貧しい人とは、何かを必要とし、
かつ必要としていることを認めていて、
助けを求めている人たちのことです。
・・・これは、ジャン・バニエの「ラルシュのこころ」からの引用。
こう考えると、イエス様が「心の貧しい者は幸いです。」
と言われた意味が分かりやすい。
「私は、心に<何か>を必要としているのです。助けてください!」
天の御国は、この様に告白できる人たちのものなのだ。
しかしどういう訳か、しばしば私たちは、こういう誠実な人たちを食い物にする。
「救いは、思いや感情を越えたものなのです。あなたは救われました。」
といって、安易な解決をあたえて、めでたしめでたしとする。
そして、その<何か>は「信仰」によって満たされた事にして、それを助けることをしないばかりか、その人がその必要を訴えたり、助けを求めたりすら出来ないようにしてしまう。それはあなたの信仰が足りないからですよ、とでも言うかのような暗黙の強制力によって。
でも、その人が天の御国をこの地にもたらすためには、
心が貧しくあり続ける必要があるのだ。
神の国が、この地に実現するとしたら、心の貧しい人たちの集いの中でだろう。
ここで述べているのは、「心」の必要だ。
「心」はいつも耕される必要がある。
一番、この「心」を耕してくれるのは、「私とは違う人たち」だ。
貧しさは、悪ではない。
天の御国は、その人のものなのだから。
4 件のコメント:
最近深いっすね。毎日涙もんで読んでます。ねえ、ところで「私と違う人」ってどういう意味かもっと詳しく教えてほしいな。む
自分とは違う考え方をする人
自分とは違う感じ方をする人
自分とは違う経験をしている人
自分とは違う傷を抱えている人
自分とは違う意見を持っている人
自分とは違う表現をする人
自分とは違う必要を抱えている人
自分とは違う喜びを知っている人
・・・など、かな?
究極的には、みんな「私と違う人」です。
でもね、結構、相手の事を相手の立場で考えずに、「自分の立場にすりかえて」相手に押し付けちゃってる事って、ありがちだと思うんだよね。だから、こちらの論理ではなく、相手の人格自体に耳を傾けられるように努めていく事が、一番自分自身を耕す事になると思う訳ですよ。
知的な言葉の通じない人(子供とか、知的障害者とか)との関わりが、一番本当の自分があらわになってしまう場面かもしれない。
まあ、言葉で表すと、ちょっとうさんくさいんだけどね・・・。
これ、いいね。
本当にそう思う。
例えば、手術が必要な病気だったら、とりあえずトライしてみるよ、とか絶対言えない。
でも、人生の問題には、簡単に解決してあげるよなんて言ってしまう。
その背後には、別の動機があることを良く知っている。
結局、自分の都合。
ねぇ、さとけんさん、どうしたらいいもんだろうか?
結構、俺もこうゆうこと考えるよ
きよくん、
そうだよねぇ。僕らにできるのは、本当の意味での謙遜を求めていく事以外ないんじゃないかなー、と思います。
自己卑下もせず、自己誇示もせず。
支配せず、支配されない。
そして自分自身を、絶えず主の前に差し出して行く事。
人との関わりも、小手先のテクニックではなくて、結局は自分自身を正直に、誠実に見つめること以外ないな、と思います。
そのために、こうやって心を開いて話し合える友がいるのは不可欠だねー。
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