パウロの産みの苦しみは、何のためだったのか。
あらためて、まずペテロへの非難の言葉を読み直してみた。
しかし、彼らが福音の真理について
まっすぐに歩んでいないのを見て、
私はみなの面前でケパ(ペテロ)にこう言いました。
「あなたは、自分がユダヤ人でありながら
ユダヤ人のようには生活せず、
異邦人のように生活していたのに、
どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。・・・
(ガラテヤ2:14)
ペテロは、ヤコブやヨハネとともに「柱として重んじられていた」(ガラテヤ2:9)。
しかし、その筆頭であるペテロに対して、
「あなたは、自分自身が福音の真理に歩んでいないではないですか!!」と
みんなの面前で非難したのだ。
使徒の筆頭ペテロに対して。
キリストとともに生活したペテロに対して。
明らかにキリストからの召しを受けたペテロに対して。
聖霊注がれ、一度に3000人を救いに導く説教をしたペテロに対して。
パウロは、キリストと生活すらしていないではないか。
パウロは、その道の者を殺害までしていたではないか。
パウロは、ある人たちからは、使徒として立場も疑問を持たれていたではないか。
これは強烈だ。
そして、見逃せないのは、あの有名な聖句も、
この流れでペテロに向けられたことばだった。
私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
(ガラテヤ2:20)
パウロのこの大胆さは、本当に彼が彼のことばのとおり、自分自身が十字架についており、キリストが自分のうちに生きておられるのでなければ、考えられない。
いや、まさにこの「ペテロに対してすら福音を説教する」という事自体が、パウロが十字架に付くことなのかも知れない。
パウロが、ここまで必死になって語った「福音の真理」に対して、私はどこまでまっすぐ歩いているだろうか。
キリストは、自由を得させるために、
私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、しっかり立って、
またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
(ガラテヤ5:1)
十字架につくことこそ自由のはじまりだ。
自由!その最大の障害は、自分自身の内側にある。
私の子どもたちよ。
あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、
私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
(ガラテヤ4:19)
主よ。私のうちにキリストを形造ってください。
そして、私もこの産みの苦しみをさせてください。
たった一人でも、キリストによって自由にされるように。
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