2006/01/05

日本語吹替版

ハリーポッター見に行きました♪
地元、港南台でやっているのを知って、いきおいで行ってしまいました。
これだけ多くの要素を、よくギュッと一つの作品にしたな、って感じ。
なかなか、味わい深い映画だと思いました。


ところで、入口では、チケット売りのお姉さんに怪訝そうな顔をされた。
「お客様、何名さまですか?」
「あ、一人です。(わるいか?)」

「割引券か何かお持ちですか?」
「いや、ないです。(しまった。何かあったのかな)」

「・・・では、1800円になります。」
「あ、はい。(高いな、ふつうに)」

「あ、お客様、こちら日本語吹替版ですがよろしかったでしょうか?」
「へ?あ、はい(っていうか、買ったあとに聞いてどうすんだ?)」

冬休みなので、家族連ればかり。
大人がいたとしても、レディース・デーなので、女性ばかり。
しかも、そこに行くまで、「日本語吹替版」であることに気付かなかった・・・。
(ついでにスクリーン、ちっちゃ!)

実は、先日見に行った「チキンリトル」も日本語吹替版だった。
こちらは、字幕版が満員だったため。
英語が分からない訳でもないのに、何も好き好んで日本語吹替版に行くことはない。
昔だったら、絶対行かなかっただろう・・・。

でも、日本語吹替版って、思っていたより悪くないんですよ!
この2回連続の日本語吹替版体験は、結構面白かったです。やっぱり、耳から入ってくる日本語って、何にも考えなくても理解できるんですよねぇ。字幕を見ないので、映像に集中できるし・・・。

そして、この翻訳作業って、字幕のための翻訳作業とまた少し違うんだろうな、なんて事を考えてしまいました。もとの言葉と同じ長さで、意味がそのまま通じるように、時にはジョークも笑えるように、自然に理解できる日本語に訳すのって、とっても難しいはずです。

教会では、よく英語の歌を日本語にして歌います。そして、英語の歌詞が良ければ良いほど、日本語の歌詞が残念に思うのです。私も、訳すことがありますが、その時は、新しい歌を作り直すような覚悟で、大胆な意訳をしてしまうこともあります。でも、心から納得いくようなものは、なかなか作れません。


そもそも、「ことば」は、コミュニケーションの手段です。

コミュニケーションとは、
(1)伝える側
(2)伝えられる側
(3)伝える内容
(4)伝える手段
(5)伝える環境
(6)伝える時
(7)伝える理由
・・・などの要素が複雑に絡み合って成り立っているものです。
そして、それぞれの要素に、さらに奥深い歴史や文化があります。
それは裏を返せば、思い込みや先入観があるということです。

そういう意味で、伝えたいことを、100%その通り相手に伝えるというのは至難のわざです。むしろ、そのコミュニケーションを通して、何を達成したいのかという事をもう一度考え直してみる必要があります。「正確に伝える」という事ばかりに捉われていると、そもそも何を誰に何のために伝えるのかという目的を達成できない事が多いからです。そして、多くの場合、「正確に伝える」ことよりも、大事な事が見えてくるのです。「真実を語るのが、本当の愛だ!」というような事を、よく考えもしないで言うことの危険性も感じます。「愛をもって真実を語る」のとは次元が違うように思うのです。

特に、映画や歌のような、右脳にも左脳にも訴えかけるようなアートに関しては、最新の注意をはらう必要があると思います。(私は、宣教や教育、いや人生そのものも、アートだと思っています。)

映画は一つの体験です。
イエス様自身が、「神のことば」だというのは、見逃せない点です。
映画「パッション」は、アラム語で上映されていたけど、強烈な体験をしました。

もちろん、バランスが必要です。
だから、知識的にも、技術的にも、人格的にも成長する必要があるのです。


うーん。・・・伝えるのって難しいなぁ!


・・・えーと、とにかく、日本語吹替版も、なかなか捨てたもんじゃないですよ。
翻訳してくれた方に拍手!

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