2006/03/07

霊的で世的な弟子として

「私は世的ではないかも知れないけど、肉的だと思う」
・・・これは、しばらく前にボク自身を見つめつつ口にしたことのあるセリフだ。

ここでの漠然とした定義はこんな感じである。
「世的」というのは、世の人のように行動し、世の人ののように考えること。
「肉的」というのは、神ではなく人の思いで行動したり、考えたりすること。

「世的」の反対にあるのは「宗教的」
「肉的」の反対にあるのは「霊的」


そこで便宜上、人々を以下の4つのタイプのグループに分類していみたい。
A.肉的で、世的
B.霊的で、世的
C.霊的で、宗教的
D.肉的で、宗教的

          霊的
           ↑
           |
      B    |   C
           |
世的<----------> 宗教的
           |
      A    |   D
           |
           ↓
          肉的


多くの人が、「霊的」であることと「宗教的」である事を履き違えている。
神に従って歩んでいきたい、という純粋な思いは、いつしか
単なる宗教的形式主義的なところに変質し、落ち着いていってしまう。

多くの人は、まず【肉的・世的】な生活から始まる。
しかし、宗教に助けを求めたり、良い行ないで解決しようとすると、
【肉的・宗教的】になっていく。

しかし、ある人たちは、本物の福音と出会い、信仰を持つようになる。
すると【霊的・世的】人たちが誕生する。

ところが、そういう人たちを放っておけないのが、【霊的・宗教的】な人々。
彼らは、【霊的・世的】な赤ちゃんクリスチャンを、
何とかして【霊的・宗教的】な生活へと向かわせようとする。
もちろん、成熟を目指すために生活が改善していくための取り組みは必要だろう。
しかし、行ないが「宗教的」になり始めると、
それは硬直化してしまい、結局肉的なものへと変質していきやすい。
つまり、【肉的・宗教的】なクリスチャンになってしまうのだ。
これでは、元も子もない。



イエスは、私たちを「地の塩、世の光」と言われた。

日本にはクリスチャンが1%未満しかいないと言う。
もし、99%の魂に本気で届いて行こうとするなら、
私たちは、【霊的・世的】なクリスチャンとなるべきではないか。

世的であることによって、肉的な生活への誘惑も強くなるかもしれない。
または逆に宗教的になることへの誘惑もあるかもしれない。

でも、イエスはそこに立ち続けたのではないだろうか?


簡単ではないかもしれない。
でも、イエスの弟子として、主の託された最も大切なメッセージを
握り締め続けていきたい。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

おー
わかりやすい☆

おいらは・・・
霊的・宗教的
から
霊的・世的
へと移行中なり~☆

宗教的なほうが、安全な場所に身をかくしていられるんだよね。全然とどけないけど。

鷲のような弟子になりたいな~(*'▽'*)♪

さとけん さんのコメント...

そう。決して安住はできないかも知れないけど、目を覚まし続けている必要のある場所だと思います。一緒に取り組んでいこうね!