2005/12/08

的外れ

私たちは、何とズレやすいんだろう。
良かれと思ってやっている事が、何と的外れになりやすいんだろう。

今日、まわりで一生懸命議論している人の話を聞きながら、心が痛んだ。誰もが熱心なのだ。必死に神を愛そうとしていて、人を愛そうとしている。そのために、自らが犠牲まで払おうとしている。

それなのに、どこかがおかしい。なぜだろう?
私も例外ではないはずだ。


それに比べ、イエス様は何と自由だったことか。
目的をまっすぐに見据えて、何と大胆に行動できたことか。

そのイエス様の行動は、当時の律法学者には理解できなかった。
でも、これこそ神のみこころそのものだったのに。
「罪人たちと食事をしている」
「食いしん坊の大酒飲み」
「なぜ安息日に人を癒すのか?」
「なぜ昔の人たちの言い伝えを破るのか?」

・・・イエスは言われた。

『この民は、口先ではわたしを敬うが、
その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。
人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』

・・・あなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、
神のことばを空文にしています。
そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。
(マルコ7:6-7,13)

「人の言い伝え」だって、最初は熱心さのゆえに「良いもの」として作られた。でも、一度文字に書き表されると、今度はその文字面に捕らわれてしまうのが人の常だ。

イエス様が来られたのは、律法を破棄するためではない。あえて人の言い伝えを破ったのは、むしろ神のみこころを成就させるためだ。神のみこころを実践するためには、時には「人の言い伝え」という壁を乗り越えなければならない。私たちの内側にある、「自分のやり方」を捨てるように、チャレンジが与えられるのだ。

ああ愚かなガラテヤ人。
十字架につけられたイエス・キリストが、
あなたがたの目の前に、
あんなにはっきり示されたのに、
だれがあなたがたを迷わせたのですか。
(ガラテヤ3:1)

律法の下に閉じ込められた私たち。律法はキリストへ導くための養育係となったのだ。今私たちはすでにキリストのもとにあるのに、まだ養育係から離れられないでいる。怖いのだ。養育係の下にいたほうが、安心だと思っているのだ。でも、そこに本当の自由はない。本当の自立はない。本当に委ねることはできない。それは、キリストに従う者とは言えない。

でも、主よ。
あなたは解決をお持ちです。
主の十字架の謙遜を、私たちに注いでください。
古い自分に死に、新しい自由を体験する事ができるように解放してください。
自由に愛する事が出来るようにさせてください。
私を作り変えてください。

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