イエスはいつも大胆だ。
イエスは、人々に忌み嫌われていた、罪人や取税人と一緒に食事をした。
そして宗教家たちが断食をしているとき、イエスの弟子たちは断食しなかった。
「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
イエスは当時の宗教家たちの慣例に従わなかった。
慣例ではなく、父なる神のみこころに従う事に興味があったのだ。
罪人である私たちに向けられた、父なる神の憐れみ・・・。
それこそ、イエスキリストをこの世に送られた神のみこころだ。
イエスキリストは、父なる神に従って、自らが引き裂かれる事を覚悟して、
自分自身をささげられたのだ。
・・・罪人を招くための皮袋として。
「新しいぶどう酒」とは何か?
それは、今まで恵みを受ける対象とは見なされなかった人たち。
今まで、教会が受け入れようとしていなかった人々。
単純に、教会のあり方、自分自身のあり方そのものが、
人々をキリストのもとへ近づけるのを妨げていることはないか。
新しいぶどう酒を入れる事ができるためには、
教会が、そして私自身が、新しい皮袋となる以外にない。
自分自身を変えるというのは、実は至難の業だ。
私たち一人一人が問われる。
しかし、確実に新しいぶどう酒がやってくる。
彼らには新しい皮袋が必要だ。
キリストご自身こそ、私たちの皮袋。
受け入れられないものを受け入れてくださった。
私たちも、キリストにならい、新しい皮袋へと変えていただこう。
私たち(すなわち教会)は、キリストのからだなのだから。
わくわくする話。
今、本当に教会に一つのうねりがある。
変革への切望・・・。
働きの広がりを通して、神が私たち自身のあり方を取り扱って下さっているのだ。
必ずそれはなります。
主よ、委ねます。用いて下さい。
6 件のコメント:
>単純に、教会のあり方、自分自身のあり方そのものが、
>人々をキリストのもとへ近づけるのを妨げていることはないか。
そうですね。私達を変えていただくように主に祈らなければ・・・。
ほんと、自己変革は、信仰の本質なんですよね~。
心の一新によって自分を変える・・・(ローマ12:2)何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために。
私の古い皮袋を、新しい皮袋と取り替えて、少しでもイエス様の皮袋に近づけたらなんと幸いなことでしょう。。皮袋が破れるまで古い自分に固執して、新しいものと交換することを善しとしない私が変えられるとしたら、それは自分自身の力によってではなく、神様の恵みの力によるのでしょうね。。罪の大きいところに恵みが増し加わると応答讃美にありました。。自分の罪の大きさに徹底的に打ちのめされないと、恵みの大きさを知ることができないし、本当にその大きさを理解することは、私たちにはとてもできない神様の愛ですね。神様を愛し、互いに愛し合いなさいという新しい戒めを守り続けるなら、気づかないうちに自分の皮袋が新しくされていることを知るようになるのかも。。
もともとさん。
神の愛ゆえに、気がついてみたら皮袋が破れていた、ということもあるかもしれません。破れないと得られないものがある。十字架で死なないと得られないものがある。人の思いを遥かに超えた神の知恵ですね〜。
I like it! Good job. Go on.
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