2006/02/11

ボイス

自分の内側から聞こえてくる声・・・ボイス。
そこから少しずつ読み取れるようになってきた事が、2つある。

1.自分自身を生きよ

「自分自身を生きる」って、今さら当たり前のことのように思う。
でも、どれだけ長い間、私はそれをしてこなかったか。
そして、周りの人の評価を意識して生きる事が普通になり、
やがて、逆にその評価そのものに縛られて生きていく。
気がついてみたら、「自分自身」と呼べるものがどれほどあるか。
すべては借り物の思想。なのに、必死に自分自身を守ろうとしている。

そんな所からの脱却がテーマだ。いや、脱却する事が目的ではない。
神が私に与えてくださった、ユニークな召しに応えていくためには、
まず、これは主から委ねられている「自分自身の」人生なんだということ
肝に銘じておかなくてはならない。誰も自分の人生を決めてはくれない。
誰も自分の人生の責任をとってくれない。私は、ただ神がつくってくださった
私の姿をまっすぐに差し出し、与えられた賜物が生かされるならそれでよし、
さらに十字架の道を歩むようならそれでよし。
私に与えられた主の計画を生きるのだ。


2.信者の模範となりなさい

「模範的な信者」という意味ではない。信者の模範になるのだ。
信者とはどういうふうに生きるのか、信者はこういうふうに考えるのか、
信者の生活は確かに本物だ・・・、そんな風に人々が感じられるものがほしい。
完璧である必要はない。生きている以上、そんなことはありえない。
不完全なありのままの自分を認めながら、誠実に喜んで生きる。
それには、ある程度の自制をともなう。なぜなら、私たちが単に良い意図で
行なっている奉仕そのものは、必ずしもバランスのとれた生活をもたらさないからだ。

鍵となることばがある。
・私は一体何者なのか?(identity)
・私の全体的な一貫性はどうなのか?(integrity)
・私の神と人との関係はどうなのか?(intimacy)

そして、人間性と霊性を豊かに回復し、生き生きと生きている人。
信者も、未信者も、ああなりたいと思う者。
でも、決して能力や境遇のレベルではなく、世界観、人生観の部分において。
主のいのちを運ぶ器として用いられたい。

ちょっと、変わった召しかもしれない。
でも、もし一人の人が世界を変える事が出来るのだとしたら、
まず私が自分自身を生きるところから始めなくてはならない。
そして、それを契機に、教会の群れが変わらなくてはいけない。
その変えられた群れの姿があってこそ、この世の光になるのだ。


主よ、これは私にしか生きることのできない、私のいのちです。
何と多くの時間を使って、自分自身を人の手に委ね、
自ら判断することをせず、状況に振り回されてしまってきたことでしょう。
どうか、こんな私をおゆるし下さい。
それでも、自分自身を生きたいです。
そして、周りもクリスチャンも、まったく知らない人も同様に、
私を見て、キリストが確かにそこにいて、私もその様になりたい。
と思われるような人間になりたい。

2 件のコメント:

Mary Chikagami さんのコメント...

わかる。私もそうありたい。
私に与えられている命を、喜んで生きたい。
本当に元気な人のパワーって、
そういうところから来ていると思う。
毎日目が覚めて、生きてて嬉しいって思える。

そこから世界が変わるよね。

さとけん さんのコメント...

ね~。

人間らしく生きたい。
そもそも、ボクたちは神さまに「よい」ものとして造られたんだからさ。もっとも人間らしいのが、もっとも霊的なことだと思う。

自分自身を生きることなしに、他の存在を愛することなんてできないなーって。