2006/02/28

ともに食する

「ともに食することは、礼拝だと思う。」

・・・この言葉は、かなり心に響いている。
昨日の夜、今日の昼、夜と、友人とともに食する事が続いた。
そして、その場にイエス様が確かにいてくださった事を信じる。

礼拝とは何か?
これは、かなり深い洞察が与えられるべきテーマだ。
私たちは、「礼拝出席」はしていても、「真の礼拝」をしていないかも知れない。
「礼拝出席」は、大いに強調されるべき事だが、
それを強調するあまり、「礼拝に出席する事が礼拝だ」との思い違いを
してしまう危険性があることを、常に自戒し続けるべきだと思う。

わたしの言うことを信じなさい。
あなたがたが父を礼拝するのは、
この山でもなく、エルサレムでもない、
そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、
わたしたちは知って礼拝していますが、
あなたがたは知らないで礼拝しています。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって
父を礼拝する時が来ます。今がその時です。
父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、
霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(ヨハネ4:21-24)


「礼拝の場所」は関係がない。
「知って礼拝するか」どうかも関係がない。
そして、「今がその時」。

問われるのは、「真の礼拝者」かどうかということ。
神は、このような人々を求めておられる。
そして、私たちの心の扉を、叩いておられるのだ。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。
だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、
彼もわたしとともに食事をする。
(黙示録3:20)

私たちは、よくWWJD( What Would Jesus Do?)という問いかけをする。
イエス様だったらどうするだろうか?という意味だ。

ここで、イエス様は、
1 「戸の外に立ってたたく方」
2 「戸を開けた者のところに入られる方」
3 「彼とともに食事をする方」

私たちは、同じようにしているだろうか?
戸をこちらから無理矢理こじあけておきながら、
彼の所に入るどころか、むしろ引きずり出してはいないか?
食事をするどころか、「礼拝」と呼ばれる群衆の中に放り投げて、
その人数を数えて満足してはいないか?


礼拝については、いろいろな視点がある。
だから、一概に善し悪しを論じることはできないが、
少なくとも、自らの姿勢を省みることは誰にでもできるはずだ。

この世界に本物の「福音」を輝かせる事ができていないとしたら、
それは多分にクリスチャンと呼ばれる私たちの責任である。
それが出来ない私たちは、私たち自身が本来受けるべき恵みをも
自らが制限しているということでもある。

だから、自己変革は、誰かのためにあえて犠牲を負うという側面だけでなく、
むしろ「自分の救いを達成する(ピリピ2:12)」という視点からも、
積極的に取り組むべきだと思う。


ね?ともに、食事しましょうよ。

2006/02/25

弟子たち

今日はMDC2期生の同期会。

2000年度、本郷台キリスト教会でダイヤモンドチャペルを使い始めて
初めてのMDC生たち7人が集まって、それぞれの近況などを
ざっくばらんに分かち合った。

MDCとは、ミッション3000弟子訓練センター(Mission3000 Decsiples Center)の略。
ミッション3000の担い手が育つようにと始められた、
実践中心の教会内訓練センターである。
ボクらの代は、とにかく教会で行なうイベントが飛躍的に増えた時期で、
何かあれば必ずMDC生が裏方で走り回っていた。

特に印象的なのが台所での奉仕。
「毎日、台所で、クッキング」(Mainich Daidokoro-de Cooking; MDC)というのが、
ボクらMDC生の日常をはっきり現したフレーズだった。


それにしても、ここで集められた7名の構成は完璧に近かった!

それぞれに与えられた、強烈なキャラクターと、ねじの抜け具合。
でも、主への情熱はいつも熱く燃やされている、そんな7名でした。
今日、分かち合いながら、みんな自分の置かれた所で誠実に生き、
神様は一人一人を、優しく丁寧に導いておられるという事を、
あらためて実感させられました。

・ 若くして生死をさまよう病と闘いながら、主を証ししている兄弟。
・ 一度は諦めかけた、海外宣教に突如道が開かれ、喜んで準備をしている姉妹。
・ 苦しみを経ながら、少しずつ自分の生き方や担うべき働きを見出しつつある兄弟。
・ 見えない所で認められにくい働きそのものに、自らの目的を見出しつつある姉妹。
・ 心の痛みを振り払うように激しく仕えてきながら、ようやく自分が見えてきたという姉妹
・ 何を言われても、必要な働きを一から建て上げていくエネルギーを持ち続ける姉妹
・ 高齢をものともせず信仰に堅く立ち、いつも喜びと悲しみを共有してくださる姉妹

みんなみんな、私の宝です。
この7人を同時に集めた神様、かなりセンスがイイ。
年齢、性別、性格、境遇、嗜好・・・、みんなバラバラ。
でも、なんとも言えず、一体感があるんですよ。

ある意味、イエス様の十二弟子の選びみたい。
本人達も、本当の所よく分かってなかったけど、イエス様に声をかけられたって
ことだけはよく分かってて、来ちゃいました、みたいな。


弟子としての歩みは、まだまだ始まったばかり。
こういう仲間がいるって、相当いいデス!

それぞれが、主のにあって誠実に歩んでいけるよう、互いに励ましあっていきたい。

2006/02/24

良し!

良かったね~。
荒川さん、金メダル!

フリーでは、コーエンもスルツカヤもミスしてしまったんだよね。
(私は、スルツカヤの愛くるしい表情が好きだ)
村主も良かったんだけどな・・・。
相変わらず採点の仕方はまったく分からないですねー。

でも、尋常じゃないですよね、金メダル取るのって。


さてさて、「鳥のオリンピック」についてです。
何人かの人から同じ疑問を頂き、ちょっと自信が揺らいでいたことがあります。

「ねえ、ペンギンって鳥なの?」
「へっ?」

そんな事、疑ったこともなかったので、ビックリ。
でも少なくとも3人から、この質問が発せられたので、念のため辞書で調べました。

ペンギン 0 [penguin]
ペンギン目ペンギン科の鳥の総称。羽毛は獣毛状。脚は短く水かきをもち、陸上では直立して歩く。翼はひれ状に退化して飛べないが、水上滑走や潜水を巧みに行う。熱帯のガラパゴス諸島から南極大陸までの南半球の沿岸に分布。コウテイペンギン・フンボルトペンギンなど。人鳥。


・・・ということで、自信をもって結論。ペンギンは鳥です!


ところで、創世記では、鳥の創造はこのように書かれています。

神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
神は、・・・ 種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。
神はそれを見て良しとされた。
(創世記1:20,21)

「地の上、天の大空を飛べ!」って神様が声を発した時、
ペンギンも「翼のあるすべての鳥」の一つの種類として、造られたのかなー。
・・・でも、飛べない。

でも、そんなペンギンに一言。
「神はそれを見て良しとされた。」

感動の瞬間です。
飛べと言われて、つくられた鳥の一種ペンギン。
でも、ボク、飛べない・・・、なんて落ち込む暇もなく「神はそれを見て良しとされた」


ステキですね!
ボクには採点方法は分からないけど、確かに「神はそれを見て良しと」してくれます。
感動です!!

通りよき管として

鼻の通りは、ずいぶん良くなったなー。

スムーズに鼻から息を吸えるのは気持ちいいっ。
からだに酸素が行き巡る感じが心地いいっ。

左右とも処置が終わって、今日確認したところ結果は良好。
昨日、体調が突然悪くなったからちょっと心配したけど、
単に疲れが出ただけだったかな?

とりあえず、肺炎の原因菌が溜まっている状態は脱しているみたいなので、
感謝しつつ、良い空気をいっぱい吸って、生き生きと歩みたいですネ。


祈ってくださっている方々、本当に感謝です♪

2006/02/22

魅力

フィギュアスケートは、やっぱりオリンピックの華だ。
華麗な滑りを見ながらそう思った。

特に心奪われたのは、コーエン、スルツカヤ、村主。
ボクには採点方法や、スケートとしての良し悪しはよく分からないが、
この3人の滑りは、何か見ているだけで感動させられた。

何と言ったらいいんだろう。
芸術性?味わい深さ?
とにかく、惹きつけて放さない魅力を感じた。


それは、恐らくテクニックではない。
しかし、テクニックがなければ話にならない。
でも、テクニックにとらわれると、本質を見失ってしまう。

芸術家が、真に芸術家であるためには、
それを裏付けるための十分なテクニックが必要だ。
しかし、テクニックそのものは、本質ではない。


これは、私たち自身の人生の本質を考える上でも、大いに参考になる点だ。

私たちは、神の作品。
私たちは、神の美しさをこの世に輝かせる使命がある。
それは、ことばや口先によるものではない。
良い行いによるものですらない。
それは、神ご自身の栄光の輝き。
私たちに、無条件で与えられた贈り物。

もちろん、生きるためのテクニックは必要だが、
それ自体は、人生の本質ではない。

飽くなき追求をやめた芸術家が、もはや芸術家とは言えないのと同様、
私たちは、その生き方において、簡単に分かったふりをして、
安住してしまってはいけない。
だからと言って、安息のない状態の中で、
気を病みながら、混乱し続ける事がよいとは思えない。

私たちは、神の芸術作品として生き続ける事が出来るだろうか。
自分自身を砕きながら、平安と希望にあふれている事が出来るだろうか。
本質を発揮するために、それを見失わずにテクニックを磨く事が出来るだろうか。


テクニックの修得には、順序というものがある。
まずは、ごくごく初歩的な、基本原則を学ばなければならない。
形式を越えたところにあるものを、とらえるためには、
まずその形式を学ばなければならない。
自由にそれを扱えるようになるためには、
自らを律して、まず型に押し込められなければならない。

でも、いつかはその型から脱皮しなければならないのだ。


深い美しさに触れると、なんだかそういうものが呼び覚まされる気がする。
芸術作品には、そんな奥深い魅力があるのだ。

・・・ボクも芸術的になりたいです!

2006/02/21

語り明かそう

徹夜で語り明かした。
こんなの何年ぶりだろう。

1990年に始まった初代「ジャパニーズコンチネンタルズ」の時からの中心メンバー。
えいちゃん、しょうこちゃん、むっちゃん、てるちゃんと、久々に会った。
えいちゃん、しょうこちゃんは、今、GMX、コパンで活躍、むっちゃん、てるちゃんは、ニュージーランドにて邦人伝道を行なっている。今回は、むっちゃん、てるちゃんが、えいちゃんたちの家に来ているというので、急遽訪問させてもらった。

当時ボクは最年少の18歳だった。
彼らは、精神的にも霊的にもあまりにも「若かった」ボクの姿を知っている。
今から考えると、顔から火が出るほど恥ずかしい事もあるが、
でも、あの時点でのボクも、今のボクも、ボクはボク。
数年間ともに同じ働きを担った大切な仲間に久々に会って、
もう一度、「私は今どこにいるのか?」という事を考えさせられて、嬉しかった。
客観的に(というか、相手の立場からの主観的に)、ボクがどう見えるのか、
そしていろんな、意見も言ってもらえて嬉しかった。
心を開き、耳を開き続ける事が、何より大事だと思った。


話をしながら、ボク自身の置かれている立場は、
神様の絶妙な計画の中で用意された、絶妙なバランスの中でのみ保たれている、
普通ではなかなかありえない、特殊な「恵み」の中にいるんだな、と思った。
ボクが日々意識している類の葛藤に真正面から向かい合いながら、
なお、生活を成り立たせながら、今この瞬間を希望にあふれて歩んでいるなんて、
ある意味、奇跡的なことなんだ。

でも、ボクに出来るのは、ボクに出来ることだけだ。
何らかの結論に達して、納得しても、それだけでは意味はない。
ボクは、ボク自身が導かれているように、生きるしかない。
どんなに特殊であったとしても、
ボクにとっては、ボクの人生を生きることこそが、現実の世界だ。
その世界に、いろんな世界観を重ね合わせてみる事は歓迎する。
それは、ボク自身をも、ボクの隣人をも豊かにすることだと思うからだ。


その前日、日曜日には「教育主事」としての任命を受けた。
この立場を甘んじて受け入れた以上、
そのために多くの方に祈っていただく必要を感じる。
「その立場」をまっとう出来るように、というよりも、
「私に、今、この立場を与えられた神のみこころ」を、まっとうする事が出来るように。

多分に自己矛盾をはらんでいるのかも知れない。
でも、私は「教会」というものを、もう少しinnocentに信じている。
そして、自分には新しいものを切り開くだけの力がなかったとしても、
そのきっかけの一つにはなり得ると信じている。

負うべき十字架を、見誤らないよう、目を開き続けていきたい。


徹夜は、こうやって友人と語り明かすためにこそするべきものだと思った。
決して、仕事に追われてするものではないね。

からだが、支えられている事を心から感謝しつつ・・・。

2006/02/18

電話だよー・・・。あ゛っ!

「さとけーん、電話だよーっ、さとけーん」
という声で目が覚める。やばいっ。
つ、月井先生から電話だ。
ち、遅刻だ~~~!

ちなみに、上記の声は、私の声。
そう、携帯電話の呼び出し音なのです。
ふざけ半分に録音したやつをそのまま使い続けているのです。
ほとんどの場合は、バイブレーションにしてるし、
あんまり人に聞かれないようになっています。
でも、前に病院の待合室で鳴ったときははずかしかったなぁ・・・。

それはさておき、遅刻です。
今日は早天祈祷会でメッセージの担当でした。
私は、ここ数ヶ月ずっと眠剤を飲んで寝ているせいか、
朝はちょっと弱い。(その前から弱かったのでわ?という突っ込みは、ナシよ)
だから、最近は、担当の日しか行っていない。
しかも前回は、まったくダメダメで、ドタキャンをして迷惑をかけた。

なのに遅刻。
ちゃんと目覚ましかけたはずなのに~。
でも、仕方がないので気持ちを切り替えてすぐに教会へ向かった。


マタイ5章、山上の垂訓の所から、最近思わされていることを語った。
「心の貧しさ」について。
「義に飢え乾いている」ことについて。
「平和」について。
どれも、映画や本を通して考えられた事ばかり。

教会は(というかクリスチャンは)、もっともっと、
世の中の人がどのようにモノを見て、考えているのか、よく学ぶ必要がある。
こう言うと堅く聞こえる。

でも、最も神を必要としている人たちを、
私たちは勝手に自分達の基準で裁き、近寄らないようにしているのだ。
まさに半殺しにされた人を、見てみぬ振りして通り過ぎた祭司のようだ。


今日、ふだんあんまり話す機会のない二人の女性と話をした。
(へーい、見てる~?)
話していたら、ボクがココのところ必死になって戦っている部分が、
そんなに普遍的な話じゃないのかなーって気がしてきた。
「そんな事考えた事もなかったーーー。」と言われつつ、
ある意味羨ましいなと思った。

ボクは、「普段、まわりにいる人たち」を、「一般的な人たち」だと思っているけど、
実は、そこは、すっげー特殊な人たちばっかりなのかも知れない。
(教会って、本当にそういう事が起こりうる可能性を秘めた場所ですよね)
オレって井の中の蛙?

だから、やっぱり、なるべくいろんな人と接点を持つようにすることは、
ボクの責任だと思った。それも、別に背負い込むこととしてではなく、
ボクの大切な人生の一部分として。

だって、イエス様は、罪人とともに食事をする事を好まれた。
当時の宗教家たちが、どんなに彼を批判しようとも。
でもでも、それは世に流されることとは違う。
流される人は、教会の中だけにいても、十分流されている。
むしろ、世からの「影響」を進んで受ける覚悟を決めたいくらいだ。


こんな、ボクが、明日、「教育主事」に任命される。
ボクは、二つの理由から、少々躊躇している。

(1)人がボクを「教育主事」と意識して見出すと、
  私に対してはじめから構えてしまうのではないか。
  ・・・特に、「先生」という立場に弱い人たちがいる事を私は知っている。
    (まあ、ボクは先生じゃないと思うんだけど)
(2)ボク自身が、与えられた肩書きを勘違いして、
  人々を裁くために振りかざす可能性があるのではないか。
  ・・・私は、本当に醜く、とんでもない奴であることを私は知っている。

それでも、私はそれを甘んじて受けようと思った。

ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。
そして、キリストのからだのために、私の身をもって、
キリストの苦しみの書けたところを満たしているのです。
キリストのからだとは、教会のことです。

私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、
教会に仕える者となりました。
神のことばを余すところなく伝えるためです。
(コロサイ1:24-25)

今までもやっていた、事務的な働き。
これから携わろうとしている、教育的な働き。
そして、ずっと学び続けている、祈りの働き。

これらは、キリストのからだを建て上げるために、
体の隅々にまで行きめぐって、すべてをつなぎ合わせる働きだと思っている。
そして、時に身を引き裂かれるような苦しみを負う場でもある。
主は、私をここに召しておられるのだ。


主よ、ご覧の通り、私はあまりにも相応しくありません。
でもあなたの選びは、私の能力や人格によるものではありません。
ただただ、あなたの賜物と召しなのです。
私は、そのプロセスの一瞬一瞬を委ねます。
主よ、今、ここに、生きる事ができますように。
その変わりつつあるプロセスの中で、あなたを喜ぶことが出来ますように。
何よりも、あなたがいつも微笑みかけてくださっているのですから。

2006/02/17

まだまだ幻想?

再び副鼻腔炎の処置をしました。
今度は左側です。

恐怖だったのは、今日の朝飲んでいくはずだった
痛み止めが見当たらなかったため、飲まずに行ってしまったこと。
やっぱり、前より痛かったような気がします・・・。

そして、やっぱり、「あの音」にゾクッと来てしまいました。

でも今回は、イカの塩辛みたいなのは出てきませんでした。
処置時間も前より短かったと思います。

「あわれみ(Compassion)」というのは、「共に痛むこと」だそうです。
祈りのうちに、共に痛んでくださった方々、感謝です・・・!



そうそう、ナウエンの「差し伸べられる手~真の祈りへの三つの段階」を
読み終わりました。いつもながら、考えさせられる内容。

◆ 第一の移行: 孤独から独りで在ることへ
◆ 第二の移行: 敵意から接遇(もてなし)の心へ
◆ 第三の移行: 幻想から祈りへ

最近、ほとんど速読に近い形で読む事が多いんだけど、
3番目の「幻想から祈りへ」に入ったとたんに、よく理解できなくなってしまった。
おそらく、第一、第二に関しては、ここ一年間ぐらいの間に
自分の中でも深く考えさせられていたことだったので、
「なるほど、なるほど」と、感心させられながら読む事が出来たんだけど、
この部分は、一読しただけでは、ピンと来ない感じがした。

ボクには、まだ「祈り」ということがよく分かっていないんだなと思った。
しばらく期間を置いてから、また読んでみよう。

2006/02/16

わたしもその中にいる

今、教会全体で特別な祈りの取り組みをしている。
緊急の課題が持ち上がり、そのための連鎖祈祷をしているのだ。
今日の祈祷会では、その一つの答えが主から与えられた事を聞き、
みんなで感謝した。

しかし、私はその時に、牧師の祈りの中で
ほんの少しだけ触れられた御言葉によって、心がとらえられた。


もし、あなたがたのうちふたりが、
どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、
天におられるわたしの父は、
それをかなえてくださいます。

ふたりでも3人でも、
わたしの名において集まるところには、
わたしもその中にいるからです。
(マタイ18:19-20)


私がとらえられたのは、「心を一つにして」という部分だ。


私たちが「一つ」になることは、主のみこころだ。
そして、私たちはそのために召された。
しかしその単純な事が、なんと実際には難しいことか。
私たちは、一人一人、あまりに違う。
表面上同じ言葉で、同意したように見えても、
それぞれが考えているイメージまで、全く一致している事は少ないように思う。

使徒2章で、救われた3000人はさっそく、毎日心を一つにして祈っていた。
ありえない!
なんでそんな事が可能なんだろう?

主よ、3000人は、難しいかもしれません。300人ではどうでしょうか?
いいえ、300人も多いです。30人では?
いや、やっぱり12人。
5人ではどうでしょう?
5人家族くらいならば、一致できるのでは・・・。

しかし、主は言われる。
「あなたがたのうちのふたりが、・・・地上で心を一つにして祈るなら」

主よ、ありがとうございます!
たったふたりが、心を一つにして祈ればいいのですね!


でも・・・、たった2人の交わりですら、
心を一つにするって、何と難しいことでしょう!
でも、主は、そこから始めようとされているのです。
目の前に今置かれた人に対して、誠実でなくて、
どうして、群衆の前で誠実である事が出来るでしょう。
目の前に置かれた人に対して、正直である事ができなくて、
どうして、群衆の前で正直である事が出来るでしょう。

2人、3人でもというのは、そこなら簡単だからというだけではない。
その2人、3人との関係こそが、3000人の一致の大きな鍵となるのだ。


先日、「ミュンヘン」という映画を見た。
実話を元に、テロの際限ない報復合戦を通して、真の平和を問いかける作品だった。
あまりにもヘビーな内容だったが、いろいろと考えさせられた。

その中の一つが、果たして「自分達の信条が、相手を裁く理由になるのか」という事と、
平和や家庭を求めて戦っていたはずの人たちが、結局真の平和にも、
家庭の豊かさにも行き着かない事を感じ始め、疑問を持ち始める。

そのラストで、自分に指令を下した国家の者に対して、
「今晩、あなたをうちに食事にお招きします。あなたは遠方からの客人です。
 私にはあなたをもてなす義務がある」
と声をかけていたのがとても印象的だった。
「ともに食事をする」。
生活の中で、顔と顔をつきあわせてじかに触れ合う。
こんな当たり前の事が、当たり前に出来ることこそ、価値のあるものなのだ。

自分の義を主張するばかりの所には、平和は生まれない。
むしろ、互いの違いは認めつつ、それをそのまま受け入れるか、
脇に置くかしながら、「あなたと私が一緒に食事をする」こと。
これこそが、平和への第一歩なのではないかと思った。


2人、3人が心を開いて、互いに耳を傾けあい、交わること。
それは、全世界にが一つとなるための出発点なのだ。
そういう祈り。
イエスがたしかにそこにいると感じられる祈り。
そういう祈りの中で、ボクたちは際限なくつながっていけるのだ。

2006/02/14

私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。
夜には私の歌を思い起こし、
自分の心と語り合い、私の霊は探り求める。

・・・私は、主のみわざを思い起こそう。
まことに、昔からの あなたの奇しいわざを思い起こそう。
私は、あなたのなさったすべてのことに 思いを巡らし、
あなたのみわざを、静かに考えよう。
(詩篇77:5,6,11,12)


2006年2月14日。
この日は、私にとって特別な日だ。
私の生涯において、おそらく最も大切な出会い・・・。
この方とともに歩む決意をしてからの日数が、それまでの日数を越える日。
それが、私にとってこの日が持つ意味だ。


1988年11月19日。
アメリカ、アラバマ州の南端。Gulf Shore。
前日の夜、私たちがその場に到着した時には、もう辺りはすっかり暗くなっていた。
車から降りた私の目に、まず飛び込んできたのは、ぼうっと白く光る地面。

「雪?」
いや、そんなはずはない。
涼しくはなっていたが、まだどちらかというと暖かい季節だ。

「塩?」
私は岩塩の広がる大地というものを見た事がないが、こんな感じなのだろうか。
でも、それもやっぱり違うようだ。
その白さは、生まれてこの方、見たことのないものだった。

降り立ったみんなは、その光る大地めがけて走り出した。
ここに一緒に来たのは、私の行っていた教会のユースグループのメンバーたちだ。


アメリカに来るまで、教会に行ったことすらない私。
キリストが、実際に生きていた歴史上の人物だという認識すら怪しかった私。
「これからの国際人は、キリスト教ぐらい知っておかないとだめだとは思う。
でも、ボクは絶対にクリスチャンにはならないよ。」と、安易に言っていた私。

でも、そんな私はどういう訳か、普通の交換留学プログラムに参加したはずなのに、
現地の公立高校ではなく、私立のクリスチャンスクールに通うことになった。
(考えてみれば、それは私たちが今「チャーチスクール」と呼んでいるものだった。)

ちょっとした失恋からひどく思い悩み、
たったそれだけの事で「死んだっていい」という妙な勇気が与えられた時、
同時に「でも、死んではいけない」との思いも心に湧きあがっていた。

「なぜ、死んではいけないのか?」
「生きているからには、何か目的があるはずだ。」
そんな事から、彼らクリスチャンが信じているものに
何かのヒントがあるのかもしれないと思うようになった。

私はアメリカ人に憧れていた。
彼らは自分と違って自由だと思った。
アメリカに来てから、やっぱりその通りだと思った。
でも、しばらくしてから、彼らが魅力的なのは、
彼らがアメリカ人だからではなく、彼らの信じているものが
そうさせているのだという事を感じるようになっていた。
なぜなら、信じている者とそうでない者との違いが見えてきていたからだ。

キリスト教については、相変わらず理解できなかったけれど、
そこでの友達たちは、とても素晴らしかった。
彼らから流れてくる無邪気さ、温かさのゆえに、
悩みの中にあっても、私はそこに留まり続けることを選んだのだ。
自分には信じられないかもしれないけど、彼らみたいになりたい。
彼らには、そう感じさせるものがあった。

そんな仲間に囲まれて、2泊のリトリート・キャンプに出かけてきた所だった。
金曜日だったけれど、私たちだけ、学校を早く切り上げて出発した。
そんな柔軟さもこの学校にはあった。


・・・私も白い大地めがけて走り出してみた。

キュッ、キュッ
「え?」

歩くと音がする。
これは砂だ! そう、ここは砂浜なのだ。
白い砂浜が、月明かりに照らされて光っている。
こんなに美しい砂は、今までに見た事がない。

私たちはそこで輪になって座った。
一人一人が、思い思いに感謝を語り合った。
その中の一人が言った。

「ここに、Kenjiが一緒にいることを感謝します」
なぜ?なぜ、ボクがいる事が感謝なのか。
でも、心からそう言ってくれる人がいることが、素直に嬉しかった。

そして、私たちは海に向かって横一列に並んだ。
手をつないだ。

「祈りましょう。今日は、目をつぶらないで、祈りましょう。
 この、神様が造られたすばらしい自然を、しっかりと見ながら、
 神様のみわざをほめたたえましょう。」

涙が出た。
こんなに美しい自然を造られた神がいる。
神がいないはずがない。
心があたたかくなった。


翌日。
居心地のいい宿舎のリビングで、ゲストからのメッセージを聞いた。
英語もキリスト教も今ひとつな私には、あまりよく分からなかった。
彼は最後に、昨日の砂浜の砂が入った小さな袋を、
私たち一人一人に渡した。
それを受け取ると、みんな黙って外へ出て行った。
私も同じようにしてみた。

Host Fatherであり、Youth PastorであるPaulが、近寄ってきた。
「Kenji。今、何をしているか、分かったか?」
「いや、分からない。みんなみたいに、この砂を砂浜に撒き散らせばいいの?」
「そうだ。でもこれは象徴なんだ。私たちの罪を神の前に告白する。
 そうすれば、この砂がどこに行ったのか分からなくなるように、
 神は私たちの罪を赦してくださる。」
「何だかよく分からない・・・。」

すると、彼は砂浜に指で大きなハートを描いた。
「Kenjiの心には、いろんないいものがある。
 英語を話す能力。サッカーをする能力。勉強。音楽。柔らかい心・・・。
 でも、こういうものではどうしても満たす事ができない、空洞が、あるんだ。
 そう、ここは神様によってしか満たす事ができない空洞だ。
 どんなに良いことをしても、それだけではその空洞は満たされない。
 神様を信じるとは、その空洞に神様を心に迎え入れることだ。」
「・・・。」
「私たちには罪があって、神様と壁をつくっている。
 イエスはその罪を赦すために十字架にかかってくださった。
 だから、救われるために私たちのするべきことは、
 イエスが自分の罪のために死んでくださった事を信じて、罪を告白することだ。
 でも、もしそうするなら、この撒かれた砂のように、
 それらは何一つ見えなくなる。」

正直、あまりよく分からなかった。
罪のこと、十字架のことは、あまりに自分と関係のないことに思われた。
それを「救い」と呼ぶことも、意味が分からなかった。

でも、心に、自分ではどうすることもできない空白があることは確かだった。
これを拒む理由はない。
分かりはしないけど、イチかバチか、ここに賭けてみるか・・・。


そして、私はPaulに導かれるまま、罪の告白をし、
イエスを私の個人的な救い主として心に迎え入れた。
よく分からなかったのに、心が熱くなって、とめどもなく涙があふれてきた。
自分の中で、何かがふっきれたような感覚だった。

それが、私とイエスとの出会い。
1988年11月19日のことだ。


それ以来、私はその日の事を後悔したことはない。
分からない事は、分からないままで良かったのだ。
イエスとともに歩むことを選ぶ限り、本当に知る必要があることは、
もっとも相応しいときに、知る事ができるようにと導かれている。

・・・その時から6,296日。
ついに、イエスとともに歩む日々が、イエスを知らずに歩んできた日数を越える。
私は、なんて恵まれているんだろう。
まだ何も分からない若き日に、この方と出会う事ができたのだ。


主よ、あらためて、あなたの奇しいわざを感謝します。
あなたが、私の人生の途上において、確かに出会ってくださったこと、
私の歩みを少しずつ、整えてくださっていることを感謝します。
あなたは、私を心から大切にし、自由にしてくださいました。
私は、一人の人格として、本当に愛されています。

私は、あなたの御業を誉め歌い、あなたの救いを告げ知らせましょう。
主よ、これからも、あなたとともに歩ませてください。
あなたは、私のすべてです。

2006/02/11

ボイス

自分の内側から聞こえてくる声・・・ボイス。
そこから少しずつ読み取れるようになってきた事が、2つある。

1.自分自身を生きよ

「自分自身を生きる」って、今さら当たり前のことのように思う。
でも、どれだけ長い間、私はそれをしてこなかったか。
そして、周りの人の評価を意識して生きる事が普通になり、
やがて、逆にその評価そのものに縛られて生きていく。
気がついてみたら、「自分自身」と呼べるものがどれほどあるか。
すべては借り物の思想。なのに、必死に自分自身を守ろうとしている。

そんな所からの脱却がテーマだ。いや、脱却する事が目的ではない。
神が私に与えてくださった、ユニークな召しに応えていくためには、
まず、これは主から委ねられている「自分自身の」人生なんだということ
肝に銘じておかなくてはならない。誰も自分の人生を決めてはくれない。
誰も自分の人生の責任をとってくれない。私は、ただ神がつくってくださった
私の姿をまっすぐに差し出し、与えられた賜物が生かされるならそれでよし、
さらに十字架の道を歩むようならそれでよし。
私に与えられた主の計画を生きるのだ。


2.信者の模範となりなさい

「模範的な信者」という意味ではない。信者の模範になるのだ。
信者とはどういうふうに生きるのか、信者はこういうふうに考えるのか、
信者の生活は確かに本物だ・・・、そんな風に人々が感じられるものがほしい。
完璧である必要はない。生きている以上、そんなことはありえない。
不完全なありのままの自分を認めながら、誠実に喜んで生きる。
それには、ある程度の自制をともなう。なぜなら、私たちが単に良い意図で
行なっている奉仕そのものは、必ずしもバランスのとれた生活をもたらさないからだ。

鍵となることばがある。
・私は一体何者なのか?(identity)
・私の全体的な一貫性はどうなのか?(integrity)
・私の神と人との関係はどうなのか?(intimacy)

そして、人間性と霊性を豊かに回復し、生き生きと生きている人。
信者も、未信者も、ああなりたいと思う者。
でも、決して能力や境遇のレベルではなく、世界観、人生観の部分において。
主のいのちを運ぶ器として用いられたい。

ちょっと、変わった召しかもしれない。
でも、もし一人の人が世界を変える事が出来るのだとしたら、
まず私が自分自身を生きるところから始めなくてはならない。
そして、それを契機に、教会の群れが変わらなくてはいけない。
その変えられた群れの姿があってこそ、この世の光になるのだ。


主よ、これは私にしか生きることのできない、私のいのちです。
何と多くの時間を使って、自分自身を人の手に委ね、
自ら判断することをせず、状況に振り回されてしまってきたことでしょう。
どうか、こんな私をおゆるし下さい。
それでも、自分自身を生きたいです。
そして、周りもクリスチャンも、まったく知らない人も同様に、
私を見て、キリストが確かにそこにいて、私もその様になりたい。
と思われるような人間になりたい。

2006/02/09

トリノオリンピック



・・・って、そう聞こえませんか?

検索してみたら、結構同じこと考えている人がいたさ・・・。

2006/02/08

私の隣人とは?

「私の隣人とは、だれのことですか?」

そうだ。
彼は、自分の正しさを示そうとしてこう言っている。
一体、イエスからどんな答えを引き出そうとしているのだろう?

だいたい、自信たっぷりに、こんな質問している態度がムカつく。
まあ、律法の行ないに関しては、後ろめたさがなかったんだろうね。
ここでも、いかに自分が隣人を愛しているか、
周りの人たちの前で、証明したかったんじゃないかな。

いや、そんな彼でも、心の中にはある種の欠けに気付いていたのかもしれない。
「何をしたら永遠のいのちを、『自分のものとして』受けることができるでしょう」
って、イエスに質問してるんだから、
「こんなに律法を守っているのに、オレの生活、何かおかしい」
ってなんとなく、モヤモヤしたものがあったのかもしれない。


それに対して、イエスは、簡単には答えてくれない。
別に、いじわるじゃないとは思うんだけどね。

強盗に襲われて半殺しにされた人が、道端に倒れていました。
たまたま、通りかかった祭司も教師も、見て見ぬふりをして、行っちゃいました。
でも、普段は決して交流することのないサマリヤ人は、
彼を見てかわいそうに思って、介抱してあげました。
さあ、この3人のうち誰が隣人になったでしょう?

・・・そりゃあ、このサマリヤ人だろ?

「あなたも行って同じようにしなさい」


ここで、はたと考え込んでしまった。
イエスは、一体何を伝えたかったのだろう。

あえてたとえ話を使っているのは、
律法を守ることにいのちをかけている人に、
律法的な答えを与えても救いにならない事をよく分かっていたからだと思う。
きっと、「こうしていれば正しい。こうしていれば安心」って人には、
「気付き」が与えられるように促してやる必要があるんだろう。

それで、イエスは何に気付けと言っているんだろう?


・・・私が気付いたのは、こういうことです。
祭司もレビ人も、「たまたま」そこに通りかかった。
サマリヤ人も、「そこに来合わせた」。
つまり、「偶然」そういう場面に遭遇しちゃったのだということ。

でも、神にあっては「偶然」は単なる「偶然」ではない。
イエスのチャレンジは、要するに、今、目の前で助けを必要としている人に
きちんと目を向けなさい、ということではないだろうか?
そう。一度に一人ずつ。
今、この場所にこそ、イエスを愛する機会が開かれているのだ。

私たちの頭の中は、私たちの生活は、
「イエスに仕えるために、あれもしなくては、これもしなくては」と、
必要以上に忙しくなりすぎていないだろうか?
そして、目の前に突然現れた予定外の必要を、
イエスに仕える上で邪魔なこと、考えたくないこととして、
あまりにも簡単に脇に追いやってしまっているのではないか。
精一杯愛をもって対応したとしても、心の根底では、
「想定外」のことは、悪しき事と思ってはいないか?

もし、これこそが、イエスのみこころなのだとすると、
私たちが、「みこころの実現のために」忙しく駆けずり回っていることは、
著しくみこころから逸れた事になりかねない。

そういう意味で、いつでも主に仕える事ができるように整えられる、というのは、
忙しさで心を失ってしまう事がないように、あえて自制することを
含んでいるんじゃないか。


「私の隣人とは、だれですか」
・・・そう、まさに私の隣に主が置かれた人こそが、私の隣人なのだ。


主よ、およびもつかないような大きな事をしようとする誘惑から守ってください。
今、ここに生きることが出来ずに、良いサマリヤ人になることなど出来ません。
あなたが、目の前に置かれた一人一人と、しっかりと向き合い、
一人一人を愛されたのと同じように、私も、一度に一人ずつ、
しっかりと向き合っていく事ができますように。
うわついた私の心を、あなたの愛で守ってください。

2006/02/06

「才能」と「賜物」

「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と神が言われる時、
恐らくその目に映っているのは、私の「才能」ではなく私の「存在」そのものだ。
私の存在を喜んでくれる方がいる!

存在そのものが贈り物。
私の存在は、神の賜物で満ちているのだ。


ナウエンは言う。

才能と賜物の区別には意味があります。
私たちに与えられている賜物は、才能より重要です。
私たちは少ない才能しか持っていませんが、賜物はたくさん持っています。
私たちの賜物は、私たちの人間性をさまざまな手段で表わすものであり、
私たちが何者であるかを表わすものです。

すなわち、友情、親切、忍耐、喜び、平和、赦し、柔和、愛、希望、信頼、
そのほかの多くのもの。
これらは、私たちが互いに与え合うべき真の賜物です。
(「愛されている者の生活~世俗社会に生きる友のために」より)


でもこの世は、私に「才能」を求めるし、その重圧はただものではない。
「存在」そのもので安住していられるほど、世の中は甘くない。
「自らの価値を証明せよ」という誘惑に、私たちは容易に屈してしまうのだ。

むしろ、「私たちには何もできないんだ」という事をもっと素直に認めるべきだ。
そうすればきっと、存在価値の証明という誘惑から脱して、
純粋に、与えられている賜物を分かち合えるようになる。


無力さという賜物。


主よ、私を、そういう全く新しい次元に、留まらせてください。
私はあまりにせっかちなのでしょうか。
私のうちに、キリストの姿がかたちづくられるまで、
忍耐することを教えてください。
それは、私の希望です。感謝します。

2006/02/05

家族と仕事、どっちが大事なの?

「家族と仕事、どっちが大事なの?」

という、いささか素朴な葛藤は誰にでも起こりうる。
今、私は、あえて言うならば、家族(ファミリー)の大切さを訴えることを通して、
健全な共同体としてのあり方に、バランスをもたらそうとしていることだ。

昨日今日とあまり調子はよくなかったが、主は御業をなしてくださった。

一番祈りに覚えていたのは、「これからの牧会ファミリーについて考える会」。
ミッション3000全体の中で、働きがどんどん広がっていく中で、
また今置かれている率直な様々な現状の中で、
私たちが、自ら考えなくてはならない、選び取らなくてはならない所はどこなのか、
それを、牧会ファミリーの雰囲気で牧会ファミリーそのものについて話し合うことにした。

一つの前提条件を設けた。
「みんな背景が違うので、今回はとにかく相手の言っている事を、
 相手以上に理解する事が出来るように努めながら聞いてください。」

いろんな意見が出る。
それぞれ真剣にディスカッションが出来ていたようだ。

私は私の立場で示されていることを、語った。
メッセージと違い、特に「盛り上がりどころ」というのもなく、
淡々と会を進めていったため、期待していたような成果が生まれたかどうかは
その時の雰囲気では分からなかった。(私が具合が悪かったせいもあるが)

しかし、後になって「ぜひ今後この事について、もう少し話がしたい」という
声が届くようになった。よかった。
今回は、心を耕すための下準備第1弾という所だったので、
ある程度目的は達せられたのかな。

さらなる知恵が与えられて、ミッション3000実現に向けての
鍵として牧会ファミリーが純然と機能していくことを願っている。

「仕事」をしようとすればするほど「家族」が大事になってくるのだ。
そこを抜きに考えてしまうなら、今の日本の現状の必要に
ちっとも届いていくことはできないだろう。

いつも、違う次元からモノを見る訓練が必要だ。

2006/02/03

似ても似つかぬもの

 ある特別な行為や助言以上に大切なのは、心配してくれるだれかが、ただいっしょにいてくれることです。わたしたちが重大な局面にあって、だれかが「何を言い、どうしたらいいかわからないけれど、とにかく、わたしがあなたといっしょにいること、あなたを独りにしないことをわかってほしい」と言ってくれるとき、その人によって慰めと安らぎを与えてくれる友を得るのです。

 人を変えたり、その行いに影響を与えたり、新しいことをさせたり、新しい考えをもたせるような方法や技術を山ほどもっているとき、お互いがそこにいっしょにいるという、簡単そうに見えて実はたいへんな賜物を失う場合が多いのです。自分がそこにいる以上、何か役に立たなければと信じこんだばかりに、この賜物を失う羽目になるのです。

・・・「コンパッション~ゆり動かす愛」(ナウエン他)より。


悩んでいる人を見ると、解決を与えなくてはいけないような気がする。
導きを求めている人を見ると、導かなくてはいけないような気がする。
貧しい人を見ると、与えなくてはいけないような気がする。
困っている人を見ると、何かをしなくてはいけないような気がする。

でも、本当に必要としている人を見ると、見て見ぬふりをしている。


これは、イエスの「憐れみ」とは似ても似つかぬものだ。
私は結局、本当は役に立たない自分への罪責感をごまかすために、
「良い」行いをしようとしているだけだ。
その「良い」行いが重荷だと思ったときには、気がつかなかったふりをして
通り過ぎるのが一番だ。

でも、「友」となるということは、「役に立つ」こととは違う。
かけがえのないお互いが、へりくだって、尊敬しあって、
そこにいっしょにいるということなのだ。


頼んでいたナウエンの古本が、次々と送られてくる。
まだ、さわり読みではあるが、果てしなく謙遜な人格から、ひしひしとイエスの姿が伝わってくる。


明日は、託された重大な任務がある。
あせっているのかな。
肩の荷が重くのしかかっているような感覚。


主よ、私の心を取り扱ってください。
何者かであろうとする誘惑から守り、ありのままのいのちを生きる事ができるように。
人々との接点の中心に、ただあなたがいてくださり、ともに喜ぶ事ができるように。
弱い私を、御前にそのまま差し出す事が出来ますように。

委ねます。主よ。

2006/02/01

根本治療

最後に骨盤矯正に行ってから、もうすぐ一年になる。

「一時的な処置で副鼻腔炎が良くなったとしても、骨のズレが治らないと、結局はその様な炎症を繰り返す事になるから、もう一度きちんと骨盤矯正に行ったほうがいいらしいわよ。」

そう指摘されて、もっともだと思った。
病巣を取り除くことは根本治療とは違う。
もちろん、悪循環を避けるため、対処療法や病巣の摘出は必要だと思う。しかし、体全体の構造や体質、生活パターン等を改善しないと、またいつかは同じことの繰り返しになる。そのために役立つと考えられるのは、骨盤療法や漢方薬ということになる。

骨盤療法というのは、まあ一種の整体みたいなものだが、骨盤のズレが万病のもとだという考えで、治療を行なうものだ。私が行った所では、「バラコンバンド」という生ゴム製の2mぐらいのゴムチューブを、自分で腰や他の間接に巻きつけては取り外す、という事の繰り返しにより、自分でも体の調整ができるというものだ。そして、時々その場所に行って、体全体の調整をしてもらう。

でも、もう一年も行ってない。
本来なら、行かなかったとしても、バラコンバンドで自分なりに体を調整しておくべきだ。
今だからこそ、行ったほうがいいような気もするが、なんだか気後れしてしまう。
一年も行っていないと、顔を合わし難くなってしまった。


うーん。これって教会にしばらく来れなくなってしまった人たちの思考パターンなのかも知れないなぁ。彼らは決して教会に来たくないと思っているわけではない。しかし、ずっと来れなかった事への多少の後ろめたさがあって、かえって来難くなってしまっているのではないか?久しぶりに顔を出すと、別に叱られないまでも、いちいち一人一人に弁解をしなくてはならない事を考えると、なかなか自由に教会に来られなくなってしまっているのではないだろうか。そんな事でずるずると日が延びてしまうと、いよいよ行ったみたいという気持ちも失せてしまう。だいたいそんな所なのではないだろうか。

それからもう一つ考えさせられること。「キリストのからだ」にも対処療法ではなく、根本治療が必要だということだ。 どこか肝心な所の小さなズレが、からだ全体の原因不明の不調につながることもある。
見える問題だけが、本当の問題ではないんだ。


まずは、自分自身と自分の周りの「ズレ」を、なるべく健全な状態へと戻すこと。
案外、そこからすべてが回り出すかもかもしれないな。