたは会堂でむち打たれ、
 また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。
 それは彼らに対してあかしをするためです。」
(マルコ13:9)

私たちは、引き渡され、むち打たれ、世の権力者の前に立たされる。
そして、それこそが、福音があらゆる民族に宣べ伝えられるための神の方法・・・。
ああ、そんな役を私が担うことが出来るのでしょうか?
私は何を言ったらよいのでしょう?


「彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、
 何と言おうかなどと案じるには及びません。
 ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。
 話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」
(マルコ13:11)


ああ、ここでもマニュアル通り、型通りの答えをして安心しようとしていた
私の姿がありました。
「自分に示されることを話す」=「聖霊が話す」
ということを確信できるでしょうか?

いえ。案じるのはやめましょう。
たとえ私が愚かであっても、あなたは真実な方です。
ですから、あなたは必ず私に語るべきことを示してくださいます。
人に受け入れられようとは思いません。
ですから、たえずあなたに聞くことが出来るように心がけます。
すべてが、あなたの御手のうちにあることを信じ続けることができますように。


「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって・・・」
(ゼカリヤ4:6)

「また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。
 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」
(マルコ13:13)

2006/04/10

怒り

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と書いてあるではありませんか。
 それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。
(マルコ11:17)


イエスが怒っている。あの優しい、柔和な小羊イエス様が。
イエス様は、何をそんなに怒っているのだろう。

人はうわべを見るが、主は心を見る。(1サムエル16:7)
イエスは、彼らのどんな心をご覧になって、怒られたのか。


しかし私が最も驚いたのは、イエスの怒りではない。祭司長と律法学者たちの反応だ。彼らはイエスの言葉を聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談しはじめたのだ・・・!
どうして、彼らはイエスの言葉を聞いて、自らのあり方を省みなかったのだろう。人は失敗するものだ。だから、それに気づいた時に、素直にそれを認めればそれでいいのだ。普通の人々ですら驚嘆したイエスの教えを、彼らが理解できないはずない。なぜ、宗教指導者たちは恐れて敬遠したのか?


私の考えでは、イエスが怒られたのは、この宮が、商売人たちが、宗教指導者たち自身の存在が、そして彼らがつくりあげたシステム自体が、人々を真の祈りから遠ざけているということに、心を痛めたからではないだろうか。
単に宮での商売の善し悪し云々ではない。彼らの心が遠く父なる神のみこころからかけ離れているばかりか、彼らの存在自体が人々を神へ近づけなくしているということを怒られたのではないだろうか。


今、同じ主の前に立った時、イエス様の目に私たちの教会はどのように見えるだろうか?
私たちクリスチャンはどのように見えるだろうか?
いや、私自身は、どのように見えるだろうか?
この世に光を輝かせなくしているのは、他でもない、私自身なのではないか?


わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、
わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、
わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。
今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。
わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。
(2歴代7:14)


主よ。へりくだり、悪い道から立ち返るべきなのは、この私です。
あなたの聖い宮として、ふさわしく整えてください。
み顔を慕い求めます。どうか、この地をいやしてください。
あなたに信頼します。

2006/04/09

ロバの子

「なぜそんなことをするのか?」
「主がお入り用なのです」
(マタイ11:3)

まだだれも乗ったことのない、小さなロバの子。
イエスは、エルサレムへの勝利の入城をする時、
イエス様自身を乗せて運ぶ大切な役割に、何の経験もない、
小さなロバの子をあえて選ばれた。

そして今も、何も分からない、何も出来ない者たちを特別に選び、
イエス様の生きたいのちを届ける働きとして、
イエス様の愛を伝える働きとして、
大切に、大切に用いてくださる。

このロバの子についてのみことばは、
ボクが献身の決心をした時に与えられた一連のみことばのうちの一つだ。
心には決めたが、それを会社の上司に、また両親に伝える時、
彼らは一体何というだろうか・・・。そんな恐れが心にあった時、
主はこのみことばを通して心に平安と励ましを与えてくださった。

相手が主を知っているかどうかは関係ない。
「主がお入り用なのです」
それが本当に主の権威あることばなら、彼らはすでにみこころのうちにある。
「弟子たちが、イエスの言われた通りを話すと、彼らは許してくれた。」

このみことばの通りに、ボクは大胆に、これは主の働きであることを率直に伝えた。
すると驚くことに、ボクの両親も、会社の上司たちも、
ボクが会社をやめて、フルタイムで主に仕えるための働きをすることを、
驚くほどすんなりと理解してくれて、励まし、送り出してくれた。


今日から受難週。
棕櫚の聖日の箇所を読みながら、イエス様の大切な働きに、
この小さいボクも加えてもらっていることに心から感謝した。

今日も一日、多くの恵みがあった。
たしかに、変化が起こっている。
教会の中に新しいうねりを感じる。
素晴らしい主のみわざが、豊かに前進しようとしている。
楽しみだなあ。

主よ。どうか、この一週間、
特別にあなたの十字架を覚えさせてください。
そこからあふれながれるものは、人にいのちを与えます。
永遠への扉を開きます。
どうか、あなたの十字架がリアルにせまってくるように、
私の心の奥の鈍くなっている所に、主の血潮を注いでください。
ハレルヤ。

2006/04/08

引き裂かれたからだ

彼らとともに食卓に着かれると、
イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。
するとイエスは、彼らには見えなくなった。
そこでふたりは話し合った。
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、
 私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
(ルカ24:30-32)


イエス様だ。
確かに目の前にイエス様が生きておられる。
私たちのただ中に生きておられる。
だって私たちの心は、こんなにも燃やされているのだから・・・!

私たちの心を燃やすのは、イエス様の十字架。
十字架で引き裂かれたイエス様のからだ。

この十字架の主は、
ともに食事をしている時、
十字架と復活について語り合っている時、
弟子たちに現れてくださった。

主は、いつでもともにいてくださる。
でも私たちの目が開かれるのでなければ、
それが主である事すら分からない。
目が開かれた時、
私たちの心は、うちに燃やされている。


私たちの心を燃やすもの。
それは、単なる野心ではない。
自己中心や虚栄でもない。
いのちを得るために、いのちをささげられた、
イエス様の十字架の愛。
それ以外に、私たちの心を燃やすものはない。
そして、その十字架の愛は、
イエスに従って、自らを十字架につけた者から
あふれ流れてくる。


今日も、そんな主と出会った。

主のしもべ達の語り合いの中で。
祝福の食卓を囲んで。
犠牲の奉仕を通して。
自らの弱さを通して。
苦悩を抱えた兄弟姉妹を通して。
熱く燃やされた兄弟姉妹を通して。


主よ、あなたです。
わたしを生かしているのはあなたです。
もっともっと深く、あなたを知る事ができますように。
もっともっと広く、あなたを伝える事ができますように。
もっともっと熱く、心を燃やしてください。
あなたの十字架を慕います。
あなたのそばに引き寄せてください。
主よ。

2006/04/07

じれったくても

「まだリハビリ中。」
そう自分に言い聞かせて、なかなかやるべき事に
取り組めない自分を慰めながら、今日も一日過ごした。

こういう時は、目に見える小さな課題を一つ一つ終えていくのがいい。
そして、あとで振り返って、これとこれが出来た!といって恵みを数える。
すべては、神の御手のうちにあるのだから、
落ち着いて、深呼吸して、神の御業を待ち望める事さえ出来れば、
「その日その日の内に十分ある」という労苦も、少しずつ負っていく事ができる。

ボクはどちらかというと思考の枠組みは元々柔軟な方だとは思う。
でも、実際の仕事においては、枠の中にいる方を好むし、
どんな事もあいまいな側面を残して進めていく、のが私の普通の方法である。
しかし、一つ一つのなすべき事柄はそうはいかない。
その理解と確信の達した所にしたがって、出来る限りの事をする。
不必要に大きすぎる事を考えると、
今の状態では、ちょっとやる前から億劫になる。


主よ。今日も支えられました。
あなたの恵みはつきることがありません。
どうか私の内面が、主にあってしっかりと根を張り直しますように。
ゆっくりで構いません。
じれったくても、あせることがないように。
じれったくても、あきらめることがないように。
主よ、私を御手のうちで造りかえてください。
主よ。

2006/04/05

BootCamp !? Macindows?

なんということだ。
Appleが正式にWindowsをIntel Macで動かせる仕組みを作ってしまった。

しかも次期OSのネイティブの機能になるようだ。
仕事ではWindowsを使ってる関係上、ファイルの共有さえ問題なく出来るんなら、
たぶん使う事になるだろうなー。便利だもん。

あっちこっち、みんなでMacでWindows動かすぞー、おーって
動いてくれたみなさん、おつかれさまでした。
その関心の高さがApple自身を動かす事になった大きな要因でしょう。


Macって会社はどうなってるんだろう。
もう、感心する事ばかり!
Microsoftとは、Windows x MacOS という図式で戦ってたけど、
過去の一時期はMacOSをいろんなハードにいれる方向性もあった。
でも、Steve Jobsが戻ってから、物事の進め方が変わり、
あのかわいい初代iMac登場。
「Appleは、魅力的なハードウェアのメーカー」でもあるんだという部分がしっかりと強調された。

そしてiPod&iTunesのインパクト。そこでは、音楽機器メーカーとの対立の図式。
でも、ソフトウェアを合法的に、便利に、かっこよくダウンロードできる仕組みと、
ぜひ持ち歩きたいiPodのあのデザイン。完璧に一つの世界を創設した。

そして、Windows Vistaが発売延期になっている中で、今回BootCampの発表。
MacOSのコアをオープンソースにした事や、Intelプロセッサへの移行も驚いたけど、
Apple自身がデュアルブートの仕組みを提供してくれるとは思わなかった。

これによって脅威になるのは、他のPCメーカーだろうなー。
だって、他のPCではMacOS動かない(動かしちゃいけない)のに、
MacではWindows動いちゃうんだもん。ハードウェアの美しさを考えても、
Windowsをメインで動かすためにMacを動かす人がいてもおかしくないよ。

それにしても、このプラン、はじめからあった話なのかなー?
どういうプロセスでこの意思決定がなされたのかに興味がある。
そういえば、このiMac付属の「マイティーマウス」、ボタン一つなのに、右側を押すと
右クリックとして判断されるしくみらしい。だから、Appleは、
いずれはこれでWindowsを動かす可能性もある、ということを考えていたのではないか?


いやー。本当、やっぱりSteve Jobsの周辺を密着取材したい。
どうやって、こんなにすごい意思決定をやってのけてるんだろう。
どうやって、こんなにシンプルに全体を作る事ができるんだろう。
どうやって、優秀な技術者たちを一つの方向に確信させ、モチベーションを保たせているのだろう。
どうやって、急な出来事に対応しているんだろう。


すごいや。すごいや。
常識や伝統や枠を超えて物事を考える事ができること。
人々の話を調査してそれに合わせるのではなく、
人々のライフスタイルを新しく創造していくような仕事の進め方。


こんなことが教会でできたらいいなー。
働きが大きくなれば、大きくなるほど、
シンプルでパワフルな仕組みが必要だ。
主よー。力を与えてくださーい!!

2006/04/04

あなたの知らない世界

映画「ブロークバックマウンテン」を見た。
アカデミー賞3部門受賞。
うーん。別にお勧めではないけど、お勧めです。


たぶん同性愛がテーマです。
人間描写としては良くわかりました。
でも何でそうなるのかは良くわかりませんでした。


これからは実際に、こういう問題をかかえた人たちと向き合う事もあるのかな。
ここで「問題」って言葉を使っている時点で偏見なのかな。
確かに、当然そういうこともあり得るんだって思って見れば、
この映画は、人間の普遍的な深い苦悩を描写した、なかなかの作品だと思いました。

でも実際、同性愛者に福音を伝える機会が訪れたら、ボクはどうするだろう。
それは神が与えた秩序と違う罪だから、やめなさいと言うだろうか?
過去の傷などの根っこから来るものだと諭して、内なる人の癒しのために取り組むだろうか?
それとも、自分が汚されないように距離を置くだろうか?
それとも「いいんだよ」と言って受け入れてしまうだろうか?

うーん。まったく分からない。
どうしよう。


でも、目に見えてくる部分の行動や思想には同意しないでも、
しっかりと友達になることは出来るかな。
いや、やっぱり偏見を抱いて裁きまくってしまうかな。


いろいろ映画を見てるけど、最近見た中では一番はっきりとした意見を持ちにくい映画だった。
イエス様だったらどうするのかな。

今まで考えてみたこともない世界に目が開かれた。
私が映画を見る大きな理由の一つがこれ。
「あなたの知らない世界」に目が開かれること。
でも、実際にその世界に住んでいる人がいるのだ・・・。


主よ。他の多くの人と同じように、いや私自身と同じように、
彼らも罪にとらわれて苦しんでいます。
あなたの福音は、彼らにこそ必要ですよね?
あなたが望んでおられるのは、すべての人が救われることです。
「救い」とは何でしょう?
今、私はどう祈ったらいいのかも分かりません。
主よ。お委ねします。主よ。

2006/04/03

世の中の矛盾

「私たちが世の中の矛盾である事を怖れてはなりません。」
・・・映画「マザーテレサ」の最後の方に出て来たセリフだ。

この言葉が正確に何を意味しているのかは、よく分からない。
でも、とても心に響く言葉だった。


マザーの働きが大きく広がるにつれて、それを束ねる組織と計画が必要になっていた。
でも、マザーの働きをずっとそばで支えていたセラーノ神父が、
30年かかってようやくマザーの見ているものを共有したとき、
「私は終わるのが怖かったんです。」
とマザーに赦しを乞い求めたときに、マザーが言ったセリフだ。

私たちは、世の中の論理を拒絶する必要はないし、
それを完全に受け入れる必要もない。


本当に主のみこころに立った強さが欲しい。
「わたしは渇く」という主の声を、
貧しい者たちの中でも最も貧しい者のうちに聞き取る事ができたマザー。

ボクは、ボクの生きているこの時代に、この場所で、この肉体で、
主の御声を聞く事ができるだろうか。


私が世の中の矛盾となること・・・。
確かに怖れている。

人の目には矛盾にしか見えない主の姿。
主に従うためには、自分の中でつじつまを合わせようとする事を
まずやめる必要があるのかもしれない。
そうしてこそ、本当のIntegrityが得られるのかも・・・。


主よ。私のうちにある恐れは、あなたがご存知です。
あなたが生きてくださるのでなければ、私はむなしい者です。
あなたにあって生きるために、
私の多くの部分はまだまだ砕かれなければなりません。
主よ。私はあなたの御手のうちにあります。
どうか、御心のままに造りかえてください。

見て信じる

映像にはパワーがある。
本を読むだけ、話を聞くだけでは伝わりにくい事も、
無条件で心に届くことがある。


一方で「信仰は聞く事から始まる」のだからと、
映像を伝道の手段として考えるのを警告する意見を聞いた事がある。
それも、素晴らしい神学者からである。
正直、驚いた。
確かに、みことばそのものを「語る」ことの重要性、
そしてそれを「宣べ伝える人」の必要性は言うまでもない。


でも、「ことば」は人となって私たちの間に住まわれたのだ。
見えない主が、見える形となって。
神のことばが、生ける人となって。

だから、文章だろうと、絵画だろうと、映像だろうと、
それを伝える手段はなんでもいい。心に届けばいいのだ。
何とかして、幾人かにでも福音を届けたいのだから。

大事なのは、実際にその通りに生きている人の存在だ。
そういう人を通して、イエスが実際に生きている事が目に見えるのだ。


昨日、頼んでおいた「マザーテレサ」のDVDが届いたので、
「ノーカット完全版」の前半部分を見た。
映画館で見たときも涙したが、今回も涙した。
主は生きている。
そして、生ける主に本当に生かされている人を見る時、
心に深い感動が与えられるのだ。


昨日、私たちの教会の通ってきたところを、
わずかながら映像化したものを礼拝で用いたが、
そこに実際に主が生きているからこそ、
幾ばくかでも心に触れるものがあったのだと思う。


見ずに信じる者は幸いです。
でも、見て信じる者も幸いです。

主が心に生きてくださるのであれば。

2006/04/02

眠い。。。

明日の礼拝に向けて、2つのものが完成した。

「教会紹介」の冊子と、奉献記念礼拝で流すビデオだ。
教会紹介の冊子は思っていた色と少し違ったけど、とにかく間に合ってよかった。
これは、毎年作るんだから、ある程度間違ったらそれも来年なおせばいいや。
ビデオの方は、素材があまりなく、困った。
でも、祈っていく中で、当初の予定とは違い、
1999年の教会の動きを中心にまとめてみることにした。

牧師先生の、昔のテープを引っ張りだして来て聞いてみた。
本当に感動・・・。
ダイヤモンドチャペル購入時の「ゼロ回答」前後の牧師先生の
パワーといったら、すばらしいです。


ああ、眠い。
明日、早く起きなきゃ行けないのに、こんな時間・・・
今、DVDが出来上がるのを待ってるとこなんですよ。
はやくおわって〜!
むにゃむにゃ