2006/04/10

怒り

「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と書いてあるではありませんか。
 それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。
(マルコ11:17)


イエスが怒っている。あの優しい、柔和な小羊イエス様が。
イエス様は、何をそんなに怒っているのだろう。

人はうわべを見るが、主は心を見る。(1サムエル16:7)
イエスは、彼らのどんな心をご覧になって、怒られたのか。


しかし私が最も驚いたのは、イエスの怒りではない。祭司長と律法学者たちの反応だ。彼らはイエスの言葉を聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談しはじめたのだ・・・!
どうして、彼らはイエスの言葉を聞いて、自らのあり方を省みなかったのだろう。人は失敗するものだ。だから、それに気づいた時に、素直にそれを認めればそれでいいのだ。普通の人々ですら驚嘆したイエスの教えを、彼らが理解できないはずない。なぜ、宗教指導者たちは恐れて敬遠したのか?


私の考えでは、イエスが怒られたのは、この宮が、商売人たちが、宗教指導者たち自身の存在が、そして彼らがつくりあげたシステム自体が、人々を真の祈りから遠ざけているということに、心を痛めたからではないだろうか。
単に宮での商売の善し悪し云々ではない。彼らの心が遠く父なる神のみこころからかけ離れているばかりか、彼らの存在自体が人々を神へ近づけなくしているということを怒られたのではないだろうか。


今、同じ主の前に立った時、イエス様の目に私たちの教会はどのように見えるだろうか?
私たちクリスチャンはどのように見えるだろうか?
いや、私自身は、どのように見えるだろうか?
この世に光を輝かせなくしているのは、他でもない、私自身なのではないか?


わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、
わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、
わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。
今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。
わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。
(2歴代7:14)


主よ。へりくだり、悪い道から立ち返るべきなのは、この私です。
あなたの聖い宮として、ふさわしく整えてください。
み顔を慕い求めます。どうか、この地をいやしてください。
あなたに信頼します。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

へりくだることは、本当にむずかしいことですよね。イエス様のようなへりくだりは、私のような罪びとには無理です。。ただ、自分が徹底的に罪びとであることを実感すれば、そこにはほんとうの感謝と喜びが生まれるのだろうなあ、ってなんとなくはわかるのだけど、自分がいかにそこから離れているかを知ってしまうのです。。一方的で完全な愛の大きさ、深さをまだ知ることのできていない自分をなさけな~いと思いながらも、十字架の愛は、そんなものも価値あるものへと生かしてくださることは、ほんとうにすばらしいことです。この受難週に、もう一度、自分を捨てることの意味について思いを馳せたいし、そのように導かれていることを主に感謝したいです。

さとけん さんのコメント...

しのぶさん、もともとさん。

アンドリューマーレーの『謙遜』という本を読んだ時、「謙遜こそが、被造物としての栄光」だという記述を読んで、感銘を受けた記憶があります。

神の御姿であられるイエス様が、人となられたという謙遜。そして、神の御子であるイエス様が、十字架の死にまでも従われたという謙遜。

私たちが、自分の十字架を負うという事は、何かをするという事よりも、一生をかけてこの謙遜を学んでいく事だと思います。

この十字架の恵みを心から感謝しつつ、イースターを迎えたいですね。