2006/06/12

主体性

愛は行動・・・ということを考えていたら、コヴィー氏による『7つの習慣』に行き着いた。
以前に読んで感銘を受けた部分でもあるので、引用を交えながらそこでの考え方を紹介したいと思う。



あるセミナーで主体性について講義していた時、ある男性が前に出て来てこう言い出した。
「先生のおっしゃっていることはよく分かるんですが、人によって状況はすべて違うんですよ。例えば、私の結婚を考えていただけますか。不安でたまりませんよ。妻と私は昔のような気持ちがもうないんです。私は妻を愛していないし、妻も私のことなんか愛していません。こんな状態で何ができるって言うんですか。」
「愛する気持ちをもう失ってしまったんですね」と訊くと、
「そうです」と彼は答え、「子供が三人もいるので、とても不安なんです。どうしたらいいのでしょうか」と続けた。
「奥さんを愛しなさい」と私は返事した。
「ですから、今言ったでしょう。その気持ちはもうないって」
「だから、彼女を愛しなさい」
「先生は分かっていない。愛という気持ちはもうないんです」
「だったら、奥さんを愛すればいいんです。そうした気持ちがないのだったら、それは奥さんを愛するとても良い理由になりますよ」
「でも、愛情を感じないとき、どうやって愛すればいいんですか」
「愛は動詞である。愛という気持ちは、愛という行動の結果にすぎない。だから奥さんを愛しなさい。奥さんに奉仕をしなさい。犠牲を払いなさい。彼女の話を聴いてあげなさい。感情を理解してあげなさい。感謝を表わしなさい。奥さんを肯定しなさい。そうしてみては、いかがですか」


これは「主体性を発揮する」という項目の中で書かれている話である。
この中で鍵となる考え方は、人間は「刺激と反応の間に選択の自由」をもっているということである。この選択の自由の中には、人間の人間たる4つの独特な性質<自覚・想像力・良心・自由意志>がある、というものだ。

確かに、ボクたちは、主体性を失いがちだ。
何か特定の不快な状況に遭遇すると、いつも決まって「こう反応してしまう」とか、ある感情にが沸き起こると、こういう行動を押さえられない、とか。


しかし、自分の人生の責任を自分で引き受ける事が出来るようになると、それらに必要以上に振り回される必要がなくなるのだと言う。
「責任」は、英語でレスポンシビリティー(Responsibility)だが、この言葉の語源は、レスポンス(Responce:反応)と、アビリティー(Ability:能力)という言葉からなっている。主体性のある人は、そのレスポンシビリティー「自分の反応を選択する能力」を発揮しているということになる。彼らは自分の行動に対する責任をとり、状況や環境、または条件付けのせいにしようとはしない。彼らの行動は自らの価値観に基づく意識的な選択の結果であり、状況によって起きる一時的な感情の結果ではない。



「刺激と反応の間に選択の自由」がある、というのは大きな希望ではないか?
もちろん、すべてがそううまく行く訳ではない。しかし、自分の人生を健全な意味で自分自身の手のうちに取り返す必要は誰にでもあるように思う。実際、多くの人が抱えている問題は、ここから出発しているのではないだろうか。

皆さん、どう思われますか?

11 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

願わくば刺激と反応が主の御心にかなうものであればいいですね。
心に感じるものすべてが主の御心にかなえさえすれば選択に悩むことはないのです。。
弱さの中に主に訴えたパウロ。でもイエス様は、「私の力はあなたのうちに十分だ。」
そうであって欲しい。

さとけん さんのコメント...

確かに。^ー^

でも、この地上で歩んでいる限り、残念ながら「刺激」がすべて主の御心にかなうという事はあり得ないんじゃないかと思います。(広い意味では、それも主の御心なんだと思うけど)

そしてそれ以上に、多くの刺激は本来ニュートラルなものだったとしても、ボクたちの「反応」の仕方の方が罪深いことが多いのです。主の恵みはすでに十分なのに、古い自分は罪深く反応してしまう・・・。だから、祈りを通して主の声を聴く必要があるのです。

ボクは「選択に悩む事」は、ある意味で主のみこころだと思うのです。そうやって自らの弱さを知り、主を選び取る事によって得られる祝福をだんだんと積み重ねて行く事。主は、人に自由意志を与えられて、人間らしく時間をかけて成長していくことを望まれた。

そういう意味で、「愛しなさい」という命令は、目に見える行動の部分で始まって、ついにはボクたちの内面が作り替えられるに至るプロセスのためになくてはならないものだと思います。

この、平坦ではないプロセスを歩めるようにと、主がその愛を十字架の上で表わして下さり、約束の保証として聖霊を与えて下さった。ボクが真実でないときでも主の真実は変わらない。ボクたちは、この主を信じて、生涯をかけてこの主を求め、作り替えていただく事を願って、この地上において愛を実践していくのだと思います。

だらだらと書いてしまいました。
ただ主にのみ信頼しつつ・・・。

匿名 さんのコメント...

>彼らの行動は自らの価値観に基づく意識的な選択の結果
僕らは聖書の価値観を信じているんだけれど、
感情のままの行動は不安定で危険な結果を起こしやすいと思う。

信じている価値観にたっていくには、
感情ではなく「あえて選び続ける」という事を
実行していかなければならないと思う。

僕が人を愛するという事につまずくのは、
刺激に対する「罪深い反応」に支配されてしまうとき。
どうしても愛する事を放棄してしまう。
その事を何度も経験した。

神に、「この人の事を愛します。赦します。」と祈る。
これは、感情ではなく「決断」だと思う。
神に告白して祈って、行動していく。

愛するという事は、「たとえ自分が傷つけられても良い」という
覚悟をもって決断する事だと聞いた事があるな。
その人の価値を認める決断。

僕らは本当に弱くて過ちは繰り返すけれど、
その都度、悔い改めて、
主の御言葉を実践する事を選び続けていきたいね。

匿名 さんのコメント...

子どもが判断できないうちは、親が選択してあげる。小さな判断ができるようになったら「これとこれと、どっちにする?」。少し大きくなると「これとこれとこれとこれ、どれにする?」。もっと大きくなったら「こんな可能性があるけど、どうする?」。十分に成長したら、「あなたがあなたの責任で判断しなさい」と言う。

神さまは、そうやってボクたちの信仰も成長させてくださっている。だから、固いものを食べるべき時期に来ているのに自分で選択しない人は、自分の反応の罪深さに悩むばかりになってしまうんだと思う。行き詰まったとき、助けがないように感じるのは、神さまがボクたちを成長したものとして認めてくださっている証拠だと思えばどうでしょう。

その成長は、親との決別を目的としたものではなく、主体性のある同士の成熟した関係を楽しむため。人間関係でそれができていないと、神さまとの関係にもそれは影響しちゃうんだよね。

さとけん さんのコメント...

えいぢさん、
育てる側も、育てられる側も、なかなかそのプロセスを理解できてないことが多いね。ほんと、主体性を発揮する事なしに人格としての交わりは難しいと思う。

でも、その部分を訓練されずに大人になってしまった人はどうしたらいいんだろう。自分の決断に異常に自信のない人っているんだよね・・・。

ボクは小さい事だけど、「思った事をやってみる」ということを意識的にやってみた。初めは、まわりからどう思われるかとか、怒られるんじゃないかとか異常に気になったんだけど、だんだんと責任を持って決断できるようになってきた気がする。少しぐらい「失敗」してみることも大事だよね。

匿名 さんのコメント...

よい選択をしていくには、自分の(罪深い)反応について知る(認識する)ことは大事です。でも「わたしの反応はいつも罪深いんだ」と言って悩んだりあきらめたり、だから自分には選択する資格などないし自信もない、というところにとどまっていてはダメだと思う。自分の反応について認識するだけで、「あとは主よお願いします」っていうのは、信仰の幼児期にしか通用しない。そういう人が多いのは、大人になってからでも訓練される必要があるっていう認識が薄いからだよね。「わたしは誰にも迷惑かけてませんから」って思ってるクリスチャンが多いんじゃないかね。「わたしの存在そのものが迷惑です」って認識できれば、いくつになってからだって訓練は受けられます。

「どうしても愛する事を放棄してしまう」というjarjarさんの心もように興味があります。ボクもずっとそうだったから。だった、と言っても、自分の中の反応はいまも基本的にあまり変わらないけど、前は何ヶ月も何年もかかってた切り返しが短時間でできるようになりました。相手の(罪深い)反応が、自分のせいとか自分に向けられたものと思わないで済むようになれたんです。それには、前回と逆だけど、神さまとの関係がある程度確立することが大事です。相手のひどい反応も、神さまの許しの中で起こったことだとわかれば、避雷針のように受け止めてあげられます。神さまにアースされてれば、自分の中に相手の問題を持ち込む必要がなくなるからです。

つい、長くなっちゃった。
この問題、クリスチャンの必須科目だと思う。

さとけん さんのコメント...

えいぢさん、

>相手のひどい反応も、神さまの許しの中で
>起こったことだとわかれば、
>避雷針のように受け止めてあげられます。
>神さまにアースされてれば、自分の中に
>相手の問題を持ち込む必要がなくなるからです。

なるほどー。これ、すごくよく分かった。神様が作られた、かけがえのない「私」を取り戻すために、本当に必要なことだと思います。
そして、これこそ「必須科目」という事に同意。ある意味、教理を教え込む事なんかより、はるかにはるかに大切なレッスンだと思います。


「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ6:14)」

なんか、この御言葉が思い起こされました。
十字架によって、はじめて健全な主体性が与えられるっていう感じ・・・なのかな?


jarjarさん、ボクら、本当にこういう訓練のプロセスにいるよね・・・^ー^

匿名 さんのコメント...

今日の礼拝のメッセージでも言っていたんだけど、神様が人間へ与えた「自由意志」と言うプレゼントの事を思わされた。
神様が、僕らに初めから「正しい答え」を
教える事は簡単だけれど、神様は愛するが故に、僕らの選択を尊重される。
主体性を持って、人間の意志により主を選び取り、勝利する事が神様の御心なのかもしれない。

えいじさま
>相手の(罪深い)反応が、自分のせいとか自分に向けられたものと思わないで済むようになれたんです
僕がずっと悩んでいる事です。
相手の反応が僕にとって凄く力を持ってしまいます。それは、自分の決断に対する反応においてでもです。僕は臆病で、相手の顔色を伺いながら行動している。

自分の選択に自信が持てない時、
「神様が全部決めて」と言いたくなってしまう事もある。
でも僕らは訓練されなければならない。
凄く怖い事だってある。でも主体性を歩んで行きたい。
失敗はどうしてもする。それでも主を信頼して。怖いけど。

匿名 さんのコメント...

jarjarさん

>相手の反応が僕にとって凄く力を持っ
>てしまいます。それは、自分の決断に
>対する反応においてでもです。僕は臆
>病で、相手の顔色を伺いながら行動し
>ている。

前回、カギは「神さまとの関係がある程度確立すること...」と、決まり文句のように書いてしまいましたが、自分で制御できない“反応”については、具体的な解決が必要です。とっても簡単に説明すると、こうです。

人が何かに反応するとき、そこには必ず原因(過去に受けた傷、放置してきた問題などなど)があるので、その原因を探っていきます。聖霊さまに助けを求めていくと、時に無意識の中に眠っていた原因を見つけさせてくださることがあります。見つけたら、その問題とキチンと向き合うことで、少しずつ前を向いていくことができるようになるのです。

自分の反応に原因があるとわかるようになると、他の人の自分に対する反応にも原因があるということがわかってきます。それはあなたの問題ではありませんから、それに振り回される必要はないのです。そこまでわかれば、あとはそれをいちいち思い出すという単純な作業を繰り返し、間違った思考のパターンから抜け出すのです。長い時間をかけてたっくさん問題が見つかることもありますが、そういうときも長い時間をかけて処理していけばいいのです。

何が原因なのかは、ある程度パターンがありますが、人によって微妙に違います。できれば訓練を受けた人(もしくは仕組みを理解できている人)に手伝ってもらうといいと思います。

こうやって説明すると、「なんだ神さまのいやしを信じないのか」と思われる方もあります。しかし、イエスさまは病人に手をおいていやされました。わたしたちもそうしていただく必要があるのです。ボクは、実際に助けられましたので。

さとけん さんのコメント...

えいぢさん、ありがとう!
jarjarさん含め、一緒にとりくんでいくよ。

匿名 さんのコメント...

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