2006/02/18

電話だよー・・・。あ゛っ!

「さとけーん、電話だよーっ、さとけーん」
という声で目が覚める。やばいっ。
つ、月井先生から電話だ。
ち、遅刻だ~~~!

ちなみに、上記の声は、私の声。
そう、携帯電話の呼び出し音なのです。
ふざけ半分に録音したやつをそのまま使い続けているのです。
ほとんどの場合は、バイブレーションにしてるし、
あんまり人に聞かれないようになっています。
でも、前に病院の待合室で鳴ったときははずかしかったなぁ・・・。

それはさておき、遅刻です。
今日は早天祈祷会でメッセージの担当でした。
私は、ここ数ヶ月ずっと眠剤を飲んで寝ているせいか、
朝はちょっと弱い。(その前から弱かったのでわ?という突っ込みは、ナシよ)
だから、最近は、担当の日しか行っていない。
しかも前回は、まったくダメダメで、ドタキャンをして迷惑をかけた。

なのに遅刻。
ちゃんと目覚ましかけたはずなのに~。
でも、仕方がないので気持ちを切り替えてすぐに教会へ向かった。


マタイ5章、山上の垂訓の所から、最近思わされていることを語った。
「心の貧しさ」について。
「義に飢え乾いている」ことについて。
「平和」について。
どれも、映画や本を通して考えられた事ばかり。

教会は(というかクリスチャンは)、もっともっと、
世の中の人がどのようにモノを見て、考えているのか、よく学ぶ必要がある。
こう言うと堅く聞こえる。

でも、最も神を必要としている人たちを、
私たちは勝手に自分達の基準で裁き、近寄らないようにしているのだ。
まさに半殺しにされた人を、見てみぬ振りして通り過ぎた祭司のようだ。


今日、ふだんあんまり話す機会のない二人の女性と話をした。
(へーい、見てる~?)
話していたら、ボクがココのところ必死になって戦っている部分が、
そんなに普遍的な話じゃないのかなーって気がしてきた。
「そんな事考えた事もなかったーーー。」と言われつつ、
ある意味羨ましいなと思った。

ボクは、「普段、まわりにいる人たち」を、「一般的な人たち」だと思っているけど、
実は、そこは、すっげー特殊な人たちばっかりなのかも知れない。
(教会って、本当にそういう事が起こりうる可能性を秘めた場所ですよね)
オレって井の中の蛙?

だから、やっぱり、なるべくいろんな人と接点を持つようにすることは、
ボクの責任だと思った。それも、別に背負い込むこととしてではなく、
ボクの大切な人生の一部分として。

だって、イエス様は、罪人とともに食事をする事を好まれた。
当時の宗教家たちが、どんなに彼を批判しようとも。
でもでも、それは世に流されることとは違う。
流される人は、教会の中だけにいても、十分流されている。
むしろ、世からの「影響」を進んで受ける覚悟を決めたいくらいだ。


こんな、ボクが、明日、「教育主事」に任命される。
ボクは、二つの理由から、少々躊躇している。

(1)人がボクを「教育主事」と意識して見出すと、
  私に対してはじめから構えてしまうのではないか。
  ・・・特に、「先生」という立場に弱い人たちがいる事を私は知っている。
    (まあ、ボクは先生じゃないと思うんだけど)
(2)ボク自身が、与えられた肩書きを勘違いして、
  人々を裁くために振りかざす可能性があるのではないか。
  ・・・私は、本当に醜く、とんでもない奴であることを私は知っている。

それでも、私はそれを甘んじて受けようと思った。

ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。
そして、キリストのからだのために、私の身をもって、
キリストの苦しみの書けたところを満たしているのです。
キリストのからだとは、教会のことです。

私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、
教会に仕える者となりました。
神のことばを余すところなく伝えるためです。
(コロサイ1:24-25)

今までもやっていた、事務的な働き。
これから携わろうとしている、教育的な働き。
そして、ずっと学び続けている、祈りの働き。

これらは、キリストのからだを建て上げるために、
体の隅々にまで行きめぐって、すべてをつなぎ合わせる働きだと思っている。
そして、時に身を引き裂かれるような苦しみを負う場でもある。
主は、私をここに召しておられるのだ。


主よ、ご覧の通り、私はあまりにも相応しくありません。
でもあなたの選びは、私の能力や人格によるものではありません。
ただただ、あなたの賜物と召しなのです。
私は、そのプロセスの一瞬一瞬を委ねます。
主よ、今、ここに、生きる事ができますように。
その変わりつつあるプロセスの中で、あなたを喜ぶことが出来ますように。
何よりも、あなたがいつも微笑みかけてくださっているのですから。

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