2005/12/31

Let it be...!

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
・・・これは一体、何の挨拶なのだろう?
私はひどくとまどい、考え込んでしまった。

「こわがることはない。あなたは神から恵みを受けたのです。」
「あなたから、すぐれた者が生まれ、人々を救うのです。」
・・・どうしてそんな事がありえよう?
私はその条件を満たしていないのだ。

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」
「神にとって不可能なことは、一つもありません。」
・・・主よ、あなたを信頼します。本当に、私は取るに足らない者です。
どうぞ、あなたのお言葉どおり、この身になりますように。


主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、
何と幸いなことでしょう!


わがたましいは主をあがめ、
わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
主はこの卑しいはしために
目を留めてくださったからです。

ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、
私をしあわせ者と思うでしょう。

力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。
その御名は聖く、そのあわれみは、
主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
(ルカ1章より)


マリヤは、御使いの知らせを聞いて、ひどく考え込んでしまった。
「そんな事は私におこるはずがない。だって、あり得ないでしょう?! 」

でも彼女は、主を信じた。主を信頼した。
そして告白した。そして、喜びと平安に満たされた。


私が納得したかどうかは、問題ではない。
この世の常識も、問題ではない。
人々の中傷も、問題ではない。
神にとって、不可能なことは何一つない。

私をあなたの管としてください!
私はあなたを信頼しているのです!


「あなたのおことばどおりこの身になりますように!」
Let it be to me according to your word!


本当に、これから後、どの時代の人々も、
私をしあわせ者と思うでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださったのです!

主よ、感謝します。
すべてを、感謝します。

What is Love?

私たちが愛するのは何故だろう?
私たちが愛すべき人とは誰だろう。

主よ、あなたは何故こんな私を愛するのですか?
主よ、こんな私のどこが高価で尊いんですか?
主よ、あなたの愛で満たしてください。
主よ、私も人を愛したいのです。
愛って、何でしょう?


愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。
愛のある者はみな神から生まれ、
神を知っています。
愛のない者に、神はわかりません。
なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって私たちに、
いのちを得させてくださいました。
ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
(1ヨハネ4:7-9)


「神は愛」であって、愛がないと神は分からない。
とすると、どうやってその愛を知ることができるのか?
遣わされたひとり子を、「愛」として受け取る事ができれば、
「神」をも知る事ができるということか。
「神学」とは、つまり、愛を学ぶことなのか。

2005/12/29

従順の原動力

神から与えられた志は、もしそれが本当に神から与えられたものなら、
それに従って行動することが、神のみこころだ。
その従順を通して、神は働いてくださる。

しかし、人にその従順をもたらすものは、何だろう?
もし、みこころに関しての十分な知識があったとしても、それは必ずしも従順をもたらすとは限らない。また、表面上で従っているように見えたとしても、必ずしもそれは従順とは言えない。

では、キリストが十字架の死にまでも従われたのは、なぜだろう?
・・・そう、「愛」こそが、従順の原動力なのだ。


知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
人がもし、何かを知っていると思ったら、
その人はまだ知らなければならないほどのことも
知ってはいないのです。
しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
(1コリント8:1-3)

愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、
すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して耐えることがありません。
預言の賜物ならばすたれます。
異言ならばやみます。
知識ならばすたれます。
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、
預言することも一部分だからです。

こういうわけで、いつまでも残るものは
信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。
(1コリント13:4-9, 13)


十字架の愛の大きさを思う。
私たちの愛の源はここにあるのだ。
主よ、あなたの十字架を、今日も仰ぎます。

2005/12/28

いのちを保つ

時々、くじけそうになる。
魂に戦いが挑まれるのだ。

愛そうとすること、憐れみを働かせようとすること、誠実に生きようとすること。・・・それらは、自分で自分が傷つくことを恐れていては成し得ない事だ。「恐れる者の愛は、全きものとなっていない」のだから。

あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行って、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
・・・私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、
信じていのちを保つ者です。
(ヘブル10:35, 36, 39)

信じることには、忍耐が欠かせない。
いのちの希望を仰ぎ見つつ。

信じます。主よ。

2005/12/26

Without You

Paul Balocheというワーシップリーダーがいる。
車の中で彼のCDを聴きながら、その歌詞がとても心に響いてきた。


Without You

Like a love without devotion
Like a cloud without the rain
Like a heart without emotion
Like a wound without the pain

Without You I am nothing
I am nothing without You
Only You can make something
Out of nothing
I am nothing
Without You

Like a prayer without an answer
Like a bird without a song
Like a hope without a future
Like a night without the dawn

Without You I am nothing
I am nothing without You
Only You can make something
Out of nothing
I am nothing
Without You


あなたなしでは

献身のない愛のように
雨の降らない雲のように
感情のない心のように
痛みのない傷のように

あなたなしでは、私は何者でもない
私は何者でもありません、あなたなしでは
あなただけが、何もないものから何かをつくり出す事が出来る方
私は何もないものです
あなたなしでは

応えのない祈りのように
歌うことのない鳥のように
将来のない希望のように
夜明けのない夜のように

あなたなしでは、私は何者でもない
私は何者でもありません、あなたなしでは
あなただけが、何もないものから何かをつくり出す事が出来る方
私は何もないものです
あなたなしでは



シンプルな歌詞だけれど、何だか心に響くものがあった。

主よ、私自身は本当にからっぽな者です。
でも、あなたは無から有を生み出すお方。
この私からでも、何かを生み出すことがお出来になります。
どうか、私をいつでもあなたと共にあらせてください。

クリスマスの回復

今年のクリスマスは、本当に楽しかった。
心がジワッと温まる、そんな喜びに満たされたクリスマスだった。

今年は、私自身体調を崩した事もあり、あまり具体的な奉仕に駆けずり回ることが出来なかった。それは、時には歯がゆい事でもあった。でも今回、私にとっては「自分が果たすべき役割が何であるか」、しっかりと自覚しながら、考えながら、祈りながら、喜びに満たされながら、仕えることが出来たように思う。

私は、自分に与えられた恵みによって、
あなたがたひとりひとりに言います。
だれでも、思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。
いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった
信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
一つのからだには多くの器官があって、
すべての器官が同じ働きをしないのと同じように、
大ぜいいる私たちも、キリストにあって
一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
(ローマ12:3-5)

ユースクリスマスの演劇。
私に与えられたのは、「ブザーを押す」こと。でも、嬉しかった。誇りをもって、このことをさせて頂いた。

クリスマス礼拝。
私の役割は、午後の礼拝、夜の礼拝の司会をすること。とても楽しかった。


何だろう。今年のクリスマスは、教会の中に「自由」と「一致」からくる温かいものが流れていたような気がする。私の視点が変わったのだろうか?それもあるのかも知れないが、本当に主はこの教会に、「回復」を与えてくださっているように思う。

回復の年。
まず教会にこそ、いや、私自身にこそ回復が必要だったのだと思う。そして来年は、ここに確かに生きておられる主の霊がこの地を満たすに違いない。

そんな期待感に満ちている。

2005/12/23

The Volunteer Revolution

ウィロークリーク教会からは多くの事を学ぶ。
ミッション3000がどこに行こうとしているのか、明確な示唆が与えられるからだ。

そのウィロークリーク教会のビル・ハイベルズ師の"The Volunteer Revolution"という本を読んでいて、とても刺激を受けた。その中で、ボランティアというよりも、そもそもイエスキリストは私たちに何を教えておられるのかということについての、基本的な視点がよくまとまっている箇所があったので引用し、日本語に訳してみたいと思う。


A TRANSFORMED WORLD(変革された世界)

イエスは、神の考える「変革された世界」を次のように教えた。

それはまず、「教会の中」で現されるべきものであり、
次にそれが、「この世の中」に示されるべき。
  1. 神を愛し、人を愛すること。 ・・・形式ではなく、本当の関係を築き上げなさい。
  2. 弱い人たちを顧みること。 ・・・新しい価値観に生きなさい。
  3. 自分の十字架を負うこと。 ・・・自己中心をやめ、犠牲と困難を覚悟しなさい。
  4. 全世界に福音を宣べ伝えること。 ・・・出て行って、すべての人を弟子としなさい。

・・・私たちが持つべき根源的な視点を大変よく網羅していると思う。(後で読んでみたら、訳が分かりにくかったので、大胆に要約して書き直しました。悪しからず。)

もう一箇所、REWARDS OF VOLUNTEERINGという所も、大変示唆にとんだ記述がされていて、とても考えさせられたので、これも引用したい。

・・・でも今日は、ここまでにしておこう。

明日のユースクリスマスが祝福されますように・・・!

2005/12/22

信頼の力

「信頼」は、この世の中で最も美しい事の一つだと思う。

しかし本質的に、「信頼」にはリスクが伴う。先の事は分からない。絶えず想定外の出来事がつきまとう。「信頼」とは、自分が傷つくかもしれない可能性をあらかじめ認めることだ。「信頼」の度合いが大きければ大きいほど、裏切られた時のダメージは大きくなる。だから、裏切られたり、傷つけられたりする経験が重なると、もう傷つきたくないという自己防衛のために「信頼」の度合いを引き下げてしまう。自ら「信頼」の度合いを引き下げることは可能だが、「裏切る」ことは基本的に相手の側にあり、自分ではコントロール不可能だからだ。

しかし、人を信頼するというのは大きな力だ。それは、自分自身にとってだけでなく、相手にとっても大きな力になるものだ。信頼は、信頼を生み出すのだ。


神は、人を信頼された。神は、「自由意志」を持った存在として人を創造された。それは、裏切られる可能性を百も承知の上で人を造ったということだ。

しかし、人は神を裏切った。
そして、神の心は傷ついた。

しかし、神は人を信じ続けた。神の私たちへの信頼はいたるところに見られる。

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、
あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
(ルカ22:32)

これは、神の私たちへの信頼である。彼らの信仰はなくならない。彼らは必ず立ち直る。祈るということは、そのように信頼するということだ。

神は、私たちが真の信頼関係を回復するようにと、ご自身をささげられた。それは、不信仰からくる、律法によるリスク管理ではなく、信頼と愛によって、その人の内にある本来の姿が回復するためだ。信頼されると、不思議とその力が発揮されるのだ。

「・・・私はあなたに約束したのです」
一人の人が、勇気をもって信頼し始める時、この世界が変わる。
私はそう信じる。

2005/12/20

ムイ・ビエン

スペイン語の挨拶で「調子はどう?(コモ・エスタ?)」と聞かれたら、
調子が悪くても笑顔で「ムイ・ビエン(調子いいよ)」と答えるらしい。
(本当かな?)

ということで(?)今日は、鼻炎の話です。

慢性の鼻炎が気になって耳鼻科に行った。
そしたら、あらら。慢性副鼻腔炎だとのこと。
度重なる風邪や肺炎も、これが原因かも知れないとのこと。

私は鼻づまりで、よく口で息をする。これは喉に良くない。おまけに、副鼻腔に出来た膿から、細菌が喉や呼吸器に落ちて風邪や肺炎を引き起こす可能性があるらしい。万年風邪っぽい症状は、ここから来るのだと考えると納得がいく。さらに、そういう時に頭を下に向けると頭痛がひどくなる。それらの原因が、副鼻腔炎から来るものだとすれば、それを治せば全体的な症状が軽くなるということだ。なんだか希望が出てきた。

しかし、ネットでいろいろ調べる限り、副鼻腔炎も耳鼻科系の病としては治療が困難なものらしい。それでも、悪循環を引き起こしているのだから、対処療法的な治療でも、結構良い結果が出るのではないかと個人的には楽観視している。今日はとりあえず10日分の抗生物質等をもらい、来年早々もう一度きちんと写真を撮って治療方針を決めましょうとのことだった。

「からだ」というのは不思議だ。目に見える症状が本当の病とは限らない。症状を押さえるばかりが良いこととは言えない。根本的な原因を見つける必要がある。しかし、根本的な原因が分からない場合もあるし、分かっても治せない場合もある。そういう時は、もう一度からだ全体を見て、何をもって「健全」とするのかを再定義しなければならない。いや、身体的なからだだけではない。そもそも人間とは何なのか、何をもって人間らしい生活と呼ぶのかを考え直さなければならないのだろう。

幸いにして、私にはそういう事を考える機会がたくさん与えられた。その気になれば、どんな事からでも学ぶ事ができるのだ。

これは、私の得たかけがえのない「自由」の一側面。
ムイ・ビエン。グラシアス!

2005/12/18

従順の学び

キリストは従順を学ばれた。
何ということだろう!考えれば考えるほど、すごい事だ。


キリストは御子であられるのに、
お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、
とこしえの救いを与えるものとなり・・・
(ヘブル5:8,9)


キリストは神の御子であって、神そのものである方だ。キリストはただ一人罪のない方で、完全な者であったはずだ。その方がなぜわざわざ「従順を学び」、「完全な者とされる」必要があったのか?別の箇所には、このように書いてある。


善を行っていて苦しみを受け、
それを耐え忍ぶとしたら、
それは、神に喜ばれることです。
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。

キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、
その足跡に従うようにと、
あなたがたに模範を残されました。

キリストは罪を犯したことがなく、
その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、
苦しめられても、おどすことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになりました。
(1ペテロ2:20-23)


つまり、キリストは私たちの模範として、苦しみを受けられ、従順を学ばれたのだ。従順を学ぶということは、「完全な人」としての正しい姿だった。「完全な人」というのは、そういうものなのだ。

キリストのこの姿勢は、私たちに大きな示唆を与える。

私たちは、このお方を通して、完全な救いにあずかった。しかし、どうして完全な救いを得た者が、なお苦しみに甘んじて「自分の救いを達成する(ピリピ2:12)」ために、努力する必要があるのか。 それは、その姿勢こそが「完全な人」としての姿だからだ。完全な救いにあずかったからこそ、自ら従順を学ぶ必要があるのだ。


いつも主にあって喜びなさい。
もう一度言います。喜びなさい。
(ピリピ4:4)


パウロは獄中の中にあっても、いや、獄中の中にあったからこそ、キリストにあるこの真理を悟り、自分の喜びとして、あふれるばかりに喜んでいた。私たちはどうだろう?万が一にも従順を学んでいたとしても、人のご機嫌取りのようなうわべだけの従順になっていなかっただろうか?

主よ、あなたが私のうちに生きてくださっている事を信じます。そして、私にもキリストの従順にあずかる希望を与えてくださっていることを感謝します。キリストに似たものとして、日々栄光から栄光へと私をつくり変えてください。あなたが見ていたものを、私もしっかりと見つめ、あなたが大切にしていた事を、私も大切にすることが出来るように、導いてください。この特権をありがとうございます。私はあなたのものです。もう一度あなたにお委ねいたします。

2005/12/16

信者の模範

ユースクリスマスのリハーサルに出た。
感動で胸が熱くなった。

素晴らしい劇だった。12月24日、2回公演で1000人集められるように取り組んでいる。集められた人たちは、間違いなく感動して心が温かくされるだろう。生き方が変えられるだろう。

でも、本当に生き方が変えられるのは、実際に取り組んでいる彼ら自身だろう。それぞれの立場で一生懸命取り組んでいる一人一人は、自分たちが伝えているメッセージを、きっと見ている者に与えられる感動よりも、何十倍も深く自分のものとするに違いない。一つの事にむかって、みんなで力を合わせて取り組むというプロセスは、完成した表面上の成果以上の意味がある。今年のクリスマスを終えたとき、彼らはグッと成長している事だろう。そんな事を思いながら、とても嬉しくなった。

なんだか、視点がおじいちゃんみたいだ。
でも、一人一人の成長がとっても嬉しい。

年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。
かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも
信者の模範になりなさい。
(1テモテ4:12)

彼らにあふれる喜びと、真剣な取り組みは、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも現れていた。もちろん、未熟さはあちらこちらにある。でも、その未熟さを知るがゆえの謙遜と従順は、立派な「信者の模範」だと思った。生き生きとした、いのちに満ちていた。

主よ。私にも絶えず柔らかい心を与えてください。
内なる人を日々新しくしてください。
信仰の若々しさを失うことなく、成熟へと導いてください。

2005/12/13

ぽった?

「ハリーポッター・アズガバンの囚人」をDVDで借りてきて見た。
やっぱり最新版を見る前に、一通り見ておかなくてはと思いまして。

 しかし、「クリスチャンはハリーポッターなんて身にいくべきでない!」という意見もありうるだろう。そういう意見は尊重するし、それはそれでいいと思います。

 でも、なぜそういう意見を主張するのかは、ぜひ教えて頂きたいです。魔法を取り扱っているから?戦いがあるから?そんな映画いくらでもあるんだけど・・・。?映画からの悪い影響を恐れているのでしょうか?では、どんな悪い影響でしょう?ナルニア国物語だったらいいの?なぜでしょう?クリスチャンの原作ならすべて安心なのでしょうか?実際、見てからそう判断しているのでしょうか?
 もちろん、「信頼すべき人の意見を信頼するから」という事も理にかなっていると思います。でも、自分で自分の考えの責任を放棄してはならないと思います。


主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、
それ自体で汚れているものは何一つないということです。
ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。
(ローマ14:14)


 多くの小説、ファンタジーがそうであるように、これらの物語は、そのプロットを通して、それぞれに大切なメッセージをもっている。それをじっくりと観て聴いたらいいんじゃないだろうか。本一冊読むぐらいのインパクトはあります。クリスチャンではないからそこでの思想そのものも悪いのだとしたら、もう私たちはこの世の中にいれなくなる。むしろ、彼らからこそ多くを学ぶ事が出来るんじゃないか?
 リバイバル新聞の記事では、これが学校の秩序に反抗してポッターがヒーローになるというのがメインテーマだからよくない、というような事が載っていた。馬鹿げてる!正しくないと思う事を制限することも、時にはもちろん必要だろう。でもそれ以前に、もっと積極的に「私たちが守るべき大切な価値観」とは何かの見本をしっかりと見せてあげて欲しい。

私たちは、本当の意味で自立し、主体的に育っているだろうか。
また、私たちが人を育てる時、そのような人格を育てているだろうか。

 もし私の自由によって弱い魂が滅びてしまうのなら、私は喜んで、自分の意思でそれを手放そう。しかし私はむしろ、「情報の制限」の背後にある律法主義的な思考停止から来る悪影響のほうが心配だ。現代の子供達、大人達に本当に必要なのは、正しい価値観に基づいて物事を自分で判断する事が出来る力を身に付けさせる事なのではないだろうか。

 自らの体験を通して出なければ、学ぶ事が出来ない限度というものがある。それを積極的に身に付ける訓練が必要だ。あれやこれやと制限する前に、どうしたらその様な人格を身に付ける事が出来るか、誠実に、大胆に取り組むべきなのではないだろうか?


<追記> 読み返してみて、どうもこの記述は、なかなかうまく表現できている気がしません。もし、これを読んでくださっている方がおられたら、これは、私の自己対峙のため記述である事をご容赦ください。そして、ご意見・ご指導くだされば感謝です。

2005/12/11

神の国

義と平和と聖霊による喜び。・・・それが神の国です。

自分が嫌になって、死を選びたいと思った時。そんなどん底の中で、人が人として生きることの本当の意味を捜し求め始めた時。すべてを理解した訳ではないけれど、キリストこそ道であり、真理であり、いのちであると信じ、人生を賭けてみようと思った時。キリストのからだとして、その一つの器官として、私も必要とされているという事を知った時。私も用いられて、他の人の益となれた事を実感出来た時。キリストの十字架の愛が、私の理解をはるかに超えて、真に私を生かすものである事に感動した時。私もキリストに似たものとして、真の謙遜を身に付けたいと餓え渇きが与えられた時。すべての事が互いに働いて益とされていることが分かった時。

「義と、平和と、聖霊による喜び」は、いつも私を取り囲み、私を導いてくださった。人間が人間らしく生きることへの餓え渇き。心の落ち着きと、正しい人間関係。聖霊による新鮮な喜び。神の国とは、そういうものだ。

今日、クリスマスに洗礼を受ける事になった青年との交わりを通して、神の国が今そこにある事を実感した。主は生きておられる!今、自分が生かされている!こんな素晴らしい神の家族に自分が加えられている!そんな、喜びが、彼の内側からあふれ流れ、私の心にも注がれてきた。そんな嬉しい時を過ごすことが出来た。

はじめは、彼に対して、洗礼の学び、すなわち「信仰告白の学び」をするように依頼された。しかし、私はそれをする事に躊躇するものがあった。C-BTEの学びを通して、組織神学的な学び、無機質な知識の羅列の様な形での教理の学びは、かえってこの新鮮な喜びをもった器を萎縮させ、今与えられている純粋な義への餓え渇きを変質させてしまうのではないか、そんな恐れがあったからだ。信仰告白の学びは、むしろクリスチャンとしての基本原則を実践し、本当の意味で聖書的に考える力が養われ始めるまで控えたほうがいいとまで感じていた。

しかし、主は、この時を備え、知恵を与えてくださり、なんと今までで一番いのちにあふれた「信仰告白の学び」をすることができた!しかも、45分くらいで、全項目を終えてしまった。今回、私が特に注意したのは、「相手が、信仰生活の本質や全体像を見失わないように伝えること」である。私が満足するために、この学びをしているのではない。彼が本当にキリストにあって、輝いて生きることができるように、その人格が正しく方向付けされるように導いているのだ。そんな事を意識しながら学びを進めて行った結果、私自身も「信仰告白」に記されている素晴らしい信仰の本質に感動することができた。

ああ、救われたばかりの魂の、聖霊の喜び。こんなにもパワフルなものがあるだろうか。

彼は、学びを終えて、「やっぱり、神につくらた人間として、人間らしく生きるように導かれているんだ、ってことがこの学びを通して聞こえてきました」と言った。なんて素晴らしいんだろう!私の今回のやり方は、その心を育むという目的において、とても効果的だったようで、本当に感謝だ。

今、まさに教会が目指している方向が、確かに主のみこころである事を実感できた。さあ、すでに主を知っている皆さん、もう一度この新鮮ないのちの御霊に触れましょうよ!いつの間にか、いっぱしの宗教家のように、表向きは立派に見せかけて、まったく喜びのない生活に陥っていませんか!?

神の国は、義と、平和と、聖霊による喜びです。(ローマ14:17)

私を通して、神の国が実現しますように。
聖霊を豊かに注ぎ、私を生かしてください。

2005/12/09

限度と自由

今日もなすべき事一つ一つが守られ、行なう事ができた。
自分としては、かなり仕事量等セーブしているつもりだった。でも、この密度と量は、恐らく今の私の限度ギリギリの所だろう。

 重要だけれど、緊急でない仕事というのは、後回しにしがちだ。でも、自分自身を客観的にみつめて、しっかりとそこに時間も労力も費やさなければならない。
 戦略的な計画の作成や、リーダーシップの育成、はたまた自分自身の健康づくり、人間関係の育成などは、充実した奉仕、生活のために本来最も重要視すべき事柄だ。しかし、うっかりしていると後回しにしてしまいやすい。これらをしっかりと見据えて、自分自身をコントロールする力を養うこと。それが、今の私に課せられている訓練だと思う。
 もちろん、福音のために何でもする覚悟だ。しかし、それは自己満足的に、あれもこれも行なう事とは違う。自己犠牲の意味をはき違えてしまってはいけない。

キリストは、自由を得させるために、
私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、しっかり立って、
またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
(ガラテヤ5:1)

主よ。本当の自由を与えられたしもべとして、キリストに似たものとして、私を整え、つくりかえてください。主よ。

2005/12/08

的外れ

私たちは、何とズレやすいんだろう。
良かれと思ってやっている事が、何と的外れになりやすいんだろう。

今日、まわりで一生懸命議論している人の話を聞きながら、心が痛んだ。誰もが熱心なのだ。必死に神を愛そうとしていて、人を愛そうとしている。そのために、自らが犠牲まで払おうとしている。

それなのに、どこかがおかしい。なぜだろう?
私も例外ではないはずだ。


それに比べ、イエス様は何と自由だったことか。
目的をまっすぐに見据えて、何と大胆に行動できたことか。

そのイエス様の行動は、当時の律法学者には理解できなかった。
でも、これこそ神のみこころそのものだったのに。
「罪人たちと食事をしている」
「食いしん坊の大酒飲み」
「なぜ安息日に人を癒すのか?」
「なぜ昔の人たちの言い伝えを破るのか?」

・・・イエスは言われた。

『この民は、口先ではわたしを敬うが、
その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。
人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』

・・・あなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、
神のことばを空文にしています。
そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。
(マルコ7:6-7,13)

「人の言い伝え」だって、最初は熱心さのゆえに「良いもの」として作られた。でも、一度文字に書き表されると、今度はその文字面に捕らわれてしまうのが人の常だ。

イエス様が来られたのは、律法を破棄するためではない。あえて人の言い伝えを破ったのは、むしろ神のみこころを成就させるためだ。神のみこころを実践するためには、時には「人の言い伝え」という壁を乗り越えなければならない。私たちの内側にある、「自分のやり方」を捨てるように、チャレンジが与えられるのだ。

ああ愚かなガラテヤ人。
十字架につけられたイエス・キリストが、
あなたがたの目の前に、
あんなにはっきり示されたのに、
だれがあなたがたを迷わせたのですか。
(ガラテヤ3:1)

律法の下に閉じ込められた私たち。律法はキリストへ導くための養育係となったのだ。今私たちはすでにキリストのもとにあるのに、まだ養育係から離れられないでいる。怖いのだ。養育係の下にいたほうが、安心だと思っているのだ。でも、そこに本当の自由はない。本当の自立はない。本当に委ねることはできない。それは、キリストに従う者とは言えない。

でも、主よ。
あなたは解決をお持ちです。
主の十字架の謙遜を、私たちに注いでください。
古い自分に死に、新しい自由を体験する事ができるように解放してください。
自由に愛する事が出来るようにさせてください。
私を作り変えてください。

2005/12/07

自信と確信

「佐藤兄はアメリカから帰ってきて自信に満ちている感じがする」
・・・登喜子先生のコメントである。

 うがって受け止めることも出来る言葉だが、良い意味で言ってくださった事を信じ、素直に感謝して受け止めたい。
 確かに、confidenceは強くなったような気がする。しかし、「自信」とは違うのだ。私は今でも自信はない。自分のやっている事ややり方、考え方が最善とは思えない。
 でも、「確信」はある。確かに主はこのように導いておられる、確かに今主はこのことを、こういう風に男らしく語るようにと私を導いている。そんな確信はある。

考えてみると、先生方を前にして、よくまあしゃべったなぁ。でも、語らずにはおれない事があるのだ。そして、今がその時なのだ。 不思議なことに、まったく恐れがない。人に受け入れられるかどうかという恐れからは、ずいぶんと解放された気がするのだ。

私の按手をもってあなたがたのうちに与えられた神の賜物を、
再び燃え立たせてください。
神が私たちに与えてくださったものは、
おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
(2テモテ1:6-7)


昨日、話合いの中でピンとくるものがあって、帰りがけに本屋で「7つの習慣」というベストセラーを買ってきた。パラパラと読んで・・・あらあら。これはまさに今、話し合っていたことそのもだし、私の考えも全く同意するものだった。(まだ1部しか読んでないけど)どうも著者コヴィー氏はモルモン教徒らしいのだが、内容は素晴らしく、ウィロークリークのブックセンターでも置いてあった。

これからは、ますます一般書を読む必要を感じている。特に、誠実に真理を求めて生きようとしている人たちが、手にとってみるような本を知っておきたいと思っている。そこにこそ、未信者との接点が生まれると思うからだ。「未信者対象の礼拝」を行なっていこうとするとき、私たちは、未信者の向いている方向を向いている必要がある。というか、私たちの向いている方向に、ともに未信者も向けさせる。みんなで一つの方向に向かって取り組むという中で、未信者も信者もはじめから一つになって歩んでいく事が出来るんではないか。

2005/12/05

新しい風

先生方って、何て謙遜なんだろう。
その姿勢につくづく感動した。

牧会者の先生方のリトリートにて、私がこの数週間ずっとまとめてきたC-BTEの報告書とミッション3000とリーダーシップ育成に関わる様々な提案書を発表させて頂いた。先生方は、へりくだって私の話に真剣に耳を傾け、そこにある神のメッセージをしっかりと受け止めようと多くの時間を割いてくださった。そして、絶えず自己変革していこうとする、先生方のあの姿勢。ああ、これが本郷台の教会を祝福へと導いてきた、真のしもべ達の姿なのだ。この器たちに養われ導かれている事に、あらためて感謝し、あらためて感動した。そして私なりに誠実に、私の果たすべき務めを果たすべく、その話合いの場に身を置かせていただいた。

確かに感じる。主のみわざの胎動を感じる。
新しい風だ。ウィロークリークの教会で話されていた、あの風だ。
新鮮な聖霊のいぶき。
人にいのちを与えられた、神の息。


主の御手が私の上にあり、
主の霊によって、私は連れ出され、
谷間の真ん中に置かれた。
そこには骨が満ちていた。
主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。
なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、
ひどく干からびていた。

主は私に仰せられた。
「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」
私は答えた。
「神、主よ。あなたがご存知です。」

主は私に仰せられた。
「これらの骨に預言して言え。
干からびた骨よ。主のことばを聞け。
神である主はこれらの骨にこう仰せられる。
見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、
おまえたちは生き返る。
わたしがおまえたちに筋をつけ、
肉を生じさせ、皮膚でおおい、
おまえたちの中に息を与え、
おまえたちが生き返るとき、
おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」

私は命じられたように預言した。
私が預言していると、音がした。
なんと、大きなとどろき。
すると、骨と骨とが互いにつながった。
私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、
肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。
しかし、その中に息はなかった。

そのとき、主は仰せられた。
「息に預言せよ。
人の子よ。預言してその息に言え。
息よ。四方から吹いて来い。
この殺された者たちに吹きつけて、
彼らを生き返らせよ。」

私が命じられたとおりに預言すると、
息が彼らの中に入った。
そして彼らは生き返り、
自分の足で立ち上がった。
非常に多くの集団であった。
(エゼキエル37:1-10)


主よ。来てください。
今こそ、主の御霊を注いでください。
今が、その時です。

2005/12/04

信頼

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。
私の望みは神から来るからだ。
神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。
私はゆるがされることはない。
私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。
私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
あなたがたの心を神の御前に注ぎだせ。
神は、われらの避け所である。
(詩篇62:5-8)

私は神を信じるようになってから、神への信頼が消えた事はない。
考えてみると不思議なことだ。

自分が嫌になったことや、自分が信じられなくなった事なら嫌というほどある。というよりも、ほとんどの時とエネルギーとを、自分の内側の自信のなさを隠したり、防御したりするのに使ってきたような気がする。それは、神を信じてからも同じだ。人を疑ったり、裁いてみたり、反発してみたりした事も数え切れないほどある。

でも、神への信頼自体が消えた事はないのだ。たとえ理解できないことがあっても、思い通りに行かない事があっても、大いなる理解を越えた存在がどんな時でも私を支えてくれているという信頼によって、今の私は成り立っている。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。
彼にはご自身を否むことができないからである。
(2テモテ2:13)

わたしを呼べ。
そうすれば、わたしは、あなたに答え、
あなたの知らない、
理解を越えた大いなる事を、
あなたに告げよう。
(エレミヤ33:3)

私は、すでに得たのでもなく、
すでに完全にされているのでもありません。
ただ捕らえようとして、追求しているのです。
そして、それを得るようにと
キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
(ピリピ3:12)

私が真理を求め、神を捕らえようとしている時、キリストは私がそれを得られるようにと、すでに私を捕らえてくださった。何という愛、何という恵みだろう。

私が神を信じる事が出来るようになったのは、私が神のすべてを理解する事が出来たからではない。しかし、信じる事が出来たのだ!何という恵みだろう。

そして神を知れば知るほど、私の得たものの大きさ、素晴らしさに今でも感動する。感動が増し加わっている。何という恵みだろう!

こんな素晴らしい奇跡が、私の人生になされたのだ。
もう私は、私自身の存在意義を自分自身で主張する必要はないのです。

主よ、感謝します。
あなたを信頼します。
何という愛、何という恵みだろう!

2005/12/03

啓示

時々、主は「ピカーッン」とアイデアを与えてくださる。これは啓示だろう。
今まで祈りもだえ考え困っていた何かに対し、突然いのちが注がれるような、そういう経験を時々する。

ミッション3000について、その全体像をもっとしっかりつかめる様に図を描くことは出来ないかと祈って作業していた。そうしたら、次々にヒントが与えられて、シンプルかつパワフルなツールを作成することが出来たと思う。本当に感謝だ。

 いろいろな事に手を出す私は、私自身が神様によってどのようにデザインされたのかをなかなか正確に読み取れない。でも、だんだんと見えてきた事がある。わたしは、何かのスペシャリストになるというよりは、いろいろな物事を統合してそのフレームワークを提供する役割を担うように導かれているように思う。
 私は、物事の全体像を理解するのが得意なようである。また、全体像の枠組みをしっかり構築した所においては、ほぼどの様な物事もその関連によって位置づけをしていくことが出来る。逆に、全体像が見えない中で、極端にバランスを欠いたアイデアや人為的過ぎる物事に関しては直感的に不快感を感じる。
 また、それよりも、その概念を、表現する事が好きであり、得意である。時にはその理念に基づいてデザインを行ない、時にはそれを音楽にしてしまう。いずれにせよ、私の心にジーンと来た何かを、ビジュアル的にまとめてみて、それを効果的にコミュニケーションする。いろいろな賜物がからむが、「理解し、まとめて、表現する」という部分がコアになる賜物かもしれない。

 ・・・「私は何々が出来る」とか、「私は何々が得意」とかいう表現は、傲慢に聞こえるかもしれない。普段の生活の中では、聞き手にもう少し配慮して言葉を使うべきだ。しかし、ここで私は自分を誇るつもりは全くない。むしろ、弱さも含め、神様が私をどのようにデザインされたのか、それをなるべくありのまま見極める事が出来るようにとの取り組みの一環だ。

ということで、万が一これをご覧になっている方がいらっしゃったら、気に障るような表現をお許しくださいね・・・!このブログは第一義的にはモノローグなのです。
m(_ _)m

2005/12/02

BGM

ユースクリスマスのBGMの録音を手伝った。
すでにキーボードに打ち込んである音源をCDに落とすだけの作業。

でも、31曲もあった。
すごいなあ。それを知らずに、私は15曲目ぐらいで思わず、もう終わり?って聞いてしまったら、「あと15曲くらい」と言われてしまった。冗談だと思ったら、本当だった。

出来上がったものを、聞くのにはそれほど時間はかからないけれど、それを作るまでにどれほどの労力、時間、忍耐が捧げられていることか。それを恐らくほとんどの人は知らない。いや、「知る」というほどのイメージすらないだろう。ある人にとっては、そういう能力があって素晴らしいわね、で終わってしまう事かも知れない。でも、そこに捧げられている時間は、能力ではない。情熱であり、献身だ。

でも、労苦して出来上がったものが、ダメ出しされて、やり直しを命じられる事もあるという。
「あなたが、ダメだと言うのは簡単だけど、私がどれだけ時間をかけてこれをしてきたか分かってるの?」 ・・・ついついそんな事を言いたくなってしまうに違いない。実際、その通り、その人は、そんな労苦を全く省みないで、あっさりと言いのけてしまっただけかもしれない。


さてさて私だったら、そういう時、どうするだろう。
何十時間もかけて、手間隙をかけて、やっと出来上がった何かを、「あ、それはもういらなくなったんだ」とか、「もっと、こうできないの?」とか、簡単にあしらわれたら・・・?

「分かりました」と言って、すなおにその言葉を受け止め、不必要に傷付く事もなく、前に向かって喜んで引き下がる事が出来るだろうか。それとも、表面上だけ受け止めて、内側は不平不満でいっぱいになるだろうか?いやいや、表面ですら受け止められず、あくまでも自分自身の労苦からなされた成果を主張し続けるだろうか?

逆の立場ならどうだろう。相手がどれだけ苦労したかが分かっている時。でも、どうしてもそれが、その場に合わない、もしくは不必要だと思われる時。相手を思いやって、何とかそれを生かす形で用いる道を模索するか。それとも、感謝を表しつつも、遠まわしに不要を伝えるか。いや、はっきりと面と向かって断るか?


・・・これは、相手や、いろいろな境遇によって変わってくる事だと思う。でも、往々にして私は甘い。そして、どちらの立場に立っても、「相手に受け入れられやすい方」を選んでしまう。もしくは、それを恐れて、冴えない対応になってしまう。

あなたがたのことばが、いつも親切で、
塩味のきいたものであるようにしなさい。
そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。
(コロサイ4:6)


主よ、どうか心の動機を取り扱ってください。言葉を守ってください。
キリストが私の心を支配し、正しい判断力と、真に愛にあふれた行動をもって、一人一人に接していく事が出来ますように。そして、必要であれば喜んで自分自身の思いを捧げ、キリストに従うようにして従っていくことが出来ますように。私の労苦は、あなたが知っていてくださるのですから。

2005/12/01

試みの意味

試みには2つの意味があるという。

1. 心の中にあるものが何であるかが明確にされるため。
創世記22章で、神はアブラハムのイサクを献げる信仰に「今わたしは、あなたがわたしを恐れる者であることが、よく分かった」と言っておられる。

2. その人をより強く、純粋にするためのもの。
この事を通して、自分を神に引き寄せるものとなる。

主は試みの中にあっても、必ず「脱出の道を備えてくださる」。
しかし、それは「逃げの道」ではない。
神のみこころのうちに確立される、勝利へと導く道、祝福への道。

・・・祈祷会のメッセージより。