2007/01/05

叱ること、叱られること


誰だって叱られたくはないだろう。

でも、叱られている事が愛ゆえなのだと、安心して受け入れる事ができるかどうかが鍵だ。


正月からずっと、かわいい姪っ子の緋奈乃ちゃんが家にお泊まりに来ていて、ボクも毎日いろんな形で関わって、遊んだりしている。
目に入れても痛くないとはこのような事を言うんだと思う。ボクにとっても、ほっとするひとときなんだ。

でも、今日はどうしても叱らないといけないと思って、ちょっと踏ん張った。

きっかけは些細と言えば些細な事だが、緋奈乃ちゃんが高い位置にあるテレビの電源を入れるために、
あぶない台の上に足をかけて手を伸ばしたという事。
「危ないからそこに乗っちゃだめだよ!」

その一言で緋奈乃ちゃんは悲しくなったのか、すねてしまったのか、聞き分けの無い子になってしまった。
ぶつぶつ言っている様子をよく聞いてみると、テレビを見ては行けないと怒られたように勘違いしているらしい。

ぶーぶー言いながら、やぶれかぶれな感じになっている緋奈乃ちゃんに、これはきちんと、何が叱られた事で、何がそうでないのかを
話をする必要があると思った。

「ひなちゃん、ここに座りなさい」
まじめに言うと、緋奈乃ちゃんは、何かを察したのか、あーだ、こーだ、今これが忙しい、あれをしなくちゃ、
「あ、おしっこー!」とか言って、ごまかし、そして逃げ始めた。
トイレにいったひなちゃんは、「おしっこが出ないー!」とか言いながら、なかなか戻って来ない。

分かっている。
どうしたらいいか分からないんだ。
できればこの状況をどうにかやり過ごしたい。
少し隠れてれば忘れてくれるかな?
そんな葛藤が、あの小さい頭と心の中でぐるぐるしていたのだろう。


とうとう出て来た緋奈乃ちゃんは相変わらずそわそわしていたが、
ここでこちらが折れてしまってはいけない。
「ここへ来て座りなさい!」

緋奈乃ちゃんは、しぶしぶそこに座りつつも、まだふざけたりしていた。
「ちゃんと、けんちゃんの目を見なさい!」

ボクも負けてはいられない。
ここは真剣勝負なのだ。


「ひなちゃん、さっき何で怒られたか分かる?」
「わかんない」
「さっきも言ったでしょ?危ないから登っちゃだめだって言ったんだ。
 テレビを見ちゃダメって言った訳じゃないんだよ。
 それから、お母さんやおばあちゃんやけんちゃんは、
 ひなちゃんの事が大切だから、ひなちゃんが危ない目にあわないように
 ひなちゃんに言っているんだよ。だから、ちゃんと聞かないとダメだよ。」
「うん・・・」
「わかった?」
「わかっ・・」
「聞こえないよ。ちゃんと言って」
「わかった」
「じゃあ、はい、ごめんなさいって言って」
「ごにゃごにゃにゃ」
「だめ!ちゃんと言いなさい!」
「ごめんなさい」
「よし。はい、みんなひなちゃんが大好きなんだよ」

・・・ふう。どれだけ伝わったのかなぁ。


でも、正しく叱るってことがどれほど難しいか、思わされた。自分自身の存在そのものに対して確信を持てない人が多いのは、おそらくちゃんと叱られつつ愛されるという経験をしていないからだ。(もちろん、怒りをぶちまけられるのとは違う)世の親たちは、大変な責任を負っているのだなあと思う。


父なる神様は、どれほどの思いをもって、ボクたちにその事をしめしておられることだろう。旧約聖書の律法ですら、そのような愛ゆえの義だったはず。それでも神の思いが伝わらなかったボクたちのために、自らがその命を差し出してくださったのだ。


わが子よ。
主の懲らしめを軽んじてはならない。
主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、
受け入れるすべての子に、
むちを加えられるからである。
(ヘブル12:5−6)

正しく叱る事ができるようになるためには、
まず自らが主の愛のむちを受け入れられなければならないのだ。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

今年僕が握りしめていこうと思っている御言葉のひとつなんだ。
懲らしめにより、神から離れてしまう危険もあるし、神様にとっても一つの「賭け」のようなところはあるかもしれない。
でも神様は自分がどう思われるかではなく、あくまでも僕らの最善だけを考える。

ひなのちゃんに、存在そのものが愛されている安心さえあれば問題無いハズではあるが・・・。
幼い子にそれを認識させるのは難しく、叱られる事そのものもインパクト大きいと思う。

親子関係にしても、ここで気持ちのスレ違いが起き易いけど、
神様との関係もそーなのかなって思う。

親が子の存在そのものを愛している事、それが伝わるのは、本当に難しい事なのかもって思うんだ。
十字架と言う究極の愛を本当に確信できたなら、神の試練に対しての僕らの受け取り方も凄く変わるかもしれないね

さとけん さんのコメント...

>jarjarさん

ボクはどちらかというと、受け止める方が得意。
それはそれでとっても大切なことだよね。

でも、結構前から「正しく叱れるパパになりたい」というのは、ボクの目標だったんだ。正しく叱るためには、自分自身の価値観が問われる。日常生活での信頼関係が問われる。だから自分自身のあり方そのものを吟味する必要がある。

「正しく」って書いたけど、実際には叱り方に関して何が正しいかなんて分からない。ただ、それが必要であるという事は分かっている。だから、試行錯誤しながら自分自身も絶えず問われ続けるしかないんだ。

そういう意味で、親になるっていうのは、成熟へのプロセスの一環として、神様の思いを共有するための大切な部分を担っていると思うんだ。

ま、まだちょっと気が早いかな?(笑)とりあえず、まず今年はしっかりとした夫になれるように試行錯誤していきます〜♪