2005/11/30

窓としての教会

再び、大和田さんの音響で小学校へ。

今日は、音響機材の運搬のためだけに手伝いに来てくれた若者達が何人かいた。音楽室が4階にあるので、体力減退気味の私にとってはとても心配だった。でも、いろいろな配慮していただき、学校の先生方も多数協力してくださったので、とてもスムーズにセッティングをする事ができた。いつもいつも感謝ばかり!

中でも、雅樹がこの「重荷を負う」奉仕を手伝ってくれたのは、特別に嬉しい。彼は、私が教会でMIC(若者男子)のために特別に奉仕を始めた時の、一番初期の頃の教え子でもある。あの頃中学生になったばかりだった彼も、今ではもう立派な大学生。しばらく一緒に何かをするような機会はなくなっていたが、こうしてわざわざ朝早く出て来てくれて、本当に嬉しかった。今日は他にも手伝ってくれる人がたくさんいたので、彼にとっては「ほとんどなにもしてない」と思えるくらい、あっけなく終わってしまった奉仕かも知れない。でも、嬉しかった。きっと彼も嬉しかったに違いない。

そこで思う。
 たった一時間、単純に荷物を運ぶだけであっても、みんなで力を合わせれば、あっという間に終わってしまうような事がある。何も、一日中する必要はない。すべての知識が必要なのでもない。素晴らしいコミュニケーション能力が必要なのでもない。喜んで仕える心さえあれば、ほんの少しの力を出し合えば多くの事、大きな事が出来るのだ。
 なのに、その人の状況を十分に考えられなかったり、逆に考えすぎたり、一人一人に多くを求めすぎたり、逆に勝手にこちらで線を引いてしまったりと、神様が私たちが共同体として生きていくために用意されたお互いを生かしきれていない事が何と多いことか。

ボブ・モフィット師は言った。教会は、傷付いたこの世にあって、神の国がどんなに素晴らしいところであるかをこの世に示す「窓」となるべきだと。この「窓としての教会」が、互いに仕えあう姿は、自発的に喜んで仕えあうコミュニティを体現したものでなければならない。果たして、私たちのコミュニティは本物だろうか?本当に「窓」として、この世に光を照らすものとなっているだろうか?

私たちが目指している方向性は間違っていない。
しかし、そこに向かう私たちは常に変革される必要がある。
今、その息吹を様々なところから感じている。

2005/11/29

準備

ただいま自宅にて、牧師先生方に提出するための資料を作成中。
どの範囲まで含んだものにするべきかを考えつつも、「愛が結ぶ教会」としての4つの愛の結びつき方をアレンジしてみた。このほうが、現状と今後の方向性をはっきりさせると思ったからだ。

眠い。あしたは、大和田さんの小学校でのコンサート。
雅樹が来てくれるのは嬉しいなあ。

感謝

2005/11/28

Healing Rain

ネットでいろいろ検索していたら、Michael W. Smithのビデオに行き着いたので、少し見てみた。

"Healing Rain"(癒しの雨)というタイトルの曲のミュージックビデオ。
http://www.hotget.com/videocode/Michael_W_Smith-Healing_Rain--8395.htmlで見れます。

驚いたことに、私はこのビデオを見ながら泣いていた。

この曲はCDを持っているので知っていた。この曲をはじめて聴いたときは、それほど魅力を感じはしなかった。良い曲だが、それほど特別なものは感じていなかった。しかし、このビデオを見ながら、突然この曲の世界に目が開かれた気がした。そこに祈り込んであるものが、心に響いたのだと思う。

最近、この手の映像に弱いようである。
道行く人々の痛んだ状況を淡々と映し出す。そして、神を知っているものがその一人一人をじっと見つめている、そんな映像である。
まったく同じ類の構図で泣きじゃくったのは、映画「マザーテレサ」を1人で見に行ったときのことだ。マザーテレサが修道女の学校から一歩外に踏み出し、道端で死に掛けている人々を見たときの、あの視線だ。

突然、ものの本質が分かるようになるという事がある。一度見えるようになると、今まで違う見方をしていた事が不思議なくらい、確かな現実がある。
イエスキリストに贖われ、新しい生活に歩むようにと召された私達に必要なのは、この何とも言えぬ心をえぐられるような思いを主と共有する事だと思う。私たちが、まだ自分で必死に助けを求めている時には見えなかった事。でも、私はすでにキリストと共に十字架に付けられたのだという事が分かれば分かるほど、イエスはその思いを私たちに与えてくださる。そんな気がする。

イエスは、すべての町や村を巡って、
会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、
あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
また、群衆を見て、
羊飼いのない羊のように
弱り果てて倒れている彼らを
かわいそうに思われた。
(マタイ9:35, 36)

2005/11/26

校風

今日は、地域の小学校での大和田さんの人権教育コンサート。
4、5年くらい前からだろうか、音響担当として、教会にあるPAを持ち出して同行させてもらっている。この事を通して、多くの事を学ばせてもらっている。

 今日は私は体調が悪かったので、重い音響機材の出し入れ等は、すべて神山兄と高岡大ちゃんがやってくれた。感謝だ。朝早くからの見えないところでの地味で忠実な奉仕は、神様がちゃんと見ていてくれます。豊かな報いがありますように。
 また、今日の学校は、とても落ち着いているように思った。子供たちも、しっかりと、のびのびとしていた。自分の言葉で、ちゃんと考えることが出来るし、積極性もあった。もちろん、一人一人、いろいろとその背後に抱えているものが違うのはどこでも同じだ。でも、全体の雰囲気というか、校風というものはある。これは一体どこから来るものなのだろう?全体を支配している空気というか、考えるまでもなく支配している共通の土台のようなものがある。特に子供たちにとっては、家族とともに、自分のまわりにあるこの小さな集まりが、すなわち現実の世界すべてなのだ。

子供たち一人一人の顔を見つめながら、胸が熱くなった。

2005/11/25

御霊の実

「御霊の実」と、「御霊の賜物」は違う。

賜物はギフト、すなわち贈り物。神様が、一人一人に与えてくださった贈り物。神様は、一人一人に計画をもって、必要なものを与えてくださった。それは、単に能力だけではなく、環境、家族、性質、経験、情熱など、その人の個性を形成する様々な要素からなりたっている。それを、自分自身で正しく把握する事は、神様がその人にどんな計画を持っておられるのかを読み解く、重要な手がかりになる。しかし、それを正確に見極めるのは非常に難しい。なぜなら、私たちの視点はすでにこの世の価値観にどっぷりと浸かっているので、「神様の計画」にすらこの世的なランクがあるように感じているからだ。何か特定の賜物があるように見える人の方が、ランクが高いように見えてしまう。だから、自分自身をも偽って、「こうありたい」という姿と、ありのままの自分とを正確に区別する事が出来ず、必要以上に自己卑下してみたり、自己誇示してみたり。しかし、そういう事から解放されたとき、神様が計画してくださっている本当の使命に歩む事が出来るようになる。一人一人に与えられている賜物は違う。しかし、それは、その人の価値を決めるものではない。


その賜物が正しく用いられた時、御霊は私たちを通して「実」を結ばせてくださる。

良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、
また、悪い木が良い実をならせることもできません。
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって
彼らを見分けることができるのです。(マタイ7:17-20)

あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、
そのあなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)

それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。
成長させてくださる神なのです。(1コリント3:7)

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。(ガラテヤ5:22-23)


実を結ぶ事が目的であるならば、その目的で用いられるのが一番幸せである。しかし、だからと言って簡単に実は実らない。蒔かれた種を、丁寧に、手間をかけて、忍耐をもって、時間をかけて育て、さらに不毛な時期を過ぎて、ようやく実が結ぶようになる。必ず実がみのるということを、まだ見ぬうちから確信するからこそ、時間も、労力も、何もかも投資してそれに打ち込めるのだ。


・・・と、ここまでは普段考えてたことをまとめてみた事。
なぜ、今日こんなことを書こうと思ったかというと、私自身がこの「御霊の実」の一つを身に付ける事が出来るようにと、主は私を訓練してくださってるのだと気付いたからだ。
その御霊の実とは「自制」である。私は自制心に欠けていると思う。自分自身を制御できていないことがある。それが、「適応障害」という結果になった。理由が何であれ、働きすぎを制御できないのは、私に「自制」という実がない証拠である。そして、主はその「自制」を私に身に付けさせ、自分自身で「限度を超えない」ということが出来る力が備わるように、御霊を通して働きかけて下さっている。そのためにも、私に多くの賜物を与えてくださっているのだ。

主の計画は人知をはるかに超えてすばらしい。その主への信頼が増せば増すほど、御霊の実を豊かに実らせることができるのだと思う。

2005/11/23

帰ってきました!

日本に無事帰ってきました!
でも、気が抜けたのだろうか?・・・また熱が出てきてしまった。主治医の信愛クリニック井出先生にお世話になろうと思ったら、今日から金曜日まで休診とのことだった。

不謹慎だが、むかし、むかし、体の弱い人を羨ましく思った事がある。やらなければならない事を、やらなくてもいい口実になると思ったし、他の人から、より優しくされているような気がしたからだ。病気をすると、確かにやるべき事の量は減らされる。多くの人の優しさに触れられる。しかし、目標を目指して前に向かって一心に走りたいと願う者にとっては、体が思うように動かない事ほど悔しいことはない。自己中心な私が、それまで全く意識すらしてこなかった、これらの様々な弱さを抱えた多くの人達は、そんな苦しみをずっと抱えてきたのだろう。今更ながら、自分自身の視野の狭い、傲慢な思いを悔い改めずにはいられない。

もう、いい加減、体が元気になってほしい。正直、疲れてしまった。
あの、パウロも肉体の弱さを主の前に取り去って欲しいと3度も願い出たこと、若い次期リーダーであるテモテもパウロに体の弱さを心配されていたことに慰められる。何よりもキリスト自身が私たちの弱さをその身にまとってくださった事を心に留めつつ、主の栄光がこの身にも現される事を心から信じたい。

2005/11/21

自己変革

今日はウィロークリークの中心的な礼拝・・・Seeker's Service(求道者向けの礼拝)に参加した。参加してみてびっくり。私は勘違いしてた。求道者向けの礼拝とは何かを。

 もちろんいろんな側面があると思うのだが、私が今日見て感じたことはとても大きなチャレンジとなった。求道者向け礼拝とは、当たり障りのない、受け入れられやすい事をやって求道者にも違和感なく来てもらおう、という物ではない。むしろ、クリスチャンであってもクリスチャンでなくても、人が人として生きていく上で最も大切なことが何であるのかを、深く考え、はっきりと提示することだと思った。ともすると、クリスチャンには「未信者を信者にすること」に全力を注ぎ、あとクリスチャンになったら、一安心してそれでよしとしてしまう傾向が正直言ってあるように思う。そして、さらに忠実なクリスチャンは、教えられたことを言葉としてくらいしか把握していないのに、正しく生きようとして、結果として律法的になってしまう事が往々にしてある。いい人であればあるほど、そうだ。
 しかし、今回の礼拝では、「これこそが人間の生きる道だよね」という社会の中で困っている人たちに、きちんと目をむけ、小さなことから大きなことまで仕えていく。互いに仕えあっていく。内側に集まる集まりではなく、目を外に向けていこう、という呼びかけが、信者にも未信者にも語りかけられる。その価値観を共有した未信者、そして自分もそう生きたいと同意した未信者の方々は、じゃあどうすればそういう風に生きる事が出来るんだ、という疑問を当然感じる。そして、イエスキリストが自分の人生にとって不可欠な存在であることを知り、その後もよろこんでそこで仕えていくことが出来るようになる。そんな素晴らしい機会になった。これこそが、求道者に対して繊細な礼拝だと思った。

夜には先生方と一緒にツアーの分かち合いをした。感動だったのは池田先生の言葉だ。今回のツアーに同行したセブンスデーアドベンチストの方々に対して、池田先生は「かつて「異端だ」とはっきり教えられていて、その偏見はずっととれなかった。でも、宮本先生の姿勢に感動してこうして繋がりが出来るようになり、普通のクリスチャンだということが分かった。いまだに福音派の私たちが持っている壁がある。先生、赦してください。」

すごいことだと思った。セブンスデーが自己変革をしようとしている事にまず感動。そして、そのセブンスデーに対する壁を自分の中に見出し、はっきりと悔い改めて和解・解放のみわざへと導く池田先生に感動。
自分とは違う人(結果としてすべてだが)とどのように関わるのかについては、相当の成熟が必要。
「初歩の教え」を教えてもらわなければならない。

2005/11/20

うぃろぅくりぃく

4週間がとうとう終わってしまった・・・。
さ、前を向いて。

アイオワからシカゴまで、あっという間のフライト。
シカゴの空港からタクシーで30分くらい乗って、池田先生、月井先生がちょうど訪問中のウィロークリーク教会に着いた。合流完了!
先生方も元気そうだった。

第一印象。。。でかい!教会というより、大学という感じ。しかも、なにもかもエクセレント!
でも、本当に一人一人がいきいきとよく仕えていて、未信者にしっかりとフォーカスをあて、救われた者たちの訓練にもしっかりと力を入れているのがよく分かった。

詳しくはまだよく分からないけど、とりあえず、今日はここまで。
おやすみなさい。

2005/11/19

I am ready.

C-BTE の研修が終わった。「たったの4週間」だったのに、人生をひっくり返してしまうくらいのインパクトがあった。神様は、最善の時に、最善の方法で、最善の事を教えるために、私をここに導いてくださったのだと思う。

私の変わらない確信は、「神様は、私を丁寧に導いてくださる」という事である。神様は、私のすべてを知っていてくださり、取り扱われなければならない事の一つ一つを、正確に、正しい順番で、十分な時間をかけて、時に優しく、時に厳しく、ふさわしい方法で訓練し、私を造り替えてくださる。私には理解できない事も多い。でも、主はそのすべてを良く知っていてくださるのだ!


わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
・・・主の御告げ・・・
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
(エレミヤ29:11)


主よ、心は定まりました。
Now, I am ready enough to be wounded in the battle field.
ここに、私がおります。私を遣わしてください。


主よ、ここに導いてくださった事を感謝します。ここで出会った一人一人に感謝します。アメリカの片田舎の比較的小さな教会で、誠実に、忠実に、大胆に、主のみこころに従っている姿を見る事が出来てありがとうございます。世界の各地でなされている、人知をはるかに超えた主の御業に触れる事が出来てありがとうございます。日本の国のために、あなたの熱い思いを与えてくださってありがとうございます。

2005/11/18

Ted Ward

もう1人のゲスト、長年Jeff ReedのメンターをしているTed Ward師がゲストスピーカーだった。BILDの教材が、Nonformalな形で、これだけの規模で確立されたのには、この先生の貢献が大きかったとのこと。

特に印象に残った事が二つある。
 一つは、教育(特に神学教育)のために、「新しいことをやることの恐れ」が人々の中にある、という示唆だ。より良いと思われることを提案しても、「それはやった事がない」というだけで、よく吟味もせずに今まで続けてきたことを手放せないでいる事が多いという事だ。ビル・ウィルソン師の「今まで手に入れたことのないものを手に入れようと思うなら、今までにやったことのないことをしなければならない」という言葉を思い出す。私たちの内側に壁がある。私の内に壁がある。主よ、どうか私たちの目を開いて、あなたの御心を行なうことを教えてください!
 もう一つは、「サラリーをもらう牧師」について。それはとても素晴らしいけれど。。。教会が牧師にサラリーを与えて(しかも全く不十分なサラリーで!)、牧師をその場所に縛り付けておく。なんでもしてくれる牧師と、なんにもしらない信徒の構造が出来上がってしまう。教会は使命を見失う。パウロは複数の場所の牧師だったのではないか?新約時代の牧師はそうだったではないか?今、新約の時代に、キリストと使徒たちの方法に従っていこうとするなら、今まで当然と考えてきたことを見直さなければならない。
 パウロはチャーチスターターではあったが、チャーチフィニッシャーではなかった。そのためにテトスを連れて行き、最後の務めを果たさせた。教会の確立の最後の仕事をよく出来る人は、チャーチプラントもよく出来る人だ。


・・・いろいろ考えさせられる。
私は、私のおかれている立場から、なさねばならないと感じていることを、ふさわしい態度で、ふさわしい方法で、ふさわしい対象に伝えなければならない。主よ、どうかどうか、私の唇を開き、語るべきことを語り、語るべきでないことを語らずにいることができるように。唇を開くとき、いつでも神の恵みが豊かにあふれ流れ、聞いている方々の心に圧倒的な主からの感動と確信が与えられますように!

日本だ。この壁を打ち破ってください。
日本のあらゆる場所に、教会が出来ますように。
日本のすべての教会が息を吹き返しますように。

2005/11/17

Almost there...


もう少し!もう少しでプランニングが終わる。

結局この1週間は、個別のプランニングだけだった。しかし、このプランニングのために集中する時間というのがどれだけ貴重なものか、やってみないとわからないだろう。

大概のセミナーで、よく学び、何をすれば良いのかもわかったとしても、結局帰ってからそのためだけに時間をとって十分にプランを練り上げるようなことはなかなか出来ない。しかし、今回のプランニングは、学んだ知識を総動員して、これから実際行なうことへつなぎ合わせていくので、より具体的なプロセスが見えてくる。

First Principles Seriesの第6週目が、いつもReshaping our Lives となっているように、手を動かし、頭を働かせ、知識を組み合わせ、前に向けたプランを作成することで、知識が実際に知恵として体の中にしみついていく。

あと少し!

私の立場から、ふさわしい動機と態度をもって、男らしく、先生方に説明をし、主の霊によって心の一致が与えられて、具体的に取り組んでいく事ができるように導いてください。

2005/11/16

雪だよ~

今朝は朝から寒かった。 雨は昼過ぎから雪に変わった。
インド人もびっくり。写真撮りまくってた。

今日はまた一日プランニングに集中していた。
伊藤先生は、昼食も抜いてがんばっていた。

プランは少しずつ出来ていく。それぞれの数字を、文字を入力していく中で、具体的にその時のことを想像してみる。足りないところが見えてくる。それをまた文章にする・・・。
とりあえず、本郷台のリーダーシップデベロプメントプランの草案は出来上がった。問題は、これに十分なコンセンサスが与えられること。そして、誰がこれを実際に動かしていくのかということになる。

さてさて、ただのプランがプランで終わらないように。
コミットしてやってくれる人は誰かな~~・・・・。

2005/11/15

胸が張り裂けそう・・・

苦しい・・・。
胸が張り裂けそうである。

・・・と言っても、病気のせいではない。

日本の魂に主が抱いておられる熱い思いに、胸が張り裂けそうなのだ。いや、この主の熱い思いに、応え得るものを持ち合わせていない自分自身への苛立ちなのかも知れない。思いや願い、手に入れたいものがすぐそこに見えているのにそれを表現できない、幼子のうめきような、何とも言いがたいプレッシャーに押しつぶされそうだ。何も、私が私の立場でそんな重荷を負うことはない。一体自分を何者だと思っているのか?それは分かっている。でも苦しいのだ。

いや、そんなに美しいものではないかも知れない。単に、私のうちにある、まだ癒されきれていない、苦々しい傷がうずいているだけなのかも知れない。その傷に触れるのを恐れているだけなのかも知れない。見せ掛けだけを取り繕って、今ある立場が脅かされるのを恐れているだけなのかも知れない。

いや、単に骨を折りたくないだけなのかも知れない。最も難しいと思われること・・・、でもやらなければならないこと・・・、そういう事はできるだけ他の人にやってもらいたいと思っているだけなのかも知れない。自分は、美味しい所だけを取って、さも労しているかのように見てもらいたいと思っているだけなのかも知れない。


 こんな、思いに押しつぶされそうになっているのは、今日一日、日本でのC-BTE導入のプランについて具体的に検討する機会が与えられたからだ。はじめは、やや抽象的な所で済ませるつもりだった。数値目標も、日本の現状から考えて現実離れしない程度に・・・というふうにしか考えていなかった。
 ところが、ところが、カンボジアの働き人と話をしている内に、涙が出そうになってきた。カンボジアもそう、インドもそう。何十年間も、福音の扉が閉ざされていると思われていたところに、大きなリバイバルが訪れているのだ。彼らは、教会の増殖にリーダーの育成が間に合わない、という現状の問題からBILDの教材を導入しようとしている。強烈な勢いで、強いリーダーの再生産が急務とされているからだ。日本では、確かに状況は違う。しかし、どうして違うと言い切れるのか?本郷台の教会で多くの恵みを受けている自分は、もう少し大きくビジョンを描けると思っていた。いや、私のビジョンではない。主が描いていることを、どれだけ真摯に受け止める事ができるか、ということだ。しかし、それが出来ない。とたんに現実が自分を縛る。そして、このままでは、多くの人が結論付けたのと同じように、「日本は特殊だ。日本は伝道が難しい。日本には霊的壁が強すぎる。」と言ってあきらめ、クリスチャンとしてなんとなく周りに合わせて当たり障りなく生きていく、そんな所に落ち着いてしまいそうだ。

 祈りが足らないからか?もちろん、祈りは足らない!もっともっと、祈るべきだ。熱心になって悔い改め、この国の救いのために涙して祈るべきだ・・・。
 でも・・・。でも、祈れば祈るほど、この苦しさは大きくなっていくような気がする。そうだ。主任牧師が言っていた。祈ったら、祈った通りに行動せよと。

目を覚ましていなさい。
堅く信仰に立ちなさい。
男らしく、強くありなさい。
(1コリント16:13-14)

 主よ、あなたに信頼します。私の心からの献げものです。どうかお受け取りください。私はあなたのものです。弟子として整えてください。しもべとして整えてください。宮として整えてください。あなたの花嫁として整えてください。主よ・・・。

私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が肉にあって生きているのは、
私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

あなたがたのからだは、
あなたがたのうちに住まわれる、
神から受けた聖霊の宮であり、
あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって、
神の栄光を現しなさい。
(1コリント6:20)

主よ。この身をお献げします。
あなたの栄光の御業のために、お用い下さい。

2005/11/14

あと一週間

 IOWAでのC-BTEの学びもあと一週間になった。と言っても、あとは具体的な戦略を考え、プレゼンテーションをするということにフォーカスを当てるようで、ローカルチャーチから参加した私は、少しお気楽な感じ。肺炎で、エナジーが一気に下がってしまい、あまりアグレッシブに達成しようという思いはない。

 しかし、本郷台にどのように持ち帰るかについては、ものすごい責任感を感じている。なぜかというと、表面的に導入する事も可能だとは思うのだが、本質的にここで学んだことは、教会の体制になんらかの構造改革をもたらすものだと思うからだ。日本社会において、構造改革に本気で着手しようと思ったら、小泉首相ぐらいの胆の据わり方が必要だろう。「日本権力構造の謎」という本を大学時代に読んだ事があるが、基本的に日本の組織はアメーバのようにつかみ難い。もちろん、本郷台の場合、そんなことはないのだが、理路整然と話したからといってよいものではない。
 私の置かれている立場で、相応しい秩序の中で、成し遂げるには相当の祈りとフォーカスが必要だと思う。

 Wisdom! Oh, I need wisdom! Please!

2005/11/13

英語か病気か

それにしても今年は妙な年だ。
英語か、病気か。

年初にインフルエンザにかかりダウン。一週間休み。
その後ビジョンカンファレンスの準備で英語資料と格闘、英語での連絡。
カンファレンス終了後ダウン。肺炎、適応障害、潰瘍性大腸炎。3ヶ月休み。
その間、大和田さんのレコーディングのため2週間ナッシュビルへ。通訳。
アイオワに4週間。カンファレンスで学び。そして、肺炎!

神様は特別な計画を持っておられるに違いない。
不思議な神様、信じますから、早く完全に治してくださ~い!

今日は、一日ゆっくりしていた。
夕方から、Toddのお母さんの家に行き、お母さん、お兄さん家族と会った。
子供のSamがライトセーバーごっこをしかけてきたが、
ちょっと体調が心配なのであまり動かずにじっとしていた。

まだ、だる~いです~。(ToT)

2005/11/11

Pneumonia? Again?

Pneumonia... 肺炎です。
いやな予感はしてたんだけど、果たしてそうなってしまった。でも、いろいろな意味ですべてが整えられていて、感謝だった。


さて昨日はとても大事な日だった。

 パウロ書簡の学びの3日目、クライマックス、しめくくり。神がデザインされた教会の秩序を、明快に語られた。家族の秩序。そして家族の家族としての教会の秩序。納得。
そこで疑問が起こってくる。・・・なぜ私達の教会には「長老」がいないのだろう。パウロが地域教会を確立するために「長老」を大切なポイントとしているのはあきらかだ。やりのこした仕事としてテトスにそれを頼んだのだから。長老は健全な教えを守り、群れを養う事が求められている。
 最近の教会では、「ミニスター」と「長老」の役を同時に担った形の聖職者が「牧師(パスター)」である。呼び方は何でもいいのだが、初代教会の確立にあたってパウロが意図したことをはっきりと汲み取って組織も形成されなければいけない。・・・考えさせられる。


そして、夜はバンケット。どんなものになるかと思ったら、す、すごい、感動!教会の中でコース料理が堪能できるなんて!分厚いポークチョップ、美しいデザート。
でも、何よりも目が留まったのは、若い人たち、若い婦人達がサーバーとしてよく仕えてくださった光景。本郷台でも、おばちゃんたちのあたたかいおもてなしはあるけど、この世代がここまで快く仕えることが出来ているのを凄いことだと思った。


バンケットの食事が終わったごろから急に寒くなりだした。震えるので、熱さましの薬をもらって飲む。しかし全然だめ。バンケットはそこで抜け出し、Moniqueに家につれて帰ってもらう。Moniqueが電話でどうしたらよいかを確認してくれて、「SARSの可能性はないですか!」など、色々聴かれた。熱を測ったら101.6度!ついに沸点を越えたかと思いつつ、「今晩、救急診療室に行きなさい!」との事だったので、そうすることにした。
Moniqueが連れて行ってくれた場所は、とてもきれいな、親切な、(だけどゆっくりした)病院だった。まず保険が使えるということを聞いて一安心。看護婦は何回か来たが、実際にドクターがやってくるまでに2時間もまたされた。ドクターは症状を聞き、胸の音を聴き、「恐らくウィルスに感染したかなにかでしょう」とのことだった。が、私は前回の経験から、音を聴いただけでは僕の肺炎は発見できない、、、という感覚をもっていたので、思い切って先生にレントゲン写真もとってもらうようお願いした。
・・・・そんな、こんなでゲロゲロしながら待っていたが、先生がやってきて「うん、確かに肺炎だね」とのこと。
それにしても医療用語は、英語で説明できない。難しい、貴重な体験をしてしまった。

パウロの学びを終えた後だったこと
バンケットの食事をおいしく食べた後だったこと
適切なコンタクトが取れて病院にいけたこと
海外旅行損害保険で治療費がカバーできること
的確に診断しもらえたこと
モニークがずっと仕えていてくれたこと

2005/11/09

ウォルター・カイザー


今日の夜は、特別ゲストとしてGodon-Conwell Theological Seminaryの学長、Walter Kaiser師のメッセージがあった。私にとっては名前すら聞いた事のない先生だったが(失礼!)、現代の神学にとって、旧約聖書、聖書神学について大きな貢献をされている方だそうだ。 BILDの教材にも大きな貢献をしているとのことで、ほとんどの人が先生のことを知っていた。

インフォーマルな形でメッセージは語られた。しかし、彼自身の経験を一つのストーリーとして語られる中で、さらっと引用した御言葉の数々が心に留まった。それをさらっとここに引用・・・。

  • 箴言19:18 「幻がなければ民はほしいままふるまう」・・・「幻」は神のことば。預言。
  • 出エジプト32:25 「幻がなくてほしいままにふるまっている民」・・・モーセの不在の中で。
  • ルカ24 「エマオ途上の弟子達」・・・聖書全体を理解する目が開かれていなかった。
  • 使徒2 「ペテロの説教」・・・聖霊により、旧約の意味が分かるようになる。
  • 詩篇16 「よみを見ない」・・・キリストの復活を表わしていた!
  • Ⅱ歴代7:14 「わたしの顔を慕い求めるなら」・・・天を焦がれるのは罪が赦されたからでなく、彼がそこいるから。
  • 箴言85:6 「聖徒達をふたたび生かされないのですか?」

サイン済みの著書を頂き、写真を撮らせてもらった。
忙しくて、疲れたけど、ありえない時の一つだった。感謝!

2005/11/08

ぐったり。。。

幸いなことに今は比較的良くなったが、今日は一日あまり調子が良くなかった。頭が重く、体の節々が痛く、咳が出た。お昼に風邪薬をもらい、食後一時間ほど少し横になって休んだ。ぼーっとしていたが、それ以上ひどくならなくて良かった。カンファレンスはあと2週間ある。体が支えられますように!

さて、今日はパウロ書簡からの学びだった。(あんまりしっかり参加できなかったけど。)
この学びは、Pauline Epistles: Strategies for Establishing Churches というタイトルが付けられている。「地域教会の確立のための戦略」という意味だが、なぜパウロ書簡をその様な位置づけで読むのかという聖書的な理解が不可欠だ。
  • パウロが自分自身の役割をどのように見ていたか。他の使徒とどう違うのか。
  • パウロが何度も"establish"という言葉を使っているがそれがどういう意味なのか。
  • パウロの手紙が教会の確立(establish)のためにどのような役割を果たしているのか。
そんな点がディスカッションの焦点だった。(と思う)
今日は、あまり脳みそが働かなかった。(>_<) はたらけ、はたらけ。。。

与えられている健康の尊さよ。。。

2005/11/07

ジャパニーズ・ディナー

Steve先生のお宅に招かれて夕食をご馳走になった。
奥さんのJudyは、学生の頃、金沢で1、2年過ごした事があるとのことで、日本に対して特別な心を持っている。守谷先生ご夫妻がホームステイしているのだが、その部屋にはいろいろな日本の飾りがあり、コタツまであった!そして今日は、内陸のアイオワではなかなか食べられない寿司を作ってくれたのだ。

海老と卵の握り寿司。もっとも日本で新鮮な素材の寿司を食べ慣れている味覚から言うと、すごくおいしかったとは言えないけど(ごめんなさい!)、そんな感覚とは全く別次元の、心のこもった本当に嬉しい食卓だった。本当に感謝です!



急に寒くなった。ちょっと、頭が重い。風邪をひかないといいんだけど・・・。明日から、「パウロ書簡」の学びが3日間。とっても楽しみにしているので、できれば資料を読んでから参加したかったんだけど、早めに寝たほうが良さそうだ。

おやすみなさい・・・。(_ _;)...zzZ

2005/11/06

Moniqueの家族

今日は朝からゆっくりしていた。
Toddは玄関のドアに、もう一枚のガラスの扉を取り付けるためにずっと動いていた。

そして午後からは、Moniqueの家族がやってきて、交わりの時をもった。今日はJadeの6ヶ月の誕生日なのだそうだ。お父さんとお母さん、そして妹。とても温かい雰囲気の、そして楽しくよく話をする家族だ。食後にUNOをしたり、いろいろな事を話したりして、とても楽しかった。

「基本原則」の学びの中で、家族がどれほど重要かを教えている。そして、教会は「家族の家族」として認識されている。このホームステイの間に、キリストを中心とした家族の美しい姿のモデルを、何度も何度も見させてもらった。

家族の回復は、日本の社会にとっても深刻な問題だ。しかし、教会こそが家族の本来あるべき姿をこの世に指し示し、神の国の栄光を表わす大切な機関となりうる。教会で仕えるのに忙しいあまり、家族を大切にしないならば、偽善者になってしまう。どうか、主のいのちによって、日本の教会・家族のすべてがいのちを吹き返しますように!

地域教会の戦略をつくる

 C-BTEのカリキュラムは非常によく出来ていると思う。「聖書神学」の研究にしっかりと基づいている。今回の4週間のカンファレンスでは「基本原則」「使徒の働き」「パウロ書簡」は駆け足で学んでいる訳だが、実際には「聖書全体を網羅した上での初歩の教え(=基本原則)」、「初代教会の拡大と確立の鍵(=使徒の働き)」、「地域教会の確立のための戦略(=パウロ書簡)」という学びになっている。そこに、「パラダイムシフト」と「実際の状況にあわせた戦略の作成」というものが組み合わさっており、非常に実践的・具体的な学びである。「神学」は、教会の働きと独立して存在するのではなく、まさにその中核をなすものである、ということがはっきりと感じられた。

 「使徒の働き」の学びの中で、地域教会の戦略を作る時のプロセスへの提案があった。
1. まず「宣教の哲学」を明文化すること。つまり、私達がどこに立っているのかという聖書理解を明確にすること。
2. 戦略を作成するための基本的がガイドラインを作成すること。
3. 自分の教会の置かれている場所での様々なコンテクストにあわせて、具体的な方策を考える。

このプロセスは非常に助けになると思う。なぜなら、どこが柔軟に変えてもよい部分で、どこは変えてはならないかという事をはっきりさせるからだ。もし、哲学の部分(=聖書理解)に関連するところに対してチャレンジを受けたとしても、そこを変える為にはもう一度、神学的な作業をきちんとおこない、徹底的な議論を尽くして(考えつくして)からでないと、手を付けることはできない。根本的な部分がフラフラしていては、何も築き上げられないからだ。


自分達で作らなければならないとは言え、Oakwood Road Churchの宣教戦略は非常に参考になる。

◆ガイドライン(一部要約)

  1. 「使徒の働き」と「使徒の書簡」に記された教会形成の基本原則に基づき、地域教会の確立のために働く。
  2. 「忠実であり、託された物(健全な生活、健全な教え)を受け継いで行く事ができる」と認められた人が、適切な訓練を受け、実際に他の人にも教える事が出来るようにするための計画を作成する。
  3. 神が「大きく開かれた扉」を通してのみ与えてくださるミニストリーの機会に、長老達に信任された成熟したチームをによって応答する。
  4. 「使徒の働き」で言われている「宣教の働き」に、「戦略的な地域への宣教」「新しい信者を適切に導く」「地域教会の確立」「地域教会への励まし」「サイクルが伝播され増殖する」という事を通して、力を注ぐ。
  5. 遣わされたチームと共に立ち、必要に応え、福音のさらなる拡大に継続的に参加し続ける。
  6. 宣教の機会が、一つの地域教会では手に負えないほど大きい場合は、地域教会でネットワークを組む。そこには他の組織、戦略も含まれるが、このような組織は地域教会にまさる権威を持つべきではなく、地域教会が用いる事ができる道具として機能するべきである。
  7. 地域教会は、その地域において引き続き整えられ、拡大し、地域社会にイエスキリストの福音をもってインパクトを与えていく。

◆Implications

  1. キリストから託された金銭を用いて、神学校等から来た人に対して、地域教会におけるミニストリーの確立と、賜物とキャラクターがしっかりと認められる前にサポートする事には、慎重であること。
  2. 「短期宣教」か「生涯の宣教」であるかに関わらず、海外で行なわれたすべての働きを、「宣教の働き」と定義してしまいたくなる誘惑を避けなければならない。社会改善、開発、医療の働き、ソーシャルワークなどの働きが、私達の働きの中心的な焦点になってはいけない。これらの働きは、パウロの宣教旅行にモデルがあるように、「宣教の働き」を助けるものとして存在するべきだ。
  3. 「宣教師派遣団体(Mission Organizations)」が、地域教会が委託と派遣の中心であるというこのに、真に献身しているかどうかを吟味する必要がある。
  4. 「宣教団体(Evangelism Organization)」は、多くの場合地域教会がキリストの教会を建て上げることに失敗してきた結果として生み出されてきた。彼らのツールは有効である事を認めつつも、地域教会が信者の生活とミニストリーの中心であるということに、とって変わるものではなく、伝道や弟子訓練を含めて、地域教会が中心にあるべきだということを無視してはならない。
  5. 私たちは、地域教会が私達の第一の優先順位であるように、財務に関して注意を払う必要がある。私達の教会に与えられた時間、賜物、金銭は、一つ心となって「宣教の働き(パウロのモデル:地域教会の確立・成長・増殖)」のために、方向付けされる必要がある。
  6. 地域教会は、リーダー訓練の責任を負っており、彼らを単純に神学校に送ることで、自らの責任を放棄してはならない。神学校などの組織は、「忠実な人に託されたものを渡していく」という働きを、地域教会が行なっていくのを助けるためのツールとしてのみ用いられるべきである。

これって、すごくないですか?
いろいろ考えさせられます・・・。

パウロの宣教サイクル

この学びをしていてショックだった事の一つは、この部分だ。

・異邦人への宣教、初代教会の確立は、キリストがパウロに託した特別な任務である。
・パウロのメッセージは、normative(クリスチャンが必ず従うべきもの)である。
・パウロ自身が、normative(クリスチャンがどのように生きるべきかの見本)である。
・では、パウロの宣教の戦略は、normativeと言えるか?
 ・・・言えます! Yes, but less normative.
   Less normativeと言っているのは、文化の違い等があり、文字通りすべてとは言えないかも知れないが、それでも「必ず従うべき型」のようなものがあるという事が言える。("Church-Planting Strategy-Pauline Cycle," David Hesselgrave; "A Look Through Three Lenses," Gene Getz)

 つまり、パウロの宣教の戦略に「必ず従うべき型」を見出すとすると、その型を無視して「大宣教命令を効果的に行なうための戦略」というのを勝手に作る事は出来ない、ということになる。
 この事の意味は大きくて、いわゆる「パラチャーチ」(キャンパスクルセードなどの「宣教団体」とか、「神学校」とかいう、宣教を効果的に進めるために「戦略的に」つくられた団体)に、そのあり方の再考を促されることになる。それどころか、地域教会の戦略に対しても、十分にその役割を果たしているかどうかの再考が迫られる。
 ・・・私たちは、御言葉に従いたいのだけれど、あまりにも簡単に聖書の大事なメッセージを読み飛ばしている。しかし、一旦normativeと言えるものを、はっきりと見出したなら、それと向き合う必要がある。

 そういう意味で、本郷台キリスト教会、そしてミッション3000の戦略に関しても、もう一度みんなでじっくり考える時間が必要だと思った。それは、「どうしたら効果的にできるか」という問い以前の問題で、「聖書的かどうか」についての理解の明確な共有が必要だと思うからだ。
 幸いに、私達の教会で目指している事、行なっている事は、正しく方向付けがなされているように思う。しかし、関わっているリーダー達全員に、より明確に神学的理解が共有されるならば、聖霊はこの働きをより力強く後押しし、御心がこの地でもなされるだろう。

<パウロの宣教サイクル(単純化したもの)>
・鍵となる都市への宣教(Ezangelize Strategic Cities)
・地域教会の確立(Establish Local Churches)
・忠実なものに託す(Entrust to Faithful Man)

 宣教の基本原則の上に立ち、「大宣教命令」を完全に含んだ形で本郷台の教会の内側を再構築し、その延長線上で既存の教会の壁をこえ、無限に広がりうる戦略が与えられる事が与えられますように・・・!

2005/11/05

Process Driven

「BILDのリソースにユニークな点があるとすれば、"Product Driven"ではなく、"Process Driven"であるということです。」なるほど。2週間を終えてその重要性がわかってきた。

ここ数日間の感動は、どこから来たものだろう?
ここ数日間に湧き上がってきたおそれは、どこから来たものだろう?
ここ数日間に味わった喜びの源は何だろう?

・・・聖霊による喜び!御霊の実だ。

 少なくとも、生涯のうちのある時点において、「私はどこまでも主に従っていきます」と告白し、弟子としての献身の一歩を歩みだした事のあるものとしては、「聖書から明確に語られる」こと以上にエキサイティングなことはない。そして今、そういう経験をしているのだ!御言葉とのフレッシュな出会い。ああ、この喜びを伝えたい。

 デボーションのために聖書を読むとき、必ずしも御言葉をフレッシュに味わっているとは言えない。ある節に目が留まって、じっくり考え、主の語りかけを聴くという事ももちろん素晴らしい。しかし、聖書全体のメッセージが、明確な解釈で浮き彫りにされてくるのは、本当にすばらしい。
 しかし、「明確な解釈」というだけなら、文献を読んで同意すればすむのだが、「Procss Driven」である今回のコースは、そのプロセスを自分の目でやってみて、実際に「自分で聖書から見つけ出す」という喜びがある。みこころの発見!ステキです。

 ローマ12:1-2の「心の一新」によって、自分を変えなさい。という部分は、英語では"Renewal of our minds"だ、英語ではMINDとHEARTに明確な使い分けがある(と私は感じる)。ギリシャ語で正確にどうかは分からないが、MINDと訳されている部分は、より理性的、頭を使って「考える」という部分に関係しているように思う。だから「自分の頭でしっかりと考えて、理性的に明確な理解し、その新しい理解をもとに古い考え方を再構築する」というプロセスそのものが、Renewal of our Mindsにとっては決定的に重要だと思われる。そして、ローマ12で言っているのは、この「理性的な明確な理解・再構築 」によって、自分自身を変える事ができる、ということを示しているように思う。この「明確な理解」のためのプロセスを通して、聖霊が私のうちに働いて、私を造り替えてくださるのだと思う。
 つまり「心の一新によって自分を変えなさい」というのは、明確な聖書理解が、生きた供え物として自分自身を神に献げる「礼拝」のために、必要不可欠だということだ。
 このブログの名前は、「ワーシップな生活」(living worship)である。そして追求しているのは、実際にそのように生きることである。今回の学びの経験が、そのために大きなインパクトを与えたのは言うまでもないです。感謝!



さて、今日は引き続き「使徒の働き」を学んだ。
◆パウロの宣教サイクル
パウロは「大宣教命令」の達成のためにある戦略を持っていたようだ。それがここで紹介されている「パウロのサイクル」である。
パウロは、(1)伝道し、(2)教会を建て上げ、(3)忠実な人に権威を与えた。
この戦略は、ただの一つの戦略に過ぎないと思いますか?
それとも、クリスチャン全員が従わなければならないもの(normative)ですか?

地域教会の役割は?
権威はどこからくるのか?
パラチャーチの役割(があるとすれば)?
パラチャーチに権威がありうるとすると、どんなときか?
どのような関係を結んでいけばいいのか?

◆ネットワーク
◆フィロソフィー/戦略


さてさて、今日はピザの日。Thank God It's Friday!
ピザをもってMarkとマキーラのうちへ。
最新のテレビとオーディオで、「バットマンビギンズ」を見た。
やっぱり、まだ映画の英語が十分に分かるほどにはなっていないなぁ。

いろいろ書こうかと思ったけど、ねむっ。
寝てしまおう。
あしたの朝、少しゆっくり寝ていよう。

今週うけたインパクトを、なるべくこの週末のうちに消化しておきたいな~。

2005/11/04

大宣教命令に従うとは?・・・hmmm, wait a minute!

今日のディスカッションは、「大宣教命令を実現するために地域教会が果たすべき役割は?」(The Role of the Local Church in Fulfilling the Great Commission)という所から始まった。

昨日は疲れて寝てしまったので、読んでおくべきだった文献を読まずにディスカッションに入ってしまった。だからディスカッションの間、話を聞きながら、ひたすら文献を読んでいた。その文献は、「クリスチャン・ミッションの心」というもの。("The Heart of the Christian Mission," David Hesselgrave) この文献があまりにも重要な事を取り扱っていると思ったので、読んでいてだんだん恐ろしくなってきた。今後のためにも、少し慎重に要約してみます。

"The Heart of the Christian Mission," David Hesselgrave

 今日、それぞれの立場によって「教会とは何か、その使命は何か」という観点が違うために、多くの混乱がもたらされている。ここでは、「教会の第一の使命は、キリストの福音を宣べ伝え、信者を地域教会(そこで彼らは、信仰によって建て上げられ、効果的に仕える者とされる)へと集め、それによって世界中に新しい会衆を建て上げることである。」ということを提起したい。

◆「教会」に対する神の計画
 キリストはこの地上におられる時、教会の設立を預言され(マタイ16:16-18)、十字架で死なれた時、ご自身を教会に献げ(エペソ5:25)、今は天において教会をきよめ(エペソ5:26,27)、再び来られるとき、父の御前で教会を称賛(glorify)される(1テサロニケ4:13-18; 黙示録4-6)。
 教会とキリストとの関係には、次のような意味深い比喩が使われている。「キリストの建物」として(エペソ2:19-21)、「キリストの霊的なからだ」として(エペソ1:23; 1コリント12:12,13)、「キリストの花嫁」として(エペソ5:25-33)。
 神は「教会」をあらかじめ計画し、御子をその死と復活によって「教会」に与えた。御子は「教会」を建て上げ、その使命を全うできるように、弟子達を教え整えた。そして聖霊によってその使命をなし得る力を与えられた。(エペソ1:19-23, 使徒1:4-8)

◆大宣教命令(Great Commission)
 「大宣教命令」がクリスチャンに与えられた使命であることに疑いはないが、4つの福音書および使徒の働きから、より注意深く解釈される必要がある。それぞれの聖句は相互補完的な関係にあると言える。
 クリスチャンの使命について社会的な理解を得るための努力の中で、ある人は「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします(ヨハネ20:21)」という命令をより優先すべきだと解釈している。そしてイエスが病いを癒し、貧しい者たちに福音を宣べ伝えた(ルカ7:19-23)のだから、私達の遣わされる第一の使命は「社会改善」にあると結論付けている。もちろん、この世で「良い行ない」をする事が弟子達に与えられた命令である事に異論はないが、「良い行ない」が「大宣教命令=私達の使命の中心」にあるとするのは、聖書の正しい解釈とは言いがたい。むしろヨハネの記述は、「大宣教命令」の「『宣教し、バプテスマを授け、命令を守るように教える』ことによって、あらゆる国の人々を弟子としなさい」という命令の権威を強調していると言える。

◆ペンテコステ
 キリスト教の拡大にとって決定的な出来事といえば、「ペンテコステ」である。キリストが約束された通り、聖霊が臨まれた時、弟子達は(1)力を受け、(2)キリストの証人となり、(3)エルサレム―ユダヤ―サマリヤの全土―地の果てまで出て行った。聖霊は、Holy Spiritであると同時にMissionary Spritでもあるのだ。その結果多くの人が弟子に加えられ、弟子達はどこに行っても御言葉を宣べ伝え、何人かがクリスチャンになった所必ず「教会」が形成された。

◆パウロと教会のミッション
 使徒パウロには、「異邦人に福音を届ける」という特別な責任が与えられた。したがって、パウロのミニストリーは私たちの使命を理解するために、特別に重要なものである。教会の確立(establish)はパウロの働きであり、「使徒の働き」もパウロの働きが完全(complete)なものだった事を示している。(参照:"Missionary Methods: St. Paul's or Ours?," Roland Allen)
 なぜパウロはそこまで成功したのか?その重要な理由の一つに、パウロが自分自身の第一の使命(Primary Mission)を、福音を宣べ伝え、教会を確立する事であると捉えていたという事がある。副産物として、社会的な状況の改善等があったとしても、パウロの第一の使命は「福音が宣べ伝えられ、人々が回心し、教会が確立したとき」に果たされたと言える。隣人を愛せよという「最も大切な命令(Great Commandment)」への服従は、「キリストが命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」という命令の一部であるが、「良い行ない」はパウロの使命の「実」であって、「根」ではない。

◆現代における「教会」とそのミッション
もし今日、私達のミッションに混乱があるとすれば、それは御言葉に問題があるのではなくて、「歴史的な遺産」によって目がくらまされているか、「私たち自身がつくりあげたもの」が目をくらませているのである。

(1) 「ミッション(Mission)」について~広過る!
 19世紀以前の宣教師達は、彼らが達成すべき事が何であるかを、いつでも明確に認識していた訳ではないようである。「ミッション」は、学校を作ったり、病院を作ったり、文化的な悪習を正したり、衛生環境を改善したりするという形を取った。これらはすべての人に賞賛されるべき事ではあるが、これらの価値ある働きは「弟子を作る」こともなく「教会を確立する」こともなかった。したがって、歴史的に後の世代に引き継がれたとき、これらの「ミッション」は私たちが本当に引き受けるべきものなのかという疑問、または「ミッション」のための組織が、私達の優先すべき働きから離れて存在するという結果になった。
 また現代においては、私たちはこのパラチャーチとしての「ミッション」組織を増殖させ、あらゆるタイプの「社会改善運動」を引き受けることになった。これらの努力は、ガラテヤ6:10によればクリスチャンが引き受けるに相応しいものではある。しかし、このような社会改善という働きのための組織は、「教会の第一のミッション(使命)を第一」としない限り、「ミッション」組織と呼ぶには相応しくない。福音宣教と教会増殖を明確にサポートする組織のみが「ミッション」と呼ばれるに値する。

(2) 「福音宣教(Evangelism)」について~狭過ぎる!
 一方で「福音宣教」は、「クルセード」のように、人々が個人的にイエスキリストを救い主として受け入れるように計画された大規模なキャンペーンの事として認識されるようになった。また、同じ目的のために、「個人伝道」のためのツールもたくさん開発された。「クルセード」や「個人伝道」はもちろん推奨されるべきだが、ほとんどの場合、新しい信仰決心者が地域教会にしっかりと根付くことはなかった。「信仰決心者の増殖」が強調されすぎる一方で、「信者の会衆の増殖」が強調されることが不十分だったと言える。


(3) 「ミッションと福音宣教をもう一度一つにする」
 この200ほどの歴史が私達に教えてくれるのは、大宣教命令への従順を通してたとえ他にどんな素晴らしい取り組みが生まれたとしても、それは世界中の人々の間に教会を生み出して行くものでなければならないという事だ。本来は「ミッション」と「福音宣教」は同じ目的に使われる。

◆今日の優先順位~クロス・カルチャーなチャーチ・プランティング
 もし「大宣教命令」に本当に従おうとするなら、私たちはもう一度「開拓者としての精神」を取り戻し、すべての場所にいるまだ救われていない人々の所に届いていく必要がある。自分達と地理的・文化的に近いところから、遠いところにある人々にまで、私たちがどの様にして届こうとしているのか、すべてのクリスチャンが自分自身に問い直してみる必要がある。
 言葉の使い方はいろいろとあるにせよ、ミッションの欠けた教会も、教会の欠けたミッションも神の計画と調和していない。同様に、福音宣教の欠けた教会も、教会の欠けた福音宣教も神の計画と調和していない。
 それが教会の使命であり、それをできるだけ効果的に行なっていく必要がある。


・・・私たちが本当に大宣教命令に従っているか、一部分だけの理解では本来の使命を見失ってしまう危険性があることを肝に銘じた。そして、そのためにはいつもその使命の中心には「地域教会の増殖」があるということを思い起こす必要がある。

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今日、家から送ってもらおうとお願いしていた薬が届いて感謝みました。
とりあえず安心です。そのため、さっき飲んだ薬が効いて、頭は既に寝ています。


重要な話ですが、今日は話しはこれまで!!


佐藤賢二
明日のための準備の時間が取れるようにお祈りください!

2005/11/03

ファミリーのファミリー!

ここOakwood Road Churchでは、教会の共同体を、家族の家族(Family of Families)として捉えている。これは、First Principlesの教えの中にも出てくるものだが、文字通りそれを実践している。

水曜日の夜は、通常「Midweek Fellowship Group」と呼ばれる、小グループの集いがある。本郷台で言うところの牧会ファミリー、いわゆるセルグループのようなものだ。内容はそれぞれ状況の分かち合い、祈り合い、ちょっとしたフェローシップ、礼拝メッセージについてのディスカッションといったところ。

ステキだなと思ったのは、文字通り「家族」がいくつか集まってこのグループを構成しているということ。そして、(今日はあまり時間が取れなかったが)、礼拝メッセージについてもその基本原則を抽出しようとの意図からだろうが、ソクラテス式ディスカッションが行なわれる。

日本と違うのはどこだろう?
場所の問題?
時間の問題?
家族の問題?
文化の問題?

教会のコミュニティに献身して歩むために、このような小グループは不可欠だ。
牧会ファミリーのあり方にも、もっともっと深く考え抜くという作業が必要だと思う。

Jadeがずっと泣き騒いでいた。
Moniqueがどれほど気が狂いそうになっていることか。
でも、そのような状況での彼らの態度・姿勢が本当に素晴らしい。
自分が気が狂いそうになるからといって、赤子に叫んだりしない。
でも、そのような状況で幼児虐待が起こりうるというのは、想像に難くない。
母親になるというのは凄いことだ。

ここの所良い天気が続いている。
たくさんの星が見えた。

「使徒の働き」の読み方

今日から3日間の「使徒の働き」の学びが始まった。
Acts: Keys to the Establishment and Expansion of the First-Century Church
との題名が付けられている通り、初代教会の確立と拡大の鍵を知るためのものだ。

実際の中身に入る前に、まず一つの文献を読んだ。
「使徒の働き」で教えられている事を解釈する能力が十分でないため、
結果として、教会に様々な教派が生み出されてしまったという。
("Acts-The Problem of Historical Precedent," Gordon Fee and Douglas Stuart)
「使徒の働き」にある初代教会のあり方に、現代の教会そのものの規範を求めようとして
読み始めると、どこで線引きをしたらよいのかの判断が難しい。
また「使徒の働き」が物語形式で書かれているため、
単なる「物語」として読み過ごしてしまう可能性がある。

さてさて、本郷台キリスト教会の「ミッション3000」というビジョンは、
「初代教会の姿に教会のあるべき姿のモデルを見出す」との考え方に基づいている。
そういう意味で、「使徒の働き」に書かれている初代教会のあり方を
どのように見るか、解釈するかに確信を持つことは、決定的に重要なことだ。

そこで、読み手が勝手に判断するのではなく、著者であるルカがどの様な意図をもって
(もちろん聖霊によって)この書物を書いたのか、何を言おうとしたのかを知る必要がある。
それを知るための鍵は2つ。
1.「使徒の働き」の中で、ルカが所々締めくくりの言葉を入れている。
  その締めくくり方で、ルカがどのような意図をもってこの書物全体を構成したのかを知る。
2.ルカの福音書のはじめに、ルカは書物を書いた意図を述べている。
  「使徒の働き」は別の書物だが、ルカのその意図は福音書に留まるものではなく、
  「使徒の働き」にも適用して考える事ができる。(という聖書的な裏づけがある)

と、まあ、こんな議論を、ソクラテス式問答で行なうというプロセスで学びは進められる。 この学びが効果的なのは、「徹底的に考え抜く」という事をディスカッションの中で強いられるという部分だろう。

単なる知識を問うのではない。
真の意味で「聖書的に考える」、そして「聖書的に生きる」ためには、
こういうプロセスの訓練が必要なのだ。

しかし、「これが答えです」という教え方をしてくれないのは、疲れるし、時にフラストレーションがたまる。(ToT)
でも、今まで自分にはとても理解不能と思っていた、聖書の中の真の教えに 確信をもって目が開かれることの喜びにまさるものはない。

聖書に対してのワクワク感が拡げられた感じ。
うれしい!

目標は知識ではない。
しかし、正しい知識に基づいた「知恵」は必要だ。
C-BTEで理解している「神学」とは、まさにこの「知恵」を得ること。

ミッション3000の土台が、自分の中に、よりしっかりと据えられる事を期待している。

2005/11/01

Trick or treat! 初期のリーダー育成について考える

C-BTEのカンファレンスも2週間目に入った。
質的にも量的にも信じられないほどの内容と格闘しているが、
なかなか、こんな立場に立たせられる特権はないだろう。
真摯に向き合って取り組んでいきたい。

さてさて、今日はType1とType2のリーダーの育成のための
フォリオ/ポートフォリオを、日本というコンテクストの中でどの様に
導入していくかのディスカッションとなった。

この週末から加わった仙台バプテスト神学校の守谷先生ご夫妻と、
伊藤先生とともに、4人でいろいろと話し合った。
神学校を「リソースセンター」として役割を変えていこうとしている、先生方の視点と、
教会ベースで教育を行なっているが、体系だてられた神学教育の導入を
課題としている本郷台キリスト教会の立場。
いろんな立場から物を見て、考えるのは大事なことだし、視点がググッと拡げられる。
両者とも、きっと今後のネットワークの働きの中で重要な鍵を握っていくのだろう。


ところで今日はいわゆる「ハロウィーン」。
「成熟したクリスチャン」として、一人一人が確信に満ちて
このコミュニティイベントを機会として用いているように思った。

"Trick or treat! ... thank you!!"
ホームステイ先であるRoush家にも次々とかわいらしいコスチュームをつけた
子供達がやってくる。とっても微笑ましい光景だった。