2006/02/16

わたしもその中にいる

今、教会全体で特別な祈りの取り組みをしている。
緊急の課題が持ち上がり、そのための連鎖祈祷をしているのだ。
今日の祈祷会では、その一つの答えが主から与えられた事を聞き、
みんなで感謝した。

しかし、私はその時に、牧師の祈りの中で
ほんの少しだけ触れられた御言葉によって、心がとらえられた。


もし、あなたがたのうちふたりが、
どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、
天におられるわたしの父は、
それをかなえてくださいます。

ふたりでも3人でも、
わたしの名において集まるところには、
わたしもその中にいるからです。
(マタイ18:19-20)


私がとらえられたのは、「心を一つにして」という部分だ。


私たちが「一つ」になることは、主のみこころだ。
そして、私たちはそのために召された。
しかしその単純な事が、なんと実際には難しいことか。
私たちは、一人一人、あまりに違う。
表面上同じ言葉で、同意したように見えても、
それぞれが考えているイメージまで、全く一致している事は少ないように思う。

使徒2章で、救われた3000人はさっそく、毎日心を一つにして祈っていた。
ありえない!
なんでそんな事が可能なんだろう?

主よ、3000人は、難しいかもしれません。300人ではどうでしょうか?
いいえ、300人も多いです。30人では?
いや、やっぱり12人。
5人ではどうでしょう?
5人家族くらいならば、一致できるのでは・・・。

しかし、主は言われる。
「あなたがたのうちのふたりが、・・・地上で心を一つにして祈るなら」

主よ、ありがとうございます!
たったふたりが、心を一つにして祈ればいいのですね!


でも・・・、たった2人の交わりですら、
心を一つにするって、何と難しいことでしょう!
でも、主は、そこから始めようとされているのです。
目の前に今置かれた人に対して、誠実でなくて、
どうして、群衆の前で誠実である事が出来るでしょう。
目の前に置かれた人に対して、正直である事ができなくて、
どうして、群衆の前で正直である事が出来るでしょう。

2人、3人でもというのは、そこなら簡単だからというだけではない。
その2人、3人との関係こそが、3000人の一致の大きな鍵となるのだ。


先日、「ミュンヘン」という映画を見た。
実話を元に、テロの際限ない報復合戦を通して、真の平和を問いかける作品だった。
あまりにもヘビーな内容だったが、いろいろと考えさせられた。

その中の一つが、果たして「自分達の信条が、相手を裁く理由になるのか」という事と、
平和や家庭を求めて戦っていたはずの人たちが、結局真の平和にも、
家庭の豊かさにも行き着かない事を感じ始め、疑問を持ち始める。

そのラストで、自分に指令を下した国家の者に対して、
「今晩、あなたをうちに食事にお招きします。あなたは遠方からの客人です。
 私にはあなたをもてなす義務がある」
と声をかけていたのがとても印象的だった。
「ともに食事をする」。
生活の中で、顔と顔をつきあわせてじかに触れ合う。
こんな当たり前の事が、当たり前に出来ることこそ、価値のあるものなのだ。

自分の義を主張するばかりの所には、平和は生まれない。
むしろ、互いの違いは認めつつ、それをそのまま受け入れるか、
脇に置くかしながら、「あなたと私が一緒に食事をする」こと。
これこそが、平和への第一歩なのではないかと思った。


2人、3人が心を開いて、互いに耳を傾けあい、交わること。
それは、全世界にが一つとなるための出発点なのだ。
そういう祈り。
イエスがたしかにそこにいると感じられる祈り。
そういう祈りの中で、ボクたちは際限なくつながっていけるのだ。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

イエスさまは、罪人と一緒に食事をしに来てくださるかただもんね。ともに食することは、礼拝だと思う。

Mary Chikagami さんのコメント...

ミュンヘンって、日本でもう上映してるの?スピルバーグでしょう?

さとけん さんのコメント...

しょうこちゃん、
そうだよねー。ともに食することは礼拝だよねー。
こんど一緒に礼拝しましょう♪

さとけん さんのコメント...

mary chikagamiたつみちゃん、

そうだよ。スピルバーグ。
心臓をゆっさゆっさシェイクされるような映画でした・・・。デートで観るような映画ぢゃないので気をつけてね!!