「私の隣人とは、だれのことですか?」
そうだ。
彼は、自分の正しさを示そうとしてこう言っている。
一体、イエスからどんな答えを引き出そうとしているのだろう?
だいたい、自信たっぷりに、こんな質問している態度がムカつく。
まあ、律法の行ないに関しては、後ろめたさがなかったんだろうね。
ここでも、いかに自分が隣人を愛しているか、
周りの人たちの前で、証明したかったんじゃないかな。
いや、そんな彼でも、心の中にはある種の欠けに気付いていたのかもしれない。
「何をしたら永遠のいのちを、『自分のものとして』受けることができるでしょう」
って、イエスに質問してるんだから、
「こんなに律法を守っているのに、オレの生活、何かおかしい」
ってなんとなく、モヤモヤしたものがあったのかもしれない。
それに対して、イエスは、簡単には答えてくれない。
別に、いじわるじゃないとは思うんだけどね。
強盗に襲われて半殺しにされた人が、道端に倒れていました。
たまたま、通りかかった祭司も教師も、見て見ぬふりをして、行っちゃいました。
でも、普段は決して交流することのないサマリヤ人は、
彼を見てかわいそうに思って、介抱してあげました。
さあ、この3人のうち誰が隣人になったでしょう?
・・・そりゃあ、このサマリヤ人だろ?
「あなたも行って同じようにしなさい」
ここで、はたと考え込んでしまった。
イエスは、一体何を伝えたかったのだろう。
あえてたとえ話を使っているのは、
律法を守ることにいのちをかけている人に、
律法的な答えを与えても救いにならない事をよく分かっていたからだと思う。
きっと、「こうしていれば正しい。こうしていれば安心」って人には、
「気付き」が与えられるように促してやる必要があるんだろう。
それで、イエスは何に気付けと言っているんだろう?
・・・私が気付いたのは、こういうことです。
祭司もレビ人も、「たまたま」そこに通りかかった。
サマリヤ人も、「そこに来合わせた」。
つまり、「偶然」そういう場面に遭遇しちゃったのだということ。
でも、神にあっては「偶然」は単なる「偶然」ではない。
イエスのチャレンジは、要するに、今、目の前で助けを必要としている人に
きちんと目を向けなさい、ということではないだろうか?
そう。一度に一人ずつ。
今、この場所にこそ、イエスを愛する機会が開かれているのだ。
私たちの頭の中は、私たちの生活は、
「イエスに仕えるために、あれもしなくては、これもしなくては」と、
必要以上に忙しくなりすぎていないだろうか?
そして、目の前に突然現れた予定外の必要を、
イエスに仕える上で邪魔なこと、考えたくないこととして、
あまりにも簡単に脇に追いやってしまっているのではないか。
精一杯愛をもって対応したとしても、心の根底では、
「想定外」のことは、悪しき事と思ってはいないか?
もし、これこそが、イエスのみこころなのだとすると、
私たちが、「みこころの実現のために」忙しく駆けずり回っていることは、
著しくみこころから逸れた事になりかねない。
そういう意味で、いつでも主に仕える事ができるように整えられる、というのは、
忙しさで心を失ってしまう事がないように、あえて自制することを
含んでいるんじゃないか。
「私の隣人とは、だれですか」
・・・そう、まさに私の隣に主が置かれた人こそが、私の隣人なのだ。
主よ、およびもつかないような大きな事をしようとする誘惑から守ってください。
今、ここに生きることが出来ずに、良いサマリヤ人になることなど出来ません。
あなたが、目の前に置かれた一人一人と、しっかりと向き合い、
一人一人を愛されたのと同じように、私も、一度に一人ずつ、
しっかりと向き合っていく事ができますように。
うわついた私の心を、あなたの愛で守ってください。
2 件のコメント:
2003年のビルウィルソン横浜大会で
「目の前の必要が神様の召し」
というメッセージが凄く心に響いたよ。
神様に語られたらとか、祈ってから決める
とかではなく、具体的な行動に移していかなければいけない。
100歳のおじいさんアロンが
目の前の必要が迫られた時に
急いで走って祭壇から火皿を取って来た
という箇所をあげていた。
僕は直ぐに行動に移せないタイプから。
でもそれが出来るようになりたいな。
それはそうと、手術してからの調子はどう?
すうっきりぃした?
じゃーじゃーさん。
そうだねー。ボクもこれを書きながらビルウィルソンが「一度に一人ずつ」って言ってた意味がもう一度心に響いてきていたんだよ。目の前の必要に応えるってのは、状況に振り回されることとは違うんだよなー。
鼻は、ねぇ・・・。
確かに通りは良くなったんだけど、体調としてはまだスッキリはしてないんだよねー。
来週の金曜日に、もう片方も同じ処置をします。
やっぱり、脳みそも、抽出してもらぉッかなぁ?
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