2006/07/03

自衛手段

とても調子が良くなって来た気がします。
・・・でも調子に乗らないように気をつけますね。


ところで皆さん、人はみんな自分の安全確保のために
様々な自衛手段を取るんだ、ということがようやく少しずつ分かってきました。
人それぞれ、どのような状態を「安全」と感じるかも違いますし、
その安全を確保するために無意識に取る行動パターンも千差万別です。

実はボクの場合、自分をなるべく客観的に見つめると、
こんな感じのパターンが多いことに気づいてきたのです。
(1)話し合う
(2)避ける
(3)逃げる
(4)忘れる

とにかく、言い争ったり、戦ったりするのは基本的に嫌いです。
そして、そこで傷付けたり傷付けられたりするのが辛いので、
なるべく話し合って、少なくとも心が打ち解け合う方向を目指します。
でも、話がこじれそうな時や、相手が聞く耳を持ってないと感じる時や、
どうやっても自分自身が消化しきれないと感じるときは、
その状態を避け、逃げてしまいます。

そして、もっとひどい時は、先の事でも後の事でも、
思い出すと気が重くなってしまうような事は、
考えないようにするどころか、記憶から追いやってしまうようなのです。
(もちろん、意識の深い所には残っていると思うのですが・・・)

だから、たとえ良いと思っていた記憶でも、何かをきっかけにして
その記憶そのものにも嫌悪感を抱くようになったときなどには、
無意識のうちに、忘れようとしている自分がいるようなのです。


この「ようなのです」というのは、どうもそうらしい、というだけで、
あやふやなのですが、そういう所がボクにはあるように思えてきました。
(単に忘れっぽい事を自己正当化しているだけなのかなー?)


ではでは、この「自衛のための行動パターン」は良いものなのでしょうか?
それとも悪いものなのでしょうか?
どうなんでしょう。悪い結果を生んだときは悪くて、
良い結果を生んだときは良い、とでも言いましょうか。


自衛手段なのですから、危機回避という意味では良いものでしょう。
でも、その「危機」とは、あくまでも自分にとっての「危機」であって、
本当は誰でも成長のために必ず通らなければならない試練や恵みをも
回避してしまう可能性があるのではないでしょうか。


ある時には、この自衛手段を手放す必要があります。
なぜなら、それは十字架を経験することを拒むからです。
「愛」の大切な一側面は、恐らく「無防備になること」なんだと思います。
だから、自分が傷付く事を恐れてばかりいては、本当の愛は流れて行かないのです。
「完全な愛は、恐れを閉め出す」ものなのですから・・・。


自衛手段は、人によってはこんなものがあるでしょう。
ルールをつくること。すべてを計画すること。人を操作しようとすること。
すべてをコントロールしようとすること。相手を攻撃すること。
笑い飛ばしてしまうこと。だまりこんでしまうこと。
やたらと批判ばかりすること。とんでもなく自己卑下してそこに留まる事。
権威を利用すること。そのほか色々・・・。

なぜ、そうしてしまうのかという背後にある深い傷を想像すると、
とてもとても、そのこと自体を簡単に指摘して済ませてしまう事はできません。
簡単にはこの自衛手段は手放せないのです。
だって、自分を守って来たんだから・・・。


でも、そんな自分の姿に気づく事は、
必要な時にそれを手放す事ができる決断へと導いてくれると思います。
そして、恐れからではなく、愛から行動出来るようになるとき、
ボク自身も、まわりの方々も、本当の平安につつまれて歩む事が
できるようになるのだと思います。

この一生の大仕事、ともに分かち合いながら、成熟へと向かって行きたいですね。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

安全確保のために、自分もさけますね。あらそうことをさけます。
日曜日のメッセージで、父の行動パターンを考えてみました。弟息子によくしてやれば、兄は、気を悪くするだろう、兄とは、争わなければならなくなるかもしれない。でも父は、本当の正しさ、愛をもって行動し、つらぬきとおしたのでした。
自分は、つらぬきとおすことがまだできない、というかどうやって行動したらいいのかわからない者だということがわかりました。

さとけん さんのコメント...

父の愛は偉大ですね。

放蕩息子の話では、お父さんは別にお兄さんに意地悪をした訳ではなく、ただ喜んで失われていた弟の無事を祝っただけなのに、お兄さんは別のメッセージを受け取ってしまったんですよね。お兄さんは、自分が顧みられていないと感じたのでしょう。

「今まで一度も〜してくれたことがない!」っていう不満が出るってことは、弟への対応に腹を立てたという以上に、今までもやもやと鬱積して来たものが一気に噴き出してしまったという感じがします。彼は、お父さんとずっと一緒にいたのに、一緒にいるという恵みをまったく味わうことが出来ていなかった。それは、自分が正しく行っている事への評価を求めるためにがんばって来た姿であって、「父との関係」そのものに憩う事を知らない者の姿です。

最近、私もようやく「関係そのものに憩う」ことの素晴らしさを、少しずつ味わう事ができるようになってきました。ありのまま、主の御前でただ憩う事を通して与えられる神の力。神の子どもとされた恵みにただただ感謝です。

匿名 さんのコメント...

Hi! Just want to say what a nice site. Bye, see you soon.
»