2006/04/08

引き裂かれたからだ

彼らとともに食卓に着かれると、
イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。
するとイエスは、彼らには見えなくなった。
そこでふたりは話し合った。
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、
 私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
(ルカ24:30-32)


イエス様だ。
確かに目の前にイエス様が生きておられる。
私たちのただ中に生きておられる。
だって私たちの心は、こんなにも燃やされているのだから・・・!

私たちの心を燃やすのは、イエス様の十字架。
十字架で引き裂かれたイエス様のからだ。

この十字架の主は、
ともに食事をしている時、
十字架と復活について語り合っている時、
弟子たちに現れてくださった。

主は、いつでもともにいてくださる。
でも私たちの目が開かれるのでなければ、
それが主である事すら分からない。
目が開かれた時、
私たちの心は、うちに燃やされている。


私たちの心を燃やすもの。
それは、単なる野心ではない。
自己中心や虚栄でもない。
いのちを得るために、いのちをささげられた、
イエス様の十字架の愛。
それ以外に、私たちの心を燃やすものはない。
そして、その十字架の愛は、
イエスに従って、自らを十字架につけた者から
あふれ流れてくる。


今日も、そんな主と出会った。

主のしもべ達の語り合いの中で。
祝福の食卓を囲んで。
犠牲の奉仕を通して。
自らの弱さを通して。
苦悩を抱えた兄弟姉妹を通して。
熱く燃やされた兄弟姉妹を通して。


主よ、あなたです。
わたしを生かしているのはあなたです。
もっともっと深く、あなたを知る事ができますように。
もっともっと広く、あなたを伝える事ができますように。
もっともっと熱く、心を燃やしてください。
あなたの十字架を慕います。
あなたのそばに引き寄せてください。
主よ。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

アーメンです。

さとけん さんのコメント...

今日の礼拝での大きな荒削りの十字架。
感動でしたねー。

匿名 さんのコメント...

本当にそうですね。祈りを込めて作り、運び入れた大工さんのH兄に、それなりの格好をしてもらったら、、なんて、ドラマティックなことを思い浮かべてしまいましたよ。