2005/11/30

窓としての教会

再び、大和田さんの音響で小学校へ。

今日は、音響機材の運搬のためだけに手伝いに来てくれた若者達が何人かいた。音楽室が4階にあるので、体力減退気味の私にとってはとても心配だった。でも、いろいろな配慮していただき、学校の先生方も多数協力してくださったので、とてもスムーズにセッティングをする事ができた。いつもいつも感謝ばかり!

中でも、雅樹がこの「重荷を負う」奉仕を手伝ってくれたのは、特別に嬉しい。彼は、私が教会でMIC(若者男子)のために特別に奉仕を始めた時の、一番初期の頃の教え子でもある。あの頃中学生になったばかりだった彼も、今ではもう立派な大学生。しばらく一緒に何かをするような機会はなくなっていたが、こうしてわざわざ朝早く出て来てくれて、本当に嬉しかった。今日は他にも手伝ってくれる人がたくさんいたので、彼にとっては「ほとんどなにもしてない」と思えるくらい、あっけなく終わってしまった奉仕かも知れない。でも、嬉しかった。きっと彼も嬉しかったに違いない。

そこで思う。
 たった一時間、単純に荷物を運ぶだけであっても、みんなで力を合わせれば、あっという間に終わってしまうような事がある。何も、一日中する必要はない。すべての知識が必要なのでもない。素晴らしいコミュニケーション能力が必要なのでもない。喜んで仕える心さえあれば、ほんの少しの力を出し合えば多くの事、大きな事が出来るのだ。
 なのに、その人の状況を十分に考えられなかったり、逆に考えすぎたり、一人一人に多くを求めすぎたり、逆に勝手にこちらで線を引いてしまったりと、神様が私たちが共同体として生きていくために用意されたお互いを生かしきれていない事が何と多いことか。

ボブ・モフィット師は言った。教会は、傷付いたこの世にあって、神の国がどんなに素晴らしいところであるかをこの世に示す「窓」となるべきだと。この「窓としての教会」が、互いに仕えあう姿は、自発的に喜んで仕えあうコミュニティを体現したものでなければならない。果たして、私たちのコミュニティは本物だろうか?本当に「窓」として、この世に光を照らすものとなっているだろうか?

私たちが目指している方向性は間違っていない。
しかし、そこに向かう私たちは常に変革される必要がある。
今、その息吹を様々なところから感じている。

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