2006/02/28

ともに食する

「ともに食することは、礼拝だと思う。」

・・・この言葉は、かなり心に響いている。
昨日の夜、今日の昼、夜と、友人とともに食する事が続いた。
そして、その場にイエス様が確かにいてくださった事を信じる。

礼拝とは何か?
これは、かなり深い洞察が与えられるべきテーマだ。
私たちは、「礼拝出席」はしていても、「真の礼拝」をしていないかも知れない。
「礼拝出席」は、大いに強調されるべき事だが、
それを強調するあまり、「礼拝に出席する事が礼拝だ」との思い違いを
してしまう危険性があることを、常に自戒し続けるべきだと思う。

わたしの言うことを信じなさい。
あなたがたが父を礼拝するのは、
この山でもなく、エルサレムでもない、
そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、
わたしたちは知って礼拝していますが、
あなたがたは知らないで礼拝しています。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって
父を礼拝する時が来ます。今がその時です。
父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、
霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(ヨハネ4:21-24)


「礼拝の場所」は関係がない。
「知って礼拝するか」どうかも関係がない。
そして、「今がその時」。

問われるのは、「真の礼拝者」かどうかということ。
神は、このような人々を求めておられる。
そして、私たちの心の扉を、叩いておられるのだ。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。
だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、
彼もわたしとともに食事をする。
(黙示録3:20)

私たちは、よくWWJD( What Would Jesus Do?)という問いかけをする。
イエス様だったらどうするだろうか?という意味だ。

ここで、イエス様は、
1 「戸の外に立ってたたく方」
2 「戸を開けた者のところに入られる方」
3 「彼とともに食事をする方」

私たちは、同じようにしているだろうか?
戸をこちらから無理矢理こじあけておきながら、
彼の所に入るどころか、むしろ引きずり出してはいないか?
食事をするどころか、「礼拝」と呼ばれる群衆の中に放り投げて、
その人数を数えて満足してはいないか?


礼拝については、いろいろな視点がある。
だから、一概に善し悪しを論じることはできないが、
少なくとも、自らの姿勢を省みることは誰にでもできるはずだ。

この世界に本物の「福音」を輝かせる事ができていないとしたら、
それは多分にクリスチャンと呼ばれる私たちの責任である。
それが出来ない私たちは、私たち自身が本来受けるべき恵みをも
自らが制限しているということでもある。

だから、自己変革は、誰かのためにあえて犠牲を負うという側面だけでなく、
むしろ「自分の救いを達成する(ピリピ2:12)」という視点からも、
積極的に取り組むべきだと思う。


ね?ともに、食事しましょうよ。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

「ともに食する」

う~~~ん、深いですね。実に深い。

イエス様はそれを聖書を通して私達に語り掛けてくださいますね。

収税人ザアカイもその一人でしたね。

僕ね。天国に行ったらイエス様に聞きたいんですよね。あの時、ザアカイとどんな話をされたのかってね。

匿名 さんのコメント...

うん、たべよぉ♪

さとけん、美味しいお店に連れてって~(≧▽≦)♪あー、あそびにいきたーい。

さとけん さんのコメント...

masaya-samaさま

イエス様にザアカイとのこと聞いたら、こっそりボクにも教えてくださいね☆

さとけん さんのコメント...

あらぁ、たいちゃんってば、甘えんぼさんなんだから・・・。
o(^-^)o フフッ♪