2005/11/25

御霊の実

「御霊の実」と、「御霊の賜物」は違う。

賜物はギフト、すなわち贈り物。神様が、一人一人に与えてくださった贈り物。神様は、一人一人に計画をもって、必要なものを与えてくださった。それは、単に能力だけではなく、環境、家族、性質、経験、情熱など、その人の個性を形成する様々な要素からなりたっている。それを、自分自身で正しく把握する事は、神様がその人にどんな計画を持っておられるのかを読み解く、重要な手がかりになる。しかし、それを正確に見極めるのは非常に難しい。なぜなら、私たちの視点はすでにこの世の価値観にどっぷりと浸かっているので、「神様の計画」にすらこの世的なランクがあるように感じているからだ。何か特定の賜物があるように見える人の方が、ランクが高いように見えてしまう。だから、自分自身をも偽って、「こうありたい」という姿と、ありのままの自分とを正確に区別する事が出来ず、必要以上に自己卑下してみたり、自己誇示してみたり。しかし、そういう事から解放されたとき、神様が計画してくださっている本当の使命に歩む事が出来るようになる。一人一人に与えられている賜物は違う。しかし、それは、その人の価値を決めるものではない。


その賜物が正しく用いられた時、御霊は私たちを通して「実」を結ばせてくださる。

良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、
また、悪い木が良い実をならせることもできません。
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって
彼らを見分けることができるのです。(マタイ7:17-20)

あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、
そのあなたがたの実が残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16)

それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。
成長させてくださる神なのです。(1コリント3:7)

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。(ガラテヤ5:22-23)


実を結ぶ事が目的であるならば、その目的で用いられるのが一番幸せである。しかし、だからと言って簡単に実は実らない。蒔かれた種を、丁寧に、手間をかけて、忍耐をもって、時間をかけて育て、さらに不毛な時期を過ぎて、ようやく実が結ぶようになる。必ず実がみのるということを、まだ見ぬうちから確信するからこそ、時間も、労力も、何もかも投資してそれに打ち込めるのだ。


・・・と、ここまでは普段考えてたことをまとめてみた事。
なぜ、今日こんなことを書こうと思ったかというと、私自身がこの「御霊の実」の一つを身に付ける事が出来るようにと、主は私を訓練してくださってるのだと気付いたからだ。
その御霊の実とは「自制」である。私は自制心に欠けていると思う。自分自身を制御できていないことがある。それが、「適応障害」という結果になった。理由が何であれ、働きすぎを制御できないのは、私に「自制」という実がない証拠である。そして、主はその「自制」を私に身に付けさせ、自分自身で「限度を超えない」ということが出来る力が備わるように、御霊を通して働きかけて下さっている。そのためにも、私に多くの賜物を与えてくださっているのだ。

主の計画は人知をはるかに超えてすばらしい。その主への信頼が増せば増すほど、御霊の実を豊かに実らせることができるのだと思う。

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