2006/04/13

私ではない。

そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、
 わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
弟子たちは悲しくなって、
「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるイエスに言い出した。
(マルコ14:18-19)


最後の晩餐の席上。
イエスのことばに弟子たちはひどく悲しんだ。
「まさか、私ではないでしょう?」
弟子たちは、なぜ、こんな事をイエスに言うのだろう。
自分自身のことなのに、なぜイエスに問う必要があるのか。

しかし、同時に私たちは、「自分のことが一番分からない」という感覚に
多かれ少なかれ同意するのではないか。
イエスのことばを聞いた弟子たちは、
「それが、自分ではないとは言い切れない」という思いが心をよぎり、
イエスに「それはあなたではないよ」と言ってもらって安心したかったのではないか。


そうかと思うと、その直後にペテロをはじめ弟子たちは、口を揃えてイエスに主張する。
「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、
 私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14:31)

これも、彼らの中の正直な意思の告白として、精一杯真実のものであるだろう。
しかし、その後弟子たちは、最も大切なときに居眠りし、
その筆頭のペテロに至っては、夜が明けぬうちにイエスを3度知らないと言う事になる。


私たちは、私たちの願いとは裏腹に、矛盾をいっぱい抱えた存在だ。
言行一致などほど遠い。
そして、イエスはそんな私たちの矛盾を背負って十字架にかかってくださった。


私たちは、このイエスを心で信じて、口で告白する。
告白する事は、決意の意志表明だ。
「できないかも知れないけど・・・」なんて、あらかじめ言い訳をする必要はない。
これは、私たちの信仰告白なのだから。
私たちの信仰は、すべて神の御子イエスの十字架と復活にかかっている。
私たちを召して下さった方は真実なのだから、
ただひたすらに、この方に目を留めて生きよう。


私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。
私は神のめぐみを無にはしません。
もし義が律法によって得られるとしたら、
それこそキリストの死は無意味です。
(ガラテヤ2:20-21)

0 件のコメント: