ヘンリ・ナウエンの本が届いた。
古本2冊、Amazon.co.jpで頼んでいたもの。
薄かったので、ざっと目を通した。
ナウエンは、ノートルダム、イエール、ハーバードなど、
プロテスタント&カトリックの最高峰の大学において神学を教えていた。
しかし、50歳を越えて自らの歩みを省み、
前に書いたジャン・バニエの創始したラルシュ共同体で、
知的障害者たちとの共同生活をする道を選んだ。
彼はこのように言う。
これからの時代のクリスチャン指導者は、まったく力なき者として、
つまり、この世にあって、弱く傷つきやすい自分以外に、
何も差し出すものがない者になるように召されている、
ということを言いたいのです。
(「イエスの御名で」からの引用)
指導者は、人々を指導する者ではないのか?
弱く傷付きやすい自分を差し出していては、指導にならないのではないか。
でも、私は直感的にナウエンのことばに同意せざるを得ない。
私には何もないけれど、そんな自分を差し出す。・・・こんなに力強いことはない。
人々が必要としているのは、(求めているかどうかは分からないが)
こういうリーダーだ。
しかし、そういうリーダーになるのはそう簡単ではない。
そして、ナウエンは自分の神学的知識や功績が全く役に立たない
環境の中で、むしろ彼らから愛を受け、教えてもらい、友情を育んだ。
こういう誠実さが必要なんだよな。
もう1つ、心に残った点の引用・・・。
問題の最も深い根が自分自身にあるという現実に直面することを避けて、
世界の問題を解決しようとして走り回っている。
わたしたちはちょうど、きれいな花に向かい、
「あなたはここで何をしているの?神のために何かもっと忙しくできないの?」
と尋ねて、
「ごめんなさい。わたしは美しくあるためにただここにいるの」という、
花の答えを理解できない忙しい人に似ている。
(「友のためにいのちを捨てる」から引用)
忙しさが増す現代においては、容易に自分自身の存在そのもの、
そして心のありようを見過ごしてしまう。
そして、次々と解決のための策を見つけようとするが、
それも自分自身から目をそらすための手段でしかない。
私たちの心の姿勢が根本的に変わる必要があるのだ。
勇気を持って自分自身に目を向けよう。
勇気を持って心を開こう。
教えることを通して、教えられよう。
無力な私を差し出す事ができる喜びを味わおう。
8 件のコメント:
ヘンリー・ナーウェン
たいも読んだことある。イエスの御名で、持ってる。
そぉかぁ・・・弱く傷つきやすい自分を差し出す・・・それこそ、一番難しくて怖いことかもしれないね。
今、会社に復帰しようと思ってる。1年前、背伸びして「出来る自分」になろう、そう見られようと頑張りすぎてつぶれた自分・・・
今度は、ありのままの自分を出して行きたい。そして、その自分を神さまに用いてもらいたい。神様が助けてくれるから、それを信じて一歩出たい。
釣られてしまったえいぢですフタタビ。
さとけんさん、すでにココでこうやって弱い自分を差し出してますよね。見てる人は少ないかもしれないけど、そんなことは問題じゃないでしょう。ただ問題は、すべての時間をそのように生きることは難しいっていうこと。世の中のほとんどの人は、そういう(弱い)人を受け入れることに困難を覚えるだろうから(特に仕事場では)ね。たいさんの新しい一歩も、神さまが祝福してくださいますように。
「存在自体が喜び」っていうのは、あくまでも神さまにとっての喜びだということが大事じゃないかな。その「喜び」は本当のところボクにはわからない、という視点を見失うと危険です。同様に、神さまと全く同じように愛してくれる人はこの世にはいないということ。カウンセリングを受けてはじめて受け入れられるようになったことは、ボクは神さまに求めるべきことを他人に求めてるんだっていう現実だった。
社会に対するときも「ボクはキミのことを、神さまがキミを愛してくださっているようには決して愛せない」っていう大前提を忘れちゃいけないと思う。その上ではじめて、キリストがそう生きてくれたからこそできないボクにもその使命が与えられ、ボクの存在(言葉であり行動)の愚かさを通して福音を伝えさせてくださる、ということへの畏れ(恐れ)が持てるんじゃないだろうか。
でも、人はそういうリーダーをあんまり欲しいとは思わないでしょうね。人と、その人に神さまが与えた賜物を縛っておくために「教会」っていう言葉が使われることがとっても多いと思います...ので。
また釣られてしまった。
生だと危ないので、焼き魚にでもしてください。
そういえば、風邪ギミだったムトさんは元気になったかな。
たいちゃん、
「自分は弱くて傷付きやすい」ってことを認める事が、一番力強いなって思います。
神の前に正直であることと、開き直ることとはかなり紙一重だと思うんだけど、やわらかい心で主の前に出る事が出来ることさえできれば、神様の力が僕らを覆ってくれると思います。
会社への復帰も、より神様と親しくなれる機会としてきっと用いられるよ。そんなたいちゃんの姿が十分に世の光。
大丈夫。
えいぢさん。
誠実な歩みから生まれてくる真実な告白ですねー。
焼いて食うのももったいないので、ホルマリンにでもつけておきますか・・・(笑)
ホント、神様に求めるべきことを人に求めてしまうってのは、分かります。実際の行動云々よりも、心の内側の傾向としてね。
でも、僕は「教会」をあきらめきれません。
ひょっとしたら、人々が今使っている「教会」とは似てもにつかないものなのかもしれない。でも、この「愚かな弱い者達のあつまり」が、この世に希望の光を放つものだと信じたいのです。知的な理解を超えた所で、直感的に、みことばに書いてある「教会」は、真理だと思うのです。
それは「家族」とか「結婚」をどう捉えるかにも似通ったところがあると思います。
変わり行く世界の中で、なかなか変われない人間達が、常に本質を求め続けていく事ができるのか。
大きなことは出来ないかもしれない。でも、私を通して希望の光に輝いてもらうことは出来るかもしれない。私は自分自身に託されたものを、感謝して歩んでいきたいなぁと思うのみです。
健全に、今この時を喜んで生きましょ。
ムトさん、生きてる?
どーも。まだ風邪気味状態です。
「それは「家族」とか「結婚」をどう捉えるかにも似通ったところがあると思います。」
って
なんか最近さとけんさんおセンチになってません?
恋してるんじゃないんですか?
勝手に妄想しました。
明日はろくに練習もしていないのにギターの発表会に行ってきます(何の為に?と自問しながら。。。)。
教会にも行きたい(何の為に?と自問しながら。。。)
ですが、時間的に行けません。
無と
お、ムトさん、生きてた。
妄想はしてます。(笑)
(何の為に?と自問しながら。。。)
ただ「教会形成は、家族を建て上げるのと同じくらい難しい」と思っているだけですよ。
妄想ですけど・・・。
さとけん、こんちゃ。
案ずるより生むがやすし、だよ。さとけんちゃん。
宝飯は考える前にまず行動しちゃうタチだからねぇ~。
って宝飯が誰だか君はわかっているのかね。
ここにはしょーこちゃんも来ているみたいで
何か嬉しいよ。随分会ってないからねぇ
教会が捨てきれないのはさとけんが教会を
本当に愛しているからじゃないの?
それってさーすっげー大事なことなんじゃないのかな。
今のスピリットを基準にして動けばいいんじゃないかい。
まぁさとけんちゃんも同じ教会員の宝飯には
コメントしづらいだろうが・・・
むとーさんは明日教会においで。
って忙しいのかい。
人々が必要としているのは、(求めているかどうかは分からないが)
これ、好き。ニーズって言葉でくくれないものあると思う。
僕もナウエン好き。
以前、『今ここに生きる』 に感化された。
(タイトル違うかな?)
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