映像にはパワーがある。
本を読むだけ、話を聞くだけでは伝わりにくい事も、
無条件で心に届くことがある。
一方で「信仰は聞く事から始まる」のだからと、
映像を伝道の手段として考えるのを警告する意見を聞いた事がある。
それも、素晴らしい神学者からである。
正直、驚いた。
確かに、みことばそのものを「語る」ことの重要性、
そしてそれを「宣べ伝える人」の必要性は言うまでもない。
でも、「ことば」は人となって私たちの間に住まわれたのだ。
見えない主が、見える形となって。
神のことばが、生ける人となって。
だから、文章だろうと、絵画だろうと、映像だろうと、
それを伝える手段はなんでもいい。心に届けばいいのだ。
何とかして、幾人かにでも福音を届けたいのだから。
大事なのは、実際にその通りに生きている人の存在だ。
そういう人を通して、イエスが実際に生きている事が目に見えるのだ。
昨日、頼んでおいた「マザーテレサ」のDVDが届いたので、
「ノーカット完全版」の前半部分を見た。
映画館で見たときも涙したが、今回も涙した。
主は生きている。
そして、生ける主に本当に生かされている人を見る時、
心に深い感動が与えられるのだ。
昨日、私たちの教会の通ってきたところを、
わずかながら映像化したものを礼拝で用いたが、
そこに実際に主が生きているからこそ、
幾ばくかでも心に触れるものがあったのだと思う。
見ずに信じる者は幸いです。
でも、見て信じる者も幸いです。
主が心に生きてくださるのであれば。
2 件のコメント:
そう思うな。
イエス様自信も人となって愛を示してくれたんだ。
僕はダイヤの産みの苦しみをしらないんだ。
あの場にいた人は恵みだよね。
食堂横のトイレは開かずの
間になったね
。
じゃーじゃーさん。
そうだね。「苦しみを恵み」と感じられるのは、その場にいようが、いまいが、それは主のみわざだよ。まさに「見ずに信じる者は幸い」だよー。僕らは、イエス様の十字架を本当には知らないんだけど、信仰によって知っているんだ。
トイレ一つ直すのも大変。
あちこちの雨漏りもありえなーい。
(ToT)
でも、この苦しみも恵みに間違いないよ。
ね?
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