2006/02/03

似ても似つかぬもの

 ある特別な行為や助言以上に大切なのは、心配してくれるだれかが、ただいっしょにいてくれることです。わたしたちが重大な局面にあって、だれかが「何を言い、どうしたらいいかわからないけれど、とにかく、わたしがあなたといっしょにいること、あなたを独りにしないことをわかってほしい」と言ってくれるとき、その人によって慰めと安らぎを与えてくれる友を得るのです。

 人を変えたり、その行いに影響を与えたり、新しいことをさせたり、新しい考えをもたせるような方法や技術を山ほどもっているとき、お互いがそこにいっしょにいるという、簡単そうに見えて実はたいへんな賜物を失う場合が多いのです。自分がそこにいる以上、何か役に立たなければと信じこんだばかりに、この賜物を失う羽目になるのです。

・・・「コンパッション~ゆり動かす愛」(ナウエン他)より。


悩んでいる人を見ると、解決を与えなくてはいけないような気がする。
導きを求めている人を見ると、導かなくてはいけないような気がする。
貧しい人を見ると、与えなくてはいけないような気がする。
困っている人を見ると、何かをしなくてはいけないような気がする。

でも、本当に必要としている人を見ると、見て見ぬふりをしている。


これは、イエスの「憐れみ」とは似ても似つかぬものだ。
私は結局、本当は役に立たない自分への罪責感をごまかすために、
「良い」行いをしようとしているだけだ。
その「良い」行いが重荷だと思ったときには、気がつかなかったふりをして
通り過ぎるのが一番だ。

でも、「友」となるということは、「役に立つ」こととは違う。
かけがえのないお互いが、へりくだって、尊敬しあって、
そこにいっしょにいるということなのだ。


頼んでいたナウエンの古本が、次々と送られてくる。
まだ、さわり読みではあるが、果てしなく謙遜な人格から、ひしひしとイエスの姿が伝わってくる。


明日は、託された重大な任務がある。
あせっているのかな。
肩の荷が重くのしかかっているような感覚。


主よ、私の心を取り扱ってください。
何者かであろうとする誘惑から守り、ありのままのいのちを生きる事ができるように。
人々との接点の中心に、ただあなたがいてくださり、ともに喜ぶ事ができるように。
弱い私を、御前にそのまま差し出す事が出来ますように。

委ねます。主よ。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

わあぁぁぁ
できんわ。

さとけん さんのコメント...

人と一緒にいるときでも、何もしなくても「平安」ってなれるといいんだけどねぇ。

匿名 さんのコメント...

これ読んだ後、さっそく実行してみたー。やっぱ、これは大事だわ。一緒にいること・・・。相手を変えようとしなくてもいい・・・。

・・・しかし、改めて読んで、また忘れてた事に気付いた。

悔い改めまーす☆