2005/11/15

胸が張り裂けそう・・・

苦しい・・・。
胸が張り裂けそうである。

・・・と言っても、病気のせいではない。

日本の魂に主が抱いておられる熱い思いに、胸が張り裂けそうなのだ。いや、この主の熱い思いに、応え得るものを持ち合わせていない自分自身への苛立ちなのかも知れない。思いや願い、手に入れたいものがすぐそこに見えているのにそれを表現できない、幼子のうめきような、何とも言いがたいプレッシャーに押しつぶされそうだ。何も、私が私の立場でそんな重荷を負うことはない。一体自分を何者だと思っているのか?それは分かっている。でも苦しいのだ。

いや、そんなに美しいものではないかも知れない。単に、私のうちにある、まだ癒されきれていない、苦々しい傷がうずいているだけなのかも知れない。その傷に触れるのを恐れているだけなのかも知れない。見せ掛けだけを取り繕って、今ある立場が脅かされるのを恐れているだけなのかも知れない。

いや、単に骨を折りたくないだけなのかも知れない。最も難しいと思われること・・・、でもやらなければならないこと・・・、そういう事はできるだけ他の人にやってもらいたいと思っているだけなのかも知れない。自分は、美味しい所だけを取って、さも労しているかのように見てもらいたいと思っているだけなのかも知れない。


 こんな、思いに押しつぶされそうになっているのは、今日一日、日本でのC-BTE導入のプランについて具体的に検討する機会が与えられたからだ。はじめは、やや抽象的な所で済ませるつもりだった。数値目標も、日本の現状から考えて現実離れしない程度に・・・というふうにしか考えていなかった。
 ところが、ところが、カンボジアの働き人と話をしている内に、涙が出そうになってきた。カンボジアもそう、インドもそう。何十年間も、福音の扉が閉ざされていると思われていたところに、大きなリバイバルが訪れているのだ。彼らは、教会の増殖にリーダーの育成が間に合わない、という現状の問題からBILDの教材を導入しようとしている。強烈な勢いで、強いリーダーの再生産が急務とされているからだ。日本では、確かに状況は違う。しかし、どうして違うと言い切れるのか?本郷台の教会で多くの恵みを受けている自分は、もう少し大きくビジョンを描けると思っていた。いや、私のビジョンではない。主が描いていることを、どれだけ真摯に受け止める事ができるか、ということだ。しかし、それが出来ない。とたんに現実が自分を縛る。そして、このままでは、多くの人が結論付けたのと同じように、「日本は特殊だ。日本は伝道が難しい。日本には霊的壁が強すぎる。」と言ってあきらめ、クリスチャンとしてなんとなく周りに合わせて当たり障りなく生きていく、そんな所に落ち着いてしまいそうだ。

 祈りが足らないからか?もちろん、祈りは足らない!もっともっと、祈るべきだ。熱心になって悔い改め、この国の救いのために涙して祈るべきだ・・・。
 でも・・・。でも、祈れば祈るほど、この苦しさは大きくなっていくような気がする。そうだ。主任牧師が言っていた。祈ったら、祈った通りに行動せよと。

目を覚ましていなさい。
堅く信仰に立ちなさい。
男らしく、強くありなさい。
(1コリント16:13-14)

 主よ、あなたに信頼します。私の心からの献げものです。どうかお受け取りください。私はあなたのものです。弟子として整えてください。しもべとして整えてください。宮として整えてください。あなたの花嫁として整えてください。主よ・・・。

私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が肉にあって生きているのは、
私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)

あなたがたのからだは、
あなたがたのうちに住まわれる、
神から受けた聖霊の宮であり、
あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって、
神の栄光を現しなさい。
(1コリント6:20)

主よ。この身をお献げします。
あなたの栄光の御業のために、お用い下さい。

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