2006/02/14

私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。
夜には私の歌を思い起こし、
自分の心と語り合い、私の霊は探り求める。

・・・私は、主のみわざを思い起こそう。
まことに、昔からの あなたの奇しいわざを思い起こそう。
私は、あなたのなさったすべてのことに 思いを巡らし、
あなたのみわざを、静かに考えよう。
(詩篇77:5,6,11,12)


2006年2月14日。
この日は、私にとって特別な日だ。
私の生涯において、おそらく最も大切な出会い・・・。
この方とともに歩む決意をしてからの日数が、それまでの日数を越える日。
それが、私にとってこの日が持つ意味だ。


1988年11月19日。
アメリカ、アラバマ州の南端。Gulf Shore。
前日の夜、私たちがその場に到着した時には、もう辺りはすっかり暗くなっていた。
車から降りた私の目に、まず飛び込んできたのは、ぼうっと白く光る地面。

「雪?」
いや、そんなはずはない。
涼しくはなっていたが、まだどちらかというと暖かい季節だ。

「塩?」
私は岩塩の広がる大地というものを見た事がないが、こんな感じなのだろうか。
でも、それもやっぱり違うようだ。
その白さは、生まれてこの方、見たことのないものだった。

降り立ったみんなは、その光る大地めがけて走り出した。
ここに一緒に来たのは、私の行っていた教会のユースグループのメンバーたちだ。


アメリカに来るまで、教会に行ったことすらない私。
キリストが、実際に生きていた歴史上の人物だという認識すら怪しかった私。
「これからの国際人は、キリスト教ぐらい知っておかないとだめだとは思う。
でも、ボクは絶対にクリスチャンにはならないよ。」と、安易に言っていた私。

でも、そんな私はどういう訳か、普通の交換留学プログラムに参加したはずなのに、
現地の公立高校ではなく、私立のクリスチャンスクールに通うことになった。
(考えてみれば、それは私たちが今「チャーチスクール」と呼んでいるものだった。)

ちょっとした失恋からひどく思い悩み、
たったそれだけの事で「死んだっていい」という妙な勇気が与えられた時、
同時に「でも、死んではいけない」との思いも心に湧きあがっていた。

「なぜ、死んではいけないのか?」
「生きているからには、何か目的があるはずだ。」
そんな事から、彼らクリスチャンが信じているものに
何かのヒントがあるのかもしれないと思うようになった。

私はアメリカ人に憧れていた。
彼らは自分と違って自由だと思った。
アメリカに来てから、やっぱりその通りだと思った。
でも、しばらくしてから、彼らが魅力的なのは、
彼らがアメリカ人だからではなく、彼らの信じているものが
そうさせているのだという事を感じるようになっていた。
なぜなら、信じている者とそうでない者との違いが見えてきていたからだ。

キリスト教については、相変わらず理解できなかったけれど、
そこでの友達たちは、とても素晴らしかった。
彼らから流れてくる無邪気さ、温かさのゆえに、
悩みの中にあっても、私はそこに留まり続けることを選んだのだ。
自分には信じられないかもしれないけど、彼らみたいになりたい。
彼らには、そう感じさせるものがあった。

そんな仲間に囲まれて、2泊のリトリート・キャンプに出かけてきた所だった。
金曜日だったけれど、私たちだけ、学校を早く切り上げて出発した。
そんな柔軟さもこの学校にはあった。


・・・私も白い大地めがけて走り出してみた。

キュッ、キュッ
「え?」

歩くと音がする。
これは砂だ! そう、ここは砂浜なのだ。
白い砂浜が、月明かりに照らされて光っている。
こんなに美しい砂は、今までに見た事がない。

私たちはそこで輪になって座った。
一人一人が、思い思いに感謝を語り合った。
その中の一人が言った。

「ここに、Kenjiが一緒にいることを感謝します」
なぜ?なぜ、ボクがいる事が感謝なのか。
でも、心からそう言ってくれる人がいることが、素直に嬉しかった。

そして、私たちは海に向かって横一列に並んだ。
手をつないだ。

「祈りましょう。今日は、目をつぶらないで、祈りましょう。
 この、神様が造られたすばらしい自然を、しっかりと見ながら、
 神様のみわざをほめたたえましょう。」

涙が出た。
こんなに美しい自然を造られた神がいる。
神がいないはずがない。
心があたたかくなった。


翌日。
居心地のいい宿舎のリビングで、ゲストからのメッセージを聞いた。
英語もキリスト教も今ひとつな私には、あまりよく分からなかった。
彼は最後に、昨日の砂浜の砂が入った小さな袋を、
私たち一人一人に渡した。
それを受け取ると、みんな黙って外へ出て行った。
私も同じようにしてみた。

Host Fatherであり、Youth PastorであるPaulが、近寄ってきた。
「Kenji。今、何をしているか、分かったか?」
「いや、分からない。みんなみたいに、この砂を砂浜に撒き散らせばいいの?」
「そうだ。でもこれは象徴なんだ。私たちの罪を神の前に告白する。
 そうすれば、この砂がどこに行ったのか分からなくなるように、
 神は私たちの罪を赦してくださる。」
「何だかよく分からない・・・。」

すると、彼は砂浜に指で大きなハートを描いた。
「Kenjiの心には、いろんないいものがある。
 英語を話す能力。サッカーをする能力。勉強。音楽。柔らかい心・・・。
 でも、こういうものではどうしても満たす事ができない、空洞が、あるんだ。
 そう、ここは神様によってしか満たす事ができない空洞だ。
 どんなに良いことをしても、それだけではその空洞は満たされない。
 神様を信じるとは、その空洞に神様を心に迎え入れることだ。」
「・・・。」
「私たちには罪があって、神様と壁をつくっている。
 イエスはその罪を赦すために十字架にかかってくださった。
 だから、救われるために私たちのするべきことは、
 イエスが自分の罪のために死んでくださった事を信じて、罪を告白することだ。
 でも、もしそうするなら、この撒かれた砂のように、
 それらは何一つ見えなくなる。」

正直、あまりよく分からなかった。
罪のこと、十字架のことは、あまりに自分と関係のないことに思われた。
それを「救い」と呼ぶことも、意味が分からなかった。

でも、心に、自分ではどうすることもできない空白があることは確かだった。
これを拒む理由はない。
分かりはしないけど、イチかバチか、ここに賭けてみるか・・・。


そして、私はPaulに導かれるまま、罪の告白をし、
イエスを私の個人的な救い主として心に迎え入れた。
よく分からなかったのに、心が熱くなって、とめどもなく涙があふれてきた。
自分の中で、何かがふっきれたような感覚だった。

それが、私とイエスとの出会い。
1988年11月19日のことだ。


それ以来、私はその日の事を後悔したことはない。
分からない事は、分からないままで良かったのだ。
イエスとともに歩むことを選ぶ限り、本当に知る必要があることは、
もっとも相応しいときに、知る事ができるようにと導かれている。

・・・その時から6,296日。
ついに、イエスとともに歩む日々が、イエスを知らずに歩んできた日数を越える。
私は、なんて恵まれているんだろう。
まだ何も分からない若き日に、この方と出会う事ができたのだ。


主よ、あらためて、あなたの奇しいわざを感謝します。
あなたが、私の人生の途上において、確かに出会ってくださったこと、
私の歩みを少しずつ、整えてくださっていることを感謝します。
あなたは、私を心から大切にし、自由にしてくださいました。
私は、一人の人格として、本当に愛されています。

私は、あなたの御業を誉め歌い、あなたの救いを告げ知らせましょう。
主よ、これからも、あなたとともに歩ませてください。
あなたは、私のすべてです。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

早速証読ませて頂きました。素敵なイエス様との出会いですね^^。
「イチかバチか、ここに賭けてみるか・・・。」私も同じような感じでした。

さとけん さんのコメント...

コメントありがとう!
ボクが神様を選んだんじゃなくて、神様がボクを選んでくれたんだなーって事がはっきり分かります。ボクは真実ではなくても、神様は真実。
感謝だねー。