2005/12/18

従順の学び

キリストは従順を学ばれた。
何ということだろう!考えれば考えるほど、すごい事だ。


キリストは御子であられるのに、
お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、
完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、
とこしえの救いを与えるものとなり・・・
(ヘブル5:8,9)


キリストは神の御子であって、神そのものである方だ。キリストはただ一人罪のない方で、完全な者であったはずだ。その方がなぜわざわざ「従順を学び」、「完全な者とされる」必要があったのか?別の箇所には、このように書いてある。


善を行っていて苦しみを受け、
それを耐え忍ぶとしたら、
それは、神に喜ばれることです。
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。

キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、
その足跡に従うようにと、
あなたがたに模範を残されました。

キリストは罪を犯したことがなく、
その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、
苦しめられても、おどすことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになりました。
(1ペテロ2:20-23)


つまり、キリストは私たちの模範として、苦しみを受けられ、従順を学ばれたのだ。従順を学ぶということは、「完全な人」としての正しい姿だった。「完全な人」というのは、そういうものなのだ。

キリストのこの姿勢は、私たちに大きな示唆を与える。

私たちは、このお方を通して、完全な救いにあずかった。しかし、どうして完全な救いを得た者が、なお苦しみに甘んじて「自分の救いを達成する(ピリピ2:12)」ために、努力する必要があるのか。 それは、その姿勢こそが「完全な人」としての姿だからだ。完全な救いにあずかったからこそ、自ら従順を学ぶ必要があるのだ。


いつも主にあって喜びなさい。
もう一度言います。喜びなさい。
(ピリピ4:4)


パウロは獄中の中にあっても、いや、獄中の中にあったからこそ、キリストにあるこの真理を悟り、自分の喜びとして、あふれるばかりに喜んでいた。私たちはどうだろう?万が一にも従順を学んでいたとしても、人のご機嫌取りのようなうわべだけの従順になっていなかっただろうか?

主よ、あなたが私のうちに生きてくださっている事を信じます。そして、私にもキリストの従順にあずかる希望を与えてくださっていることを感謝します。キリストに似たものとして、日々栄光から栄光へと私をつくり変えてください。あなたが見ていたものを、私もしっかりと見つめ、あなたが大切にしていた事を、私も大切にすることが出来るように、導いてください。この特権をありがとうございます。私はあなたのものです。もう一度あなたにお委ねいたします。

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