2005/12/11

神の国

義と平和と聖霊による喜び。・・・それが神の国です。

自分が嫌になって、死を選びたいと思った時。そんなどん底の中で、人が人として生きることの本当の意味を捜し求め始めた時。すべてを理解した訳ではないけれど、キリストこそ道であり、真理であり、いのちであると信じ、人生を賭けてみようと思った時。キリストのからだとして、その一つの器官として、私も必要とされているという事を知った時。私も用いられて、他の人の益となれた事を実感出来た時。キリストの十字架の愛が、私の理解をはるかに超えて、真に私を生かすものである事に感動した時。私もキリストに似たものとして、真の謙遜を身に付けたいと餓え渇きが与えられた時。すべての事が互いに働いて益とされていることが分かった時。

「義と、平和と、聖霊による喜び」は、いつも私を取り囲み、私を導いてくださった。人間が人間らしく生きることへの餓え渇き。心の落ち着きと、正しい人間関係。聖霊による新鮮な喜び。神の国とは、そういうものだ。

今日、クリスマスに洗礼を受ける事になった青年との交わりを通して、神の国が今そこにある事を実感した。主は生きておられる!今、自分が生かされている!こんな素晴らしい神の家族に自分が加えられている!そんな、喜びが、彼の内側からあふれ流れ、私の心にも注がれてきた。そんな嬉しい時を過ごすことが出来た。

はじめは、彼に対して、洗礼の学び、すなわち「信仰告白の学び」をするように依頼された。しかし、私はそれをする事に躊躇するものがあった。C-BTEの学びを通して、組織神学的な学び、無機質な知識の羅列の様な形での教理の学びは、かえってこの新鮮な喜びをもった器を萎縮させ、今与えられている純粋な義への餓え渇きを変質させてしまうのではないか、そんな恐れがあったからだ。信仰告白の学びは、むしろクリスチャンとしての基本原則を実践し、本当の意味で聖書的に考える力が養われ始めるまで控えたほうがいいとまで感じていた。

しかし、主は、この時を備え、知恵を与えてくださり、なんと今までで一番いのちにあふれた「信仰告白の学び」をすることができた!しかも、45分くらいで、全項目を終えてしまった。今回、私が特に注意したのは、「相手が、信仰生活の本質や全体像を見失わないように伝えること」である。私が満足するために、この学びをしているのではない。彼が本当にキリストにあって、輝いて生きることができるように、その人格が正しく方向付けされるように導いているのだ。そんな事を意識しながら学びを進めて行った結果、私自身も「信仰告白」に記されている素晴らしい信仰の本質に感動することができた。

ああ、救われたばかりの魂の、聖霊の喜び。こんなにもパワフルなものがあるだろうか。

彼は、学びを終えて、「やっぱり、神につくらた人間として、人間らしく生きるように導かれているんだ、ってことがこの学びを通して聞こえてきました」と言った。なんて素晴らしいんだろう!私の今回のやり方は、その心を育むという目的において、とても効果的だったようで、本当に感謝だ。

今、まさに教会が目指している方向が、確かに主のみこころである事を実感できた。さあ、すでに主を知っている皆さん、もう一度この新鮮ないのちの御霊に触れましょうよ!いつの間にか、いっぱしの宗教家のように、表向きは立派に見せかけて、まったく喜びのない生活に陥っていませんか!?

神の国は、義と、平和と、聖霊による喜びです。(ローマ14:17)

私を通して、神の国が実現しますように。
聖霊を豊かに注ぎ、私を生かしてください。

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