2006/01/25

ぼーっと考えている事

どうしたら教会は変わるのだろう。

私は、私の教会を愛している。
私は、私の教会を信じている。
しかし、その思いが、変革の妨げになることすらあるのだ。

決して今が悪いわけではない。
しかし、本当にこの世の塩となり、光となろうとするならば、
変わっていかなければならない事もあると思うのだ。


今、自分自身の中で、根本的なことをもう一度とらえなおそうとしている。
本も乱読&積読。頭の中はぐちゃぐちゃです。

今日は、あえて、ぐちゃぐちゃなまま吐露します。

万が一、この記述を読んでおられる方がいたら、
ここに書いていることは、あくまでも自己対峙のためである事を了解いただきたい。
きちんとした文章になっていませんし、誤解を恐れずに書いています。
論点を網羅しているわけでもありません。

これは、頭の中にあることを、思うがままに、並べてみたものですので、
まだまだ、考えるための種にすぎません。
でも、なるべく平易なことばで書くようにしました。


<教会とは? >
「教会は本当に神の家族である」
教会にこそ、真の共同体が回復された姿があらわされるべき。
教会の運営は、会社のようにはなされるべきではなく、
家族のようになされるべきだ。

しかし、家族のあり方は、千差万別。
家族は解決でもあるが、家族が一番傷つく場所でもある。
だから、教会が健全になるためには、まず家族のあり方が問われるべき。

「教会は、キリストのからだである」
福音の宣教、真のコミュニティの確立、リーダーシップの育成など、
キリストのからだである教会が中心になされるべきである。
教会外の働きは、教会をサポートするために存在するべきである。
神の計画は、「個人の救い」にとどまらず、「教会の確立、増殖」にある。


<セル・グループ(牧会ファミリー)とは?>
真にキリストにある生き方を学ぶところ。
セル集会そのものは、家族にとっての家族会議のようなもので、
本質はその集会そのものにはないが、
一家団欒をもたない家族に、家族としての機能が果たしにくいのと同様、
実際に親しい交わりを定期的にもたないと、セルそのものが機能しにくい。


<礼拝とは? 祈りとは?>
真の礼拝者になること。
日曜日ごとに集まる礼拝は、そのライフスタイルの一部にすぎない。
礼拝の集会はたいせつだが、礼拝に出席したからといって、
自動的に真の礼拝者になるわけではない。

同様に真の祈り手となること。
祈祷会は、たいせつだが、祈祷会に定期的に出たからといって
自動的に真の祈り手になるわけではない。

ではなぜ週に一度集まるのか?
使徒の働きを読むと、たしかに週のはじめに集まっていた形跡がある。
しかし、だからといって、今やっている礼拝・祈祷会の形式は
自動的には正当化されない。

もちろん、歴史的に続けてきた事には意味がある。
今おこなっている形態には、正当な理由がある。
しかし、「なぜ」それをやっているのか、それは絶対的な基準なのか、
どうしても変えてはいけない部分はなんなのか、
そして、思い切って変えるべき部分はなんなのか、
いつも問い続ける必要があると思う。


<奉仕とは?>
私たちが、みこころに生きる上で、なくてはならないもの。
私たちは、奉仕の働きをするために召された。

奉仕とは、キリストのからだを建て上げること。
キリストのみこころを、実践すること。
キリストの愛を、体現すること。


<みこころとは?>
一人一人が神の個人的な計画を見出し、自由意志を用いてそれに従うこと。


<福音とは?>
規則によってではなく、自由の御霊によって歩むことができるという希望。
人間が一番人間らしく生きられる道がある、ということを指し示すこと。


主よ、私は自分でおよびもつかないような事、
限度を超えるような事、みこころに反するような事はしたくありません。
でも、人々が真の福音を知るのを、教会が、クリスチャンが、いや私が、
妨げになっている可能性が大きいのです。
ですから、真にみこころに生きるために、私の目のおおいを取り除けてください。
私にふさわしい態度を与えてください。
真のあわれみと、真の勇気をあたえてください。
お委ねします。主よ。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ケンちゃんのブログ気に入った。

面白い。

こうゆうこと考えるの、俺も好き。というか、多分そうゆう風に頭ができているから、それしかできんのだが。


聖書の物語は、新約から始まったのではなく、創世記から。というのを聞いたことがあるよ。

聖書が先か、それとも教会が先か?
聖書が先か、それとも宣教が先か?
とかね。


きっと、正解はあると僕は思う。

なんかわかったら、また書いて下さい。

さとけん さんのコメント...

そりゃあ、神が先でしょう。^-^

パウロはテモテに「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです(2テモテ3:15)」って書いてるけど、新約時代の聖書は、言うまでもなく旧約聖書だよね。

ルカに書いてある、エマオ途上の道の話も、旧約聖書だよね。


目が開かれさえすれば、旧約聖書から福音の真理を知ることも出来るはずなんだけどねぇ。

匿名 さんのコメント...

10代の頃から、こういうことで悩まなくていい環境(教会)に導かれたかったと思っていたんだけど、そういうことを考えるように導かれたのは実はとても感謝なことだったんだと、ここ5年ほどで確信できるようになった。(悩まない環境/教会なんてないとも言える)
以下、答えではないけどボクなりに現在納得しているところ。

まずいくつかの前提。
知識(理解)と同様、人間の使う言葉には限界があるということ。神がおられ、神のことばが人を介して聖書として編纂された。だから聖書のことばは常に真実で有益。しかし人間の言葉はそれを語り尽くせない。
人が集まるとどんなに少人数でもそれは組織になり、人間の組織はやがて腐敗/崩壊/はじめの目的を逸脱していくものだということ。
福音の神髄は、神が「わたしはあなたを喜ぶ」と言ってくださっていること。子どもであるボクの純粋な笑顔をいつも見ていたいと思ってくださっていること。本来そのように創ってくださり、そのように救ってくださること。
この世界で知ることのできる恵み/祝福は、天国の予告編にすぎず、決して完成形ではないこと。
神との交わりのひな形として与えられた交わりは「教会」と呼ばれた。それは集められ、迫害され、乱され、ときに解決が与えられ、ときに散らされた。神を知るためにも人との交わりが不可欠だが、地上の教会にも完成というものはない。
救いはキリストにより完成された。が、人間には後の状態はまだあきらかにされていない。のでわからない部分は多い。
神の子としての歩みとは、イエスから目を離さないで歩むこと。考えることではなく、歩むことで知るしかない。イエスのように、神の前に謙遜に歩むこと。それが奉仕。

ふ〜っ。とりあえず、さとけんさんの言葉から誘発されたものだけ、書いてみました。あくまでもボクの自己対峙の途中経過である事を了解いただきたい。

さとけん さんのコメント...

わーい。えいぢさんが釣れたぁ!(笑)

確かに「存在自体が喜び」って実感できるのは福音だよね。

そんな僕らが、この地上でどうやって生きるかって事が問われるねぇ。

願わくは、僕らの生き方自体が神の「ことば」となっていけばいいんだけど・・・。もちろん、僕らは不完全なんだけど、神は宣教の「ことば」の愚かさを用いることを選ばれたんだから、恐れることはないよね。

とにかく、末永くお付き合いくださいませ!
m(_ _)m